『傷痕』残り時間  100:07



 あれから仁愛とは会話が弾むこともなく、淡々と一日を過ごした。

 仁愛は何事もなかったかのように帰宅して、食事の用意をして、入浴も済ませてから寝床についた。少年を救った英雄とは思えぬ単調っぷりで、家に着いてからは普段通りの日常に戻っていた。


 時刻は日付が変わって少し経った頃だった。とうに仁愛は安らかな寝息をたてており、僕はその場を離れて日の出を待っていた時。


 影は音もなく現れた。


『今回は、何用ですか?』

『アラ。もう気づいちゃったのネ』


 独特な喋り方と共に、闇夜の空から影が溢れた。


『せっかくマタ驚かせてあげようと思ったのニ。もう敏感になっちゃったかしラ』

『女型の蛇死神――蛇姐』


 ウフフと不気味に微笑む影は蛇を纏いながら現れた。『蛇姐』と死神にはあるまじき「名前」を持つ、死神兄さんが警告していた長寿の死神だ。


『もうそんな呼び方しちゃっテ。呼ぶのは勝手で構わないけど、せめて姐さんと呼んで欲しいナ』

『……わかりました。蛇姐さん』

『ウフフ。正直な子は好きヨ。オネエさんに頼ってほしいクライ。でも、他の子に取られたくないワ。やっぱり食べちゃおうかしラ?』

『三つ、蛇姐さんに聞いてもいいですか?』


 蛇姐さんは独りで暴走しやすい。そう判断した僕は、自分から切り出すことにした。


『何をしに来たのですか?』

『やだワ。可愛くない子ネ。そう焦らなくても、オネエさんが遭いに来てあげただけじゃないノ』


 違う。僕の本能がそう告げていた。


『聞き方が悪かったですね。以前会ってから今まで、何をしていたのでしょうか?特に、直近――二、三日だけで構いません』

『ウフフ、ウフウウフフフフ……』

『とある少年の首に大鎌をかけてましたよね?何も無害そうに見えた、純粋無垢な少年の首筋に、死神による傷痕が刻まれていたんですよ』


 昼に出会った少年の首に見えない赤い線を残した犯人。


 死神兄さんはまず違うだろう。なんとなく、というのも変な話だが、死神兄さんはしばらくここらで鎌をかけるつもりはないと言っていた。その話は信用していいだろう。


 動物狩りの死神も、まだ残っていたとしてもニンゲンは狩らないと死神兄さんから話を伺っていた。僕も数十年この地域をなわばりとしていたが、ニンゲンの“誤った生命”反応が急に途絶えたことはなかった。微弱なものでも、僕は覚えていた。記憶違いや単に見逃していたなら――つい先日事例もあったから否定はできない――話は別だが。


 となると、あとは誰か。仁愛が語る死神は、とりあえず今いるかもわからないため除くとすると、あとは僕が知っている限り、一神ひとりしか残されていない。


『ウフフフ。面白い子ね、他神ひとの狩った方のニンゲンを気にするナンテ』

『そりゃ、“誤った生命”反応がないニンゲンが死にかけたんですよ!』


 思ったよりも声を荒げてしまった。蛇姐さんも目を大きく見開いていた……ように感じ取れた。


『どうして無害なニンゲンに鎌をかけたのですか?否、そもそも、どうして無害なニンゲンにも鎌をかけることができるのでしょうか?』

『アラアラ。ちょっとは落ち着きなさいヨ。こんな時間なのにニンゲンがびっくりして起きちゃうわヨ』

『どうしてですか、蛇姐さん。僕はまだ質問しています』


 僕が蛇姐さんと呼ぶたびに、何故だか目の前の女型の死神は悶えるように口をとがらせていた。僕にはその感情のようなものは理解がしがたかった。


『マァネ。そのニンゲンが無害だなんて、坊やが言えたことじゃないのヨ』

『だって、あの少年には“誤った生命”反応なんてなかったじゃないですか』

『それはそうじゃなイ。あるはずがないもノ』


 蛇姐さんは指先を口に押し当ててゆっくりと答える。


『首に鎌をかけたら、死神の本能――坊やの言う“誤った生命”反応は消えちゃうヨ』

『……え?』


 思いもよらぬ情報に、僕の脳内は混乱した。物理的に無い脳みそだが、理解をすることに困難を極めてしまった。


『気にしたことないのかしラ。もし死神同士が同じターゲットを見つけて、首に大鎌を二度もかけちゃったら良くないでショ?大鎌はニンゲンの未来も悪玉菌もまとめて取ってくれるワ。残すのはちょっとの寿命と鎌の傷痕だケ。坊やは若いから心当たりは無いかもネ』

『じゃ、じゃあ。あの少年は“誤った生命”だったというのか。そんなはずは……』

『さあネ。私たちに判断できるものかしラ。その死神は、死神の本能に従って大鎌をかけたことには間違いないとは思うわネ』


 客観的に蛇姐さんは語る。そうは言うが、やはりこの死神は少なくとも知っているのだろう。少年に鎌をかけたか、もしくはかけた死神が誰なのかを。


 思えば、初めて蛇姐さんと学校で出会ったとき。僕がいるからにはターゲットは存在すると示唆していたが、誰だったかまでは探りを入れていたようだった。もし、“誤った生命”反応があれば、言わずともわかっていたはずだ。からかっていただけという可能性もなくはないが。


『ありがとうございます』

『急にどうしたの。褒められても何も出ないワ。そうネ、御礼ならきちんといただこうかしラ。両足なんてドウ?』

『まだ、あと一つだけ質問が残っています。蛇姐さん』

『んもーッ。じれったいわネ』


 僕は三つあると言ったと思うし、頼ってと言われて質問してるだけなんだが。口には出さず、最後の個神こじん的な疑問を投げかける。


『僕達……正確には、ニンゲン含む地球生命体と、‟って、何か知っていますか?』


 ホウ、と感嘆の声を漏らす蛇姐さん。左から右へと艶美に舌なめずりをして、それから、ゆっくりと口角を吊り上げた。


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