カルネアデスの天秤 3

 驚愕の新事実に、俺も彼女も声も出せない。彼女のお母様が既に亡くなられているのは聞いていた。そしてお父様はもっと前に病気で亡くなっていると、彼女はそのお母様から聞かされていた。だからちょっとだけホッとしていた。殴られる危険性が下がったからだ。だが、もし彼女のお父様がその御大だとすると、まずい。殴られるどころか、海に沈められかねない。こんな時まで自分のことばかり考えている自分が恥ずかしいが、だって思っちゃったんだから仕方ないじゃないか。

 そこでまた、おかしなことに気付く。彼女の扱いだ。ライオットの話では彼女はボスの娘だ。もっと丁重に扱うべきで、こんな拉致まがいのこと何故したか、だ。


「それ、それならどうして」


 恐る恐るライオットに尋ねた。


「どうして、ボスの娘さんにこんな真似をするのか、かい? 後藤君。簡単な理由だよ。彼女に生きていてもらっては困るからさ」


 アイドルのように爽やかに笑いながらとんでもないことを言った。生きていてもらっては困る? それってつまり、死んでほしいってことかよ。


「うん、ご想像の通りさ」


 聞けば、ギリー御大は病に臥せっており、もう長くはないんだそうだ。当然遺産問題が浮上する。彼の会社もそうだし、総資産は日本円にして数兆円。ギリー御大には正妻に息子が二人いて、彼が亡くなれば、普通は彼女らに全資産が入る。


「ところが、愛人の娘がいるとわかると、途端に遺言書を書き直した。その娘に資産の八割を譲与する、とな。どんな罪悪感が働いたのか知らないけど、迷惑な話だ。奥様と息子はそりゃもうカンカン、大激怒さ。入ってくるはずの資産が一気に激減したんだ。ま、それでも数千億はあるんだけどね。そんだけありゃ一生遊んで暮らせるだろうに、人間ってのは欲深いから。突然減らされたら十分すぎるほど金があっても怒るわけよ。満足ってもんを知らない。で、御大に隠れて俺たちに命じたわけ。その娘を御大よりも先に見つけ出して、殺して来いってね。それで、こんな極東まで来ちゃったわけよ。まったく、下っ端は辛いぜ」


 この苦労わかる? と伊達男は肩を竦めた。そんな仕草もまた絵になる。


「てなわけで、だ。ゼノビア嬢。本当に申し訳ないんだけど、ここで死んでくれ」


 黒服たちが一斉に彼女に銃を向けた。唖然とする彼女。


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


 思わず声を上げてしまい、全員の銃が俺に向いた。やめときゃよかったと後悔しても後の祭り。


「何だい後藤君。仕事の邪魔をしないでくれるカナ?」

「い、いや、その」

「何か言いたいことがあるから、俺たちを止めたんだろう? 良いぜ? 言えよ」


 口がからからに乾いているのに、汗が止まらない。脱水症状になりそうだ。何度も唇を舌で湿らせて、ようやく言葉を紡ぐ。


「そ、その。殺さなくても、良いんじゃないかな、なんて」

「その心は?」

「その、ほら。日本で人を殺すと色々五月蠅い、と言いますか」

「ご心配には及ばないよ。死体も残らないから。死体がなければ、殺人にはならない。ただの行方不明者だ。年間何人の人間が行方不明になってると思う? そんなのいちいち捜査しないよ。警察だって忙しいからね」


 ごもっともだ。これじゃライオットを説得できない。なら、逆転の発想だ。


「じゃあ、彼女を死んだことにしたらいいんじゃない、かな?」

「ほう?」


 興味を持ったらしい。ライオットはあごで話を促す。


「その、あなた達くらいの組織なら、死体を調達するのとか簡単だと思うんですよね」

「うん、簡単だね」

「その死体を彼女に偽装して、死んだってことにすればいいんじゃない、かと」

「面白い。それなら、俺たちはボスの娘に手をかける罪悪感は無いし、奥様達に顔向け出来るし、君たちは生き残れる。良いね後藤君、良いよ君。気に入ったよ」


 なぜか気に入られてしまった。全然嬉しくない。


「でも駄目」


 再び、彼女に銃が向けられる。


「面倒くさいよさすがに。この場で彼女を消した方が何かと都合がいいんだって。それに、何かの拍子でボスから指令を受けた連中がゼノビア嬢に気付く可能性だってある」


 詰めが甘いね、とライオットが馴れ馴れしく肩を組んできた。


「じゃ、じゃあ他の方法を!」


 そう言って頭をフル回転させるも、空回りばかりしてロクな案が浮かんでこない。


「後藤君さ、どうしてそこまで彼女を生かそうとするの?」


 不思議そうにライオットが尋ねてきた。


「彼女は、まあ、可愛いお嬢さんだ。美しいレディの死は人類の損失だと思う。けど、君にとっては他人じゃないか」

「他人じゃない!」


 思わず叫んだ。また銃が向けられた。まあまあ、とライオットは黒服たちを押し留め「で?」と発言を許してくれた。


「もうすぐ、他人じゃなくなる、はずだったんです。彼女さえOKしてくれたら」

「へえ、つまり?」

「結婚を、考えてます」


 え、とゼノビアが俺の方を振り向いた。


「婚約指輪も買ってた。でも、ヘタレだから、プロポーズする勇気がなくて」


 こんなことになるなら、もっと早くに言っておくべきだった。そして、彼女の姓が変わってたら、もしかしたら気づかれなかったかもしれないのに。


「ごめん。こんな時で」

「ううん、嬉しい。本当に嬉しいわ」


 涙ぐむゼノビア。そして、ヒュウ、と口笛で茶化すライオット。


「愛する人を救いたいからこその行動か、泣かせてくれるねぇ。必死になるわけだ。じゃあ、彼女なしでは生きてけないってことかな? 面白い。だったら証明してもらおうか」


 おい、とライオットが黒服に命じた。黒服たちは手慣れた手つきで道具をセッティングしていく。

 まず、俺の右手に繋がっていた手錠を、彼女の左手につなげる。次に小ぶりなギロチン台を持ってきて、俺の右腕を木枠にはめて固定した。ギロチンが落ちてきたら、俺の右腕が飛ぶ。想像するだけで血の気が引いて失神しそうな絵面だ。

 そして彼女の首元には、台に固定されたチェーンソーが置かれた。


「何だよ、コレェ・・・」

「見ての通り、君の彼女に対する愛を確かめる道具さ」


 楽しい劇でも始まったかのように、ライオットはにこにこしている。


「このチェーンソーは時計と連動していて、一分ごとにゼノビア嬢の方へ迫る。おい、この距離だと、何分だ?」

「五分で首に到達しやす」

「五分だそうだ。で、面白いのはここから。彼女の左手の届く範囲に、このセットを止めるスイッチがある。ゼノビア嬢、見える? ここだよ? ほら、怖がってないで見て」


 涙目のゼノビアが俯くと、赤いスイッチが彼女の腰のあたりの高さにセットされている。


「スイッチを押せば、チェーンソーは止まる。けど、止めようにも彼女の左手は君の右手と手錠で繋がっていて、このままじゃスイッチを押せない。さて、ここで後藤君に選択肢をあげよう」


 ライオットが俺の左手に何かを握らせた。操縦桿みたいなグリップの先にスイッチがある。


「おっと、下手に触るなよ? そいつは、君の右腕にセットされたギロチンのスイッチだ。最近はロープじゃなくて電動式なんだぜ? 知ってた?」


 知るかよそんな拷問器具事情なんぞ。しかし、こいつのやりたいことは分かった。


「もう気付いてると思うけど、五分後に彼女の首はチェーンソーによって切れる。それを回避するには、停止スイッチを押す必要がある。けどそのためには、君の右腕が邪魔だ。そこで問題。愛する者を救うために、君は右腕を犠牲に出来るかな?」

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