13 熱血VS鉄血

 “消しゴムツール”は左右あてらに気づかなかった。それは、左右が自らの能力によって姿を消し、酒屋物語から脱出した後も、絶え間なく建物が攻撃され続けていた事が証明していた。壁がスカスカにされつつも、梁や骨組みが嫌な音で軋みつつも、ネズミのようにあちこち逃げ回る聖子をうっとおしく思いつつも、左右さえ無事だったら希望は繋がる。僕はひとまずホッとしていた。

 もちろんいよいよという時は、僕たちはここから脱出しなければならない。でも、今すぐそれをしてしまえば、左右の作戦と決意を無駄にしてしまうだろう。彼女がひとっ走りの“おつかい”を済ませて帰ってくるまで、僕たちはこの建物から出るわけにはいかないのだ。彼女はオフェンス、僕たちはディフェンス。どちらかが責任を果たさなかった場合、結果的にチームは破綻し、僕たちは全滅する。

 やばくね? ねえ、やばくねえ? 逃げない? 逃げたほうが良くない? もう無理だって。そろそろ逃げよう! と、ノノは甲高い声でピーピー喚いていたが、僕は頑なに彼女の言葉を拒否し、身勝手な遁走を阻止していた。ノノが自分で危険に身を晒すのは勝手だ。ノノが危険に晒されれば、鷹取も彼女の後を追いかけるだろう。僕は二人を救うために彼女たちを追いかけるかもしれないし、あるいは見過ごすかもしれない。そして、建物から炙り出された獲物が二人か三人殺される。それぞれの身勝手の結果、ハッピーエンドとは程遠い状況に陥ってしまうのなら、そうならないために戦おうとしている左右はとても悲しんでしまう。そんなのは許されない事だし、あってはならない裏切りだ。僕はなんとしてでもこの場にいる全員を生還させて、左右に『お帰り』と言ってやらなくちゃならない。そして左右には、僕達のために『ただいま』と言って聞かせてほしい。

 恐怖に駆られ、あわや建物から飛び出そうとした聖子の首根っこを掴み、僕は強くそう思うのだった。


 一方、左右は闇夜に乗じ、予測される攻撃方向とソナー音を頼りに消しゴムツールを探す。しかし、実際のところ“探す”と言う言葉は到底そぐわない程に、彼女はあっさりと標的を見つける事に成功したのだった。

 一際高い、古臭く無骨な八階建てビルの屋上で、敵はほんの少し身を乗り出し、双眼鏡を構えてじっと酒屋物語を見つめていた。左右はむき出しの眼球を敵の方へ凝らす。敵は左右より二つか三つほど年下らしく、ぱっと見は無害な爽やかスポーツ少年。異能者やスバラシ会と全く無関係の世界の住人にしか見えず、とても自分達の命を奪おうとしているとは思えない。

(人違い……?)

 と、左右の脳裏に過ぎった瞬間、少年はおもむろに人差し指を立てた。すると、ぽーーーーん、というあの忌々しいソナー音が町中に反響する。続けて、人差し指をぐっと握りしめる。瞬間、破壊音が響き、数秒のディレイの後、爆風は左右の髪を靡かせるのだった。

(……やっぱり、あの子だ! “消しゴムツール”って、あの子の事なんだ。じゃあ、あんな子が私達を殺そうと……私と殺し合いになるかもしれないんだ)

 左右は思った。

 が、それ以上は何も考えなかった。

 戦いを前に、彼女は自分の精神を驚くほど静かに保つ事が出来た。ピアニスト時代に何度も何度もたった一人で舞台に立ち続けた経験が活きているのかも知れない。『生きた心地がしない』状況なんて、今日に始まった事じゃない。一体、コンクールと何が違うんだろう? と、左右は思った。自分の命の危険はもちろん、相手の命だって奪いかねない状況。でも、他人の夢や希望を打ち砕いた事だったら何度もある。例えそれが“命より大事なもの”だったとしても。

 左右が勝利すれば、誰かが敗北する。

 誰かが勝利すれば、左右が敗北する。

 ただそれだけが全ての瞬間があって、それは今なんだ、と彼女は覚悟した。

 左右はビルの前に立つと、透明化を解除し、そっと壁に手を添える。やがて、自分の右手をずぶずぶと壁にめり込ませると、ぐい、と力を込めて壁を這い上がった。壁のごく一部を手で貫けるぐらい柔らかい材質に変化させ、そこを手がかり足がかりに、彼女はビルの壁面をよじ登って行った。

 音も無く、ゆっくりと、相手の予想もしない場所から襲い掛かる左右。敵が死神の気配に気が付いた時には、彼女は既に相手の喉元に手を伸ばし、王手を打つ。頸動脈を流れる血液を固形物に変え、ほんの数秒ほど脳へのライフラインを堰き止めるだけで、勝利は容易く左右の手の中に落ちる。それで全ては終わりだ。命を奪う必要すら無い。

 この戦いにおいて、左右の勝利はほとんど約束されていた。少なくとも、彼女には自信があった。運命が変な悪戯をし、敵が何かの気まぐれを起こしてビルの壁面を覗き込まない限り、失敗する要素は無い。そして、一歩一歩と敵に近づき、その表情が顕になるにつれ、彼女の自信は確信へと変わっていくのだった。

 少年は怯えていた。真っ青で、とことんまで追い詰められ、今にも泣き出しそうな顔つき。明らかに自分がやっている事の恐ろしさに耐えかねている様子で、左右が手をかけるまでも無く、放っておけば勝手に気絶しそうにさえ思える。そんな状態で、まさか誰かが壁面をよじ登って来ている事など、気づくはずも無い。

「……ううう……くっ!」

 少年の右手の人差し指から、ソナー音が鳴る。目と鼻の距離で聞くソナー音のけたたましさに、左右は思わず顔を歪めた。

「大淀……万歳!」

 と、掛け声と同時に消しゴムツールが拳を握とうとした、その瞬間……

「うげっ……!?」

 左右は勢い良く身を乗り出し、少年の首根っこをしっかりと捉えた。彼女はふと、初めてコンクールのトロフィーを掴んだ感触と、その勝利の愉悦を思い出す。

 ……が、彼女の作戦が上手く行ったのは、そこまでだった。

 屋上の全貌を目の当たりにし、思わず目を白黒させ、彼女は自らの思慮の足りなさに気がついた。コンクールなんかとは全然違うという事に、もっと早くに気がつくべきだったのだ。

(……いっつもそうだ! どうして私って、肝心なところで抜けてるんだろう!)

 左右が消しゴムツールの首根っこを掴んだ瞬間、消しゴムツール本人を含め、屋上にいた三人の能力者の視線が一斉に彼女の方に向けられる。死角からの不意打ちに彼らは面食らってはいたが、自信という心の支柱が外れてしまった左右の驚愕は更に大きいものだった。

「こいつ……左右……か!? 左右あてながどうして……!?」

 敵の誰かがそう叫んだが、彼女の耳には届かなかった。

(三対一で戦う……? い、いや、無理! 絶対に無理! それだけは絶対に、駄目! じゃあどうする? この子だけを失神させてすぐに逃げる? 私が逃げた後、すぐに叩き起こされたら意味が無いんじゃ? いや……いっそのこと……私の爪を刃物にして、この首筋を一思いに掻き切ってしまえば……!)

 混乱のどさくさに生じた悪魔の囁きに、左右は思わず震え上がり、ほんの一瞬躊躇した。間髪入れず、敵の一人が腰に携えた刀に手をかけ、左右の方に走り出す。少年とさほど年齢が変わらないようで、顔つきも似ていたが……どこか陰鬱で厭世的な雰囲気な少女。彼女に躊躇は無い。虫ケラを叩き潰すように、淀みなく、真っ直ぐとした殺意で自分の命を奪いに来ている事を、左右は確信するのだった。

(逃げないと……!)

 左右は少年の首根っこを掴んだまま、自分の足元をどろどろに液状化させた。体の支えを失った左右は、ぐらり、と重力に引かれるまま全身を傾かせ、少年ともども真っ逆さまにビルから転落した。少年は男らしさのかけらも無く、あるいは年相応に、狂人めいた悲鳴を上げる。左右は落下に身を任せながら頭をフル回転させ、本能で取った行動の答え合わせをする。

(……これしか逃げ場は無かった……! 落下の直前に地面を液状化すれば死なない……よね。私の能力が落下速度より早く影響すれば……きっと出来る……出来るはず! 出来なきゃ死ぬだけ……! 絶対出来る、フランツ・リストの難曲よりずっと簡単だよ。出来るったら出来る……弾ける、私には弾ける……絶対に……!)

 ごうごうと耳元で騒ぐ風が、次第にピアノの高速パッセージに聞こえ始める。

 迫る地面は低音部の同音連打のように、激しく、凄まじい。

 左右は思わず、ごくり、と唾を飲み込んだ。

 激突まで一秒前。

 コンマ九秒。

 コンマ八秒。

 コンマ七秒。

 コンマ六秒。

 コンマ五秒。

 コンマ四秒。

 コンマ三。

 コンマ二。

 コンマ……。

 ぐしゃっ。

 左右の全身を高速で走る、稲妻のような衝撃。

 つま先から、膝から、腰、そして何から何まで、良く分からないまま取り返しのつかない事が起こった感覚。

 想像を絶する苦痛を感じたような気もするし、ただ自分とは関係ない何かが砕け散っただけのような気もする。隣町か、海の向こう、はたまた宇宙のどこかで、大爆発が起こったのかもしれない。手のひらを大きく広げて、無造作にピアノの鍵盤に叩きつけたような不協和音が耳元で鳴り響いた。

 骨は肉を突き破り、内臓は潰れ、舌を噛みちぎり、口元から温かいものが溢れ、視界が真っ赤に染まったと思いきや、すぐに真っ暗になる。

 やがてじわじわと全身を覆う、灼熱に燃える虫。

 四肢の先端から、全身に空いた無数の穴という穴を目掛けて、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫に覆い尽くされる。

 肉を食い破り、体液を啜り、魂までもを齧り始める。

 焦りも無く、怒りも無く、悲しみも無い。

 左右はただただ喪失感だけの塊になっていった。

 誰かの顔を思い出す。

 それは父親のような気もするし、聖子や乖田かいだかもしれない。

 ……失敗したんだ、と左右は思った。

 薄れる意識の中、やたらと熱い何かが目尻から溢れ出し……

 ふと、彼女は自分の脳裏に過ぎった人物の姿を、はっきりと思い出した。

 それは父でも友人でも無い。

 この全宇宙、あらゆる空間、あらゆる時間で頂点に君臨する、至高にして至上、原点にして永遠の天才芸術家。

 “音楽の父”こと、偉大なるヨハン・ゼバスティアン・バッハその人であった!

 マタイ受難曲の合唱が、空虚な左右の心を包み込む。

 ――来たれ左右よ! 我とともに嘆け!

 B・A・C・H!

 彼女は唱えた。

 B・A・C・Hが迎えに来てくれた!

 B・A・C・H!

 B・A・C・H!

 彼女は唱え続けた。

 彼女は熱狂し、消え行く魂をその四文字に委ね、風のコラールに空を舞い、やがて……。


「B・A……はっ!?」

 ……と、気がつけば彼女は、例のビルの屋上に倒れていた。

 最初に屋上を覗いた瞬間そのままに、自分の側には双眼鏡を持った少年が一人。少し離れた場所に刀を抜いた女の子ともう一人の敵……

(……夢?)

 と、彼女は思った。そうとしか思えなかった。

(……夢、だったの? 私てっきり、大バッハのところに逝っちゃったかと……!)

 彼女はまじまじと自分の両手を見つめ、しばらくの間放心状態になってしまった。

「……滅茶苦茶だ! あなたはバカですか!?」

 彼女から離れたところにいる二人の敵の内、刀を持った少女じゃない方……線が細く、どこか気障ったらしい男が、震える声でそう言った。男は二人の敵よりも少し年上で、左右と同じか、あるいはもっと上のようにも見えた。ただ、学生服を着ていたので高校生なのは間違い無い。

「死にたいんでしょ。さっさと殺そう」

 そう言うと、今一度、少女は鞘から抜刀した。吹きすさぶ風にばさばさと髪をはためかせながら、切っ先を左右に向ける。

 少年は臨死体験の衝撃から抜け出せず、ぼんやりと周りの様子を伺っており、まだ自分の置かれた状況が分かり兼ねている様子だった。

 左右は少年の襟口を引っ掴み、またもやビルの崖っぷちをどろどろに溶かす。

 容赦の無い重力がデジャビュとなって、二人の体を落下させる。

 途端に目を覚まし、声にならない声を漏らす少年。

 左右は考えた。

 さっきの夢が正夢にならないために、今度は落下の最中に能力を用いてビルの壁に片手と片足を突っ込む。地面に激突する前にブレーキをかけ、全身が打ち付けられても耐えれる程度に勢いを殺す。これなら少々ダメージを負うとしても、バッハやアマデウスに会いに行く事はない。

 ……ただし、左右の本懐は別のところにあった。

(さっきのが夢じゃなかったら、これも夢だったら……?)

 と、左右が考えるのも束の間、今度は地面に激突する事もなく、まるで映画のシーン切り替えのように、ぱっと二人は屋上に引き戻されるのだった。

「無駄ですよ」

 と、気障ったらしく学生服の男は言った。

 少女はまたまた、刀を鞘から引き抜く。

(……能力だ。そりゃ、そうだよね。あれだけのリアリティ……死ぬって、あんな感じなんだ。命を奪うって……あんな感じなんだ……!)

 サムライ少女はゆっくりと左右の方へと距離を詰める。彼女は間違いなく近接戦闘タイプ。ぶんぶん刀を振り回して、相手を斬り刻むのだろう。学生服の方は、時間を巻き戻す能力だろうか? そんな凄まじい能力があるなんて俄には信じられないが、左右は実際の自分の体験からそうとしか思えなかった。ビルからの落下が無かった事になったり、抜かれた刀が鞘に戻っていたり、全員の配置も巻き戻る前と全く同じで、ぐしゃぐしゃに潰れた肉体まで綺麗に元通り。お陰で命は助かったものの、時間という巨大な船の舵取りを敵に握られている以上、自分の理想の未来になんてたどり着けるはずがない。負けそうになったらリセットボタン。なんてずるい能力だろう……と、左右は思った。

 問題は、そのリセットボタンが何度押せるのか。きっと無限じゃないはずだ。無限だったら、そもそももう何をやっても無駄だ。

(有限だったとして……一体どう立ち回れば?)

 左右はにじり寄るサムライ少女を睨みつけながら、必死に考えた。考えつつも、抜け目なく少年の喉元に自分の刃の爪を宛てがっている。

「……メス豚。その汚れた手をマコリンの喉からどけろ。八つ裂きにするぞ」

 サムライ少女はぼそぼそと、しかし確実な殺意を籠めてそう呟く。

「……手をどけたら、八つ裂きにするのをやめてくれる?」

「手をどけて、素っ裸になって、土下座をして、菓子折り代わりに鷹取ココロの心臓を持ってきたら考える」

「ミカリン、もう、や、やめない? このままじゃ本当に誰か……死んじゃうよ?」

 少年……マコリンは震える声でそう言った。喉を掴む手に声帯の振動が伝わり、左右は急に『自分は今、命を掴んでるんだな』と改めて思った。

「マコリン。ごめんね。私もう許せない。リビジョンが居たから助かったけど……その女は、私のマコリンと心中しようとした。マコリンを殺そうとしただけじゃなく、“心中”しようとしたのよ……? それって、絶対私じゃない? どこの牧場のメス豚か分からない、そんな女じゃなくて、マコリンと一緒に生まれたミカリンじゃない? 双子として一緒に生まれて、一緒に死ぬ。完全一致の運命共同体。絶対絶命絶息絶頂ロマンティックだよ! ……ねえ、そうじゃない? マコリン」

「そうかもね。でも……」

「もっと強く肯定して」

「ミカリンの言うとおりだよ。絶対絶命絶息絶頂ロマンティックだよ」

「もっと強く!」

「ミカリンの運命は僕の運命で、ミカリンの人生は僕の人生。一分一秒のブレも無く同じ長さだけ一緒に生きて、そして死にたい」

「マコリンはミカリン! ミカリンはマコリン!」

「好きだよミカリン」

「ミカリンもマコリンの事、大好き! 結婚しよ!」

 からん、と刀を手元から落とすと、ミカリンは両手を組み合わせ、先程までのクールな振る舞いとは打って変わって、乙女のように体をくねらせるのだった。

 左右はぎょっとした。双子らしき二人の変態性にではなく、落ちた刀がまるで地面を鞘代わりに、すっぽりと鍔まで突き刺さっている事に。

 左右はノノが列挙した名前を思い出した。

 消しゴムツール、リビジョン……それに“斬鉄剣”。

 その名の如くあらゆるものを切断する事が、名前からも、そして目の前の事象からも容易に読み取れた。

 左右は『体を鋼鉄化すれば刀を受けきれるかも』なんていう期待はやめる事にした。絶対にあの刃に触ってはいけない、回避する事だけを考えなければならない。しかし、自分は達人じゃない。殺意を持って振り回される刀を、避けきれるワケがない。一体どうすれば……?

「ミカ、マコ。二人共、そろそろ現実を見なさい。双子で結婚出来るわけが無いでしょうが?」

 と、学生服の男……リビジョンは双子を窘める。

 斬鉄剣ことミカリンは、露骨に嫌そうな顔でリビジョンを睨みつけた。まるで同じ仲間とは思えない、心底から軽蔑を含んだ眼差し。

「……スバラシ会っぽくないんだけど、そういう考え。プリンセスは私達の事を受け入れてくれるし、新しい国なら私達は結婚できる。だから好き。マコリンと同じぐらい、きららが好き。リビジョン嫌い」

「そうですか! 私もミカの事は好ましくありませんね! でもプリンセスは絶対。それは共通認識のはずです。助けなくていいのですか? 大淀きららを!」

(助ける……?)

 左右は一瞬、考えた。

 彼女の人生をサポートする、という意味だろうか?

「分かってる。鷹取とノノを殺すか生け捕りにする。ユダどもを引きずり出す」

「やりなさい、ミカリン!」

 リビジョンが叫ぶや否や、ミカリンは地面に突き刺さった刀の柄を握りしめ、そのまま地面をバターのように切り裂きつつ、左右に向かって走った。

 左右は微動だにすること無く、マコリンの喉元から決して手を離さない。

「その手を離せって言ってんのよ……メス豚ッ……!」

 吐き捨てるような罵声と共に、地面ごと左右の体を真っ二つに斬り上げようとしたその瞬間……ミカリンは突然、その場から姿を消した。

「なっ! ミカ!?」

 リビジョンが叫ぶ。

 ミカリンが居た場所にぽっかりと穴が空いている。どんがらがっしゃん、と下のフロアから響く騒々しい物音。彼女は落とし穴に落ちたのだった。

 ミカリンが攻撃行動を取った際、左右はすでに地面の一部を脆い物質に変化させ、落とし穴を作っていた。最強の近接戦闘武器と真っ直ぐな殺意。バラエティ番組のドッキリよろしく、実に単純で馬鹿馬鹿しい罠だが、効果は覿面だった。

 続いて当初の計画通り、マコリンの頸動脈を流れる血液を固体化させると、少年は左右の腕を握り締めジタバタ藻掻いた。口元から泡を吹き出し、左右を憎らしげに睨みつける。彼は『もうどうなっても知らないぞ!』と言わんばかりに人差し指を立て……そして、握りしめた。

 破裂音とともに左右の右肩が吹き飛ぶ。血飛沫は数メートル離れた場所のリビジョンにまで届き、彼は女の子のような悲鳴をあげて後ろによろめく。

 焼け付くような激痛に左右は大粒の涙を零し……半狂乱になりながら、能力とは全く無関係に、マコリンの喉を締め続けるのだった。

 突然、左足が彼女の体から、ぽろっ、と外れた。

 もとい、下の階に落下したミカリンの斬鉄剣が、天井を豆腐のように切り裂きながら、左右の左足を太ももから切り離したのだ。

 甚大なるダメージは、更なる痛みを信号として肉体に訴えかける。右肩と左足に、死ぬ前に夢想したあの灼熱の虫。

 左右は歯を食いしばり、アドレナリンに全身を燃やしながら、敵の喉を締め続けた。マコリンはとっくにぐったりとしていて、死体かどうかも分からなかった。

「……わあああああ! うわあああああ! 痛い痛い痛い痛い! 痛いよぉぉぉぉぉお!」

 左右は絶叫した。

 リビジョンは汗だくになりながら、拳を握りしめ、状況を見極めようとする。が、鬼気迫る左右の表情と、もはや黒ずんですらいるマコリンの顔を眺め、堪えきれずに首を横に振るのだった。

「……も、戻れ!」


 全ては巻き戻り、新たな時間がまた始まった。

 激痛から開放された左右は、その余韻に思わずふらつく。

 抜刀し、駆け出すミカリン。

 今度は左右の行動を、マコリンが先んじる。彼は左右の手を振り払うと、間髪入れずに人差し指を立て、ぽーーーん、という爆音を辺りに響かせた。そして二、三歩後ずさる。

「チェックメイト! もう巻き戻りは要らない! そこを動くな、左右あてな! お前だけが死んでも、巻戻りは起こらないぞ! 僕が吹っ飛ばすのは、お前の脳みそのタンパク質だ! よくも……よくもやってくれたな! よくも僕を二度も殺してくれたな! お前なんか……お前なん……う、うわっ!?」

 左右は彼の言葉なんて聞こえなかったように、マコリンと距離を詰める。堪らずマコリンは拳を握りしめ、どうとでもなれと言わんばかりに爆破のスイッチを入れたが……

 左右の頭部は吹き飛ばなかった。彼女はほんの一瞬、自分の全身を違う物質に変化させ、ソナーの識別によるターゲットから逃れたのだった。

 理解の範疇を超えた出来事に、マコリンは慌ててもう一度指を立てようとしたが……左右は彼の右手をぎゅっと握りしめ、能力によってマコリンの肩口を脆い材質に変化させると、えいっ、と勢い良くもぎ取るのだった。

「あぎゃあああああ!」

「きゃぁぁぁぁぁ!?」

 まるで痛覚が連動しているかのように、ミカリンも絶叫する。

「も、戻れ!」


 と、時間はまた巻き戻る。

 マコリンは左右から後ずさり、やはりソナーを発動。

 ミカリンの抜刀。

「この豚ッ! 死ね!」

 彼女は振りかぶると、今度は左右に近づかず、なんと飛び道具として刀を投げつけた。“近距離攻撃しかない”という先入観が邪魔をして、とっさの回避行動を忘れる左右。刀は回転しながら、左右の頭を目掛けてまっすぐに飛んでいき……誰もが彼女の頭真っ二つにする未来を予想した。

 鋼鉄だろうとダイアだろうと、全てを切り裂くであろう斬鉄剣。

 左右はミカリンの髪がはためいているのを見て、何気なく疑問に考えていた。蒸し暑いほどの夏の夜。屋上は無風なはずなのに、どうしてあの子の髪だけがはためいているのだろう?

 “消しゴムツール”のマコリンと“斬鉄剣”のミカリン。異能能力に一体どんな生物学的根拠があるのかはさておき、同一の遺伝子に基づいた二人の能力は、ひょっとして同じルーツを持っているんじゃないだろうか? 特定の物質を爆破させるマコリンと、あらゆる物質を断絶させるミカリン。物質の結合を分断するという点で、彼らはきっと同じ能力なんじゃないか?

 詰まるところ、ミカリンの刃は鞘から抜かれたその時から、絶えず空気を断絶させていて、その小さな衝撃波が彼女自身の髪や衣服をはためかせていたのなら……

 彼女は直感的に回避方法を閃いた。即ち、自分自身を“気体”にする事。気体になれば刃が放つ風圧に流されるだけで、刃が直接左右自身を断絶させる事はない。

 ただし、これは大変な博打だった。気体化し、大気中に撹拌された自分の頭部が、果たして無事に元に戻るのだろうか?

 彼女の希望は、僕……つまり、乖田夕の右手の傷だった。ゾンビの牙が木となった僕の腕に大きな窪みを作っていたが、腕が元の肉体に戻った際、その傷は綺麗に消えていたのだ。

 だったら、物質を変質させて元に戻る際、本来の形への可逆性があるはずだ。左右の推論はもはや願望だったが、何よりそれを実行せざるを得ない状況だった。

 刹那、まるで首なしのお化けのように彼女の頭部は煙と化し、斬鉄剣は煙の中をすり抜け、明後日の方向へと飛んでいく。彼女の体はふらふらとバランスを崩してその場に崩れかけたが、煙は驚異的な凝集性を発揮すると、彼女の頭部を見事に再形成したのだった。元に戻った際、彼女は『また失敗したかも!』なんて考えたが……そう彼女が思考出来た時点で、作戦の成功を意味しているのだった。

「マジか。刀無くなった。リビジョン、戻せ。早く!」

 ミカリンは目の前の出来事を理解しようとする気もなく、リビジョンに怒鳴りつける。マコリンは駄目で元々、左右に“消しゴムツール”が通用しない事を知っていながら、再び拳を握ろうとするが……

 左右は標的を変え、今度は斬鉄剣を失ったミカリンに向かって走り出す。

「みっ……ミカリン!」

 “消しゴムツール”スイッチオン。

 左右の頭は吹き飛ばない。

 しかし、思わぬ衝撃に彼女はその場で転んでしまうのだった。

「痛っ!」

 マコリンは左右の肉体ではなく、彼女の身につけているスニーカーを爆破させた。あくまで爆風は物質が破壊された時の余波で、左右の肉体に決定的なダメージを与えたわけではなかった。が、足は酷く焼け爛れ、彼女の攻撃を一時中断させるのに十分な激痛を伴わせた。

 ミカリンの鋭い蹴りが、倒れた左右の顔面めがけて襲いかかる。

 彼女の能力は決して刀だけに適用されるわけではない。ありとあらゆる物質を“分子分解ウエポン”に変化させる事が出来るのだった。

 そして、彼女は自分の靴をウエポンに変え、左右の頭部を容赦なく削り取ろうとした。

 斬鉄キック!

 が、左右は左右で『きっと、そんなところだろうな』と考えていた。

 ミカリンの片足が地面にめり込み、バランスを崩した蹴り左右の顔面スレスレで宙を舞い、またもや落とし穴に落下していった。

「ま、また落とし……いっ!?」

 が、彼女が地面を完全に落ちきる前に、左右は能力を解除した。ミカリンがすっぽりと地面にめり込んだ瞬間を狙って、地面をコンクリートに戻し、彼女を身動き取れないように固定したのだ。これでさっきみたいに足元から奇襲を受ける恐れは無くなった。

「は、離せ……出せ! クソ! 出れない……! 豚! 豚豚豚!」

 負け惜しみのように罵倒するミカリン。そんなに太ってないし、と左右は思った。

 ……しかし、それどころじゃない。左右の行動には無茶があった。連続した能力の発現は、確実に彼女の体力を消耗していた。断続的になる意識、滲む視界。まるで丸一週間も眠っていないように、ほんの少し気を許せば気絶してしまいそうな睡魔。

 あと一度能力を使えば、きっとすぐにでもその場に昏倒するだろう。その事をマコリンに悟られれば、たった二回爆破のスイッチを押すだけで全ては終わってしまう。

 左右はリビジョンを睨んだ。

「なんですかあなたは……あなたの能力……まるで魔女……魔女だ! ……く、来るな!」

 リビジョンは叫ぶ。“巻き戻し”という無敵に近い能力だが、彼自身に戦闘能力は皆無で、その事は当の本人が百も承知。いざ自分が狙われれば、恐怖の津波に襲われるのだった。

「……かくごしらさい……!」

 しまった、と左右は思った。眠たすぎて呂律が回らない。

 マコリンは左右が限界な事に気がついたのか、あるいは気がついていないのか、再び人差し指を立ててソナー音を高らかに鳴らす。

 ふらつく足取りで、リビジョンに距離を詰める左右。

 リビジョンは、がしゃん、と背中をフェンスにぶつけ、その場に尻もちをつき、悪鬼の如き左右の表情を眺めると……思わず小便を漏らしてしまった。

 もう左右は能力を使えない。使ってリビジョンを倒したところで、気を失ったところを残りの二人に襲われれば、いとも容易く命を摘み取られてしまうだろう。

 博打。また博打だ。

 マコリンは果たして、左右の限界に気づいているのか? 気づいていないのか? リビジョンは?

 左右はリビジョンに肉薄し、彼の顔面目掛けて、ゆっくりと両手を伸ばす。

 マコリンが能力にスイッチを入れた瞬間……。


 ……時間は巻き戻った。

 はっとする双子。そして、左右。

 彼女の体力は、また元通りになった。

 バカな! と、マコリンは叫んだ。

「……バカだ、バカだよリビジョン! そいつもう、限界だったのに! もう少しでトドメを刺せたのに、どうして戻したんだ!?」

 マコリンの言葉に、思わず表情を引き攣らせるリビジョン。

「わ、私が死んだら元も子もありませんよ!」

「邪魔するなら帰れ」

「戻さなかったら怒る癖に!」

 三人の言い争いの中、ふと左右は気がついた。

 リビジョンの股間が、巻き戻る直前のようにぐっしょりと濡れている事に。

(……少なくとも、リビジョン自身は巻戻らない。という事は、彼にはダメージが蓄積する。自分の体が破壊されても巻き戻せないから……あんなに怖がってたんだ)

 今度は全員、迂闊に動くことはしなかった。

 左右の防御方法は、いくつかパターンがある。それをいかに消耗させるかが鍵だ、と双子は考えた。だが、もし自分たちのまだ見ていないパターンがあった場合、即ち、更に左右が有利に立ち回った場合、今度はリビジョンというウイークポイントを狙われるに違いない。実際、左右の立ち回りはどんどん効率的になっていて、正体不明の能力は無限の可能性を秘め、おまけにぞっとするような度胸と決断を見せつけてくる。

 それに……このリビジョンには、もう一つ決定的な弱点がある。

 その事に左右は気づいているのだろうか?

「……左右あてな!」

 リビジョンは叫んだ。

「どうしてあなたは、ノノの味方をするんです!? あなたたちが組んでいたなんて……私たちは知らなかった! 一体、いつの間に……!」

「乖田くん」

 と、左右は答える。

「なに?」

「乖田くんと私が避難した場所に、たまたまノノちゃんがいた」

「偶然なんて嫌い。全然ロマンティックじゃない。私は運命しか信じない」

 ミカリンの横槍は、全くもって意味不明だった。

 左右は手を後ろに組み、足元の小石を蹴飛ばした。

「……運命。確かに、運命かも。偶然にしては、出来すぎてるもん。私達がたまたま逃げ込んだ場所にノノちゃんと鷹取さんが居た。私が自分の能力を過信しすぎたために、うっかり大バッハのところに逝っちゃう寸前、リビジョンっていう能力者がたまたま敵に居たお陰で助かった。私が“消しゴムツール”の能力を無効化できる、恐らくはこの世でたった一つの能力を持っていた。偶然にしては出来すぎな運命の数々。そして……」

 ぼんやりと遠くの空を眺める左右。

 そして今、また運命が目の前を通り過ぎようとしている事に、マコリン、ミカリン、リビジョンの三人は気づいてなかった。

 これまで何度も巻き戻った時間。

 そのいずれにも、今こうして左右が眺めている夜空を、カラスの大群が横切った事なんて無かった。

 何度も巻き戻った時間なのに、今回だけカラスが横切った。言い換えれば、自分たち以外は巻き戻っていないという事。淡風島はこの屋上を除いて、時計の針が進んだだけ時間が進んでいる。

 左右は考えた。

(まるで対位法の譜面みたい。屋上の時間……そして、外の時間。別々の旋律、B・A・C・H! 大きな運命が、存在が、私をじっと見守ってくれている気がする……神様、見放さないで! 私まだまだ生きたい。生きたいんです!)

 プリンセスの鉄血を目の前に、まるで心臓が破ける程に、左右は熱血した。

 微かな肉体の震えが、恐怖と高揚を掻き立てる。

 ぽーーーん。

 という音を合図に、その場の全員が戦闘態勢を取った。

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