神は隠さない 2
「大丈夫?」
響子さんの顔が視界一杯に広がっていた。喉から変な声が漏れて、手に持っていた箸を落としてしまう。落とした箸はフローリングで二、三度バウンドし、その度に耳に障る高い音を発した。小さい割によく響く。
「ちょっと、妻の顔見て怯えるなんてそれは失礼じゃない?」
頬を膨らまし、少し拗ねたような口調で響子さんは箸を拾ってくれた。
「ご、ごめん。ちょっとぼうっとしてた」
この返事で大丈夫だという事も証明したかった。彼女を疑い始めてから、弱みを見せてはいけないという、自分なりのルールのような物を作っていた。しかし、喉を通って出てきたのは弱々しい声だ。心配してくれと言わんばかりの声に笑ってしまう。
「大丈夫? もしかして、また悪い夢を?」
膨れっ面から一転、響子さんはこちらを気遣うように優しく寄り添ってくれた。
「いや、ホント大丈夫だよ。心配かけてごめん」
「謝るような事じゃないわ。夫の心配するのは当たり前でしょ。…本当に、大丈夫?」
「うん、ありがとう」
彼女は、僕の能力の事を知っている。今となっては、その情報は伏せて置くべきだったと後悔している。もし彼女が本当に殺人鬼だったとしたら、真っ先に殺されるのは僕だ。どれほど証拠を消したとしても、犯行現場を覗かれれば露見する。
しかし、話してしまったのは彼女を疑い始める前だった。仕方ない、防ぎようのない、致命的になりかねないミス。
もちろん考えた。こんなミスを犯しながらまだ生きているのは、彼女が殺人鬼ではない証明ではないかと。しかし、何人もの人間を殺害しておいて生き延びられているのは、病的なまでの慎重さがあるからだと考え直した。捜査機関ですら証拠を発見できないのだから、どれほど神経を張り巡らせているかは想像に難くない。ミステリ物では、証拠を消し去る事なんて不可能だと刑事や探偵がハッキリ言う。人間は必ずミスをするからだ、と。それは、犯人がミスを犯し、証拠がなければ犯人が特定できないので話が進まないからじゃないかと邪推してしまう。現実にもそうだと言うなら、早く殺人鬼を捕まえて欲しい。僕を、早くこの状況から救ってほしい。
疑心暗鬼の自縄自縛に陥っている僕の意識が、カクテルパーティ効果で引き戻された。騒音の中でも、自分に関係のあるキーワードは判別できるという人間の能力だ。
キーワードが発されたのはテレビ。丁度朝のニュースを流しているところだ。アナウンサーがいかにもといった沈痛な表情で概要を語るのは、子どもが行方不明になっている事件だ。三日前から小学生の女児児童が自宅に戻っておらず、両親が警察に捜索届けを出している。小学生の行方不明事件だ。
「これ、市内の事件よね」
響子さんが口許に手を当てて可哀相にと呟く。
可哀相に。その言葉で嫌でも思い出してしまう。二日前に見た夢を。可哀相に、可哀相にと心を痛めながら、けして手を緩める事なく、命を平然と奪い去った何者かの意識を。
ニュースは進み、女児のパーソナリティを紹介し始める。
「行方不明になったのは、小学五年生、片山菜月ちゃん十歳。学校から帰宅途中に行方が分からなくなっています」
同時に出た写真が、僕の胸を押し潰す。映っていたのは、夢に見たあの子だった。
アナウンサーは話を進める。この地域では、数年前にも小学生の行方不明事件が発生し、今なお発見されていないという。現代の神隠しなどと銘打たれ、警察関係者や教育評論家、果てはオカルト研究者が揃っていた。彼らは各々、自分の専門分野に基づいて発言していく。専門も話の内容もバラバラなのに、コメンテーターが上手く話を振り、出てきた解説をまとめ、時間で締めて、少女が行方不明になっている話の流れを壊す事なくニュースを成り立たせていた。
変質者による連れ去りの可能性も視野に入れて捜査が行われており、広く情報を集めていると警察関係者が話す。画面の下には、警察署への直通ダイヤルが表示されている。
被害者の菜月ちゃんは、非常に優しい子どもだと教育評論家が発言した。愛想がよく、近所でも良い子と評判だった。誰にでも挨拶し、困っていれば手助けするような子だと。教育評論家の言葉に、誰もが感心し、菜月ちゃんの無事を祈っただろう。
「それだけ多くの人間に顔を知られている子であれば、当然家族構成も近隣住民達に知れ渡っているはずですね」
警察関係者が尋ねると、我が意を得たりという顔で教育評論家が話を続ける。
「ええ。これは学校などの指導による影響もあると思います。大きな声で挨拶しましょう、高齢者や怪我人、妊婦の方に優しくしましょうと、学校の道徳で習うわけです」
子どもでも当たり前に出来る事を、出来ない大人もいますがと警察関係者が皮肉を言った。
「でもこの当たり前の行動は、実際有効なんですよ。誘拐などを防止する為に、学校や地域自治体が行っている挨拶運動がありますが、実際に何件かの誘拐事件が未遂に終わっています。誰もが顔見知りであれば、子どもを連れているのが家族かそうでないか判別出来ますし」
「犯人の心理としても、そんな対象を誘拐するのは避けたいでしょうね。目撃情報は少なければ少ない方が良いのに、誰もが知り合いのような街であれば、異物である犯人は目立ってしまう」
「となると、どうやって犯人は菜月ちゃんを誘拐したのでしょう?」
コメンテーターの発言に「まだ誘拐と決まったわけではありません」とたしなめるように警察関係者が言った。
「ただ、もし誘拐、しかも夜などひと気がなくなる時間帯ではなく、昼間の犯行であるなら、考えられるのは二つ。車などによってひと気がなくなった一瞬の空白をつくような犯行か、もしくは顔見知りの犯行である可能性が高いでしょう」
「子どもが自分からいなくなるという可能性は、ありませんか?」
ここで初めて、オカルト研究者が口を開いた。
「それは、家出、ということですか?」
コメンテーターが尋ねる。
「家出でも良いですし、操られてでも良いですし」
オカルトの専門家らしい発言に、コメンテーターは困惑した。警察関係者は失笑して、明らかな侮蔑を込めて見ている。しかし、意外にも食いついたのは教育評論家だった。
「マインドコントロール、ということですか?」
「ええ。はい。充分にあり得るのではと私は思います。ハーメルンの笛吹き男という話を知ってらっしゃいますか?」
「グリム童話の?」
「そうです。この話、実際にあった話ではないかと言われているんです。概要としては、ねずみの被害に困っていたハーメルンの町に一人の男がやってきた。男は報酬を払えば助けてやると言い、怪しく思いながらも町の住民は男にねずみの駆除を依頼した。男は持っていた笛の音でねずみをおびき寄せ、川の中に飛び込ませて溺死させた。依頼どおり男はねずみを駆除したが、町の住民は報酬を支払わなかった。怒った男は町中で再び笛を奏でると、町の子ども達が次々と男の元に集められ、男と共に町から消えた」
「その御伽噺のように、菜月ちゃんが自分から犯人の元へ行ったと?」
「教育評論家の方の前で子どもについて話すなんて、釈迦に説法ですが、子どもは大人よりも暗示にかかりやすい。もしかしたら、そういう可能性もあるのでは、と考えました」
「これをご覧ください」そう言って一枚のフリップを机の上に出した。カメラがそのフリップをアップで映す。
「先ほど少し話に昇りましたが、この地域では数年前にも子どもが行方不明になっています。その子どもの行動範囲がこちらの地図になります」
もう一枚のフリップが取り出され、二枚が並ぶ。
「そして今回の菜月ちゃんの行動範囲、学校と家を結ぶ直線とそれを中心とした半径五百メートルの範囲です」
二枚の地図には、子どもの行動範囲を示す赤い円がかかれていた。
「行動範囲が、かなり酷似している?」
コメンテーターが口にした通り、二つの円は、地図上のほぼ同じ地域が囲まれていた。
「しかも、です。私が調べたところによると、何十年か前にも、この地域では同じように子どもがいなくなる事件が、少なくとも数件あったと思われています」
二つのフリップをしまい、新たな一枚をオカルト研究者が取り出した。事件がいつ発生したかを記した年表だった。その年表を信じるならば、最も古い記録は七十年も前になる。そこから数年単位で発生し、二十年前から途絶え、そして数年前に再び発生している。
「過去の事件もやはり、今回と同じ地域で発生しています。注目したいのは、この範囲の中にある、学校の裏にある山です。この山は、大昔山岳信仰で崇められていた場所で、天狗が住むと言い伝えが残っています。外国にも妖精が子どもを攫うという逸話があり、同様に天狗も子どもを攫う逸話に事欠きません。これは、天狗による神隠しではないかと推測したのです」
そこから、事件に関係あるのかないのかよくわからないオカルト談義がしばらく続いた。談義というよりも独壇場の様子を呈していた。唾を飛ばしながら熱く語るオカルト研究者の言葉が切れた一瞬をつき、コメンテーターがまとめと同時にオカルト話を終わらせにかかった。
「神隠しはさておき、昔から発生しているとなると、話は変わりますよね」
コメンテーターの視線を受けて、警察関係者が頷く。
「ええ。数十年前のものはともかく、最近の事件にも何らかの関係性があるかもしれません。当然警察はあらゆる可能性を潰しているでしょうから、その線でも調べているでしょう。そして、この事から判明する事は、もし犯人がいるとしたら、この場所に長く住んでいる人間、先ほど私が話したように、顔見知りによる犯行である可能性があるという事です」
私が、というところを強調し、警察関係者は締めくくった。コメンテーターもこれ以上事件の話を広げるつもりはないらしい。一刻も早い発見が望まれますという言葉と、出演者の悲壮な表情が映る中、軽快なメロディが流れ、番組はそのままCMに移った。
「早く見つかれば良いのにね」
「そうだね」
響子さんの感想が鼓膜の上を滑っていく。僕と犯人だけは知っている。その子どもは、生きて見つからない事に。そして、僕の生活範囲内に、犯人は存在する。
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