• イノー

  • 19 そう思うのなら、そうかもね

19 そう思うのなら、そうかもね

 聖子がスバラシ会の調教に心折れ、連中の配下に加わってしまったその時から、彼女の待遇は目に見えて良くなった。拷問は当然打ち切られ、朝・昼・夕の三回の食事が満足に与えられ、衣類も提供された。衣類はどこぞの学生服で、上は白いポロシャツ、下は紺のスカートと、パンツ一丁に比べれば随分とマシな格好である。が、通ってもいない学校の制服に袖を通す事を、聖子はあまり嬉しく思わなかった。コスプレみたいだ、と彼女は思った。まるで今の自分が本当の自分じゃなく、偽物の佐渡聖子なんじゃないか……とも彼女は考えた。

(服や部屋は借り物、心は貝川やノノにぶっ壊されて、原型を留めていない。今やアタシがアタシ足りうる存在証明は、メガネにしかないんじゃないだろうか。連中に返却されたこのメガネは、確かにアタシが使っていたものだ。アタシはメガネで、メガネこそアタシ。あるいはアタシが佐渡聖子だと思っていた人物の残骸が、このフレームとガラスだけに取り残されている 。それが今のアタシで、アタシはアタシだったものを考えるただのメガネ掛けだわ)

 つまり、彼女の自信はすっかり砕かれてしまっていたのである。

 聖子にはある程度の自由も与えられていた。アパートからの外出は許されなかったが、あの拷問部屋を出ることは許可されていた。好きな時に便所に行き、好きな時に風呂に入り、好きな番組を見ることが出来る。だが、彼女は必要な時以外、ほとんどをあの殺風景な拷問部屋で過ごすのだった。ノノや鷹取と顔を合わせたくないから? それもある。ただ、今の自分に与えられた唯一の居場所に、彼女は一人きりで篭っていたいのだった。

 部屋に掛けられた姿見を覗き、聖子はじっと自分の顔を見た。

(……誰だ? 鏡の中の仏頂面……アンタ一体、誰なのよ?

 アタシは……アタシは、佐渡聖子。きららの王国の一員……。

 ……きららの王国って何だ?

 きららの為だけに存在する、異能者だけの王国……。

 ……誰なの、アンタは……本当は誰なのよ……?

 アタシは聖子……佐渡聖子……

……佐渡聖子って一体、誰?)

「アタシは一体、誰なんだ……?」

 と、彼女が自問自答したその瞬間。

「佐渡聖子!」

 思考を引き裂く突然の声。振り返ると、開け放たれたドアの向こうにもう一人のメガネが立っていた。貝川歩だ。

 時系列で言えば、彼女がここにやって来たのはオヤジの家での一悶着の直後。貝川姉弟は一足先に修羅場を抜け出し、山を超え、僕(乖田かいだ)たちより先にこの隠れ家にやって来た事になる。貝川は服のあちこちを泥塗れにし、自分の汗でびしょ濡れになり、息も絶え絶えだった。何かを喋ろうとするも上手く言葉が出せない様子で、何度も口を利こうとしては首を横に振り、がっくり項垂れて肩を上下させるのだった。一方、一緒に戻った渚はケロリとしていた。男女の差、そして元々がインドア派の歩との体力の差だろう。無い体力を根性でカバーした代償が、今この状態という事だ。

貝川は渚が手渡した水道水を一気に飲み干す。深いため息をついて、二、三度改めて深呼吸をすると、ようやく落ち着きを見せ始めた。

 何かあったに違いなかった。貝川にとっても予想外の何かが。ノノやきらら、そして聖子はひたすら貝川の言葉を待った。

 跳ねるように勢い良く顔を上げる貝川。

「……やられたわ! まさかリビジョン達を倒すなんて。左右あてらあてな、乖田夕……!」

 後ろで聞いていたノノの顔が真っ青になった。

「は!? じゃあ、アイツらここに来んの!?」

「いや……場所は分かっていないはず。リビジョン達もここを知らないから、私達の居場所は聞き出せない……」

「じゃあ安心じゃない。そんなに慌てなくたって……」

「そうとも限らないわ」

 そう言うと貝川は、ちらり、と視線を聖子に向けた。聖子は相手の視線の意味が分からず、ただただ相手を睨み返すだけ。

「……じゃあ何よ。あいつら来んの?」

「“来るか来ないか”だけで話を進めたいんじゃなくて……まあいいわ。来なければいい。来たらどうすればいい?」

「戦うしか無いわね」

 竹を割ったようなノノの回答に、貝川は首を横に振った。

「正直に言って、勝てっこない。戦力は鷹取一人だけで、鷹取が左右か乖田のどちらかと相打ちになっても、残った一人にズタボロにされる。私も渚もノノも、とても戦力とは言えないもの……ましてや、乖田と左右よ。あの二人は私の知る限り、最も強力な部類の異能者と言って差し支えない。正攻法じゃ、まず勝ち目は無いわ」

「助けを呼ぼう! ポータルは? 古典派や、タイガーセブンティーンや、他の連中は?」

「ポータルがやられれば、あなたの片目は二度と元に戻らなくなる」

「構やしないわよ!」

「あなたは構わないかも知れないけど、そもそもポータルだって非戦闘員。それだけのリスクに見合う助っ人じゃないって話よ。古典派とタイガーもダメ。あの二人は戦いを望んでない……だからミカリンの退場は痛いのよ。暴力に躊躇の無い人間なんてそうそういないわ」

「だったらどうすんのよ!」

「ノノ。自分の身を守る事を考えていては後手よ。ピンチはチャンス、乖田と左右が素晴らしい人材なら、むしろ私達の側に取り込めばいい。こっちには最強の切り札が二枚もあるんだから。大淀きらら、そして……」

 貝川の視線が佐渡聖子に向けられ、ノノや鷹取、渚も同じように彼女を見た。

 聖子は無表情のまま一人一人の顔を順番に見比べていたが、四人の後ろからきららがひょっこりと顔を出すと、びくり、と肩を竦ませて、旧友から顔を背けるのだった。

「……そう言えば、始めましてね。佐渡聖子、あなた無敵なんでしょ?」

 貝川はそう尋ねる。

「アタシはあんたが嫌い」

 ぶっきらぼうに聖子はそう答える。

「嫌いで結構。あなたは無敵なの? 無敵じゃないの?」

「アタシは無敵よ。でも、アンタが望むような能力者じゃない」

「あの二人と戦うのが嫌? あの二人には勝てないの?」

「勝てるわよ! でも気が乗らない」

「きららとあの二人、どっちが大事?」

 くるり、と背を向ける聖子。

 鏡に映る自分の姿と、その肩口から覗く貝川の鋭い視線。

「……どっちも」

「どっちもって何だテメーッ! きららを裏切るつも……」

 いきり立つノノを、貝川は右手で制する。貝川はゆっくりと拷問部屋に踏み込み、聖子に近づいて行った。鏡に映る貝川の表情は、神妙で慎重だったが……その瞳の奥に宿す陰謀の光に聖子は身構えるのだった。

「……大事に思うなら、あの二人をここに呼べばいい。きららがいれば、あの二人だってきっと仲間に出来るはず。あなたが願えばそれは叶うわ」

 ぽん、と聖子の肩に手を置く貝川。聖子の体に嫌悪感が走った。

「触んなっ!」

 貝川は慌てて両手を上げた。彼女の機嫌を損ねる事は、貝川にとっても本望では無いらしい。

「……どういう意味よ? アタシが願えばって」

「あなたとあの二人は繋がってるって事よ」

 貝川の言葉に、聖子は思わず失笑した。

「……ふん。らしくないわね! いざとなったらオカルト頼み?」

「私も必死なのよ」

「口調も違うし」

「……必死なので、あります」

 貝川はそう言って、メガネをクイッと一度持ち上げた。二人は鏡越しにお互いの顔をじっと見ていたが、やがて聖子が視線を逸らすと、貝川も次のプランの為にいそいそと部屋を出て行った。閉じられるドアの隙間から、ほんの一瞬覗く、貝川の小さな笑み。誰も気づかないぐらいの小さな笑みだったが、聖子の脳裏にはそれがシャッターを切ったように強く焼き付いた。

 ……願えば二人がやってくる?

 聖子は貝川の言葉を復唱した。

(らしくない。本当に、らしくないわ。貝川歩がこの島で起こった事件の張本人という事は、このアタシにもようやく分かった。徹底的な合理主義で、他人の情状なんて介入の隙間も無く……いや、時にはその“情状”すら巧みに利用するサイコ女。それがこの期に及んでオカルトですって……? ほんの気まぐれの冗談にしては何か違和感を感じるわ。それに、あの笑みは?)

 聖子はぎくりとした。

(まさか……アタシが望めば、本当にあの二人はやって来るとか? アタシに何か仕掛けてる? 別の異能者の能力かしら……? あり得る。何でもあり得るわ、異能者なんて。クソッ!)

 もちろん、貝川の言動の裏には佐渡聖子の真の能力への期待があった訳だが、聖子は自身の能力に気づいていない。ただもやもやとした違和感だけが残り、彼女は困惑するばかりだった。しっかりした休息と食事を摂り、神の声が届き始めても、ぽっかりと抜け落ちたパズルのピースのようにある“事実”だけが聖子の目を眩ませるのだった。


 少なくとも僕の知る限り、彼女が自身の能力に気づく事は無かった。

 運命の決定権を握る彼女の能力。しかし、それを知ることを良しとしない彼女の本能が、更に大きな運命として彼女を自身の秘密から守り続けているのだ。そしてそれは彼女が能力を発揮する限り、これからもずっと続くのだろう。誰にも彼女の能力を彼女に報せる事は出来ない。彼女が自身の能力を知るときは、彼女が自身の能力を失った時だけだ。

 聖子の心は揺れていた。彼女は僕と左右の助けを望んでいた。今の自分が本当の聖子じゃないと彼女は自覚していたし、出来る事なら元の世界に連れ戻して欲しかった。しかし、僕達が来ない事も願っていた。僕達が来たところで、どうにもならないと思っていたからだ。あるいは既に選んだ人生を引っ掻き回されたく無いのかもしれない。複雑な心理は能力の行き場をあやふやにし、僕と左右は彼女の作り出した蜃気楼のような道標に翻弄され、ようやく奴らの町にたどり着いたものの、肝心のザナドゥ計画の中心部へは辿り着けないでいた。

 辿り着けそうで辿り着けない。聖子の迷いそのものに、僕たちは町を彷徨い歩く。日は昇り、ちらほらと人が増え始めると、僕と左右は疲れ果てて、どちらからともなく公園のベンチに腰を掛けた。

 夏の日差しに照射され、息を吹き返す町並み。焦げた地面の匂いと潮の香りが入り混じり、僕は妙にノスタルジックな気持ちに包まれた。子供の頃に遊んだ記憶が脳裏を掠め、川の冷たさや蝉の死骸、死んだ爺さんや婆さんの居姿を朧気に思い出す。この町に来たことがある気がした。隣の左右も、ずっと昔からの友達だったような気がした。でももちろんそれはただの錯覚だ。あまりに深い体験を共有した仲間という意味では、どんな年月を共にしたのとは違う特殊な絆があるけれども。

「聖子ちゃんは、あっちに行きたいんだと思う」

 と、左右はぽつりと呟いた。

「大淀きららさんや貝川さんの方へ、王国へ、うんざりする現実から夢の世界へ……聖子ちゃんは行ってしまいたいんじゃないかな」

「左右も?」

 僕は尋ねた。

「分からない」

「分かんないって事は、行ってみたい気持ちもあるって事だ」

「そうかもしれない。でも、私がそっちに行く事は無いよ」

 左右は言った。

「……乖田くんは?」

「僕? 僕は……正直に言って、僕だってそんな理想郷があるなら行ってみたいよ。この島に来る前の僕は死人同然だった。本当の幸せが何なのか分からず、ただただ目の前のうんざりするような現実と戦っていた。不満で、不安で、焦りだけが胸にあって、もっと僕にふさわしい場所があるはずだってずっと思っていた。でも、そんな世界が存在しない事にも気づいてる。淡風から脱出し、汐摩に戻れば、また同じ苦痛と戦わなくちゃいけないって事も。

 貝川は大した奴だ。自分の道を自分の力で切り開こうとしているんだから。それを死に物狂いで邪魔しようとしているのが僕達だ。果たして僕たちは、正義なのか? 聖子を連れ戻す事が目的だとして、聖子自身が王国へ行きたがっているなら……彼女を連れ戻す事は正しい事なのか? あるいは僕たちは、色んな人達の幸福をつまらない倫理観や正義感で台無しにして、自ら不幸に向かって突き進んでいるんじゃないか……?」

「乖田くんがそう思うのなら、そうだと思う。でも、私はそうは思わない」

 左右は立ち上がり、肺いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「貝川さんの考え方は間違ってる。だって……既に“建国が完了していた”事に、あの人は気づいていないんだもの」

「どういう意味だ?」

 僕は思わず聞き返した。

「イノーだよ」

 左右はちらりと振り返り、そう答えた。

「イノーなんかがって。たかだかイノーって。イノーなんて現実の外で、負け犬が集まって傷の舐め合いをする場所だって……乖田くんはそう思う?」

「……そうは思わないけど……」

「そうは思わないけど、そう思う人もいる?」

「そう思う人がほとんどだろうよ」

「で、乖田くんはそれが正しいと思うんだ」

「それも一つの考えだと思う」

「乖田くんはそう言うよね。だから乖田くんは立派だよ」

 左右はまた、くるり、と背を向け、公園の中をゆっくりと歩き始めた。僕は立ち上がり、彼女を……あるいは、彼女の言葉を追いかけた。

「私はそうは思わない。異能者は社会のはみ出し者じゃない。イノーは居場所の無い異能者たちが集まって、傷の舐め合いをする場所でもない。同じ苦労、同じ考え、同じ気持ちが繋がっていて、同じ時間を共有している以上、それも一つの現実の形だと思っている。この世で真っ当に扱われない異能者たちが、社会と正面から戦う事なんて、それ程重要じゃないと思っている。辛いと思う事はあるよ。むしろ、自分を哀れに思うのは私の悪いクセだけど……でも、最後にはイノーの存在を思い出す。私は一人じゃない、私たちはか細い糸で、しっかり繋がってるんだって。

 でも、乖田くんは違うよね。他人の価値観と真正面から向き合って、一つだって取り零さず戦おうとしている。心打ち拉がれても、自分を正当化するでも無く、他人を否定する訳でも無く。自分が何なのか分からずに、ただただ打ちのめされ、やがて立ち上がる事を選択する。

 乖田くんは立派な人間じゃない。とても弱いし、頼りない人だと……ごめんね、好き放題言っちゃって。そんな顔しないで。私が言いたいのはそういう事じゃないの。乖田くんは確かに弱い人間だけど……でも、“まだ弱い”だけ。乖田くんは、これからきっと強くなる。異能の能力なんて無くても、正々堂々とした強さで相手と向き合える本当に強い人になれると思う。私なんかとは違う、シビアな闘争に足を踏み入れる勇気がある。すっごい頑固者とも言うけど……その事を恥じる必要なんて無いよね。

 大事なのは何? 現実を乗り越える事? 自分のせめてもの幸せに気づく事? 家族や仲間への愛情? 他人を屈服させる暴力? そう思ったなら、その人にとってそれは大事な事なんだと思う。でも、乖田くんにとってはそのどれもが本当に正しい事じゃない。もっと言えば、正しいと思うことで逃げようとしていない。現実があり、人がいて、色んな考えがあって……それら全てが尊敬すべきものであり、目指すべき目標であり、戦うべきものだって、そう考えてる。だから乖田くんはいつまでも悩み続けてる。乖田くんにはあまりにも沢山のやるべき事があって、守るものがあって、戦うべき事がある。

 ……大丈夫。乖田くんは、いつか強くなるよ。私や聖子ちゃんが手の届かないぐらい、立派な人になれる気がする。今まで通り、色んな事に打ちのめされて立ち上がっていく限りね。優しくて強い人にきっとなる。でも、一つだけ忘れないで欲しいな。何でもかんでも背負い込み過ぎて、一人じゃないんだって事を忘れちゃだめだよ。昔の私みたいに」

 僕は左右の言葉を黙って聞いていた。彼女が言葉を喋り終えても、こちらからは何の言葉も出てこなかった。というか、気持ちが一杯であまり正確に覚えていない。買いかぶり過ぎだろ、ぐらいは口に出したかも知れない。

彼女の言葉や期待は僕には重すぎた。彼女の中の僕はまるで超人だ。そうありたいと思う気持ちと、恐れ多い気持ちが半分ずつ。彼女の言葉は凡人を超人に仕立て上げる詭弁のようにも思えるし、だからこそ誰もが目指すべき境地のようにも思えた。あるいは彼女自身の他人を尊敬し、信じる心の現れなのかも知れない。

僕の脳裏にぽっかり浮かぶ、『そう思ったのなら』という一言。

少なくとも真実であるのは、彼女は僕に勇気をくれようとしているという事だった。そしてその気持ちを少しでも汲みとってやるべきだ。

と、確かに僕は『そう思う』。

 お互いがしばらく余韻の残る無音を共有していた。どこか妙に気恥ずかしい時間が過ぎると、左右はふと何かに気づいて、公園の中央でぴったり足を止める。彼女はじっと明後日の方向に視線を向けていた。

「……聖子ちゃんが乖田くんの強さに気づいているか心配だったけど……杞憂だったみたい。大丈夫だったみたい。何だかんだで聖子ちゃんは、心の深い部分できっと乖田くんを信用してるんだよ。ほら」

 左右の指差す方向には、煤けたアパートの螺旋階段から、ゆっくりと降りていく人影が二つ。ちっちゃいのと、細長いのがいる。

 紫電ノノと、鷹取ココロだ。

 もちろんこれは偶然じゃないんだろう。僕達を呼ぶか、呼ばないか。聖子の揺れる針は、運命は、どうやら前者を選択したようだ。

「あの二人は私に任せて。私が食い止めている間に、乖田くんはこっそり聖子ちゃんを助けに行って」

 僕は一瞬戸惑ったが、左右のずっしりとした覚悟の重みに突き動かされるように、決意を固めるのだった。こくり、と頷くと、僕はノノ達の目に触れないよう、公園の逆の出口へと歩き始める。

 出口をまたごうとした瞬間、ふと言葉を交わし足りないような気がして、僕は左右の方へと振り返った。

「……おい、左右。一つ言い忘れてたんだけど……」

 左右も僕と逆の出口をまたごうとした瞬間だった。公園を挟んで、僕たちは再び顔を合わせる。

「……やっぱりどう考えてもお前の方が強いし、凄い奴だ。僕の方が左右を尊敬してるし……左右は僕を買いかぶり過ぎてる。左右は僕のヒーローだ」

 左右は困ったような、寂しいような、照れているような、不思議な顔をしたが、やがて気の抜けたくすくす笑いを浮かべるのだった。

「そう思うのなら、そうかもね」

 やがて左右は自身の能力で姿を消し、僕の目の前から居なくなった。


 僕は町内を大回りし、ノノ達の視界に触れないようにアパートの裏側へと歩を進めた。民家と民家の間の、体を横にしてやっと通り抜けられる道。民家の中から聞こえるテレビの笑い声が、他人の日常の中にひっそりと姿を隠す自分をより意識させられた。

 路地を抜けると、アパートの背中を一望出来る場所にやってくる。規則正しく並んだ窓が、小さな絵画のようにそれぞれの人生を陳列していた。僕は能力を使ってアパートの三階まで跳躍すると、そっと廊下に侵入した。能力を使えるのはあと何回? 元より疲弊した体だけに、能力による揺り返しも大きい。アパートの中にいる敵の数も分からない。理想を言えば中にいるのは聖子一人という状況だが、ここに来て希望的観測が何になるだろう。そうじゃないと覚悟するべきだ。

 と、その瞬間。おもむろに開いたドアから、見たことのあるメガネの女の子が顔を覗かせた。

 貝川歩だった。

 貝川は僕の方に気づいておらず、部屋の中にいる誰かに何かを話しかけていた。

 廊下の距離は十数メートル。いつこちらを振り向くかも分からない。

 迷っている暇は無い。貝川目掛けてBダッシュだ。

 ……よくも人殺しをさせたな、このキツネ女!

 足を思い切り踏み込んで加速すると、風景が滲み、ムカつくメガネが急速にアップに迫って……僕は貝川に激突した。

 木製のドアは、体当たりの衝撃に耐えられなかった。激しい衝突音と共に、彼女はドアもろとも廊下を吹っ飛んでいった。悲鳴も聞こえず、四肢を無造作に投げ出し、彼女は何をされたのかも分からないまま、一瞬で失神したようだった。

 右腕に走る激痛。お構いなしに突っ込んだ結果、僕の腕はあっさりと骨折していた。壁にもたれながら、気持ちを落ち着け、ゆっくり呼吸をし、右手の損傷箇所に意識を集中させる。能力による自然回復の加速。じわじわと温かい膜に包まれている様な感覚に包まれ、痛みは徐々に治まってきた。中の敵はなにを考えているだろう。

ふと、アパートの外を見下ろすと、紫電ノノが「あ!」という顔でこちらを見ていた。が、すぐに彼女は自分の窮地に意識を奪われる。透明化した左右からの不意打ちに、すぐ側で鷹取が昏倒した為だ。

(左右……待ってろよ、すぐに聖子を連れてそっちに行くからな!)

 僕は心の中でそう唱えると、自身の腕の痛みが無くなった事を確認し、試しに軽く動かしてみた。痺れは残るが、挙動に問題は無い。僕はドアの外れた玄関の前に立ち、部屋の中をきっと睨みつけた。

 ……部屋の中に立っていたのは、佐渡聖子一人。

 他に誰かがいるにしろいないにしろ、ここからは視界に入らなかった。

「聖子! 出てこい! 帰るぞ!」

 僕が言うと、彼女は首を横に振った。

「それは無理」

「何でだ!」

「……無理なのよ。リアルに無理。今の私はきららに逆らえない。きららにとって反抗的な行動は取れないっていう、そういう能力なのよ」

「……そうかよ。じゃあ力づくになるが、悪く思うなよ」

「それも無理だわ」

 と、部屋の中から別の声が聞こえた。

 やがて姿を現す、何の飾り気もない、芋臭い少女。

 しかし、少女の全身からはただならぬオーラが発せられていた。オーラはまるで彼女を包み込む眩い光のように、僕の目に錯覚を起こした。少女の目が、髪が、細胞の一つ一つが僕達とは違う特別なものであるように感じられた。

 間違いない。彼女があのプリンセスきららだ。

 僕の口から言葉にならない変な音が漏れた。彼女の圧倒的な能力を前に、聖子の言葉の意味がはっきりと理解出来た……こいつに逆らうのは、不可能だ!

「き……きらら……大淀きららか!」

 気がつけば僕はその場に跪いていた。オーラに圧倒された僕の全身が、全く言う事を聞かない。うつ病患者がベッドから起き上がれない、なんてよく聞く話だが、僕の精神は掌握され、体はまるで僕の所有権を離れてしまったかのように、まるで言う事を聞かなくなった。ありとあらゆる行動を規制されてしまったようだった。

「聖子。聖子は私の味方?」

 きららが尋ねる。聖子は、こくり、と頷いた。

「じゃあ、あなたは? 初めましてだよね、乖田さん。乖田さんは、私の味方?」

 僕は『違う!』という言葉を発そうとしたが、言葉は音にならず、やがて心の中で『違わない』という声に押し潰されてしまった。

「……味方じゃないの?」

「……しょ、聖子を返してくれ……」

 なんとか言葉に出来たのは、その一言だけ。

「聖子は私達のものなんだけど」

「……聖子はあんたらのものでも、僕らのものでも……」

「少し痛めつける必要があるんです」

 更にもう一人。夏休みのよく似合う短パン少年……渚が、部屋の奥からゆっくりと出てきた。

「……よくも姉さんを傷つけてくれたな……それも、二度も!」

 渚の顔は怒りに満ち満ちていた。僕は折れそうな心を支えるのに必死で、彼が微かな殺気を帯びてこちらに近づいてくるのを、ぼんやりと眺める事しか出来ない。

「よう渚……僕はお前の命の恩人だぞ」

 僕の言葉は、彼に何の感慨も与えていないようだった。

「……ぶがっ!」

 渚のトーキックが顎先に炸裂する。僕はそのまま後ろに倒れ込んだ。

「……乖田さんの事は嫌いじゃなかった。でも、好きでもなかった。居ても居なくても良いと思ってました。でも、今は嫌いです。どうしても僕達の邪魔をしたいらしいので」

「邪魔するつもりなんて、これっぽっちも……うげっ!」

 短パンから覗く眩しい小麦色の足が、僕の腹にめり込んだ。地獄のような苦しみが腹部を襲い、全身を支配する。渚は僕の腹を踏みにじりながら、怒りに震える声で罵倒する。

「乖田さんが悪いんですよ! 僕達は何度も温情を与えたんだ。フクジュさんみたいに、帰れるタイミングは沢山あった……命の恩人は僕の方だ! でもまあ、これからは同じスバラシ会の一員として、精々仲良くしましょうよ。でもその前に、払い忘れてるものはきっちり払って貰います……よ!」

 と、渚がまたこちらを踏みつけようとした瞬間……僕は自らが被るであろう苦痛の事より、むしろ彼の不幸を哀れんだ。男に生まれた事を、そして彼(彼女)の能力事情を知った今改めて考えれば、男に生まれ変わってしまった事に対する不幸をだ。

「ふあっ!?」

振り下ろされた片足をがっちり掴むと、渚はすっとぼけた悲鳴を上げた。片足の自由を奪われた事より、どうして僕がプリンセスの影響下で反抗できるのか俄に判断できず、ただただ驚いていた。

(御免!)

僕は心の中でそう唱えつつ、彼の股間に思い切り掌底をめり込ませた。すらりとした中性的な足の付け根には、間違いなく男の男たる所以が形となって存在した。ぴっ! という高くか細く、スタッカートの効いた悲鳴が部屋に響くと、渚はその場に倒れ込み、蹲りながら泣いた。

困惑する聖子、そしてきらら。

「な、何できららに逆らえるの!?」

 と、聖子は言った。

「能力は、きららの“プリンセス”は確かにアンタに影響していたのに……!」

 顔を蹴られたせいで口の中が切れていた。僕は血を吐き捨てると、口元を拭い、ゆっくりときららに歩を進める。一歩、二歩と近づくにつれ、きららも聖子はお互いに顔を見合わせ、ほんの少しずつ後ずさる。

「きゃあっ!」

 椅子に躓き、思わずひっくり返るきらら。聖子は慌てて彼女を抱え、その場に立たせようとするが……まごついている間に、僕は二人の目の前に立っていた。

「乖田! アタシとアンタが闘らなきゃ、終わんないワケ!?」

 聖子は勘違いしてそう怒鳴り散らすが、もちろん、僕達は戦うべきじゃない。

 僕はゆっくりと片膝を付き、体勢を崩して倒れたままのきららに……いや、プリンセスに、出来るだけの敬意を払いながら、右手を差し伸べるのだった。

「プリンセスきらら!」

 僕は言った。

「会ったばかりの人間がこんな事を言うのも何ですが、僕と……僕達と一緒に来てください……! ここはあなたには相応しくない場所です!」

 僕に打算なんて無かった。ただ目の前の圧倒的プリンセスに心奪われ、体の自由までもが奪われた。しかし、彼女の存在を否定しようとせず、彼女の従者として働きたいと思いついたその瞬間、心が、体が、魂が、全てが自由になったのだった。渚に足蹴にされながら、『こんな連中にプリンセスを任せる訳にはいかない』と思った瞬間、僕の自由意思は渚の攻撃を食い止め、彼のタマを殴打する事に成功した。

 きららの能力は僕の想像の範疇を超えていた。感情を乗っ取られるという事は、理性を乗っ取られる事。全ての中心は、座標は、北極星は、プリンセスきららという少女にすげ代わり、頭のてっぺんから足の小指まで、僕にはほんの少しも逆らう事は出来なかった。しかし、忠誠心にも色んな形がある。

 僕の思考はすっきりしていた。この島で起きた色んなふざけた事件は貝川のせいだ。聖子がきららの配下に加わったとして、スバラシ会に加わった訳じゃない。そして僕が聖子を救い出すためにきららに忠誠を誓う事が……この抗い難い感情に抗わない事に、一体、何の問題があるというのだ?

――そう思うのなら、そうかもね。

左右の言葉は僕を勇気づけた。そう思わなければ、そうじゃない。感情を支配されても、理性がままならなくても、雁字搦めの状況でも、それでも選択出来る道はある。

が、戦いは終わらない。

「嫌! 私は汐摩になんて戻らない」

 きららは言った。

「プリンセスとして命ずる。あなたはこの島で建国するのよ。貝川や、聖子と一緒に……!」

 彼女の言葉は圧倒的な説得力で僕の意識を制圧する。まるで一万丁のライフルの銃口がこちらに向けられたような、問答無用の支配力。僕は思わず頭を垂れた。垂れながら考えた。きららの臣下として、聖子の友人として、そして僕にとっての最適解を。

 ……だが、結局のところ、僕にはやはり強さが足りない。選べるはずの道が、浮かんでは消え、浮かんでは消え、理想はどれも遠く手の届かない僕以外の人生のように見えた。薄弱な意志力が体を弛緩させ、抵抗力を失わせていく。ただただきららの言葉が、この世の絶対的な秩序として従わざるを得なくなってしまう。

 これは僕ときららの戦いではない。きららという暴虐のシンデレラを生み出したのは、狂える魔女・貝川だ。きららへの忠誠で生まれた僕の自由が勝利するには、即ち、あの貝川を凌ぐ行動力と意志力が必要という事。この状況を作り出した執念の塊のようなあの女に、果たして僕はどうやって勝てばいいんだ?

 ……気がつけば、僕の手元にはたった二枚のカードしかないのだった。貝川に従うか、全てから逃げ出すか。あるいはたった二枚しかない事に、ようやく気付いただけかもしれないけれど。

 そもそもきららへの従順こそ、“逃げ”を選択してしまったのだろうか。僕は何かを選び取ったつもりが、それは結局のところ自分を欺くために、逃走を違う角度から見て、一番立派に見える言い訳を探しただけなんだろうか?

 それでいいのか、乖田夕! 僕はそう誰かに言って欲しかった。やはり、僕一人じゃ戦えない。僕はあまりに弱いから、だから隣に誰かが必要だ。聖子、聖子は……!

 ふと聖子の顔を見ると、彼女はぽかんと口を開けたまま、僕の方を眺めていた。正確には、僕の背後をだ。僕の背後には玄関しか無く、そこに誰かが立っていることだけが、聖子の目線で理解出来た。

 左右か!? そうだ、左右がきっと助けに来てくれた! 僕は自身の中に生じた人生最大の強い願望にすがりつく。

 しかし、僕の望みはあっさりと棄却され、まるで不合格通知のように、死刑宣告のように、愛の告白に対する『ごめんなさい』のように、非情な現実が口を開くのだった。

「……まだまだ甘いわ……ね。乖田夕……!」

 声は弱々しくも、その意志は力強い。全身を強打し、再起不能になったと思った貝川歩が、自らの足で立ち上がり、玄関口にもたれかかっていた。

 この意志力に、僕は勝てないのだ。

「あ、あなたは巣に掛かった……王国では無く……わ、私の巣に。もう抗う事なんて……出来やしない」

 トレードマークの眼鏡を喪失し、口から血を流し、震える声で彼女はそう言うのだった。

「あ、あなたは……さ、最後の望みを、他人に託した。でしょ? ……つ、次の瞬間、玄関から、ひょっこりと……あ、左右が顔を出すと、そう考えた……ヒーローが現れるのには……う、うってつけの状況だと……だからあなたはいつまでたっても……他人に抗う事が、で、出来ない。自立出来ない……私はこうして……血まみれになっても、自分の力で立ち上がる。勝利を、み、見届けるまで……私は絶対に倒れやしないわ……!」

 貝川が言った事は、全くその通りだった。そして彼女は既に勝利を確信……いや、勝利をその目で見ていたのだった。

 廊下からひょっこりと顔を出す、紫電ノノ。

 嫌らしく邪悪な笑みを浮かべながら、彼女はこちらを思い切り蔑むのだった。

「残念、乖田くん! 勝ったのは紫電ノノちゃんでしたー!」

 ノノのあっけらかんとした煽り文句に、僕は後頭部の辺りを殴りつけられたような錯覚を起こす。

「……乖田夕。この世はあなたがそう思っても……そうじゃないのよ」

 貝川の言葉は僕の耳に届かない。分厚い絶望のカーテンが、闇より深い敗北感が、僕を包み込んでいた。

 何より恐ろしいのは、その苦悩がみるみる内に体内で浄化され、祝福に包まれていくように感じられる事だった。僕が本当の意味でスバラシ会の一員へと生まれ変わり、今までの選択がより大きく正しいものに上書きされていく。

 僕は随分とちっぽけだった。僕に選択権なんて無く、全ては他人が与えたまやかしに過ぎない。

 全ての運命は決定されていた。『そう思っても、そうじゃなかった』。

全てはこれでいいんだ、と僕は思い始めた。

「建国完了で……あります!」

 勝どきを上げる貝川。

 僕は卑屈な弱々しい笑みを浮かべ、狂える魔女の血まみれダブルピースを眺めるのだった。

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