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15 貝川歩の天地創造

 シリアルと牛乳の簡単な朝食。貝川はあまり食事に興味が無かった。

 と言うより、彼女はこの世の何にも興味が持てなかった。小説、映画、音楽、旅行、ゲーム、スポーツ……人間が人間を騙して幸福を疑似体験する事に、彼女は一切の価値を感じない。

 それだけじゃない。彼女は富や名声にも興味がない。他人と争って勝利し、優越感に浸る事に充足を得られず、敗北に悔しがる人間を見てはバツの悪い思いしか湧いてこない。

 幼少の頃から言い様のない虚無感に晒され、彼女は自分のストレスにしか興味を持たなくなった。不愉快な目に合わないようにだけ立ち回り、周りに馬鹿と思われないよう怠惰を避け、僻まれないように向上心を抱かない。地味な眼鏡を掛けて男を寄せ付けず、女社会からはみ出されないよう義務的な笑顔を作る。無口じゃなく、お喋りでもなく。他人を突っぱねず、干渉されず。

 彼女の両親すら理解できない貝川歩の本心。誰も立ち入れない絶対的な聖域に唯一踏み込む事が許された人間がいるとすれば、それは彼女のたった一人の妹、貝川渚だけだった。

 渚は姉とは違い、明るく人懐こく正直者で、とにかく太陽の下が好きな女の子だった。休みの日になると父親と魚釣りや山登りに行き、周りの友達が話題にするようなテレビやファッション、男性アイドルグループの話にはついて行けなかった。姉と同じで、やはり渚も他人との勝ち負けに興味が無く、趣味らしい趣味も無い。姉と決定的に違うのは、そんな自分を虚無的だと彼女自身が思ってもいない事だった。あくまで自然体で自分だけの人生を謳歌する様は、周りが自分の悩み事すら馬鹿らしくなる程だった。

 渚は誰にでも好かれ、男女問わず僻まれるような事がほとんど無かった。それは歩が必死に努力し、画策し、構築している“ノンストレスの虚像”を、生まれながらにありのままに体現しているに等しい。『渚はお気楽で羨ましい』と思うこともあったし、幼いころは良く意地悪をして妹を困らせていたが、妹が苦しむ姿はまた自分が苦しむ一因であることに気がつくと、歩にとって渚は“優先度が高い物事”に変わっていったのだった。

 そして異能能力だ。貝川歩が高校一年の時、彼女は“ライブラリー”の能力に目覚めた。妹の立ち姿を見た瞬間、おはようの挨拶も侭ならぬまま、脳裏に刷り込まれるある予感……いや、予感と言うにはあまりにも実際的で、履歴書のように整然とした情報。妄想であるならそうあって欲しいと、彼女は願った。

(……渚が……男の子に……?)

 歩は眼鏡をクイっと上げ、眠気まなこの渚をまじまじと眺めた。不審に思った母親に「どうかしたの?」と訪ねられ、慌てて首を横に振る。

(……渚が男の子になるなんて、そんな馬鹿な事……でも、多分これは本当の事だ。そんな実感がある。まるでレントゲンでも見てるみたいに、渚が抱えている何かが見える! それが渚の異能者としての能力で……それが分かってしまったのは、これが私の能力だから……!)

 ……対面に座る渚も何気なく姉の違和感に気づいていた。が、喋るべきことは喋るし、喋るべきで無い事は絶対に喋らない姉に、あえて何かを尋ねるような事はしなかった。

 歩は震える手でシリアルを機械的に口に運びながら、こう考えた。

(男性化なんて異能能力に目覚めたら……いや、発症と言うべきかしら。渚はきっと、普通に生きていけない。猫みたいに自由気ままに生きてきたこの子が、突然周りの人間に気味悪がられ、遠ざけられるなんて……そんなストレスに耐えられる人生を、妹は生きてこなかった。ねじ曲がっちゃうわ、きっと。私の渚が渚じゃ無くなるなんて、そんなの……私は容認しないわ)

 迫り来る巨大なストレスを恐れ、歩の静かな戦いは始まった。


 彼女が最初にやろうとした事は、他の異能者の意見を聞くことだった。とにかく同じ悩みを抱えた人間を捕まえ、上手いやり方があるのなら知りたい。知識や処世術の殆どを読書で得ていた歩は、この世に未だ一冊として記されていないであろう知恵を他人に求めるしかなかったのだった。

 通学路や電車で同世代の人間を見つける度、クイっと眼鏡を上げ、意識的に相手を覗いてみる。一日に二、三人ぐらいは素質を持った人間が見つかり、その度に歩はこっそり後をつけ、人気の少ない場所で声をかける。

 反応は大別して三通り。一つは知らんぷり。自分は異能者なんかじゃないと突っぱねる事が殆どで、自身の日常生活を守るためには至極真っ当な反応だった。もう一つは拒絶。必死に押し殺し、ひた隠しにしていたはずの秘密を、突然赤の他人に覗き見られた恐怖と混乱と怒り。実際、逆上した異能者に殴られた事もあった。彼女は這々の体で逃げ出した後、熱い頬を擦りながら、コンビニのトイレで深い溜め息をついた。

 そして三つ目。素直に異能者同士の邂逅を喜ぶ人間も、悪く無い確率で存在した。誰かに悩みを打ち明けたいというのもまた、異能者としての本質だ。ただし、歩にとってはそういう人間達から得られるものはあまり多く無かった。彼らは歩に対して「助けてほしい」と懇願するだけで、歩が望むような解答を持ち合わせてはいないからだ。

 が、少なくとも拒絶されるよりはマシで、彼女はそう言った孤独な異能者を細々と集め続け、お互いの近況や意見交換に努めた。しばらくすると彼女を中心とした内々なコミュニティはメールやコミュニケーションアプリでは手狭となり、かと言ってオープンなSNSで大々的にやりとりをするわけにもいかない。技術者を募り、歩のネットワークを母体にSNSという形に姿を変えたのが“イノー”の始まりだ。

 歩は活動の最初期から徹底して自分の本名を名乗っておらず、万が一の際に疑わしき火種は少なくあるべきという考えから、会員にもそれを推奨していた。イノーの管理人は偽名を使った歩自身でありつつも、歩個人の意見はどこにも無い。言うなればそれは、イノーが円滑に運営を続けられるための最終決定権を持った架空の人物で、歩自身は決して口を出そうとはしなかった。というより、興味が沸かなかった。管理者権限を用いてイノー内の会話を眺めては、まるで自由研究で作ったアリの巣を眺めているようだと、どこか無関心な気持ちを拭えずにいた。

 何かの役には立つのかもしれない。そう思いつつも、結果的に彼女はイノーという存在に何の意義も見いだせずに居た。


 ある日、渚はこんな風に歩に尋ねた。

「……お姉ちゃん、もし私が私じゃなくなっても、妹だって認めてくれる?」

 ぎくり、と背中に電流のようなものが走る感覚。

 ついに渚が自身の変質に気づき始めた。すぐそこまで妹の症状は進行しているのだ。

 それもそのはず。女の子にしてはサバサバした性格で見た目も中性的な渚だったが、ここ数日の彼女の骨格はあからさまに以前と違い、少女か少年か、一瞥の下には分からなくなっていた。歩は自身の“ライブラリー”で最終的に彼女がどうなるか分かっていた。女性にあるまじき変声期を迎え、生理は止まり、胸は萎み、男性器が生えてくる。歩は渚の第二の人生が醜いとは思わない。男っぽい女の子が女っぽい男の子に変わるだけだし、彼女の端正な顔立ちは変わらない。でも渚を認めてくれるのはごく一部の理解者だけで、被差別対象である事に変わりはない。水泳の授業があった時、彼女はどこでどんな水着に着替えればいい? 明らかに女性とは異なる体つきを見て、クラスの女子たちは全員が渚を「能力だから仕方ない」と認めるだろうか?

 何より渚自身が耐えられない。彼女は自分をこう思う事だろう。私は男でも女でもない。異能者というマイノリティの中でも更に異質で有り得ざる存在。娘失格。妹失格。人間失格のバケモノ……!

 歩は珍しく自分が自分の感情を制御しきれていない事に気がついた。得体の知れない苛立ちと不安が、体の底から沸き上がってくる。イノー内で交わされる会話を眺めながら、歩はどんどん毒々しい気分になっていった。“こんな事があって傷ついた”という愚痴に対し、傷を舐めるように慰め合う同志たち。まるで社会の落伍者が集まって、一時の現実逃避に自己満足を覚えているだけ。不幸がオカズの自慰行為。少なくとも、今の歩の目にはそうとしか映らなかった。

(何で私達が逃げなきゃいけないの? マイノリティが悪なの? 異質なものを排除するのが人間の本質なら……私達を排除しようとする事は正しい事? 正義って何? 社会って何? 叩き潰せる尊厳は叩き潰して済ませる……それが結局、人間の本性って事? そんなものが人間の集まりなの……?

 ……いえ、そうね。それは当たり前の事だわ。私が苛立ってるのは私が未熟な子供だから。私が訴えている正義なんてのは所詮子供の駄々で……窮鼠だって猫に理なんて求めない。この世に正義も悪も無い。あるのはただのパワーバランス。だったら、もっと知恵を使わなければ。能力を使わなければ! 採算が合うなら暴力だって……!)

 その次の日から、歩はしばらく休んでいた例の能力者探しを、もう一度再開する事にした。ゲーセン、カフェ、スポーツ大会、学習塾、お祭り、映画館、ライブハウス。十代が集まるような場所を徹底的に調査し、有能な能力者をマークし、情報収集する。この頃になると彼女の“ライブラリー”は鋭敏さを増し、異能者の能力の“影響力”のようなものを数値化する事が出来た。

 例えばライター程度の火を出せる者は影響力1。バーナーなら2。一日で山を丸裸に出来る程の能力者なら4。核爆発と同じ火力を発揮出来るものが現実に居れば、影響力10なんて人間も居るかもしれない。傾向としては、現実で何かしらの優秀な成績を収める人間は能力の影響力も高く、異能能力が何らかの生物学的な根拠に基づいたものだ、というのが歩自身の見解だ。高校球児で言えば、ベンチウォーマーよりはエースで四番の方が、やはり異能能力は優れたものが比較的多い。

 歩が探していたのは高い影響力……つまり、高度な能力を持った人間だった。それでどうしたい、という明確な目標は無かったが、そういった人間を見つける事が出来るのは自分だけで、とにかくそうせずには居られなかった。私達には一体何が出来るんだろう? 社会に隷属するべきか、あるいは主張すべきか。異能者にはどんな可能性があるのか、なんの役にも立たない嫌われ者なのか。

 探し続けて一ヶ月。いつもの通り徒労に終わりつつある休日の最後の仕上げとして、彼女自身としてはあまり気乗りしていなかった場所に、目的の人物はいた。

 朦朧とした意識は、決してライブハウスの爆音のせいではない。眼鏡越しに映るステージ上の冴えない少女は、お世辞にも上手いとは言えないダンスと怪しい音程の歌声を恥ずかしげも無く披露し、観客を熱狂させていた。ただの光、ただの音。それが紛れもなく至福の幻想を構築し、歩の全神経を揺さぶり、高揚を促す。影響力は……13! 他人の人生や価値観を変える異能者の“プリンセス”が目の前に現れ、歩は思わず震え上がった。溢れる涙が汗と混じり、顔面がぐちゃぐちゃになっていた。汗塗れの中年にもみくちゃにされても、潔癖な歩がそんな事を一切気にしないほど、彼女はステージ上の希望に夢中になったのだった。

 それは、歩の“優先順位”が変わった瞬間だった。イノーを始めとした全ての活動は異能者たちの為。でもそれより優先すべきは渚の為。更にそれよりも上位の存在は、歩本人以外に有り得なかったのである。貝川歩は初めて自分よりも優先すべき存在が目の前に現れ、自分という檻から抜け出す事が出来たのだった。まるで生まれ変わったような解放感と充実感に、歩は震え上がった。

 ライブが終わり、へとへとになりながら屋外に出る。ぐるぐる整理の付かない考えが膨らみ、自分が歩むべき道が自ずと広がっていく。ビジョンに思考が追いつかない。眼鏡をどこかで落としたことに気づいたが、それより何よりパンク寸前の心に一息つけたい。ぼやける視界の中、カバンから財布を取り出し、自販機にお金を入れミネラルウォーターのスイッチを押す。もやもやした気持ちが自販機に対してせっかちになるが、待てど暮せど商品は出て来ない。あまりの混乱にお金を入れ忘れていた? 思い返してみても、やっぱりそんなはずは無いと首を傾げる。

「この自販機ねー、なんかお金引っ掛かんのよね。中で」

 と、背後から声。歩が振り向くと、そこには学生服風の衣装に身を纏った、同い年ぐらいの少女がいた。スカートの中が見えようが見えまいが、気にも留めないといった様子で自販機を蹴り飛ばす。ようやく自販機が自身のあるべき機能を果たそうと購入ボタンを全て点灯させると、少女は、へへへ、と軽く笑った。

 よく見ればそれは、先程ライブで“プリンセス”の隣で踊っていた少女だった。はっきり言って歩の眼中に彼女は居なかったが、近くまで来てようやくその少女も異能者だと気づいた。

「……ありがとうございます。さっきのライブ、とても良かったです」

 と、歩は今度こそミネラルウォーターの購入ボタンを押し、商品を取り出す。

「あっそ。でも良かったのってアタシじゃないんでしょ、どーせ」

「いえ。みんな良かったです」

 歩が言うと、露骨に怪訝な顔を浮かべる少女。

「みんな? アタシときららの二人しか踊ってないのに“みんな”だなんてオカシクない? 酔っ払ってんの?」

 そう言えば、何人で踊っていたっけ、と歩は改めて考え直す。言われてみれば確かに二人だった気もするが、すぐにどうでも良くなった。“きらら”という名前を大脳皮質に丁寧に刻み込む方が、彼女にとって大事な事だった。

「酔っ払ってはいません。あなたのお名前も覚えておきます。自販機キックさん」

 歩は尋ねながらクイッと眼鏡を上げ、目の前の少女の能力を分析した。

「アタシの名前は佐渡聖子。大淀きららのついでで良いんで、覚えといてくださーい。よろしくお願いしまーす」

 やる気の無い声で自己紹介しながら、聖子は緑茶を買い、ポケットからペチャンコに潰れたおはぎを取り出して頬張り始めるのだった。ちらり、と歩の方に目配せし、気のない視線を送ると、再びライブハウスの中へと歩みを進める。

(佐渡聖子……“引力”の能力、か。所謂、サイコキネシスってやつね。影響力は……1にも満たない。毛虫だって動かせないような能力を、わざわざマークする必要は無いわ。いくらダンスが上手くったって、私の人生には関係ない。上手いかどうか見てなかったけど)

 引力の能力。歩は聖子をそう断定し、ひょこひょこと歩く彼女の後ろ姿を眺めるのだった。

(それよりきらら。大淀きらら! 遂に見つけた私の人生。異能者の光! 彼女の事をもっと知りたい。彼女こそ私が探し求めていた異能者そのもの……!)

 熱狂は一日冷めやらず、夜は一切寝つけず、いつの間にやら次の日になると、彼女は人生で初めての遅刻をした。


 大淀きららに近づくのは歩にとって非常に容易い事だった。きららはイノーの会員登録を済ませており、アカウント情報が自分の手元にある事に彼女は気がついた。アカウントには偽名が登録してあったが、登録用のメールアドレスが実名をローマ字に変えただけのものだった。ただのきららファンかもしれないが、それならそれで得られるものはある。プリンセスに関する情報なら何でも構わない、と彼女は思った。実際にログを追い、文章の内容から紛れも無い本人だと察すると、歩は大淀きららと直接コミュニケーションを取れるという高揚感に、脳天を貫かれるような衝撃を受けた。同時に、プリンセスのセキュリティの甘さも嘆いたのだが。

 きららはその頃、自身のカリスマ性から生じる周りからの一方的な愛情にうんざりしていた。愛され過ぎて日常生活もままならない。電車にも乗れない。学校にも行けない。そんな悩みをイノーで投稿しても、当然周りの反応はつれない。ただ一言“幸せそうで良かったですね”とリプライがついたきり、同志ばかり居るはずの空間で更なる孤独を味わうハメになる。歩は考えた。『あなたのファンなんです!』と言っても、きららの悩みが一つ増えるだけでまともに取り合っては貰えないだろう。あくまで第三者として、同じ異能者としての苦しみに共感したフリをしてきららに近づく事が正しいと、彼女は判断した。

 場所は市内のとある外資系コーヒーチェーン店で、汐摩市で一番広いショッピングモールの南棟八階にあった。場所なんてどこでも良かったが、出来るだけ見晴らしのいい場所の方が、物事を俯瞰で語れる様な気がした。昨日食べた味噌汁が濃かったとか薄かったとか、そんな話がしたい訳じゃない。私がしたい話は、今までの十年、そしてこれからの十年。と、歩は思った。

 きららは眼鏡とマスクを着用してやって来たが、隙間から覗く蠱惑的な魔力を帯びた瞳は、紛れも無いプリンセスその人だと分かる。高鳴る心臓を落ち着かせるため、歩は二、三度深呼吸をした。

「姫金魚です」

「クロブチです」

 二人は自分達のハンドルネームで、それぞれ挨拶を交わす。実に自然なオフでの挨拶に、クロブチこと歩は満足した。

 歩はしばらく自分の目的を忘れ、会って間もない人間同士にありふれた挨拶代わりの世間会話に興じた。会話と言うものがただそれだけで楽しいものだと気付いたのは初めての事で、それは歩にとってまさに至福の時だった。エグいコーヒーの香り、虚飾に塗れたショッピングモール、地獄のような休日の人混み……貝川歩という人間の思想の中で忌むべきもの達が、この空間を、体験を、全てを祝福しているように思えた。

「どこか遠くに行きたいんです。私の事なんて誰も気に止めない、遠い外国かどっか……」

 当たり障りの無い会話からいよいよ異能者の話に踏み込む二人。きららはゆっくり、切実に、自分の気持ちを吐露し始めた。

「自分が努力して、震えながらステージに立って、頑張った分だけ神様に認められればそれでいいのに。誰も私の歌やダンスを見てない。ヘタクソって言ってくれない。みんな私じゃない何かを見てて、勝手に狂ってる……みんなの応援に何の実感も沸かない。常軌を逸したみんなの反応に、私の人生が形の無い夢みたいに思えてくるんです。そのくせ、怖い。重い罪悪感が莫大な借金みたいにのしかかって来て……そしてそれを払う日が来るようで」

 その一言一言が胸に突き刺さった。歩は今すぐ目の前で心を痛める彼女に飛びついて、全身の骨が砕ける程強く抱きしめたい衝動に駆られた。それをしなかったのは人前だからでもきららが嫌がるからでもない。きららに対する不遜は誰であろうと許せないからだ――例えそれが貝川歩自身であろうとも。

「悲劇でありますね」

 と、歩は一言。自分の敬語が少しおかしな感じがした。今の自分はネジが少し外れているのかも知れない。あるいはそれが本当の私だったのかも……。

「実の無い、味気ない勝利を良しとしないのは、チート行為に虚しさを感じるゲーマーそのものであります。そして他人を巻き込んだチート行為は犯罪ですが、プリ……姫金魚さんが感じているのは、そういう罪悪感なんでしょう。でもそれは借金じゃない。

 異能者がまともな価値観や精神状態を維持するのは難しい事です。“借り”があるとすれば、それは能力に胡座をかいた者の堕落そのものです。でもあなたが感じている罪悪感は、まだあなたが感じ清く正しい証拠でもあります。何も心配する必要はありませんよ」

 歩の言葉に、きららはほんの少しだけ微笑んだ。

「プリ……姫金魚さん。私の悩みを聞いて貰えますか?」

「もちろん! そのために来たんだよ」

 大淀きららの気弱そうな、それでも愛情深げなスマイルに、歩は失神しそうになった。

「先日お話した通り、私の妹は異能者なのです。徐々に変態していき、今は半分弟ですが。妹に自身の居場所はありません。彼女自身も自分が分からない。それは永遠に逃れる事の出来ない異質の檻。痛み多き轍に乗せられてしまった罪無き慰み者。許せますか? 自分は許せません。そしてそう思っている異能者はこの世に沢山います」

「分かります。クロブチさんの気持ちも、妹さんの気持ちも」

 しょげた歩を必死に鼓舞しようとするきらら。が、そんなきららの気持ちを受けて、彼女が腹の中で童話の狼の様にヨダレを垂らして破顔している事を、きららは知らなかった。

「姫金魚さん。どこか遠くに行きたいって仰ったのは本心ですか?」

 歩の言葉に、きららは戸惑った。

「え……?」

「外国に行きたいって。私は確かにそう聞きました。そしてあなたの力があれば、それはきっと叶う。計画さえすれば」

「……旅行計画?」

「建国計画であります。異能者だけを集めて、革命を起こすのです。あなたにはその資格がある」

 歩の言葉に呆気にとられ、きららは吹き出した。

「そんな事……不可能だよ」

「可能ですとも! 私達が利益になれば、連中だって私達を見逃さない。異能者としての能力をビジネスにすればよろしいのであります」

「それは建国じゃなくて、会社設立だよ」

「それじゃ駄目なんです。駄目でありますよ! 大淀きらら! あなたはきっと自分を卑下している。人が対等という虚像に巻き込まれ、プリンセスがプリンセスたる扱いを受けていない。それが私には許せない! だから建国なのです! 『初めに神は天地を創造された』と聖書にもあるではありませんか」

「どうして私の名前を!?」

 歩は自分の犯したミスに気づきもしなかった。

「分かっているはずです。ええ、分かっていますとも! あなたの肢体に群がる虫どもを一掃する唯一の方法という事が、私には分かっているのであります! 悪を浄化するのです! でないとあなたはご自身のストレスに押し潰されて死んでしまう。あなたに会社なんて犬小屋は似合わない!」

「異能者の話は!?」

「最悪どうでも良いです! 私にとっての問題は、やはりそこじゃない! 大淀きららのスバラシさを傷つけたくない。否、傷つけさせない! 最優先事項はそこであります。何故だか理由は分かりますか?」

「……」

「光です! あなたは光なのですよ、プリンセスきらら。私や異能者達にとっての、光であります!」

 本性が剥き出しになった歩を見て、きららはぞっとした。この人はひょっとすると理解者になってくれるのかも……と、きららは思っていた。あるいはそう信じたかった。でも実際はタチが悪過ぎて、『そんな馬鹿な』と俄に信じられないようなヤバいやつ。“きららに纏わりつく虫ども”と彼女は言ったが、その言葉を引用するなら、この貝川歩こそはまさに虫達の王だった。きららがそう気付いた時にはもう、歩から溢れ出る邪悪なマグマはすぐそこまで迫ってきていた。

「……か、帰ります! 今日はどうもありがとう!」

 きららは慌てて立ち上がり、カフェを飛び出した。彼女は店から二、三歩歩いたところで引き返し、震える手で財布を取り出すと、歩の目の前に千円札を差し出す。

「これっきりです! もう私に近づかないで!」

 きららはそう言い捨てて、やはり慌てて店を飛び出すのだった。

 歩は取り憑かれた様に夢中になっており、自分が喋った事も、目の前で起こった事もよく理解出来なかった。ただ最後にきららが言い捨てた『もう私に近づかないで!』という言葉だけが、彼女の鼓膜に突き刺さり、甚大なダメージを与えた。それも精神的ショックではない。まごう事無き物理的なショックだった……と、歩は今でもそう信じている。

 体の中からごっそりと何かを奪われたようにバランスを崩し、歩はそのまま床に転がった。他の客が何事かと彼女の方を見ていたが、やがて店員が駆け寄ると、歩ははっとして、スイッチを入れたように立ち上がり、ご心配無く、と呟いた。

 震える手でカップを持ち、中身を零しながら一口啜る。口の中に広がるのはコーヒーのエグい味と臭い。改めてガラス越しに町を見下ろすと、自分はこんな下らない場所に住んでいたのか、と歩は感じた。そしてこれから、こんな下らない場所に帰らなければいけない。今日感じた輝きを胸に仕舞い込み、何年も、何十年も、今まで通り自分を偽って、ただただ毎日を疲れながら生きる。出来るだけ、可能な限り、ノンストレスな環境を構築し、大した喜びも痛みも無く、全てに鈍感になり、磨耗し、老いさらばえていく。

「……こんな恐ろしい事無いわ……私にはきららが……必要です……大淀きらら……プリンセス……建国……」

 隣に居た二人の客がちらりと歩の方を見て失笑したが、歩には聞こえすらしなかった。

 テーブルの上からはらりと何かが落ち、ぎょっとする。歩は慌ててそれを拾い上げ、ぎゅっと胸に抱きしめた。大淀きららの残した聖なる千円札は、彼女にとって今この世で最も大事な物質に違い無いのだった。

 歩は朧気だった自身のビジョンを油絵のように濃厚に描き出していく。

 貝川歩の天地創造。

 その価値は、もはや彼女にとって人の命よりも重かった。

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