『治癒』残り時間 178:45
その日の夜。
僕は予定通りに仁愛の住処へと近づいた。いつものように質素で、ある程度片づけられた三階にある一室。カーテンは相変わらず役割を果たさず、上空からでも中の様子が丸見えだ。この時仁愛は風呂場にいたようだが、僕がいることをわかってか、近づいてから真っ直ぐに風呂場に向かおうとすると「入らないで!へんたい!」とすりガラスの扉越しから水をかけられた。
迷惑だとは甚だ思っていないが、ニンゲンの特性だろう。普段服を着込んでいるのもあり、裸を見られることは抵抗があるようだ。ニンゲンを観察して知りはしていたが、死神にも同様の反応を示すのは意外だった。素直に従うことにした。
とはいえ、しばらくして風呂場から出てきた彼女はそのままの姿で出てきたのだが。
「ほんと、急に押入った上に覗いてくるなんて。信じらんない」
寝巻の姿になった仁愛がぼやく。しっとりと濡れた髪の毛はいつもより長く見えた。
「……興味あるのは、まぁ、わからなくもないけど」
『どういう意味だ?』
「な、何でもない!何も言ってない!」
ところで、ここに来たってことは用があるんでしょ。のぼせたのか赤くなった顔のまま、仁愛は話題を逸らした。
今日の昼過ぎにて。僕は仁愛がジュギョウの中で何事もなかったかのように走っている姿を見かけた。
だが、仁愛は数日前にジテンシャから大きく転倒して脚に怪我を負っていたはずだ。直接的な死にはつながらないとはいえ、その損傷は生身であるニンゲンには大きいはず。その傷跡が、今の仁愛の脚からはすっかり無くなっていたのだ。
そのことを言及してみたが、仁愛は特に何も反応を見せず、
「あー。痛かったやつね。気付いたら治ってた」
と、あっさりしていた。
『いやしかし、そんなことは……』
「そう?でも治ってるし。いたいのいたいのなおれー!って願ったら治ったよ」
そんなものだろうか。否、そんなはずはない。
思考を巡らせてみるが、
仮に仁愛の言葉を信じるならば、おまじないのようなものが通じたということだろうか。確かニンゲンには痛みを和らげるためのおまじないが存在していた。物理的な損傷の治癒には繋がらないとはいえ、痛みを軽減する効果があるとも聞く。言動からに、これのことを示しているのだろう。
だが、おまじないは外傷への効果はないはずだ。そんなことが可能であるならば――ニンゲンの言葉を借りるなら――魔法のようなニンゲンの域を超えた力だろう。
逆に、その可能性もまたありうるかもしれない。
「でも、ほんとあの時は辛かったよ。学校で友達に話したらさ、そっちはただ自転車で転んだだけじゃんって。自転人だって。笑えないよねぇ」
そう言う仁愛はくすくすと笑っていた。僕には矛盾を覚えたが、ニンゲンにはそれが興だと感じるようだ。
『痛かったか』
「痛いよ、そりゃ!脚全体的に擦っちゃったからね。深くなかったから、たぶん治りも早かったんだと思う。あー、話すだけでも痛い痛い。ほんと、よく生きてたよ」
死神さんの前で言うことじゃないか。僕の考えを代弁するように、脚をさすりながら仁愛は呟く。
「むしろ、ここまで怪我したのも死神さんのおかげ……なんてね」
無邪気にほくそ笑む少女。意図があるのか無いのか。ただただ僕は死を見たいだけなのだが。
本当に仁愛に死は訪れるのだろうか。あそこまでの好機を逃してもなお、実際は軽い程度の怪我で済んだニンゲンだ。死まで迎え入れるならば、相当な力が働かなければならないかもしれない。
夜はまだ長い。クルマが一台、アパートの横を静かに通り過ぎる。その音もはっきり聞こえてくるほど、今は会話は生じてない。これからもまた、仁愛はいつも通りの一日を過ごすのだろう。
仁愛が布団を整えていた。「そろそろ寝よっかな」と呟き、四角い小さな端末を片手に布団の中に足を入れる。
「レディの寝顔を間近で見ようなんて失礼なことはしないでね」
『間近で見る最期には興味があるがな。わかった、ここを離れよう』
「死神さんが冗談なんて言うの珍しいね」
冗談ではない。本意ではあるが、ここで言うべきではないと何となく察せた。布団に潜り込む仁愛を確認してから、明かりを閉じた部屋に背を向ける。
「あっ、しにがみさん」
背中を向けられたまま、仁愛が呼びかけてくる。応答しなかったが、いるとわかってかそのまま続ける。
「今週末って暇?」
『……何の話だ』
「まぁまぁ、いいじゃないの。土曜日、空けといてね」
「……そうか」
何を言いたかったのかわからなかったが、観察を辞めるつもりは更々ない。週末というと、少女が自由に活動できる時間だ。何か行動に移すのだろう。
一度、後ろを振り返った。仁愛は既にすやすやと寝息をたてていた。そっと覗いてみると、満足げに安らかな眠りに落ちていた。こちらの気配には気づいていないようだ。今まで散々死に際の安らかな眠りにつく瞬間には居合わせてきたが、生きているニンゲンの寝姿をこの距離で見ることは今までなかった。さも安心しているように見えたのは、ニンゲンの睡眠時特有の表情なのだろうか。
深く考える必要はないと、僕は踵を返してその場を離れた。
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