シリアルキラーの賛美歌 2
視線を巡らせると、志村君が堂々とデスクで舟をこいでいる。まだ午前中だというのに。
ここ最近、彼は酷い顔をしていた。体調不良だろうか。他の同僚達からも心配されていた。部下が体調管理できてないのは、上司である自分の責任でもある。
かといって、勤務中に居眠りを許すわけにはいかない。私は席を立ち、彼の元へ向かう。
近づくにつれ、彼の容姿がはっきりと見えてきた。まだ幼さの残る顔は少しやつれている。体も小柄で華奢だ。栄養のある食事をしているのだろうか。
視線が彼の衿元に向く。白いシャツから覗く首筋は男性にしては細く色白。少し浮いた血管の緑が映える。私はその首筋にそっと指を這わせた。
「痛て!」
首筋に鈍い痛みを感じて、反射的に声をあげた。
「お目覚め?」
「きょ、響子、さん…」
殺人鬼に遭遇する危険性を差し引いても、会社には休まず出社した。それほどの魅力が職場には在った。響子さんだ。
響子さんは三つ年上の、仕事では厳しいけど普段は優しい理想の上司で、僕の憧れだ。彼女に会うためだけに会社に行っていると言っても過言ではない。まれに見せる笑顔や仕事を頑張った時のお褒めの言葉で丼飯三杯はいけると思う。
この会社に勤める前は看護師として働いていたそうだ。だが一度過労で倒れ、それを機に転職した。自分の体の管理も出来ない人間が人の看護など出来ない、と以前何かの席で話していたのを覚えている。
そんな経歴だからだろうか、人体のツボとか骨格とか関節の仕組みとかに詳しい。寝たきりの人間の起こし方は、応用すれば関節技になるわよと冗談交じりで話す彼女には、満員電車で痴漢に遭った際に、痴漢の肩と手首の関節を外して駅員に突き出したという武勇伝がある。なので、怒らせると怖い。
そんな彼女が眉根を寄せて、僕を見下ろしていた。冷や汗たらたらの僕と彼女の視線がぶつかり合うことしばし。
「今日はもう、帰りなさい」
ため息交じりの上司から、直々に帰宅命令を出された。
「体調管理は社会人の基本。けど、崩す時は崩すの。そんな時無理したら長引くし、結局倒れるわ。しっかり休んで、万全にしてきなさい」
休んで眠ってしまった方が悪夢を見る確率は上がるのだが、上司であり憧れの人の命令に逆らえるわけが無い。すごすごと帰ることにした。
まあいいか。彼女に心配してもらえるなんて中々無いことだ。しかもさっきのは、彼女の意識だった。彼女と意識を共有していたんだ。悪いことの次はいい事が起きるものだと意気揚々と家に帰って布団に潜り込み…
真っ暗闇の中にぼんやりと浮かぶベージュ色。彼女のお気に入りのコートだ。彼女のことなら何でも知っている。好きな食べ物でも好きな音楽でも何でも。
最寄り駅を降りたら行きつけのスーパーで買い物をして、そのまま家に帰る。二十階建てのマンションの十二階にある角部屋だ。わき目も振らず、いつも同じコースを歩く。
でも、俺は知っている。彼女が俺の存在に気付いていることを知っている。知ってて無視している。試しているんだ。俺を。俺の愛を。早く追ってきて、抱きしめてと誘っているんだ。その証拠に、彼女はたまに俺から離れる。細波がひいていくようにふらりと消え、次の日にはまたふらりといつもと同じように戻っている。
早く捕まえないと、あなたの前から消えてしまうよ?
そうやって彼女は俺をからかう。
わかっているよ。でももう少し待っていてくれ。こちらにも準備が必要なんだ。準備が終わったら、すぐに迎えに行くよ。一生君を放さない。永久に俺のものにしてあげる。今までの彼女達と同じように。
いや、そんな事を考えたら、君に失礼だな。君はこれまで俺が出会った中でも最高の女性だ。特別なんだ。特別で最高の君には、最高の演出が必要だ。きっと君を満足させてみせるよ。
胸の動悸が早くて強い。心臓が痛くて目が覚めるなんて初めての経験だ。
あの後姿、ちらと見えた横顔。間違いない。響子さんだ。響子さんがストーカーに狙われている。
共有した思考も気になる。今までの彼女達と同じように、なんて、今までもストーカー行為をしてきたって事だろ。ストーカーは一人の人間に執着するもんじゃないのか。複数を同時に狙っているんじゃなければ、今までの彼女はどうなったのか。
殺人衝動。
以前TVで言っていた事をふと思い出した。何らかのトリガーによって、どうしても人を殺したくなる一種の病気。今回入り込んだ奴がそうだと断言できないが、強い衝動は共有できた。暗く、粘着質で歪な欲望だった。
まさか、響子さんを狙っているのは巷で噂の殺人鬼なのか。
判明していること整理してみる。ともすれば不安と焦りと恐怖に押しつぶされそうな自分を奮起させるためだ。彼女を守れるのは、狙われていることを知っている僕だけなのだから。
まず響子さんは狙われている。家も帰り道も行きつけの店もばれている。
僕が入り込めたって事は、昨日僕が顔を見た人である。ここで重要なのは、僕は移動中ほとんどうつむいていたということだ。不特定多数の人間の顔を見ていないから、見知らぬ誰かに入った可能性は低い。
可能性が高いのは会社の人間ってことになる。業務上どうしたって顔を合わせる。ビルのワンフロアにいる男全員が容疑者だ。
彼女を好きな男は多い。綺麗だし、意外とお茶目な部分もあり、話せば話すほど魅力が増すような人だ。安岡も彼女が好きだと公言している。絞り込むのは難航しそうだ。だが、不可能じゃない。
翌日からは情報収集だ。響子さんの帰宅時間は大体七時。自宅まで一時間ほどと本人が話していた。そこで、同僚たちから昨日の七時から八時のアリバイを確認すれば良い。
まずは連絡先を知っている連中から当たる。が、いきなり壁にぶつかる。そもそもアリバイなんてどうやって確認したら良い? 警察ドラマみたいに『昨日の七時から八時どこで何してた?』なんて聞こうものなら、仲の良い奴なら戸惑いながらも返してくれるかもしれないが、接点があまりない連中からは怪訝に思われてしまう。それだけならまだしも、殺人鬼に警戒されてしまう可能性がある。僕のアドバンテージは犯人に僕の存在を知られていないことだ。ばれてしまう以前に、僕が疑っていると相手に疑われることすらも避けたい。口封じに狙われるなんて勘弁だ。
少し考えて、SNSの社内同期グループに対して文字を打ち込み、投稿する。
『拡散・返信希望。いつもの飲み屋にカードケースの忘れ物あるらしいんだけど、心当たりある? 昨日七時くらいから飲んでた人の物らしいんだけど?』
しばらくして、返信が帰ってくる。
『その日は家族とご飯。飲みに行ってない。カードケースは持ってる』
『昨日前島と吉川と行ったけど、誰も心当たりなし。念のため確認したが、全員所持してる』
他、いくつかの返信が帰ってくる。別の店で飲んでいた、彼女といたなど等だ。まずは上々。
入社すると、会社の身分証や入場用のカードキーの入ったカードケースが配布される。カードキーはリスクマネジメントの講習で必ず出てくるほどの貴重品で、以前安岡が飲み会で失くして大騒ぎした事があった。そのときは僕が発見して、内々で処理して事なきを得たが、失くせば始末書で済めば軽い方、下手すれば情報漏えい等の危険性があったとして謹慎処分、懲戒免職もありうる大事になる。政治家や企業の隠蔽にはうるさい社会で、僕達もそんなニュースを見ては怒りをあらわにするけど、身内の事故は大事にならないように協力し合うのだ。絶対にレスポンスが見込め、しかも連中の知り合いにも自発的に確認してくれる一石二鳥の質問を打ち込んでから、それを思いついた自分の文才と機転に惚れ惚れしてしまう、完璧な確認方法だと自画自賛でちょっとの間悦に入り浸る。
いつもの店としたのは、行った、行ってないという返信もアリバイのヒントになると思ったからだ。僕らが会社の人間と飲みに行く店は大体決まっている。貰っている給料で気安くいける安くて美味い宴会OKな店。行ってればそれで良し、行ってなくてもそのときは別の場所に居た、という返信が貰えれば良い。お、当の安岡からも返信が来た。『カードケース所持確認。その日はお前が休んだせいで残業になったんだが?』とそっけない文に怒りの絵文字が添えられている。後で缶コーヒーでも持って謝罪に行こう。
安岡の件は少々想定外だが、情報収集はかなり順調だ。
同期連中の調査の後は、僕とも同期とも接点のない上司連中のアリバイ確認のために、業務用PCをたち上げる。ネットのお気に入りに登録してある社内予定表ページをクリックする。ある程度上の階級の人間は、社内のスケジュールに自分の予定を書き込む。彼らの居場所を確認して、報告や次回のプレゼン、作業内容の打ち合わせを行う為だ。人によっては、かなり詳細に記載している人もいる。予定表からは、会議、出張など、想像以上に情報が得られた。
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