『違和』残り時間  184:13



 鐘の音が鳴り響いた後、仁愛が他のニンゲンと移動をし始めた。その場で衣を脱ぎ始めた者もいたが、仁愛は別室で着替えるそうだ。普段の紺色の正装とは異なり、鈍い海老茶色の柔らかな素材で作られた服装であった。動きやすさに適応しているのだろう。


 ガッコウの教養の一つに運動する科目があるらしい。それをニンゲンは身体の教育で「体育」と呼ぶそうだ。身体を動かす教養でもあり、自身の身体についても学ぶ教養であるようだ。前者はとりわけ他者を食らう生命体でも見向けられた生体ではあるが、ニンゲンの行うそれは少しだけ機械的だ。無機質とも呼ぶべきだろうか。


 着替えを済ませたニンゲン達が建物横にある大庭に集う。開けた大庭は楕円に描かれた白線の他には何もない殺風景な空間であった。


 ニンゲンが隊列を組んで並ぶ。仁愛も列の中程に混じっていた。それから等間隔に広がっては、軽くほぐすような身体の動かしを始めた。


「……テステス。えー。全員、長ズボンは置いてくるように!」


 とある大柄なニンゲンが拡声させる機械のようなもので大庭全体に呼びかける。「かったりぃ」とぼやきながらも、それに従う仁愛含めたニンゲンは皆して渋々一部の服を脱ぎ捨てた。目的はわからないが、長袖のズボンと呼ばれるものを脱いだようだ。従ったニンゲン達の脚が露わになる。


 そこから二手に分かれ、ひたすら大庭をぐるぐると走り回っていた。白い線に沿って、5周ほどを終えた者から離脱していた。十数年ほど観察しててもよくわからないが、ここにいるニンゲンはこの時期になるとこのような教養をしていた。


 最後尾で走るニンゲンが足を止めると、続いてもう一つのニンゲンのグループがのそのそと一列に並んだ。仁愛もその中に含まれていた。


 スタートの合図と共に、ニンゲンが一斉に駆けだす。仁愛も無難な出だしだった。


[走行中の転倒による衝突……0.04%]


 しばらく眺めていた。仁愛は遅くもなく早くもない位置に属していた。少しだけ数人のニンゲンと並走していたが、徐々にその数も減っていった。


「……はぁ、はぁ。もう……無理ぃ…………」


 仁愛の横を走る一人のニンゲンが顔を俯かせた。次第に表情が青ざむ。歩もだんだんとゆっくりになり、次の一歩を踏み込む前に躓いてしまう。


「あっ……」

「わっ!」


 そのニンゲンが盛大に転ぶ。方向が不味かったのか、その先には仁愛もいた。仁愛は反応良くもすぐにステップを踏んで間一髪避けたようだ。


『…………?』


 仁愛は走るのをやめ、転んだニンゲンに手を差し伸べる。


「大丈夫?」

「ご、ごめん……。巻き込む、とこ、だった」


 二人は息を切らしながら、機械的なランニングを粛々とこなしていく。何とかゴールまで辿り着き、そのまま二人は同時に尻もちをついた。


「ふぅー……」

「はぁ、はぁ……ありがと、ね」

「ううん。ちょっと近すぎたかもね……えへへ」


 無邪気に笑いかける少女。膝を上にして、綺麗なふくらはぎの肌が汗できらめく。


『……こんなに早いのか?』


 こびりついた砂を払って、仁愛は立ち上がった。脱いだ衣の傍に寄せた布で汗を拭う。顔、腕、そして脚にかけて。布で拭かれた脚は白く、久々に日光を浴びたように輝く。傷一つもなく、まるで新品そのものだった。


『治ってる、のか……?』


 そうだった。本当に新品のように、仁愛の脚には傷のような痕が残っていなかったのだ。


 先日、仁愛はジテンシャに乗り漕いでいる時に大きく転倒した。幸いか血を流したものの、死までは至らなかったのだ。あの時は世界が決定するにはまだなのだと悟った。

 しかし、それでも治癒するにはあまりにも早すぎた。治療を施したとしても、そのようなことがあろうか。死を見すぎたせいか、死に直結しない怪我はそんなものかもしれない。


『それでも、あの事故ではあと二十日……少なく見積もって十四日程は後遺症や外傷が在るはず』


 事故が無かったとも思われるほどの汚れのない脚。九日前の晩にも見た、首以外に傷一つない肌。未だ見えない首の傷はそこにあるだけでくっきりと顕在である。


『仁愛。君は一体、何者なのだ……?』


 僕の声に反応してか、少女がこちらの視線に気づいたみたいだった。頭全体に布を被せて、筒に入った水を飲んでいた。小さく微笑んだのだろうか、しかしその後すぐに、拡声させる機械のニンゲンに呼ばれ戻っていった。


『しっかりと調べる必要が出てきたかもしれない』


 今晩、押し掛けてみようか。あまり干渉はしたくはないが、仁愛についてわからないことが多すぎる。イレギュラーな存在なのだ。もしかしたら、仁愛から直接聞きだせるかもしれない。


 教室に戻る仁愛を横目に、僕は接触できる機会まで観察と考察を繰り返した。


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