仮面の下 2
「家出?」
週明け、学校に来た私を出迎えたのは、職員室の妙にひりついた空気だった。
最後にストックホルム症候群の返事を書いてから一週間。質問攻撃はなりを潜めていた。平穏がようやく訪れ、ストレス値も下がりつつあったのに今度は何だというのか。隣の席の保険医、神崎先生に尋ねると、六年生の児童が家出したらしい、という情報を得た。確かに六年生の担任が固まる机の島周辺の空気が張り詰めている。表情も硬く、隣同士でコソコソと小鳥がついばみ合うように顔を寄せ合って会話を交わしている。周りに話が漏れるのが恥だと思っているのだろうか。
「今からの職員会議で、そのことが話し合われるみたいです」
「そうなんですね」と返事をしたところで、私をこの学校に呼び寄せた張本人、綾部校長が入ってきた。全員が起立し、私もそれに倣う。
「おはようございます」
綾部校長の挨拶に、教職員は揃って挨拶を返す。
「すでに皆さん、聞き及んでいることかもしれませんが、六年三組の橋本雄介くんが、先週の木曜から自宅に帰っていない可能性は高いようです」
やはり、どうして、という動揺が六年生担当教員以外の箇所から漏れ出した。
「ご両親に確認した所では、風邪の為しばらく休ませる、との事ですが、本人に支給されたタブレットが自宅の充電器に接続された記録がありません」
タブレットには充電器と接続すると同時に、担任のPCに反応が返ってくるようプログラムされている。寄り道防止策のひとつらしい。児童にその仕組みは知らされていないため、充電器を持ち歩いて誤魔化そうという児童はいない、とのこと。その充電が数日行われていないから、学校側は家出ではないかと疑っているということか。
「御両親が風邪で休ませると言っている以上、無理に確認する事は出来ません。ですが、万が一の時のために、周辺地域の見回りを強化したいと思います。同時に、情報収集のほうもよろしくお願いいたします」
では次、各学年からの報告をお願いいたしますと教頭が言い、通常の職員会議に移行した。各学年の報告を聞きながら、疑問に思った事を神埼に尋ねた。
「充電が切れっぱなしくらいで、家出と決め付けるのは早すぎませんかね?」
「それが、学校の掲示板に書き込みがあったらしいんです」
「掲示板って、確かこれのことですか?」
顔を前に向けたまま、手元のタブレットを操作する。現れた画面を神埼に見せた。学校のホームページだ。このページでは児童やその保護者は学校から配布されたIDとパスワードでログインし、学校に対して質問や要望を書き込むことができる。私も仕事の一環で一日一回は確認するようにしている。
匿名で書き込める、というのは意外と意味が大きい。SNSでもなんでもそうだが、誰にもわからないから好き勝手に言える。ある意味、その人間の本性が出る。自分と言う個性を殺したら、個性的な発言が出来るのだからユニークな話だ。また、そういう場所には本音の断片が残る。ふざけた口調や絵文字などで最後に取り繕うが、中身に今の心境が吐露されることも多い。
「いえ、それは表向きというか、保護者用のページです。使用しているのは、ほとんどが保護者です」
「保護者用?」
今度は神埼が、太い指で自分のタブレットを操作して、机の上を滑らせた。目だけを下に向けると、学校のホームページ画面とは別の画面が現れている。
「児童用のページ、いわゆる裏掲示板です」
裏掲示板って何だ。初耳だ。なんとなく、これまで自分なりにやってきた情報収集作業が無駄なものだと小馬鹿にされている気分になる。ただの被害妄想かも知れないが。いや、「知らなかったんですか」とこっちの正気を疑うような目で見てくる神崎の態度から、あながち間違いではないかも知れないと思う。心の中で、うるせえビリケンと悪態をつく。細い目に下膨れの顔、小太りの体型をした神埼は、大阪の幸運の神様ビリケンさんにソックリだ。いや、それはビリケンさんに失礼か。ソックリだが、愛嬌のあるビリケンさんとは真逆の憎たらしい顔をしている。旦那に逃げられるのも納得だ。
初出勤辺りから、どうも受け入れられてないな、というのは感じていた。確かに教師側にしてみれば、カウンセラーに頼るなんて自分たちの職務に何か文句でも? と文句を言いたい気分にもなるだろう。そこそこ伝統があって、かつ、そこそこの進学率を誇るから、なおさら彼らにもこれまで培ってきた自負がある。八坂などいなくても大丈夫、と無言で訴えているのだ。
「すみません。不勉強で。詳しく教えて頂けますか?」
内心に渦巻く感情を飲み込み、鈍感なフリをして、神埼に尋ねる。その程度で恥じるような高尚なプライドなどない私は、簡単に頭を下げて教えを請う。大事なのはこっちの仕事に必要な物をもらえるかどうかだ。頭を下げてただで教えて貰えるなら安いものだ。
「このページって、公式の物ではないですよね。じゃあ、誰が作ったんですか?」
「児童です」
こともなげに神埼は言った。
スマートフォンからでも確かにホームページは作れる。ネットのそこら中にホームページ用の素材は転がっていて、作り方だって調べれば幾つも出てくる。だが、実際に作るのはそれなりの根気と努力が必要で、作成したら終了ではなく、管理という終わらない作業が継続する。熱しやすく冷めやすい標準的な子ども像からはかけ離れた情熱、執念めいたものを感じる。ただまあ、今重要なのはそこじゃない。
「いつの間にか学校内にある、授業用のパソコンの中に作られていました。誰が作ったかは分かっていません。おそらく、自宅で作成した物をUSB等で持ち込み、データを移した物と思われます」
「ということは、ネット上にあるわけではなく、学校のパソコンの中に擬似ホームページが開かれている、と?」
「正確には、共有サーバー内ですね。なので、アクセスできるのは学園内にあるパソコンと六年生が持つタブレットのみで、学校内のローカルエリア限定となります」
学校外から学園のパソコン以外でアクセスしようとしても出来ない仕組みになっている、というわけか。ホームページと言うよりも、ただの学内オンリーの掲示板のようなものだ。
「どうして、そんな物を残しているんでしょうか? 削除しなかったんですか? 勝手にしているわけでしょう?」
「パスワードがかかっていて、設置した本人以外では消すのが容易ではないというのと、ここでしか聞けない児童の声を拾える利用価値があったこと、また、児童の努力を大人が理不尽に消すのもどうか、と言う声もあり、そのままになっています」
その利用価値のある物を教えてもらってないのだが、と皮肉が口から出てきかけたが、飲み込む。代わりに話の続きを促す。
「そこに、橋本雄介君が家出をしている、という書き込みがあったと」
神埼が頷く。
「本人でしょうか? もしくは、友達?」
「それはわかりません。書き込みは匿名で行われていたらしいので」
置き場所を確認し、自分のタブレットでも開く。スクロールさせるといくつかの項目別にリンクが張られていた。その中の一つ『噂・情報』にNEWの文字が躍っている。タッチしてページに飛ぶと、最新の投稿が載っていた。
『六年三組の橋本雄介が家に帰っていないらしい』
『家庭内暴力が原因?』
ゴシップ記事のあおり文句のような文言が並んでいる。
「これ、流石に問題になりませんか。幾らローカルエリア内だけとはいえ、目にする児童がいるわけで、それを自分の家庭に持ち込む可能性はありますよね?」
その家庭から問題が噴出する可能性は高い。
「いえ、その可能性は低いと思います」
神埼が私の危惧を否定した。
「理由として、橋本君のお父さん、橋本和也さんは市議会議員なんですよ。相手が相手だけに、こちらとしても対応を慎重にならざるを得ません。なので、このことが問題になる前に、先生たちが全児童に対してかん口令を敷きました」
そういえば、街中に張られている選挙ポスターに橋本という名前があった気がする。
「スキャンダルは勘弁、ということなんでしょうね」
綾部校長の慎重さも頷けた。影響力のあるご家庭は厄介だ。これでもし何かあれば、学校の責任として叩きに来るのが目に見えている。
しかし、誰もが忖度出来るわけではない。我々が相手をする児童たちがそれだ。
「子どもが、素直にそれを聞きますか?」
「もう一つの理由が、それを可能にします。以前、この掲示板である児童が自殺する、というような書き込みが多数ありました。しかし、全くの嘘で、その児童は家で宿題をしていました」
「つまり、ここには嘘も混じっているぞ、と子どもは理解したわけですね。真偽溢れるネットの縮図のようだ」
「ええ。以降はきちんと真偽を精査して判断する事、情報をそのまま鵜呑みにしない事、誤った情報を拡散して迷惑をかけないようにする事を徹底させました」
大人でも守れていない事が多いネット上の心得を小学生の時分から学んでいるとは恐れ入った。
「なので、橋本君の安否及び、事の真相が判明するまでは、誰も口外しないと思います。むしろ、どうせまた嘘だと信じてない児童の方が多いのではないでしょうか?」
自分たちの功績を誇るように、神埼は胸を張った。愛想笑いで追従し、心の中で唸る。
家出の事を書き込んだ人間が、もしここまで見越して、嘘も折り混ぜながら掲示板を利用していたとしたら、相当頭が切れる。橋本の両親、学校、児童の全ての反応を予期していた事になるからだ。
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