『平凡』残り時間  71:11



 仁愛は昨日よりは少しだけ早く起床した。


 陽の光は寝起きの少女の顔を大きく照らす。休日を終えた少女はまた平日のルーティンを探るように、何の面白味もない朝活動を送る。着替えている間は相変わらずカーテンが引かれていたが、それ以外は窓を目一杯まで開けたまま準備に取り組んでいた。


 鏡を見ては一つ頷き、玄関の扉を開く。ほつれ一つないスカートをたなびかせる様子は何だか心が楽しそうであった。道端で男性の老人がラジオから音声を垂らしながら散歩していた。


「……続いてのニュースです。昨日市内で発生した交通事故の件で、遺体となった男性の身元が――」


 雑音にまみれてラジオの音はフェードアウトしていった。仁愛は、老人には興味がないかのように、そのままいつも通りの道を進んだ。


 公園の角をまがり、寝たままピクリとも動かぬ犬の脇を通り抜け、大通りに差し掛かる。


 鎌をかけてから350時間以上の経過。僕の中ではとうに最長記録だが、ニンゲンのトータルだと知っている限りでは残り70時間程が残されている。実際は最長記録なだけであって、そこまで生きてる保障はないし、それまでに死ぬ保障もない。いや、死ぬことは確実ではある。ニンゲンはいずれ死ぬ。そのうえ、今や少女の首には、見えない赤い線が刻まれているのだから。


 仁愛に近づく死が外在的か内在的か、それすらも予測がつかない。ここまでくると、この程度の日常では何も起こらないだろうというのが僕の推測だ。

 だからといって、これからしばらく観察を休止するというわけにはいかない。ここまで生きてきたんだ、最期まで見届けたい。これは僕の本音だ。


 [ジテンシャからの突撃による脳震盪……0.0265%]

 [クルマの介入による全身衝突……0.0447%]

 [通り魔の存在……0.00%]


 仁愛がこちらを振り向いた。小さく手招きをして、またくるりと向き直す。紺色のスカートが倣って丸い軌道を描く。ついて来いというのだろう。はいはいと心の中で呟いて、横に並ぶ。少女はそれだけで満足のような表情を浮かべた。


 仁愛と共に登校する者が最近見向けられなくなった。その代わりなのだろうか、僕がちょくちょく呼ばれるようになった。見えないからといってこのような扱いは不甲斐ないが、それに従ってしまう僕もまた僕なのだろう。どうしてこんなことにいちいちつきあってあげてるのか、僕にもわからない。だが、こうしてることが僕の中で適切な行動なんだという自負はあった。理由は、わからないけど。


 当然だが、仁愛以外には僕の姿は見えていないし、仁愛ですら触れることもできない。後ろから駆けつけてきた男児のニンゲンが、僕にお構いなしに突っ込んではすり抜けていく。少年は何事もなくかしゃかしゃと鞄を揺らしながら走り去っていく。僕は何もしない。彼には興味がないから。


「……ねぇ、聞いた?この間近くであった事故の人のこと」

「それって先週の土曜日かしら?車で暴走事故があって、結局誰だったかわからなかったって話よねぇ」

「違うわよ~。つい昨日の話。まだ小さいお子さんがね、大きなトラックに巻き込まれちゃったんだって」

「あらまぁ。怖いわあ。事故が多いわねぇ」

「ほんと。うちも気をつけなきゃだわ~」


 ニンゲンが会話している横を通り抜け、ガッコウへと向かう。校門にはよくわからない文字が刻まれた石碑がある。そのあたりで、仁愛と再び目が合った。仁愛は小さく頷いて、そのまままっすぐ玄関へと吸い込まれていった。僕がこれ以上ついていかないことを知ってのことだろう。僕もまた、なんだかわからない石碑の横で立ち尽くす。仁愛の姿が目視できなくなったあたりで、ふわりと上空に飛んだ。


 いつも通りの光景。


 何も変わらない日常。


 浪費されゆく時間タイムリミット


 僕はあと何回これを繰り返すのだろう。仁愛程の歳のニンゲンがガッコウに通うのはだいたい三年程度だ。鎌をかけたならば本来気にしなくてもいい数字だが、今はどうだろう。もしかすると、三年を過ぎたその先も見届けなければならないかもしれない。

 それに対して、僕は嫌ではなかった。寧ろ、本望なのではないか?仁愛は“誤った生命”かもしれない。でも、僕はかれこれ二週間観察してきて、そのような気配を知ることができなかった。それであれば、正統なニンゲンであれば末永く生きてほしい。死神として、ニンゲンに関わりを持つことは禁じられているが、これはイレギュラーであろう。世界もまた決断を下さない。


 自問自答する。正義は誰にあるのか。死神の鎌ではない、世界が決定した点だ。僕が彼女から“誤った生命”反応を感じ取ったとしても、世界が死ぬべきではないというならば、僕はその意志を尊重しよう。

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