16 合理性とよく似た見た目の機械じかけの悪魔
貝川歩の大淀きららに対する盲信は止まらなかった。盲信は妄想を産み、妄想は妄執を産む。歩は何としても、それも一刻も早く、きらら姫の為に安息の地を造らなければいけない。それがこの世で最も素晴らしい事に違いなく、自身のためでもあり、異能者の為でもある。その為にはどんな手段も厭わない。例え多少の犠牲が出ても、大いなる伝説を前にした些末な事に、彼女は躊躇しないのであった。
歩は百円均一ショップで買った包丁をしっかりと研ぎ、次のアクションに備えた。人を傷つけるのなんて百円で十分事足りる。むしろ肝心なのは場所だ。“彼女”が必ず現れる場所で、人目が少なく、逃走経路をしっかりと確保でき、しかもそれなりに騒ぎになる場所。集団心理が事件の悲劇性を倍増させる事を、歩はしっかり理解していた。貝川歩の“佐渡聖子刺傷計画”は、静かに淡々と迷い無く、それでも触れれば火傷を負うような熱量で着実に準備されていた。
部屋の中央で研いだばかりの包丁を握り、じっと立ち尽くす歩。何かをぼそぼそと呟いて、何度か頷くと、両手でしっかりと包丁を握り締めながら、きっと宙を睨みつけた。
「……佐渡聖子、きららから離れなっ……さい!」
さい! と同時に包丁を突き出す。もちろん、部屋には歩の他に誰もいない。
お出汁の味付けがちょっと薄かったかしら? とでも言わんばかりの何気無さで、彼女は首をかしげた。
「セリフが思い詰めてない。リアリティが無いわ。それに刺しちゃうと本当に死ぬかもしれないし、斬る方がいいのかも……だったらやっぱり、包丁じゃなくてナイフだったかしら……いいえ、百円で十分。ナイフを買うと足がつく。カッターナイフでも良かったぐらいだわ。人なんて、斬れば怪我をするんだから」
彼女は包丁を懐に隠すフリをして、部屋の隅に移動する。
「……聖子! きららちゃんの隣から……どいて! どっ……あっ」
仮想聖子の元まで近づき、包丁で空を切る。が、その瞬間、包丁は彼女の手からすっぽりと抜け、暴れ狂う金属音が部屋中に響き渡った。鼓膜を突き刺すような喧しさに、歩は思わず目を瞑る。続けて、彼女は転びそうになりながら、慌てて包丁を拾い上げ、布団の中に乱雑に仕舞い込んだ。
と、その瞬間、隣の部屋にいた渚がドアを開け、姉の様子を覗き込んだ。けたたましい異音に、渚の顔は凍りついていた。
「……ど、どうしたのお姉ちゃん!?」
「何でも無い」
「何でも無いって、さっきからドタバタ……私の部屋まで聞こえてきたよ!?」
「何でも無いって言ってるの。それより渚。ノックもせずに姉の部屋を覗くなんて、どうかと思うけど」
渚は言われて、はっとした。彼女は……彼は、もはやすっかり男の子だった。些か線の細い印象はあるが、声や骨格、肉付きは紛れも無い中学生男子のそれだ。渚はもちろんその事で悩んでいたし、歩の言葉に微妙な距離感を感じて悲しんだ。姉に対してだけじゃない。自分に対する接し方のほんの僅かな変化に、彼はすっかり敏感になってしまっていた。
「ご、ごめんお姉ちゃん……」
狼狽える渚を見て、ひりつく表情をほんの少し緩める歩。
「あなたを傷つけるつもりは無いわ。でも、変化を受け入れる為にはお互いの協力が必要だと思うの。姉の部屋には必ずノックするって言うのは、その第一歩。それにもっと男らしい方が良いと思う。『私』じゃなくて『僕』と言う。お姉ちゃんじゃなく『姉さん』と呼ぶ」
「それはそうだけど……」
「そうしなさい」
妙に刺々しい姉の言葉に、渚は突き放されたような気がした。
しょんぼりとしてしまった渚に罪悪感を感じたのか、歩はそっと近づき、彼の両頬をぱちんと挟んだ。
「しっかりしなさい。私にとっては妹だって弟だって、渚は渚なんだから。でも、強くならなきゃ。演じるのよ。男も女も演じられるようになれば、ひょっとするとあなたは自分の能力を掌握する事が出来るかも。そう、これは病気なんかじゃない。あなたの能力なのよ。好きな時に男になって、好きな時に女になれれば……」
「お姉ちゃん、手から血が出てるんだけど」
えっ、と歩は自分の左手を眺める。包丁の刃を掠めた跡が、二センチ程の切り傷として親指の付け根辺りに残っていた。視認する事で、歩は初めてチクチクとした痛みを感じ始める。
渚は何も言わずにウサギのカバーがかけられたティッシュボックスを歩に差し出す。歩はまるでイタズラがバレた猫のように素知らぬ(が、どこかぎこちない)顔を作って、ティッシュを一枚抜き取った。
「……どこかで切ったのかしら」
白々しさの拭いきれない一言。
「結構出てるよ。血」
「そのようね」
更に、部屋のベッドメイクが異様に乱れている事に渚は気がついた。一分単位でスケジュール管理をし、時計よりも正確で几帳面な姉が、珍しく無沈着だ。が、それを「そんな日もあるだろう」と捨て置くには、さっきから妙な事が続き過ぎていた。妙な騒音、妙な切り傷、妙に刺々しい態度、妙なベッドメイク……。
「……一体、どうしたのお姉ちゃ……姉さん」
と、渚は思い切って尋ねてみた。どうもしないわ、と言いかけて、歩はふと思いとどまった。隠したところで相手の好奇心を煽るだけなら、いっそ話してしまった方が良いのだろうか?
歩は自分のベッドに腰掛けながら、努めて冷静に利害を計算する。渚を巻き込みたくは無かったが、血を分けた人間ほど心強い味方もいないのもまた事実。また、それが渚を苦痛のカルマから解き放つ唯一の術かも知れないのだ……即ち、虐げられる異能者の、大淀王国への協力と脱出。
「大淀きらら」
え? と、渚は聞き返す。
「大淀きらら。この名前を覚えておくと良いわ。話はそれからよ」
「大淀……誰?」
「私であり、あなたである。渚、あなたと同じように、私だって変化するわ。そしてこの世の全ての異能者が変わるかもしれない。大淀きららはその可能性なの。後は自分で考えて」
「え? 何?」
「はいはいはいはい。出て行って」
呆気にとられる渚を気にも止めず、歩は彼の背中をぐいぐいと押し、違和感の充満する部屋から無理やり退出させた。
ばたん、と閉じられた歩の部屋のドア。彼女は顎に手を当て、思案に耽った。
(渚の事はともかく……今は佐渡聖子よ。斬りつけるのはやっぱり不味いわ。私の貧弱な握力じゃ、凶器を落としてしまう可能性がある。それは最悪……やっぱり、両手で握りしめて、ぐさっとブッ刺すしかない。覚悟が足りなかったわ。本当に建国するなら、犠牲なんてただの歴史の一行なんだから……あなたは人柱なのよ、佐渡聖子。もし死んだら、先に地獄で待ってるが良いわ。それとも天国かしら? 私は信じてないから、どっちも行かないけど)
自分の残酷な考えに、彼女は不思議と違和感を感じなかった。盲信は妄想を産み、妄想は妄執を産み、妄執は狂気を産み始める。狂人は自身を狂人だと思わないと言うが、自身の行為が人道に外れたものであっても、彼女にとってはそこは重要なファクターではない。増してや、自分が正気か狂人かなんてどうでもいい。問題は“成功するかしないか”だ。
……静かに、自然に、確実に、貝川歩の悪魔性が目を覚まし始めていた。
合理性とよく似た見た目の、機械じかけの悪魔が。
歩の計画は至ってシンプルだった。きららの狂信的なファンを装って(実際そうなのだけれど)聖子を傷つければ、きららは親友を守る為に“一人ぼっち”になるほか無い事を悟るだろう。精神的にも不安定になり、自身の能力に絶望するに違いない。そこで歩は詐欺師のように彼女を唆す。『あなたの居場所はどこにもない。私と一緒に居場所を作るしか無い!』と。
某日某ライブハウス。そこは歩がきららと、そして聖子と初めて出会った場所だ。歩はフードとマスクを着用し、例の“コインが入りにくい自販機”の陰でひっそりと聖子を待った。ライブが終われば、聖子は汗まみれになって、覚めやらぬ熱気を纏ったままここにミネラルウォーターを買いに来る。出演者なのに周りの目を憚らず、まるで腹いせのように“コインが入りにくい自販機”を蹴り飛ばす。聖子にとってライブが終わってしまえば夢も幻想も無いのだろう。あるいは、どうせ大淀きららしか見ていない、という自虐めいた開き直りかも知れない。楽屋でもちやほやされるきららを見て、いたたまれなくなって出てくるのかも。
歩は腕時計を見た。きららと聖子のライブはとっくに終了時刻を過ぎている。聖子は何をやっているのだろう? スケジュールが押しているのかもしれない……どうして今日という日に限って? こうしている間にも、一分一秒、周りが自分を怪しむ時間が伸びている。フードと眼鏡とマスクの匿名性が、異質でないはずがない。
……凶器を握る手が妙に汗ばんでくる。余計な考えばかりが脳裏を掠め、時計を見る回数が増えてくる。準備に抜けがあったのでは? と、新たな不安要素が浮かんでくるが、それも対処して考えていたはずだと思い直す。こみ上げてくる嘔吐感。歩は明らかに冷静さに欠いていた。
歩は深呼吸をした。理想郷はきららの為でもあり、自分の為でもある。これは今までの息苦しい人生から解放されるための儀式だ。文明の発展の為に神に捧げる供物。その為には強い心が必要だ。強い心が……。
そうして、彼女が波立つ心を落ち着けたその瞬間、まるで予定調和の如く、聖子がライブハウスから出て来たのだった。
ぎゅっと包丁を握りしめ、殺意の篭った目線を聖子にぶつける歩。
……が、聖子に対する予想外の“印象”に、彼女は思わず我が目を疑った。
(何……これは?)
と言っても、聖子は前に出会った時と少しも変わらない。若干猫背で、いかにも性悪な、冴えない青春を全身で体現するやさぐれた少女。そんな彼女の体から、まるで黄金のような異能者のオーラが迸っているのに、歩はこの瞬間初めて気がついた。はっとして、慌てて眼鏡を押し上げる。眼鏡……そう、前回は眼鏡が無かった。ライブ会場で落としてしまっていたのだ。聖子の真価を見定めるには、“能力の条件付け”が足りていなかった。
改めて“本当の佐渡聖子”を覗き込む歩。
少女の黄金の源泉は、想像を絶する特別な力を内包していた。
影響力はやはり1にも満たない、ミジンコの命すら奪えない脆弱なパワー。が、彼女が本来持つ豊富なキャパシティの全ては、影響力よりもむしろ“影響範囲”に振り分けられていた。彼女の能力は町を越え、地球を駆け、月や太陽、果ては一つの銀河にまでテリトリーを広げられる。
宇宙そのものが、聖子の庭だった。
歩はマスクの中で、ぽかん、と口を開けた。
(……バカげてる! こんな規模の能力があるなんて、想像もしなかった! おまけに……彼女のサイコキネシスは、その“感触”そのものが彼女に情報として伝わる。自分が知りたいと思った事を、まるでインターネットで検索でもするように、能力の触覚で拾い上げる事が出来る……望めば神様の声が聞こえてくる! やばいわ。こいつの能力は……やば過ぎる……! いや、よく見るのよ貝川歩。こいつの能力は、それだけじゃない……!)
ふと、歩の異常な風貌に気がつく聖子。彼女は『何こいつ』と言わんばかりに不審げな顔で歩を見た。歩からしてみれば“これから自分が危害を加えようとしている人間”が、じっくりとこちらを怪しんでいるのだ。相手の圧倒的な能力に心を奪われていた歩は、自身のあるまじき失態にすら気を回せないでいた。
「……何よ?」
聖子の言葉に、歩ははっとした。無理やり引き戻された現実に、彼女は自身の気持ちを整理する余裕もなく、ほとんど反射的に懐にから包丁を取り出し、切っ先を聖子に向けた。聖子は絶句し、一歩、また一歩と静かに後ずさる。歩の心境は冷静からは程遠かった。想像の中では、舞台に上がった演者のように、彼女は彼女の“設定上”の人物に成りきるはずだった。イレギュラーな能力の正体に面くらい、彼女は自分が考えていたセリフすら忘れてしまっていた。
「しょ、聖子、きらら……あ、あんた邪魔ッ!」
が、それが功を奏した。歩の動揺は、彼女の演技に言い知れぬ迫力を添えた。
歩が駆け出すと同時に、聖子は声にならない悲鳴を上げ、その場に尻餅をつく。四つん這いになりながら、絡まる足取りで何とか立ち上がろうとした瞬間……!
「あぎゃぁーっ!」
スカートとパンティ越しに、深々と包丁の刃が突き刺さる。聖子の右側の臀部から溢れる真っ赤な鮮血。
周囲が異変に気付き始めるのと同時に、歩はその場から姿を眩ませた。
歩の思考と感情は散り散りに乱れていたが、それでも準備されていた逃走経路は完璧だった。土地勘がある者でもまず誰も通らない路地。鍵の掛かっていない空家に入り、裏口から出る。彼女は空き家を通り抜ける間に、マスクを剥ぎ取り、着ていたパーカーとカーゴパンツを脱いだ。あっという間に中に着込んでい学生服姿になり、脱いだ衣類で包丁を包み、スポーツバッグにしまい込む。出来るだけ早足で、人気の少ない路地を通り、汐間沿線の近くに出た。
汐摩沿線沿いの高架の脇道は薄暗い車道で、通行人も交通量も少ない。歩道が無いため、部活帰りの学生がふざけ合って車と接触事故を起こし、PTA会報で注意が促された事がある。学生服にスポーツバッグは、決して異質では無い……スカーフが微動するほど、心臓は激しく高鳴っていたけれども。
彼女は二キロほど沿線に沿って歩き続け、やがて都市間にあるひっそりとした住宅街に辿り着いた。帰路につく学生やサラリーマン達とすれ違い、彼女は電車に乗り込んだ。気持ちを落ち着け、強張った表情をなんとか元に戻し、緩やかに日常に溶けこむ。
歩は何度も深呼吸をし、先程の自身の行為を振り返った。
(……お尻、お尻か……。死にはしないでしょうけど……人を刺したわ、この手で……! でも、やっぱりヌルかったかもしれない。きららの為には、奴を本気で排除しないといけなかったかも。あの能力は強力。邪魔だわ、あまりにも……!)
濃紺に包まれ静かに煌めく町並みが、電車の外でゆっくり流れる。それに併せて、歩の乱れていた思考も、またゆっくり流れ始めた。自分の眼鏡越しに映った脅威の能力とその正体を、改めて脳内で咀嚼する。
(佐渡聖子には神の声が聞こえる。それは確か。きっかけさえあればこの世の全てを検索できるオフライン・サーチ。でも、あの能力の本質はそこじゃない……あの能力の真価は、やはりサイコキネシスそのものにある! 微生物さえ殺しえない、だからこそ微細で綿密な能力の波動が、彼女の能力の本当の姿……!
……シュレディンガーの猫ってあったわね。ミクロな世界で起きる事が、猫を生かしも殺しもする。その結果は箱を開けて中身を観測してみないと誰にも分からない。でも、佐渡聖子は違う。猫に箱を被せた瞬間、彼女は事象の結果を必ず言い当てる事が出来る。それも、予知能力なんかじゃない。彼女が望めば、彼女の能力が自ずとミクロの世界を操作し、彼女の望んだ結果を確立していく。ほんの誤差のようなきっかけが、一ヶ月後、一週間後、一分後の未来をがらりと変えてしまう。
彼女が『猫は死んでいる』と言えば猫は死に、逆を言えば生きている。彼女が『私はきっとシンデレラだわ』と思えば、何かの間違いで自宅にガラスの靴が届けられ、優しく気高い王子様が目の前に現れる……! 彼女自身が絶対的な“観測者”で、あまりに身勝手な観測者効果が運命すら捻じ曲げていく……! 彼女は神の声を聞くだけでなく、“神の代行者”に成り代わることが出来る。なんて自己中心的で、馬鹿げた能力……!)
歩は佐渡聖子に対する自分の感情が良く分からなくなっていた。大淀きららを始めとした建国計画を、佐渡聖子は良く思わないだろう。頭のおかしいカルト集団に誘拐されたと思うかもしれない。当然、聖子は歩の存在を嗅ぎ回る。体を張ってきららを救い出そうとするかもしれない。そうなった場合、佐渡聖子と戦うという事は、運命そのものに抗う事にも等しい。勝利は決して歩の手には落ちないだろう……聖子が生きている限り、抗えども抗えども、きっと何らかの形で野望は潰えてしまう。
敵対すべき相手。目下最大の障害。
……だが、それとは全く関係の無い、意外とも言える感情もまた、歩の中に渦巻いていた。
それは“畏敬”だ。
元々は異能者全員の為に行っていた能力探し。大淀きららすら凌駕し得るとてつもない能力を目の前にして、歩は言いようの無い静かな感動に打ち震えていた。虹色に輝く湖や、聖堂のような渓谷、何百年に一度の流星群を見た時のような、ただただ純粋に人の心に強く訴えかける奇跡。それ自体が絶対的に尊いものであり、そこに理由や意味などは必要ない。増して、湖にも流星にもちっとも興味の無い歩は、自分の中にそんな感情がまだ存在する事に驚いた。
(私の優先順位の最上位は大淀きらら。それは間違いない。間違いないけれど……でも、それだけじゃないらしい。私は渚を通して異能者というマイノリティの苦痛を目の当たりにした。人は本質的に孤独で、何とかそれを紛らわせなければいけない。それが出来なければ、人は死んでしまうか、気が狂ってしまう。死にそうな異能者も、気が狂いそうな異能者も、私は沢山見てきた。同じ異能者ですら、その人の能力の特性の如何によって全く異なる苦痛を感じるんですから……結局のところ孤独なんて分かち合うフリしか出来ないんだわ。
馬鹿らしいと思っていたけれど、実感として確かに私の中にあるらしい。私は“そっち側”だという共感めいた幻想が、異能者に対する仲間意識が。そして佐渡聖子の能力の威光に触れて、彼女を排除しようかと考えた途端……私は確かにこう思ったわ。異能者にとってそれは『とてつもない損失であります!』と)
歩は電車に揺られながら、考え続けた。やがて催眠的な風景によって思考力が鈍麻し、同じような事を切れ切れにしか考えられなってくる。緊張が疲労となって襲ってきたのだ。いっそ眠ってしまおうかと目を瞑った瞬間、ふと、雑然とした思考の海から結論だけがぽっかりと浮かんできた。結論は至ってシンプルで、どうして今までこの事に気づかなかったのだろうと、歩は不思議にすら思った。
大淀きららと二人きりでステージに立っていた瞬間から、運命は既に始まっていたんじゃないか? 私があのライブハウスに行くことは、とっくの昔に決まっていたんじゃないか? あいつのケツを刺した事も、全ては予定調和の出来事だったら?
……佐渡聖子こそが、建国の動力源となる存在なんじゃないか?
大淀スバラシ会の発足は、それから一週間後の事だった。佐渡聖子刺傷事件に絶望した大淀きららは半ば自暴自棄の状態に陥り、アイドル活動をやめ、学校を休み、家出し、漫画喫茶を転々とする毎日を送っていた。そこにやってきた歩の、夢のような物語と理想、そして彼女の実に真摯で敬虔な態度に、きららはなし崩し的に身を任せるのだった。もちろん、歩の言葉を鵜呑みにしたわけじゃない。『ここじゃないどこかへ行きたい』と、ただそれだけの理由だった。
歩は淡風島を建国の地に選んだ。理由は近くて、隔絶出来るからだ。イノーで知り合ったリビジョンと呼ばれる異能者が、淡風でアパートを借りて一人暮らしをしている事を知ると、歩はほぼ強制的にリビジョンを大淀信者に“洗脳”し、スバラシ会の本部として部屋を乗っ取った。
リビジョンはエリート家系に育ち、一族の中では比較的落ちこぼれに分類されていた。行きたくもない大学に行かされ、生きたくも無い人生を生かされる。孤独な人間ほどきららの能力は効果を発揮する。誰にも助けてもらえず、助けを求める相手もいない彼は、貝川の格好の餌食となった。貝川はリビジョンの家を訪ねて五分も経たないうちに、彼の唯一の慰めであったアニメのキャラクターのポスターを全て引っ剥がし、フィギュアのコレクションを次々に破壊し、『この人を見よ』と大淀きららを指さした。『叩き潰し、大淀に救わせる』という彼女の洗脳手法の、最初の犠牲者だった。
やがて、着々とスバラシ会の会員は増えていった。極秘裏な調査と銘打って、必要な人材を淡風島に呼び寄せ、洗脳する。歩はそうやって、建国の為に必要な柱を築いていった。建国に際して想像されるあらゆる問題に対処すべく、足りない能力や戦力を補強していく。
全ては日常生活の裏で行われた事で、籠りがちな彼女が全く家にいないのを家族は不振がった。それでも歩は『釣りとか山とか、渚の遊びに付き合ってあげている』事にしていたし、その頃にはとっくに大淀信者になっていた渚は、当然口裏を合わせているのだった。妹(弟)の体質変化に心配していた両親は、歩も同じ心境で、渚の世話を焼いてあげているのだろう、と思った。それは結構な事だ、さすが優等生の歩だと、両親はそれ以上彼女を詮索しなかった。
実際のところ、どちらかと言えば世話を焼いていたのは渚の方だった。貝川渚は、歩にとって最も重要なピースの一つだ。
渚の役割の一つに“佐渡聖子の動向の観察”というものがあった。平たく言えば、聖子専属スパイだ。渚が最初に聖子を見たのは市内の大きなゲームセンターで、彼女は格闘ゲームの対戦台に座り、自身の能力を使って対戦相手を次々と蹂躙していた。何十と積み重なる勝ち星にギャラリーは騒然としていたが、聖子本人は酷くつまらなそうな顔をしていた。聖子の不毛な勝利は、彼女が席を立つ事によって強制的にゲームを終了するまでずっと続いた。
彼女は何を求めて、ここに来てこんな事をしていたんだろう、と渚は思った。
「一つ聞きたいんですけど……」
ゲームセンターから出て行く聖子に、渚はそう言葉をかけた。聖子はちらっと渚の方を見たきり何も言わなかったし、何の興味も沸いていないようだった。立ち止まる素振りすら見せなかった。
「どうしてあんなつまらなそうな顔してゲームを続けていたんですか? 絶対強者の虚しさってやつですか?」
まるで聞こえて無いように、やはり聖子は反応しない。渚は困った。話しかければ答えてくれるのが人の有り様だと思っていたし、今までの人生でその基本ルールを破られるような事態に彼はほとんど遭遇しなかった。そして、今は何としても聖子に言葉を返して貰う事が、彼の役割だ。
「あの、ご迷惑なのは重々承知してます……でも、お昼ご飯まだでしたら、僕にご馳走させて下さい!」
聖子は、ぴたり、と足を止めて渚の顔を凝視した。
「なんで?」
「僕はその……興味……そう、興味が湧きました。あなたという人に」
「昼飯奢るぐらい?」
そうです、と渚は言った。
「さっきのゲームのガチ勢?」
違います、と渚。
「……ナンパ?」
渚は右手を振って否定した。
「そう思われても仕方無いけど……でも、ナンパなんて僕はしません。生まれてこの方した事も無い」
ふーん、と気の無い返事をして、聖子はじろじろと渚の顔を見続けた。渚が羞恥心に顔を染めるにつれ、対照的に聖子の顔が無表情になっていく。
「あの、何か……?」
渚は堪えきれず、そう尋ねた。
「……アタシは興味ない。さいなら」
すたすたと聖子が歩いて行ってしまうのを、渚は慌てて追いかけた。彼女の歩行速度が早いわけでもないのに、追いつく事が至難の業のように彼には思える。手強い能力者とは聞いていたが、これほど手強い人格の持ち主だとは。
「待って下さい、どうして!?」
「遠いものには近づけない、近寄って来るものはロクでもない……」
ほとんど独り言のように呟く聖子。彼女の言っている事が今の心境なのか、それとも普段からの教訓なのか。渚は焦った。とにかく自分に興味を持って貰わなければならない。そして興味を持って貰えない事が、自分の役割を超えて悲しい……自分はこの数分間で、こんなに佐渡聖子の人間性に興味を惹かれてしまったのに。
「ぼ、僕は元々女だったんです!」
渚の言葉に、通行人の何人かが振り向いた。
「性転換なんて、別に珍しくない」
と、言いつつも、流石の聖子も立ち止まって、改めて相手の顔を見た。何かに対して合点がいった様なしたり顔。聖子は渚に対して、女々しい男だな、と思っていたらしい。
「能力です。元々私……僕は男で……」
「……異能者?」
「はい」
その瞬間、聖子はちょっとだけ渚に興味が湧いた。態度を改め、それなら話は別と言わんばかりに、渚を近くのファミリーレストランに(もちろん渚の奢りで)連れて行った。その間、二人は約二時間ほど話し込んでいたが、会話の半分以上は男性器の話だった。嫌がる渚から聖子が無理矢理聞き出そうとし、相手が羞恥心に口淀む様に、聖子はむしろ「すげーリアル」とワクワクするのだった。渚は際限のない逆セクハラに堪えきれず、話を断ち切るように淡風のカルト集団の存在を仄めかす。すると、一転して聖子の表情が変わった。カリスマ性の異能者と、それを取り巻く信者達。その長たる異能者の存在は、聖子にとって“遠く届かなくなってしまった人物”とぴったりと重なるのだった。
もちろん、渚はあえてカルト集団の話をした。それがそもそもの彼の役割だからだ。聖子という運命の中心が、大淀スバラシ会をどう捉えるか。敵対視するか、あるいは同調するか。それによってスバラシ会の進むべき道も変わるし、その判断を下す為には“観測者”の動向をしっかりと観測しなければならない。
渚は少し緊張した。自分が知り過ぎていると思われないように、相手の好奇心を掻き立てるように、そして緊張なんてしていないように振る舞わなくてはいけなかった。女だった頃はもう少し女らしくしろと言われ、男になったら男らしく振る舞えと言われる。素知らぬ噂好きのフリをするのは、それよりは多少は楽だと彼は思った。
聖子の第一声は、渚の姉が『大方こう言うだろう』と予想した通りだった。
「騙されてるわ、きららの奴……!」
聖子はストローをがしがし噛みながらそう言った。
「馬鹿な奴! アタシがいないと自分の身を守る事も出来ない! なのにアタシから離れてっちゃうんだから。馬鹿よ!」
「先生」
と、渚は言った。こんな敬称を使うのは、名前を聞いてないのに“聖子さん”と呼ぶ訳にいかなかったからだが……口にしてみると意外にしっくりくるのだった。
「もし噂が本当なら、淡風に行くんですか?」
「行くっきゃねえわな。どうせ暇だし」
椅子に大げさにもたれながら、聖子はそう言った。
「暇だから、ですか?」
「そーよ。暇なのよ! ……暇だわ、あいつのいない人生なんて」
聖子の言葉はぶっきらぼうだが、言葉の奥底に微かな孤独の響きがあった。この人もまた、寂しがり屋なのかも知れない……と、渚は思った。それはゲームセンターなんかで、自分が強者だと周りに見せつけても、周りに賞賛されても、決して拭い切れない孤独だった。
「じゃ、スバラシ会は捨てましょう」
その日の渚の報告を聞いた歩は、あっさりとこう言うのだった。
「捨てる? 捨てるって? どういう事?」
「大炎上させて捨てる。世間から忌み嫌われる様な大事件を起こして、異能者と世間を完全に断絶させる。建国の必然性を高めて、私のプランに佐渡聖子の運命を巻き込む。佐渡聖子の数少ない友人の一人がイノーにいるから……
「姉さん、イカれたの?」
と、渚は訊ねた。
「何が?」
「何がじゃないよ。姉さんのやろうとしている事は、色んな人の気持ちや人生を踏みにじっている。そんな事は許されないよ」
「許されようとは思ってないわ」
「僕だって許さない。聖子さんは何か放っておけない人だから……彼女が酷い目に遭ったら、きっと僕も悲しくなると思う」
「実の姉の頼みでも?」
「そうだよ。実の姉の頼みでも、こんな馬鹿げた事は看過出来ないし、それに……」
「……うるさいわね……ごちゃごちゃ……」
ぞっとするような表情で、歩はそう言った。
渚は絶句したが、直ぐに気を取り直し、ぶり返すような怒りに全身を震わせる。長い睨み合いの末、姉さんがそのつもりならもう知るもんか、と踵を返そうとしたその瞬間、まるで電源でも切れたように、歩はがっくりと膝をついた。そしてそのまま仰向けに寝転がり、憮然とした表情で天井を眺める。
「……姉さん?」
「……やだもん」
ぽつり、と歩はそう言った。渚は自分の聞き違いと思った。
しばらく部屋の中で、時間が止まった。
やがて歩はじわじわと顔を歪め、目に涙まで滲ませ、ついには火がついたように泣き叫ぶ。
「いやだやだやだやだやだ! やだー! 建国する! 建国するもんするもんするもん! 建国するんだもん! 渚手伝って! なんでそんな事を言うの! 血を分けた姉弟じゃないの! やだ! やだー! 建国建国建国建国! 異能者の王国を造ってみんなで暮らすの! きららの王国をみんなで造って、みんなで楽しく暮らすのーーー! 意地悪言わないで! 私を困らせないでよぉ! もうヤダ! もうやめて! うるさいうるさい! ごちゃごちゃ言わないで私に従ってよぉぉ! やだもんやだもんやだもんやだもんやだもん!」
「ね、姉さん!」
「姉さんなんて呼ぶな! 他の女に尻尾を振る裏切り者! あんたなんて弟じゃない! オスよ! 獣よ! どっか行け!」
「ちょっと、落ち着い……」
「わーわーわーわーわー! 聞こえない聞こえない聞こえないーー!」
これはまずい、と渚は思った。
姉さんが、ぶっ壊れてしまっている。
……渚は姉を尊敬していた。幼い頃から取り立てた才能がある訳でも無かったが、彼女に出来ない事なんて何も無かったし、何気ない一言に底の知れない説得力を感じる事があった。姉がわざと“普遍的に”振る舞っているんじゃないかと渚は考え始め、そんな予感がする度に彼はこう思った。『本当はもっとすごい事が出来るはずなのに、どうしてお姉ちゃんは自分を押し殺しているんだろう』と。
しかし、肝心の歩にその欲がない。理想と現実の折り合いというもののほとんどが、理想の下方修正によって付けられるものであるなら……貝川歩のような何の理想も持たない人間は、ただ目の前に現実があるだけだ。即ち、食べる事と、危険を回避する事。
高級な服やアクセサリーが欲しい? 何かの成果を残して周りにチヤホヤされたい? 友達が沢山欲しい? ボーイフレンドは? ……要らないと思っているものに欲望は沸かない。何かを欲しがってみたところで、歩は自分を騙せるほど器用でも無かった。
彼女は名前の通り、毎日無心で歩き続けている。ただ目の前に道があり、求められただけ、それ以上でもそれ以下でも無く、自分の中に湧く“無意味”という言葉を必死に否定しながら、悠久にすら思える距離をひたすら歩き続けていた。それが当たり前だからと理解しつつも、心はギシギシと嫌な音を立て始める。
限界はすぐそこにまで来ていた。彼女の自我の頑強さは即ち、膨れ上がる不満を閉じ込める強固な檻だった。檻は破壊される事なく、膨張し続ける不満の内圧によって耐え難い苦痛を伴う。それでも耐えて耐えて耐え続けた結果、気がつけば歩には人としての何かが欠落していた。一見普通に見えても、その内面はぞっとするような歪さを湛えているのだった。
彼女は大淀きららを目の当たりにし、紆余曲折ありつつも、自分の本心にようやく気付いた。建国……即ち、『ここから抜け出したい』という願望。その為なら手段なんてどうだっていい。他人の尊厳を踏みにじっても、命さえ刈り取ろうとも。人生で初めて生まれた強烈な欲望を前に、法律や倫理観はもちろん、“こんな事をしてしまったら、タダじゃ済まされない”という防衛本能ですら、完全に無力なのだった。
貝川歩のあまりに見苦しい駄々っ子姿に、渚はただただ狼狽えた。彼女は子供だ。子供の頃に言っておくべきワガママを、この年齢になって初めて噴出させたのだから、そのなりふり構わない気迫は凄まじい。
彼は姉の元から逃げ出し、しばらく一人ぼっちで考えた。しかし、考えても考えても、自分が何かを判断するには、深刻さも複雑さも何もかもがケタ違いな規模感だった。これが貝川歩の欲望の姿だ。本当は誰よりも優秀な姉が、執念を燃やして歩み始めた道だ。一度生まれた欲望は、頭をぶつけるまで収まらない。暴走機関車のような勢いでぶつけた頭は、きっと粉々に砕け散ってしまうだろう。
だったら、姉の望むストーリーの終着点は? 例え犠牲者が出ようとも、それがある意味で素晴らしいものなら……本当に否定するべきものなんだろうか?
歩姉さんの考えた事に今まで間違いなんてあっただろうか? 僕の考えなんて所詮ちっぽけで、結局は姉さんが正しいんじゃないだろうか……?
それに……姉さんの幸せは、一体誰が守ってやれるんだ?
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