17 もう後戻りは出来ないんですよ
ミカリン、マコリン、リビジョン及び、僕(
ただし、こうも考えられる。無抵抗なオヤジは数の内ではなく、標的は僕か左右の二人だけ。そう割りきってもらった方がまだ戦い易いが、もちろん勝手な思い込みで相手を信頼するわけにもいかない。値踏みも決め打ちも、人の命は重すぎる。
ぽーーーん、と消しゴムツールが攻撃準備を始める。それと同時にミカリンは斬鉄剣を抜き、彼女の周りに分子分解の強風が漂い始めた。二人に守られるように、リビジョンは一歩引いた位置で腕組みをする。いくらマコミカの二人を倒したところで、リビジョンによって“巻き戻し”が行われる以上、全ては徒労に終わってしまう。僕達は最優先で彼を倒さなければならないし、向こうもそれは重々承知で、相手チームの心臓部は厚く守られているのだった。
「ボケどもが」
と、ミカリンは言った。ばさばさと髪をはためかせ、この世の深淵を覗くようなジトっとした目つきでこちらを睨んでいる。
「大人しくこの島から退場してれば、命を落とさずに済んだのに」
「島を出る?」
僕は聞き返した。
「何の話だ? 助けて欲しいって泣きついてきたのは貝川だろ。きららをザナドゥとかって連中から救いたいって。その事に関しては、僕達だって協力する可能性は充分にあった……どうも本心じゃなかったらしいけどな」
「アホか。ザナドゥ如きになんでお前らに助けを呼ばなきゃならんの。これはマコリンの温情だったのよ。ねえ、マコリン」
マコリンは気の毒そうな顔でこちらを見ていた。
「左右あてなと乖田夕の二匹のお邪魔虫を退場させるために、一番手っ取り早い方法はあの世につまみ出す事だった。でも、優しくて可愛いマコリンがそれを嫌がって、妥協案として貝川がお前らを説得しに来た。貝川が教えるザナドゥの隠れ家には警察が張り込んでいて、お前らはカツ丼を食べて、二、三日したら汐摩に戻っている。そういう段取りだった」
「汐摩にはまだ帰れない」
「うざい。なんで」
「聖子を助ける為に決まってるだろうが!」
と、オヤジは僕らの背後からがなり立てる。
「無能者に発言権は無い」
ミカリンは言った。
「何が無能者だ! せっかくの能力をこんな事にしか使えねぇ奴の方が、よっぽど無能だろ! 異能者の国だぁ? ガキの考える事はつくづく浅はかだな! 異能者は十代の間にしか発症しない事は当然知ってるんだろ? もしお前らが異能者じゃなくなった時、一体どの面下げてその王国とやらに居座る積もりだ!? 『態度のデカい目障りな無能者』たちが、次の世代に厄介者扱いされて、ちゃんとした居場所がありゃいいけどな!」
「否定しきれない問題ではある」
と、リビジョンは言った。
「でも、そういう人間もいるし、逆に無能者となった先人を敬う人間もいるだろう。端的な結論は思考停止した大衆に向けては効果もあるだろうが、私達には通用しない」
リビジョンの澄ました返答は、更にオヤジを逆上させた。
「端的な結論で世の中から逃げ出そうとしている連中が何言ってやがる! 異能者の差別だか知らんが、今のお前らはマイノリティですらない! お前らは、アウトサイダーだ! 社会と向き合う事をやめたクソどもだ! 誰もお前達に同情なんてしないぞ」
「ド
ミカリンは言った。
「ああ!?」
「お前の戒名。無駄話はもういい。マコ、スイッチを押して、早く連中の脳天をふっ飛ばして。作戦通り、あいつから」
ゴクリ、と僕は唾を飲み込んだ。
マコリンの人差し指は天井の方を向いたまま、小刻みに震えている。その視線の先は僕でもオヤジでも無く、左右あてなに注がれていた。
それもそのはず。あの屋上での死闘は、彼にも少なからずのトラウマを与えていたはずだ。何度も死にかけ、仕留めたと思えば蘇る左右。彼女の能力と土壇場での“ド根性”が凄みとなって、マコリンの平常心を圧迫し、揺さぶるのだった。『僕はこの人にはどうやっても敵わないんじゃないか……?』自分達がどれだけ有利であっても彼の本能は正直で、それはそのまま重く動かない人差し指にフィードバックされているのだった。
……と言うのは僕の勝手な推測で、事実は更に奇妙に彼の心理状態を歪ませていた。人の感情を読むのは難しい。特に、恋愛感情ってやつが絡んだ時には、数学の問題を解くようにはいかない。
「ダメだ、出来ない!」
気がつけば、マコリンの顔は汗まみれになっていた。ひとっ走り終えた後のように紅潮し、息遣いも荒い。
「マコ?」
「出来ないんだ! 僕には、この人を殺せない!」
ミカリンが肩をすくめる。
「びびんないで、マコ。約束したでしょ。私達、結婚するって。そのためには……」
「僕は左右あてなが好きなんだ!」
マコリンの言葉に、部屋全体が凍りついた。全員が全員、混乱の渦に叩き込まれて身動きが取れなくなった。オヤジやリビジョンは呆気にとられていたし、当の左右本人もどう反応すべきものなのか判断出来ないようだった。特にミカリンだ。言葉を聞いた瞬間、彼女の顔からはさっと血の気が引き、全身から力が抜けてしまった。ただの模造刀となった斬鉄剣が、乾いた音を立てて地面に落ちる。信じていたものに裏切られ、自分を支えていたものがあっという間に崩れ去る。彼女の心には抉られたような深い傷が一つ、それはもはや致命傷とさえ言えた。
彼の発言はリビジョンにも巻き戻せない。音波は発生しなかった事に出来るのかも知れないが、決定的に壊れた(あるいは壊れていた)関係を修復するには少々荷が重かった。
マコリンにそもそも戦意は無く、リビジョンは一人では何も出来ない。ミカリンはフラフラと怪しいバランスで立ちすくんでいたが、やがてがっくりと膝をつくと、自分の刀と同じように地面に横たわった。ヨダレを垂らしながら瞬き一つせず、じっと虚空を見つめる。いや、彼女の瞳こそ虚空そのものだ。生気は失われ、ただ二つの視覚を司る器官として、眼球がそこに存在するだけだった。目には何かが映っていたが、それは彼女にとって何の意味も無いのだった。
マコリンは言葉を続けた。
「……僕がプリンセスに心を奪われていた理由は一つ。孤独だったからだ。ミカ、君のせいだ。君の一方的な愛情に、僕はとても疲れていたんだ(ぴくり、とミカリンは体を震わせる)。でもそんなの、偽物の愛情だよ。プリンセスの影響を受ける君もやっぱり孤独なんだ。空虚なんだ! 空っぽの自分を誤魔化して、あり得ない恋愛感情に心を閉ざしてるんだから。
もう夢は終わりにしよう。人にはそれぞれ人生があるんだ! こんな事をあえて言うのはミカ……それが君のためだからなんだよ。ねえ、リビジョン!」
「何を言ってるんです、マコ」
リビジョンは冷凍マグロのように横たわるミカリンを覗き込み、そう言った。
「現実が遠く届かないこそ、私達はこうして戦っているんです。夢から覚めたとて、我々の居場所は何処にも無いのですから。椅子取りゲームに参加する資格さえ無い。悔しくは無いのですか? マコ。あなたこそ目を覚ましなさい!」
「異能者のせいにしてるだけだ、プリンセスを利用しているだけだ! “我々”なんて言って、ホントの問題は結局もっと個人的な事なのに……プリンセスを担いで現実逃避してるだけじゃないか。まっぴらだ、そんな事で人殺しをするなんて!」
「ミカ、彼はああ言ってますが?」
ミカリンの耳には届かなかった。彼女はもう壊れてしまったのかもしれない。どこかの重要な回路がショートし、正常に体を動かせなくなっているんだろう。傍目には果たして生きているかどうかも分からなかった。
マコリンは人差し指を立てたまま、じっと俯いていた。
「……僕はこの人差し指を今から下ろす。それが僕の所信表明だ。誰の頭も弾け飛ばないし、誰も傷つく事はない。止めるなら止めてみろ……!」
「マコ! もう後戻りは出来ないんですよ!」
「出来る! お前らと僕とは違う! 僕は……」
「私達を裏切るのですか!?」
「僕は左右あてなが好きなんだ!」
それは、あっという間の出来事だった。
マコリンが啖呵代わりの告白を言い終えた瞬間、ミカリンの斬鉄剣は瞬間的に息を吹き返し、まるで大根か何かのように、彼の右腕を無慈悲に切断した。それと同時に能力の制御も彼の腕から離れ、けたたましい爆音と共に部屋中が血塗れになる。
どしん、と左右の体がその場に崩れた。
ヒステリックに叫びながら、ミカリンが襲い掛かって来る。思考が追いつかず、僕は反射的に自分の身を守ろうと両手で顔を防いだ……が、全てを断ち切る斬鉄剣を前に、それは最も愚かな行動だった。脳天を真っ二つにされるまでのコンマ数秒間、僕が考えた事はただ一つだけだ。“死にたくない!”。それ以外に、僕の心には何の雑念も去来しない。
そして、僕は死ななかった。
まず最初に気付いた異変は、音だ。ミカリンの絶叫がゆっくりになり、加工したような野太いものに変化していき、最後には音じゃなくなる。振り下ろされる刀はほとんど静止したように宙にとどまり続け、一向に僕の命を奪う事が出来ずにいた。
ミカリンだけじゃない。この世の全ての物が静止し、全ての音が消えた。これが貝川歩のアドバイスだ、と僕は直感した。僕の脳神経は、今常人の何倍もの速度で動き、あらゆるものがゆっくりと……前述の通り、静止したようにすら見えていた。
考えるより先に体が動いていた。超高速の世界で、僕はミカリンの懐に踏み込み、体当たりを食らわせる。骨がミシミシと音を立て、ゆっくりと彼女の肉体を破壊する感触。もちろん、僕もただじゃ済まない。とんでもない激痛だった。腕、脇腹、内蔵に伝わる衝撃を、気が狂いそうなほど怠慢な速度で伝わる。形容のしようも無いが、まるで巨人にじっくりと圧し潰されるような痛みだった。
肉体に対するインパクトもさながら、精神的なショックも相当だった。タックルの勢いそのままに後ろを振り向いた瞬間、必然的に左右あてなの姿が視界に入った。……彼女は生きていた。マコリンの爆風と、火花の様に飛び散る血糊で、恐らくは失神してしまっただけだろう。そう核心出来たのは、オヤジの首無し死体が目に入ったからだ。
僕はこの島に来て何度目か分からない嘔吐感に襲われた。突然周りの騒々しさが息を吹き返し、時間は元に戻る。能力の反作用で頭の中がズキンと痛み、危うくその場に転びそうになってしまう。二、三歩よろめいて、僕はなんとか踏み止まった。
激しい物音を立てて襖を破り、隣の部屋に転がっていくミカリン。彼女の骨の砕けた感触は、痛みと共にありありと僕の体に残っていた。何が起こったか分からないマコリンは、ミカリンの姿を見て絶句する。右手を切断された激痛に耐えながら、残った左手で“消しゴムツール”を起動しようとするが……僕は彼の顎を蹴り上げて、あっという間に意識を喪失させた――失神しなければ僕は死んでいた。
「リビジョン、聞け!」
僕は言った。
「もう僕はお前達に負けない。さっきの能力がお前達の目にどう映ったか知らないし、信じるかどうか知らないけど……もしお前が能力を使ったら、もう一度僕もさっきの能力を使って、真っ先にお前を半殺しにする。続いて襲い掛かってくるミカリンもそうするし、マコリンもそうする事になる。全員が無事な保証なんて無い。でももしお前が僕と左右を逃がすなら……この家を出て五分後でいい。その後で能力を使えば、ミカリンもマコリンも元に戻る。そうだろ?」
「そうだ」
リビジョンは蒼白な顔面でそう言った。
「オヤジは戻るのか?」
「戻らない」
「そうか。当たり前だよな。死んだら元に戻らない……なんてこった、畜生……おい、僕の言った事は理解したのか?」
「理解した」
リビジョンは機械のように答えるだけだった。
能力の余波か、それとも精神的ショックのせいか。割れるような頭痛に顔をしかめながら、僕はなんとか左右のところまで駆け寄った。彼女はまた眠り姫に戻ったように、穏やかな顔で気を失っていた。その傍らで人間だった物体が、魂の抜け殻が、まるで生ゴミのように無残に横たわっている。僕は震えが止まらなかった。
「左右、ほら、行くぞ。起きろ……いや……眠ったままの方がいいのか。こんな光景見たくないもんな。出口はどこだっけ……玄関は……こっち、じゃなかった。そっちだ。何を言ってるんだ、僕は……」
左右を背負って、僕は玄関に向かった。リビジョンの隣を横切り、破壊された襖をまたぎ、おかしな体勢で倒れているミカリンを脇目に、この家から出て行こうとした。
「……なあ、リビジョン。僕は卑怯だと思うか? ここでお前達を倒して、オヤジの仇を取るべきだと思うか?」
僕はふと、リビジョンにそう尋ねる。
「思わない」
と、彼は言った。
「……僕はアウトサイダーじゃない。嫌な事があっても、許せない事があっても、理不尽に遭遇しても、必死に社会にしがみついている。卑怯者かもしれないし、卑屈かもしれない。でも……」
と、その時。ほんのふとした拍子に……だがまごう事無く、ミカリンに右手に何かが握られているのが見えた。それは、貝川が麦茶を飲むのに使っていたグラスだった。
ありとあらゆる物質を斬鉄剣に変える彼女の能力。例えばこのグラスを能力で変化させ、粉々に砕いて僕達に投げつければ……全てを貫く刃の雨が、僕と左右に降り注ぐ。無数の穴が全身を貫き、スポンジのような死体が二つ出来上がる。
ミカリンは目を開いていた。呼吸に異音が混じり、口から血が零れている。彼女にそんな力が残っているかどうかも分からない。でもその可能性は充分にあり、僕は彼女を二度と攻撃出来ないようにしなければならなかった。どうやら、彼女が戦意を喪失する事は無いらしい。僕の背中には左右もいる。僕は自身と左右を守る為に、敵の細い首を踏みつけ、彼女の頚椎と命を粉々に砕く他ない。
ひぐらしの合唱がやけにうるさかった。頭痛は収まらないし、血生臭さが吐き気を催す。こんな場所からさっさと抜け出したいのに、帰りたいと思えば思うほど誰かが邪魔をして、日常はどんどん遠ざかっていく。
けほっ、とミカリンは小さな咳をしながら、虚ろな目でグラスを眺めた。
「……ウチにあるのと……一緒……」
彼女はそれをまじまじと観察する。彼女の言ったことは、恐らく偶然なのだろう。それも聖子の能力の運命とは関係の無い、何の意味も無い偶然。同じ人間が同じ国に住んでいれば、そういう事だってある。
「お前らが殺した人のもんだろ。お前がそれでミルクを飲むのと同じように、オヤジさんもそれで飲んでいた」
「ミルク……嫌いだし」
ミカリンは言って、こちらを見て笑った。その笑みは決して友好的なものでは無く、自分が殺人に対していかに無感覚かを、笑って証明してみせているのだった。
僕は不思議だった。どうして彼女は平気でそんな事が出来るのか。そして、こうして自分自身の危険すら顧みず、僕達を攻撃しようとしているのか。彼女の精神構造や行動は、完全に常軌を逸している。
グラスの周りに水蒸気が立ち込める。彼女の能力で分解された水滴が、小さな爆煙となって辺りを漂った。
「やめなさい、ミカ!」
リビジョンの言葉は、ミカリンには届かない。
ぐしゃっ、と彼女はグラスを握り潰す。ガラスで傷ついた掌から血が溢れ、ぽたぽたと地面に赤い斑点を作った。
彼女はこちらを見上げ、死力を振り絞ってガラスの破片を僕達に投げつけようとした。刹那、再び時間はスローモーションになり、僕はコマ送りの時間を自由に動けるようになった――僕がまさに死のうとしている瞬間、この能力は発動するらしい。
……ゆっくりとした世界の中で、僕は奇妙な考えに取り憑かれた。彼女は僕を殺そうとしているんじゃなく、自分自身を殺そうとしているのでは無いだろうか? 自分自身を殺してしまいたくて、無意識下の破滅願望が彼女を突き動かし、他者を巻き込んでいるだけなんじゃないだろうか……?
彼女の人生について僕は知らない。どうしてこんな死んだ目をしているのか、マコリンを異常なまでに偏愛するのか。有り余るエネルギーの全てはマイナスの方へと流れ、自暴自棄な振る舞いに喜びを見出しているような気がしてならなかった。
もちろんそれはその時の僕の勝手な推測で、今となっては答える人間も居ない。彼女の首の骨を踏み砕く感触だけが、決して解ける事の無い呪いのように、足の裏に深く深く食い込み、ずっと残り続けるのだった。
僕は自分に言い聞かせた。
これは戦争だ、これは戦争だ、これは戦争だ、これは戦争だ……。
家を出てからもしばらく、左右あてなは眠ったままだった。僕は左右を背負ったままリビジョン達から逃げ、一心不乱に山の中へと突き進んだ。
オヤジの家から少しでも遠ざかってしまいたかった。が、まるで呪いが懺悔のように後ろ髪を引き、次第に足が上手く動かなくなる。やがて歩くことすら困難になり、僕は森の中で立ち止まる他無かった。左右を木陰にそっと座らせ、僕も隣に腰を下ろす。注意深く辺りを見張ってみるものの、誰も追ってくる様子はない。昂ぶった神経に疲労が打ち勝ち、蝉の声が催眠的に脳に作用し、意識が途切れがちになる。時折、野生動物の蠢くような音が聞こえて慌てて立ち上がるが、そこには誰の姿もなかった。
木や葉の香りに蒸されるような、じっくりとした暑さ。顎の先から汗が滴り落ちる。疲労と暑さで何も考えられず、僕は静かに目を閉じる。眼の奥で紫色の炎のようなもやがうねり、それに合わせて全身がじんじんと痺れた。痺れは心地良く舌や胸元、指先や足先にまで広がって、そのままこの場に溶けてしまうような感じがした。
ふと気配を感じて目を開けると、いつの間にか目を覚ました左右がこちらをじっと覗き込んでいた。僕の体は大げさにビクつき、やがて安堵のため息が漏れる。
左右は目を覚ましてしばらく、何も喋らなかった。まるで言葉を忘れてしまったように、きょろきょろと辺りを見回し、また木にもたれかかって自分の膝に顔を埋める。僕も彼女も、会話をする気にはなれなかった。一時の気休めに何かを喋るより、もっともっと個人の中で咀嚼すべき事があった。どこか非現実的だったあの家での出来事は、噛みしだく程にどんどんエグみを増し、感情をドロドロに蝕んでいく。
僕らの気持ちそのままに空の色も落ち込み、急速に視界が悪くなっていった。とにかく、このままここに居て状況が良くなることなんて無い。危険な動物がいるような深い山中では無いとは思うけれど、そんな保証もどこにも無い。激昂したマコリンがリビジョンを連れて追いかけてくるかも知れない。殺人事件の容疑者となった僕を、警察が探しに来ているかも知れない。一分一秒の凄まじいスピードで危険度は増していき、疲弊しきった僕達をどんどん追い詰めていく。
僕は左右に「歩けるか」と尋ねた。彼女は「うん」と言い、僕達は再び移動を始めた。
何処へ向かうかなんて、分からなかった。貝川姉弟が何処へ消えたのか、聖子が今どこで何をしているのか。喉が乾き、お腹も減ったけど、店も無ければお金も無い。スマホも無く、世間の状況や自分達の居場所も分からない。この世の何もかもから突き放され、いかに色々なものに自分が支えられていたかを、今更になって実感する。そしてそれらはどんどん僕の手から離れていって、もう二度と手に入らないような気がした。
大淀きらら? 佐渡聖子? 貝川歩? 一体、僕に何の関係があるんだ? どうして僕は、こんなふざけた事件に巻き込まれてるんだ? 関わりたくなんかなかった。でも、放っておけなかった。それが人の道だと思った。なのに僕は誰かに背中を突き飛ばされ、坂道を転がり落ちるように、大事なものからどんどん遠ざかって行く。人の道は遠くか細く、今やほとんど見えなくなっていた。この森の中のように、道なき道を歩く他無かった。
やがて、木々はまばらになっていった。葉と葉の隙間から少しずつ夜空をちらつかせ、幹の隙間にはだだっ広い田園風景が覗いている。と、それからほんの数十歩の後に、凄まじい勢いで視界はパノラマに広がった。森を抜けたのだ。大きな池の縁を這うようにあぜ道が伸び、右を見ても左を見てもその先は見えない。
左右は突然ふらふらと僕の前に出た。そのまま池に向かって歩き、あぜ道から身を乗り出す。彼女は両手でたっぷり水を掬うとそのまま口元に持っていき、一心不乱に喉の乾きを癒やし始めた。がぶがぶと夢中になる様は、いつもの品の良い彼女なんて影も形もない。もちろん僕も後に続く。喉の乾きはとっくに限界だった。池の水が綺麗か汚いかなんて、知ったこっちゃない。寄生虫でも何でも腹の中に入れてしまいたい気分だった。
ひとしきり胃に水を流し込むと、続いて顔と頭を洗った。何度も何度も顔をこすり、胸元までぐっしょり濡らしながら、固まった返り血をこそぎ落とす。一時の安堵に長いため息を吐き、生きている実感が僕の全身を静かに包み込んだ。しかし、心が日の光を浴びると、その陰りもくっきりと現れる。トマトの様に破裂したオヤジさん。ビスケットの様に砕けたミカリンの首の骨。彼女が最後に見せた、破滅への嘲笑。飲み過ぎた水が急激に逆流し、あまりに突然の事に抗う術も無く、それが当然の因果と言わんばかりに、僕は吐瀉物を池に撒き散らした。
「乖田くんっ!?」
すぐ隣で髪を洗っていた左右が声を上げる。
「ゲホッ……うえっ……! ご、ごめ……ぶふっ……」
左右は慌ててこちらに駆け寄り、僕の背中を擦る。前にもこんなシチュエーションがあったな、と僕は思った。多分、彼女も似たような事を考えていただろう。この島に来て初めての事件だ。あの時は左右にみっともないところを見られ、介護され、粉々に砕け散った自尊心に死にたくなったのを覚えている。そんなの、今思えば何でも無いのだけど。
でも、吐いたことで激しい感情が撹拌されて、幾分か気分は楽になった。思えば随分とだんまりだったけど、今なら事情を話せると思う。左右だって、混乱しているはずだ。僕に遠慮して無言を貫き通していたのなら、そろそろ彼女の気持ちのもやを取り払ってあげなければいけない……それが例え望まない現実だとしても。
「……オヤジは死んだ。ミカリンも」
と、僕は言った。
「僕が弱かったから、二人は死んだ。戦わずに済んでほしいっていう弱い気持ちや躊躇のせいで、なし崩し的に起きた状況だ」
「乖田くん、私の事、怒ってる?」
と、彼女は恐る恐る尋ねる。
「怒るって……何で?」
「私、絶対に乖田くんが狙われると思って、乖田くんに“アンチ消しゴムツール”の準備をしていたの。体の組織を一瞬変質させて、消しゴムツールのターゲットから外れさせる、あれ。私の能力は一度に一箇所だけしか変質出来ない。最悪、私が死んでも乖田くんならなんとかしてくれると思ったし……でも、目の前でマコさんの腕が飛んで、誰かの肉片が部屋中に飛び散って……てっきり乖田くんだと思って……そこまでしか覚えて無くて……」
「つまり、僕は何に怒ればいいんだ?」
「……私の弱さ」
僕は考えてみた。彼女の強さは既に何度も僕を救っている。絶対的に孤独な状況で、一人で立ち上がる事が出来る精神力を持っている。彼女は僕のヒーローだった。ヒーローの必殺技を、超能力を、アクションを真似したように、僕は少しでも彼女に追いつこうと左右あてなの真似をしている最中だ。憧れの対象として、左右に強くあって欲しいという気持ちも無くはない。でも、だからと言ってさっきの彼女が弱いとは、どうしても僕には思えなかった。人が粉々に爆死しても平気だなんて、そんな強さを僕は左右に求めていない。
ただ……確かに僕は怒りを感じていた。怒りの矛先は、もちろん左右じゃない。僕を日常の坂の上から突き飛ばした奴が、この血まみれの歯車を造って笑っている奴が居る。建国だなんだとのたまい、裏で人を弄ぶサイコ女が。面と向かい合って話をして、それが誰なのかはっきりと分かった。
「左右は弱くなんて無い。自分が強いと勘違いしている悪人がこの島にいる。悪いのはそいつだ」
貝川歩。奴こそ諸悪の根源だ。奴にとってこの島は盤面で、僕達は駒だ。少なくとも奴はそう思い込んでいて、僕達はまんまと踊らされている。今度会うときは、顔面に一発ぶち込んでやるだけじゃ気が済まない。奴の罪は重い。実の弟を巻き込み、異能者たちを巻き込み、何の罪も無い一般市民を巻き込んだ。『こんな事をするんじゃ無かった』と後悔と絶望のどん底に叩き込んでやらなきゃ納得出来ないし、死んだ人達も浮かばれない。払うべきものをきっちり払うまで、許すわけにはいかないのだ。
その為には、こんなところでまごついている訳にはいかない。僕は口周りのゲロを拭き取り、ゆっくりと立ち上がった。
「……さ、右か左か。僕達は自分の運命を選択しなきゃならないぞ。行き先の分からない目的地に、奇跡が導いてくれるのを期待する? 左右はどう思う?」
「私は右か左か、どっち付かずな名前だから」
左右の冗談に、僕は気が抜けたような笑いが漏れた。
「でも、奇跡は聖子ちゃんが作ってくれるよ」
と、左右は地面を指さす。
それは不思議な光景だった。枝、小石、落ち葉、雑草はそれぞれ無関係に見えて、まるで童話のように僕達の行くべき道を示していた。――そして僕はこの時初めて、聖子の能力を知った。左右は“恐らく”という前置きを添えて、そのくせ妙に確信的に、聖子の本当の能力について語るのだった。
「運命を操る能力!?」
こくり、と左右は頷く。
「この世に神様なんていない。運命なんて無い。でも、聖子ちゃんだけはそれを体現できる能力を持ってる……思えば、おかしな事が沢山あったんだ。今までは聖子ちゃんの能力が、たまたま起こる幸運を探し当てているんだと思ったけど……それだけじゃ説明の付かない事も多すぎる。この間の屋上での戦いで、私はそれを確信したの。この事は聖子ちゃんに言わないでね」
「聖子は知らないのか? 自分の能力を」
左右は小首を傾げる。
「どっちだろうね。でも、知るべきじゃないと思う」
それはそうかもしれない、と僕は思った。自分の思い通りにしかならない人生なんて、想像するだけで退屈だ。あるいはとても恐ろしい事だ。きっと彼女の厭世的な世界観を持ってして、初めて調和の取れる能力なんだろう。つまり、“人生そんなに上手くいくはずがない”という思い込みがあるからこそ、ツイてない事も起こるし、本当の願いだけが奇跡として叶えられる。そしてそれらは全て彼女の無意識下での事だ。
「聖子ちゃんは助けを求めている。だから私達は聖子ちゃんの願いを必死にたぐり寄せ、辿って行く。私達が今ここにいる事も、きっと聖子ちゃんの能力が必要と判断したからだよ。私達は勝利する為にここにいる。そういう運命の中にいる。そう考えると、凄く勇気が湧いてくるよ」
「釈然としないな。あいつの歯車の一部だなんて」
冗談ぽくそう言うと、左右は困った顔をして笑った。
そして僕達は、淡風の自然にポッカリと浮かぶ人工の奇跡を辿って、聖子の待つ場所へと向かうのだった。またそこで誰かの血が流れる事になるかも知れない。むしろ、その可能性は非常に高い。でも、僕はあまり深くその事を考えなかった。考え過ぎると、これ以上足が動かなくなるような気がした。進むべき道は示されていて、成すべきことが明確になっている。今はただそれを進むのみだ。
……願わくばこれを最後に、僕は元の場所へ帰りたい。汐摩へ、平和な日常へ、人の歩むべき道へ。
この島では沢山の物を得た。宝物と呪いの両方だ。苦悩を上書きするだけの幸福がないと、僕達の心はきっと耐え切れずに押し潰されてしまうだろう。聖子は捻くれ者で、嫌味ったらしく、本気で嫌いになる事もあるけど、あいつもまた僕の人生には必要だ。あいつを見殺しにした苦悩を埋めるには骨が折れそうだし、何よりあいつに恩を着せるのは、これ以上無いぐらい楽しい事に違いない。
ざまあみろ、聖子。この貸しは高く付くぞ。
……どれぐらい歩いたのだろう。聖子が作った道標を愚直に辿り、休憩を挟みながら、縛りカスのような体力をただただ歩くという行為に集中させる。延々と続く野山と田園風景を見納めると、気がつけば夜はすっかり老け込み、僕達はどこかの町についていた。看板には灰色ヶ原と書いてある。淡風のどの辺りかは分からないし、目の前に見えている海が太平洋なのか本州側なのかさえ分からない。
町は昭和からタイムスリップして来た様に古めかしい佇まいをしていた。看板という看板は色褪せ、壁は煤け、電柱は斜めに歪んでいる。木造家屋の壁面に年季が染み込んでいる。明らかに人の住んで無い、放置されっばなしの家屋もあった。しばらく歩くと商店街らしき場所についた。何十年も昔のモデルの写真を飾った美容室、軒先の雨よけが機能を果たさない程に破れた本屋、サイクルショップ・ヨシダ、カレーショップ・ヨシオカ、ヨシクニ・クリーニング……黄ばんだ街灯の光が頼りなく町を照らしていたが、この真夜中に開いているシャッターはもちろん無かった。朝日が登って、人々が動き始めて、果たしていくつシャッターが上げられるのか分からない。僕にはどれも開かない様に見える。
そんな昭和の遺跡を歩いていると、初めて動くものに遭遇した。それは僕達の数十メートル先で、あんぱんの様に丸くなっていた。
「ねこちゃん」
と、左右は呟いた。そう、真っ黒なねこちゃんだ。
猫は僕達の足音に耳をひくつかせ、頭をもたげると、一度大きく伸びをして、ついて来いよと言わんばかりに往来をのそのそと歩き始めた。聖子の能力による新たな啓示だろうか。不吉の象徴に道案内させるのは、いかにも聖子らしいセンスだけれど。
僕達は一度顔を見合わせ、彼(彼女?)について行く事にした。逃げてしまわないように適当な距離を保ちながら、歩調を合わせてゆっくりと町を進んで行く。建物と建物の隙間から、時折海が見えた。海の闇はおぞましいほど真っ暗で、まるで重油のような色だ。遠くの沿岸に小さな造船所が見えるせいでそう感じるのかも知れない。造船所は長年の潮風の影響で、ボロボロに錆びていた。
まるで老人の様な町だ。家族なんていない、孤独な老人の町。心は塞ぎ、期待する事を忘れ、過去だけがここにある。妙に生き生きとした黒猫の存在はむしろ異質で、僕達を聖子の意志へと導いてくれるのは、確かに彼にしか出来ないように思える。彼が期待するような対価の一つも持ち合わせていないのは、少し申し訳ない気もするけれど。
猫はその場で立ち止まり、耳の縁を後ろ足で、しゃしゃしゃっ、と掻いた。僕達も立ち止まり、彼の一時の休憩を見守りながら道案内が再開されるのを待つ。しかし猫は一向に進む気配が無く、こちらをちらりと睨みつけ大きな欠伸をすると、また元のあんぱんの形状に戻ってしまうのだった。
「……おい、どうしたんだ?」
僕の声に猫は耳だけで反応する。ここは俺の縄張りだ、人間なんて恐ろしく無いし指図も受けない。そうとでも言わんばかりに、猫はふてぶてしく眠りこけるのだった。
僕達は再び顔を見合わせる。左右の顔は不安げだった。僕は猫を驚かせない様に、出来るだけ姿勢を低く保ち、そっと猫に近づく。
「もっと低い方がいいよ。任せて」
と、左右は四つん這いになると、慎重に、出来るだけ自然に、そろりそろりと黒あんぱんに近づいて行った。意気揚々と行動に移る彼女を蔑ろにする訳にもいかず、僕は一旦身を引いた。しばらくの間、僕は猫の動向と、左右の腰つきを見守る事になった。大胆に突き出された左右のお尻は、僕を幸せな気持ちにさせた。
「ちっちっち」
ほんの少し手を伸ばせば近づく程の距離。左右が意を決して猫を呼んだ瞬間……彼はぎょっとして跳ね上がり、転びそうな勢いそのままに走り出す。バイクのコーナーリングの様に斜めに傾きながら、まるで手品の如く、するん、と下水道に飛び込んで姿を眩ませた。
どういうことだ。黒あんぱんは、聖子の道標じゃなかったのか。恐る恐るこちらを振り向いた左右の顔は真っ赤だった。他に道標や啓示は見当たらない。猫が立ち止まった場所は終着点だったのだろうか? 彼の止まった場所の左手には魚屋、右手には肉屋。人を二人も監禁するには、人目につきすぎる場所のように感じるが……いや、そもそも二択になった時点で、聖子の能力じゃない。
僕達は迷子になった。そして、それはそれ以上の意味を持っている。
「聖子の能力が途絶えた」
僕は言った。
「体力の限界か……何らかの理由で能力をやめてしまったのか。ひょっとすると、諦めてしまったのかも知れない」
左右は表情を曇らせる。
小さな町だが建物の数は少なく無い。あるいはこの町はただの通過点で、聖子が居るのは別の町かも知れない。ここまで来たと言う事以外に僕達には何のヒントも無かった。隠された木の葉を森の中から探さなければならないのだった。食べ物も無く、寝床も無く……それに僕は、いつ殺人犯として指名手配されるかも分からない。正当防衛は成立する? 誰がミカリンの能力の危険性を立証するんだ? そんなの無理に決まってる。つまるところ……この窮地を救ってくれるのは、やはり聖子だけかも知れない。彼女の能力の積極的な協力で、僕の法的責任を何とかするというのは、虫の良い話だろうか? 犯した罪はもちろん正しく罰せられるべきだろうけど、ただの殺人者として扱われる事には納得しかねる(当然だ!)。……ただしそれらは、もっと後の話だ。
『もう後戻りは出来ないんですよ!』
僕の脳裏に浮かぶのは、リビジョンがマコリンに言い放った一言。
……とにかく、残された時間は少ない。聖子は神様じゃ無いから、奇跡を起こすにはそれなりの因子が必要だ。因子は僕達で、僕達は彼女の願いを聞き遂げてここまでやって来た。
僕達はお前を助ける。
だから、頼む。お前も最後まで僕達を助けてくれ。
道標はどうして途絶えてしまったんだ?
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