12 ノノの最善
ノノが鷹取の額に手を当てると、まるで電化製品のスイッチを入れたように、ぱちり、と彼女は目を覚ました。
「……鷹取。調子はどう?」
虚空を見つめる鷹取の瞳に光が宿る。
「おはよう、ノノ。問題無いわ」
驚く僕たちをよそに、鷹取は淡々とした様子で上体を起こすと、胡坐を組みながらミイラゾンビに噛まれたふくらはぎに視線をやった。内股から眺めたり、逆側から眺めたり、スカートの中がちらついても何の頓着も無い様子。傷はそれほど深く無いようで、既に血は止まっていた……くっきりついた歯型は痛そうだったけれども。
「ミート・パペット……」
聖子はノノに向かって、静かにそう言った。
「……まさかとは思うけど……あんた、その鷹取って奴……“受肉”させたの?」
腕組みしながら、ふん、とふんぞり返るノノ。
彼女は否定せず、悪びれた様子も無い。
「だって、それ以外救う方法なんて無いもん。殺人衝動に駆られる死人か、平和で従順な操り人形か。どっちが良いかなんて考えるまでも無いじゃん」
ノノの言葉を聞き、聖子は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「それは鷹取本人の意見?」
聖子の指摘に、ぎくり、とノノは身を強張らせる。
「……っ」
「永遠の安らぎと他人のオモチャ。どっちが良いか、ちゃんと鷹取ちゃんに聞いた? ん?」
もちろん、聖子は義憤に駆られてこんな事を言っているわけじゃない。小生意気なノノに対して主従関係をはっきりさせたいのか、あるいはただただ楽しくてやってるだけか。
ノノは下唇を噛み、後ろめたい様子で聖子から目を逸らす。
「……アンタ相変わらず嫌な奴ね!」
ノノは言った。苦虫を噛み潰した様な彼女の顔を見ると、自ずと事実は見えてくる。鷹取は彼女自身の意思とは無関係に、肉人形としてここに立っているのだろう。
「私はいつだってノノの味方よ」
と、鷹取は言ったが、その言葉はどこか空虚で、実感が伴っていなかった。能力の強制力による、言葉だけの意思表示。
「ふん……今のアンタはそう答えるけど、前のアンタは……」
そう言って、ノノは乱暴に壁に持たれると、大きな溜息をついた。振動で、壁棚にあった何本かの酒瓶の中身がゆらゆらと揺れる。
「……アンタは自分を呪われた人間だと、死ぬべき人間だと思っていた! それはこの病気(ネクロマンサー)以前からの願望で、アンタは自分の人生をさっさと終わらせたがっていた。
異能能力の神様ってのがいるなら、アンタの願望を叶えたんでしょーねっ。アンタが何で悩んでたのかは知らない。あたしはアンタの人生なんて知らないし、出会ってほんの二、三ヶ月の間柄だもん。でも、死んだ方が良いとは思わなかった。だってアンタは……」
ノノは鷹取を直視せず言葉を紡ぐ。キョロキョロと視線は定まらず、頬は僅かに紅潮していた。ノノの純粋な気持ちが垣間見えたが、彼女にとっては覗かれたく無いナイーブな部分なのだろう。
「アンタは……鷹取は、あたしを構ってくれる、数少ない人間だったから……友達だったから……どこにも行かせないわよ。あの世なんて、もっての外」
ノノはぼそぼそと独り言のようにそう呟いた。
ふぅーん、と声を漏らし、聖子は何気なく観葉植物の葉を撫でると、ぶちっと千切ってその場に投げ捨てる。葉っぱははらはらと無軌道に落下し、やがてただのゴミになった。
「という事は、紫電ノノの我儘で鷹取は生かされてるわけだ」
またまた、ぐさり、と聖子の嫌味が突き刺さる。ノノは歯を剥いて聖子を睨みつけるが、彼女の前に鷹取が立ち塞がり、視線はばっさり遮断されたのだった。
代わりに、今度は鷹取が聖子を睨みつける。
「何よ肉人形。何か文句あんの?」
「……」
「キレてんの? それとも、キレてる真似? 必死こいて人間の真似してるわけ?」
鷹取は何も言わず、聖子に向かって静かに拳を突き出すと、ぴん、と中指を立てた。
ファック・ユー、聖子。
彼女はそう言っている。
「プ。何それ」
これも鷹取の人間ごっこ――相手を挑発する“真似事”だと思えば、聖子が鼻で笑うのも頷ける。
くるり、と鷹取はノノの方を振り返った。
「あいつの言う事なんて気にする事は無いわ、ノノ。私は自分の意思で生きている」
「うっさい……うっさいわよ! 死んでんのよ、アンタは! あの嫌味女の言う通り、全てはあたしの我が侭よっ!」
鷹取はそっとノノに近づき、彼女の手を取った。ぎゅっと両手で握りしめ、自分の胸に宛がう。
「体温はあるし、心臓も動いている」
「……でも、死んでんのよ、アンタは……」
そう言いつつも、鷹取の気遣いを嬉しく思ったのだろう。ノノは珍しく、優し気な表情を浮かべた。獰猛な小動物の、ほんの一瞬の休憩時間。鷹取があの世に行った暁には、彼女はもう二度とこんな顔をしなくなるのかも知れない。
が、今日この場にいる獰猛な生き物は一匹じゃない。聖子の目には二人のやりとりが完全に“友情ごっこ”に映っているらしく、ぶち壊してやりたいという悪魔的性質がありありと表情に張り付いているのだった。
「自慰行為ね、まるで」
聖子は言った。無視するノノの代わりに、
「鷹取ココロに詰まっているのは、牛の臓物? ハツで動いてるの?」
聖子の質問に、ノノは首を横に振った。
「違ぇーわよ。正真正銘、鷹取ココロのハラワタよ」
からかい半分だった聖子の顔に、ほんの少し驚きが混じる。
「へえ。つまり、人間はそもそも血肉の詰まった人形、と。ノノちゃんの能力の定義ではそういうワケ? この世のありとあらゆる糞袋を操れるってワケ?」
ノノはまた首を横に振る。
「基本的には無理。ゾンビ化した魂の無い肉体だから乗っ取りやすかった」
魂、という存在がこの世にあるかどうかはさておき、異能能力に関与する概念として、そういったものがあるのかもしれない。既存の物理法則を無視した力を引き起こす何かが。
「……でも、それだけじゃやっぱり上手くいかなかった。いかないだろうな、とは思ってたんだけどね。そのための最終手段は用意してたし、あたしはやると決めたらやるんだから」
「どーいう意味よ?」
ノノの要領を得ない回答に、露骨にイラつく聖子。ノノも彼女のそんな様子に気づいていたのが、ここぞとばかりに得意げな笑みを浮かべ、話の主導権を握っている事に満足するのだった。
「ふふん。知りたい?」
聖子の目尻が引き攣る。左右は、まあまあ、と彼女を宥めるが、ノノはそんな二人の様子を気にも止めずに自分の話を進めるのだった。
「鷹取の両目を見比べてみ」
ノノは鷹取に指を指す。
僕と聖子は鷹取に近づき、彼女の顔を覗き込んだ。彼女の整った容貌の中でも、特に印象的な鋭く冷たい瞳をまじまじと見比べる。毛穴まで覗き込まれているような状況に鷹取は全く照れる様子もなく、ほとんど瞬きもせず、僕と聖子の行動を逆に観察しているのだった。
ふと、僕は違和感に気がついた。
「……瞳の色が微妙に違う」
僕が左右にそう言うと、今度は僕の代わりに左右が鷹取の瞳を覗き込む。左右は少し照れくさそうにしていたが、小さな声で「ホントだ」と呟いた。
「それはそうよ。片方はノノの眼球だもの」
鷹取は自分の瞳を覗き込む連中に対し、あっけらかんとそう言うのだった。僕たちは意味がよく分からずお互いの顔を見比べていたが、やがて三人が三人ともノノの方を振り返る。彼女の片目を覆っている眼帯の向こう側に、全員の興味は向けられるのだった。
「……何で言っちゃうのよバカ鳥! ビックリさせんのはあたしの役割なのに!」
ノノはそう言いながら、眼帯をむしり取った。
……光だ。
虚空の眼窩に浮かび上がる、青い光。
「な、なんだこれ!?」
僕は思わず叫んだ。ノノはまた得意気な笑みを浮かべ、仁王立ちで精一杯威張るのだった。
「……“ポータル”って奴の能力よ。物体と物体を『分断していながら接続させる』能力。あたしの目ん玉は“ミート・パペット”の供物として鷹取の目ん玉に入ってるけど、視神経はあたしに繋がってる。アンタらが鷹取の顔を覗き込んでいた時も、アンタらの馬鹿面はあたしに
しっかり見えてたわ。ぷぷぷーっ! ば・か・づ・ら!」
と、突然。聖子は鷹取の胸倉をつかみ、憎々しげな表情を彼女の左目に近づけた。ノノの言ったことを踏まえるなら、ノノ本人ではなく、モニター越しに彼女を睨みつけているのだろう。
「“ポータル”なんて奴の名前は出てなかったぞ、嘘つき女」
「あれぇー、そうだったっけ? ……ちなみにそっち、逆の目だから」
聖子は鷹取を突き飛ばし、今度はノノ本人の胸倉を掴む。
「もう一回オネショしたいの? クソガキ」
「アンタがチビれば良いのよ、クソビッチ!」
ノノがくいっと顎をしゃくると、鷹取は聖子の右手を掴んだ。聖子は「何のマネよ」と鷹取を睨みつけていたが、見る見る内に苦痛に顔を歪め、額に汗を滲ませ、その場にがっくり膝をついた。
「い、いたた、いたたったた! お、折れる、折れるって! 離せーっ!」
聖子の絶叫が廊下に響く。仁王立ちのまま、ノノは高笑いを浮かべた。心なしか眼窩の光も勢いを増している。
「なーっはっはっは! 一転攻勢ッ! ここにはあたしの肉体の一部を使った最高純度の“ミート・パペット”が居んのよ!? 大きな力には大きな代償。即ち、大きな代償には大きな力! 鷹取の前であたしに舐めた口利かない方が身のためよ!」
「い、いいから離せ! 離せってばーっ!」
ノノが顎をしゃくると、鷹取はあっさりと聖子の腕を離す。
どさっ、とその場に倒れこみ、聖子は自分の腕を庇ってうんうんと唸るのだった。
……珍しい。というより、彼女のこんな姿を見るのは初めてだ。この場の不和はもちろんよろしく無いが、それとは全く別の違和感に僕は戸惑った。今この結果を例の“声”は教えてくれなかったのか?
「うぐぐ……う、クソッ……クソ馬鹿、クソ馬鹿力……!」
聖子は悔しそうに呻いている。彼女自身は自分の違和感に気づいているのだろうか?
「……ノノ、気持ちは分かるけどよ。もう少し穏便に話を進めようぜ」
ノノはキッとこちらを睨みつける。
「胸倉掴まれて穏便も糞もあるか! この佐渡聖子には……あたしは二度も三度も煮え湯を飲まされてんのよ! ねえ、鷹取?」
「そうね、ノノ。ノノの言う通りだわ」
腕を組んで仁王立ちをしているノノのすぐ側で、専属ボディーガード鷹取は同じように腕を組み、直立していた。もりおじやタマゾウ以上の破格のポテンシャルを秘めているなんて、そのほっそりとした外見からは想像も出来なかった。
「話の続きよっ! あたしの能力が鷹取を完全に制御するためには、それなりの代償が必要だった! だから、あたしはポータルの奴にお願いした! あたしの目ン玉を引っこ抜いて、鷹取にぶち込んで! って。ゾンビになった鷹取をスバラシ会から掻っ攫って、こいつはまんまとあたしの肉人形ってわけ。
……でもその瞬間、あたしは大淀スバラシ会にとって反逆者となった。あたしのプランは余りに不安定で、スバラシ会の連中には信用されてなかったから。あたしの能力の範疇を超えてると連中は思ってたし、現に鷹取は不安定で、あたしのいう事を聞かずに変なオッサンを助けたり、ゾンビに噛まれたショックで電源落ちたみたいになったり……いつまで制御しきれるか……正直あたしにも分かんない」
「私はいつまでもノノの味方よ」
鷹取の相変わらず空虚な一言に、ノノは見向きもしなかった。
「そのポータルって奴は、どうして力を貸してくれたんだ? そいつもスバラシ会に反目してしまうワケだろ?」
僕は訊ねた。
「……スバラシ会の横のつながりは薄いわ。“全てはプリンセスの為に”という思惑は、結局自分の理想をプリンセスに投影してるだけに過ぎない。あちこち向いてる多頭の生き物。都合の良いファン心理って奴よ! 中でもポータルは……そーとーヤバい思想側の連中の一人なの。『大淀ザナドゥ』なんて連中は名乗ってるけど、組織内には苛烈でヤバい思想が毒ガスみたいに充満してて、今にも破裂寸前って感じ」
そもそも大淀スバラシ会の思想も充分苛烈でヤバいんだが、と僕は言いかけてやめた。
「連中はこの世のありとあらゆる悲しみを取り除くことが、プリンセスの為の理想郷を造る最善策だと信じている。そのためにまず邪魔な淡風島民を全て駆逐、排除し、異能者だけの島にするつもりで……その為に、あたしと鷹取は利用されたわけ。殺虫剤を撒くみたいに、島民全部をゾンビにしようとしていたの! スバラシ会はそれが怖くて鷹取を犠牲にしようとしたし、鷹取を連れ出したあたしは粛清対象として、今も連中に追いかけられてる。キル・ザ・ネクロマンサー作戦の作戦目標としてね」
「その過激派の連中は一応味方なんだろ? 守って貰えないのか?」
「アンタたちが守ってくれるんでしょ?」
「誠意ッ! 誠意見せろや!」
聖子はまだ痛む腕を抑えながらガヤを飛ばした。
「ふん! ゾンビの事でしょ! 分かってるわよ!」
ノノは鷹取に首をしゃくると、彼女はこくりと頷いた。
「……ノノ。本当に良いの?」
「イイのよッ! ホント言う事聞かない奴ね……! アンタがカウボーイオヤジやミイラを助けるなんて言い出さなきゃ、こんな連中と会うことも無かったのに……! どこまでが昔のままで、どこまでがあたしの人形なわけ!?」
「昔も今も、ノノの一番の友達だわ」
「違う! 今はあたしの肉人形よ! 友達なんかじゃない!」
はあはあと肩で息をしながら、激昂の余韻に震えるノノ。あの二人のオッサンを助けたのが鷹取だったという事実に、僕は不思議な興味を覚えた。
鷹取というノノの支配下にいるはずの人形が道徳心を持っている。それが「人が困っていたら助けるべき」という人間の真似事なら……それは偽善なのだろうか? いや、そもそも人が人の真似事をするなんて、当たり前の事なんじゃないか……?
「とにかく!」
ノノが喋りだした事で、僕の閑話的な思考は中断された。
「……言うなればこれは、裏技よ。本来は鷹取本人がゾンビなんだから、能力のオン・オフは出来ない。でも、今のミート・パペットの制御下にあるコイツにはそれが可能なの。身の保障が出来なかったから、まだスイッチは切ってないけどね」
「一分、一秒単位で死者は増えていっているんだが」
僕が言うと、ノノは口の端を歪め、冷酷な表情を浮かべる。
「どうでも良いわ。苦しんでようが、死んでようが。あたしに何の関係があるの? あたしはあたしと鷹取を救えたらそれで良いの」
「恐ろしい事を言うんだな」
「だって、仕方ないじゃん」
ノノはあっけらかんとそう言うのだった。
「……とにかく、能力をオフにした瞬間、あたしは“大淀ザナドゥ”の逆賊になる! そして元より“スバラシ会”には狙われている! 一緒にいるアンタらは当然あたしに同調した逆賊の一人! 最後まできっちり守りなさいよ! その義務があるんだからな!?」
僕と聖子、左右はお互いに顔を見合わせ、誰からと言わずに静かに頷いた。それは必ずしもノノを守るためという理由じゃないが、この島を取り巻く馬鹿げたお祭り騒ぎになんらかの終止符を打つまで、平穏な人生なんて来るわけが無い。目の前で起こってしまった事に対する、当事者としてのケジメかもしれない。
(ケジメ……?)
と、僕は自問自答した。
ケジメって何だ? 何のケジメだって言うんだ?
……『仕方ないじゃん』の一言で、ノノは人々の死を片付けた。
彼女を擁護するつもりはない。ただ、そんな風に言い切ってしまえる勇気や、呪われた人生を躊躇なく歩き進める強さが、僕にはこれっぽっちも無い。自分の目的の為に他人を犠牲に出来る、非情なまでの覚悟や意志力が。
僕はただただ巻き込まれて、正論に身を固めて自分を守っている。ケジメなんて何もない癖に、都合のいい言葉で思考停止を図っている。後手後手の人生に、いつも泣き言ばかり。ネクロマンサーが鷹取じゃなく、例えば左右や聖子が同じ運命にあったとして、僕は進んで茨の道を進めるのだろうか? ……人間の真似事でオヤジ達を助けた鷹取を、偽物の善意と断ずる資格が僕にあるのだろうか? 何も固執せず、とっとと“逃走”という決断を下したフクジュを笑う事なんて出来るだろうか?
「さ、鷹取。能力を解除して」
「ノノがそう望むのなら」
そう言うと、鷹取は右手を高々と上げ、ぱちん、と指を鳴らす。
と、その時。
ぽーーーーーん。
という間延びした音が、真夜中の町に響き渡る。
無力感にぽっかり空いた心の穴に、反響しているようだった。
「……今のがゾンビを解除した音?」
いち早く聖子が立ち上がり、外を確認するためにドアに近づいたその時……
「違うわバカッ! 危ない!」
ノノの絶叫に振り返る聖子。
その瞬間、コンクリートの壁が爆発し、粉みじんに砕け散った。
飛び散る粉塵と衝撃波。
「うげぇっ!」
聖子はもろに爆風を浴び、壁に叩きつけられる。激しい音を立て、棚にあった置物やら書類やらがその場に散乱した。
「……し、聖子ちゃん!」
左右は慌てて彼女の方へと駆け寄った。
「……やばいやばいやばいやばいやばい! やばいわ、やばい!」
ノノは真っ青な顔をしている。
「この能力は“消しゴムツール”の……! 奴らに見つかったんだわ!」
そして僕はまた“状況”に追われるのだった。
「ば、爆弾か!?」
僕はノノに尋ねる。
「ただの爆弾じゃない! ホラ!」
ノノが指さしたのは、先ほどの爆発で空いた風穴。爆煙の向こうに朧気に見える、不気味なほどに精巧な球形の穴。くす玉がすっぽり入りそうな巨大な穴だが、奇妙な事に壁の中身……つまり、木材で出来た骨組みには傷一つない。まるでイラストソフトか何かのように、コンクリートと木が別のレイヤーに振り分けられ、コンクリートだけが消去されたように見えた。
「なるほど、だから“消しゴムツール”……」
僕はちらっと聖子の方を見る。ここはいつも通り、彼女の“観測”に期待する他ないのだが……聖子は自分の頭を抑えたまま、じっと目を瞑っていた。左右は心配そうに彼女の肩を抱いていたが、聖子はこの非常事態に身動き一つ取らないでいる。
「大丈夫か、聖子?」
僕の言葉に、聖子は反応しない。打ちどころが悪かったのだろうか?
「……聖子ちゃん、震えてるの?」
左右の言葉に、ぎくり、とする聖子。
さっきから彼女の様子がおかしい。
鷹取に右手を掴まれた事もそうだが、例の予知能力があれば、爆風なんかに巻き込まれなんてしないはず。そもそも何の考えも無しに、ドアを開けようなんてしないはず……!
「聖子、お前……」
僕が言いかけた瞬間、聖子は口を開いた。
「こ、ここ、声が……“声”が聞こえない……!」
聖子の声はどうしようも無いほど頼りなく、震えている。
「やばい、聞こえない……ど、どうしたら良いのか、ぜ、全然……分かんない……分かんないよぉォォ! 助けて、助けて左右! 怖い、怖い怖い! 怖いよ! 何も聞こえない、何も見えない……死ぬ! 死ぬーーー!」
「落ち着いて、聖子ちゃん!」
「何も聞こえない! 頭がぼーっとする! 目にする物に何の意味も無い! 何これ、何なのよコレ! やだやだやだやだやだやだやだ!」
聖子は頭を抑えたままじたばたと足を動かし、ただただ子供のように喚き散らす。
と、その時。
ぽーーーーーん。
と、またあの嫌な音が響き渡った。
「ひ、ひいぃぃぃぃ! やだーーーーー!」
左右にしがみつく聖子。左右は思わず彼女を庇うように、ぎゅっと抱きしめる。
爆風がまた壁に穴を作った。
衝撃波で棚から落ちてきたでかい酒瓶が、左右の頭上に落ちる。
「危ない!」
僕は瞬発力……連中が言うところの“Bダッシュ”で跳躍すると、酒瓶を左右の頭上でキャッチし、そのままどさりと地面に転がった。
「うげっ!」
酒瓶が腹にめり込み、苦痛が体内を駆け巡る。
「……あ、ありがとう、
「げほっげほっ……い、いや……それより、聖子! しっかりしてくれ! 攻撃されてるぞ!」
聖子はガタガタと震えながら、左右にしがみついたままだ。
「あんなに偉そうに言っといて……能力が無くなった途端これか! 『強い心』はどうなったんだよ!」
「乖田くん! 聖子ちゃんは限界だったんだよ……!」
と、左右が指さすのは……箱単位で消耗された頭痛薬。彼女の言うとおり、薬剤の過剰摂取で誤魔化していたオーバーワークのツケがやってきたのだろう。
「私たちで頑張らないと……!」
左右の言う通りだ。
僕は壁に空いた球状の穴を睨みつけ、ごくり、と唾を飲み込んだ。
「消しゴムツールは、あの『ぽーーーーん』って音で標的を確定すんの。ほら、潜水艦のあれみたいな」
ノノは早口でそう言った。
「ソナーか。外壁を狙ってんのは、音を筒抜けにすんのが目的か? このツールって、人体も吹っ飛ばせるのかな?」
「ネズミをふっ飛ばしてるのを前に見た」
ネズミを自分に置き換え、粉々に弾け飛ぶ肉体を想像し、僕は思わず身震いした。
「だったらこれは? 壁を構成していたコンクリートは粉々なのに、木の骨組み部分は無傷だ。コンクリもネズミも爆破出来て、木が無傷なのはどうしてだ?」
「……それを“ソナー”で探ってるんじゃないかな……?」
左右は怯える聖子の背中をさすりながらそう言った。
「特定の物質を粉々に砕く能力……じゃあ逆に、コンクリートはそのままに、木の骨組みだけを破壊したり、あるいは人体も……」
ぽーーーーーん。
「やばい! 来るぞ!」
そしてまた壁が爆発する。今度は二つの穴とは別の壁。ドアを挟んでこちらに近い位置の壁にぽっかりと穴が空いた。爆風がテーブルを転がし、僕たちは全員その場に倒れこんだ。
「きゃあっ!」
左右と聖子はとりわけ近く、モロに衝撃波を受けてしまう。怯える聖子は更にその動揺を加速させるのだった。
「左右! 聖子!」
「ううっ……聖子ちゃん、ここ危ないよ! 立って!」
左右は聖子を引き剥がし、何とか立たせると、どん、と彼女の背中を押す。聖子はふらふらと僕の方へと倒れこむと、今度はこちらにしがみついてくるのだった。
「し、しっかりしろよ! 聖子!」
まるで子供のように、ただただ震えるばかりの聖子。これがあの佐渡聖子だなんて、僕には信じられない。
「……乖田くん、聖子ちゃんをお願い!」
左右はポケットからゴムバンドを取り出し、自分の長い黒髪を一纏めに括る。スポーティなポニーテール姿で、壁の穴を睨みつけた。
「ど、どうすんだ!?」
「こっちの方角にしか穴が無いのは……たぶん、こっち側しか見えてないから。ソナーはあくまで物質の選別で、見える位置しか攻撃出来ないんじゃないかな。鷹取さんやノノちゃんじゃなく外壁ばかり攻撃してるのが、何よりの証拠だよ。音はここまでしっかり聞こえてるのに」
「……つまり?」
「つまり、視界の届かない相手は攻撃できない。私なら、見られずに相手に近づける」
と、その時。左右の体は四肢の先端から順番に虚ろに滲み、最終的には完全な透明人間になってしまうのだった。
なるほど! と僕は思った。
左右の能力の新しい発見。つまり、僕の体を木に変えたように、自分の体を空気と同じ透明度に変質させたのだ。
実体がある分、ガラスのように光の屈折率の違いが彼女の姿をうっすらと滲ませているが、闇夜に乗じた彼女を肉眼で捉える事なんて出来やしないだろう。
「こうやって、透明人間になれば……って、あ、あれ?」
姿を消した左右が、声だけで驚いた。
「な、何にも見えないよ……」
「……たぶん、眼球が光を透過しちゃってるからじゃないか?」
僕が言うと、ぴょこん、と空間に姿を表す左右の眼球。
「ぎゃはははははは!」
ノノが爆笑する。宙に浮いた眼球がぎょろっと彼女の方を見た。
「……“ほとんど”透明人間になれば、きっと大丈夫」
左右の声色は、どこか羞恥を含んでいた。
「良いアイデアだけど……たった一人じゃ危ない。もし見つかったら……!」
「こうして姿を消しているなら、私一人の方が安全だよ。私が一人でやるっきゃない」
左右の眼球は、ふわふわと玄関へと向かった。
「待てよ、左右!」
彼女は自分の上半身だけを元の姿に戻し、こちらを見る。
「……別の出口から逃げるって手もある。何も左右だけが危険な目に遭う必要は無いだろ?」
「炙り出された獲物だよ、それじゃ」
「酒屋内に隠れて相手が痺れを切らすのを待つとか……!」
「建物が崩落すれば、私たちはペチャンコになって作戦終了。私って、そんなに頼りないかな?」
「い、いや、そういうワケじゃ!」
「乖田くんって、私のお父さんそっくり。『どうしてあてながやらなくちゃならないんだ』『あてなじゃなくても良いはずだ』『あてらは穏やかに暮らしたくないのか』……心配してくれて、本当にありがとうだし、乖田くんの気持ちは大事にしたい。でも、私はそっちを選択をしないんだ。
ノノちゃんは、私達に協力する事が“最善”だと思って、ネクロマンサーの能力をオフにしてくれた。私達に賭けてくれたんだから……私たちはそれに応えなきゃ。私達の今の最善は、私がスバラシ会の追手を倒すこと。私一人の身を案じて二の手三の手を選ぶことは最善とは言えない。でしょ? たった一回の人生だもん。“最善”を選ばなきゃ……聖子ちゃんがこんな状況なら、私が守らなきゃ!」
ぽーーーーん。
「行ってきます!」
ソナーと爆発の間のタイムラグ、つまり“敵に絶対に標的にされない瞬間”を利用し、左右はまた透明人間に戻ると、思い切ってドアを開けて外へと飛び出した。
爆風がノノの直ぐ側の壁を破砕させるが、鷹取は彼女をしっかりと庇う。庇われている本人は左右の言葉と行動に心が捕らわれており、ぼんやりと突っ立ったまま、彼女の消えた名残を眺め続けるのだった。
左右の心は乱れているはずだ。疲弊しきった体に、混沌とした状況、聖子という精神的支柱の存在は無く、仲間全員が危機に晒されている。
ただ、彼女にとってはその混乱が、彼女の人生を包む大きな不幸を忘れる手助けをしているようだった。混乱に混乱が重なり、終い目には混乱そのものが単色で純粋な状況となる。案外、人が真価を発揮するのは、そんな混乱の中で生まれる、自分を超えようとする一瞬なのかもしれない。少なくとも、ポニーテール姿の彼女は凛々しく、いつもの物憂げな表情とはまるで別人のように見えた。
そして、全てを振り払う彼女の決断と行動は、彼女を過去の囚人から未来への挑戦者へと昇華させる。
大淀スバラシ会VS左右あてな。
彼女の血と汗が、悲しくも眩く輝いた数分間が始まるのだった。
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