11 主義と弱者と自尊心

 二階に上がると、畳の上で猫のように丸まってぐっすり眠る左右あてらがいた。聖子しょうこの命令に従ってこちらの状況を見に来たわけだが、思いのほか安らかな表情で眠る彼女を見て僕は少しほっとした。不幸と自虐に苛まれる彼女にとっても、少なくとも眠りは平等であるらしい。彼女の能力の代償は“睡魔”。今はその代償こそが彼女の救いであり、ほんのひと時とは言え、無垢な安らぎを与えているのだった。ちなみに、カウボーイ親父もベランダでぐっすり眠っていた。こちらは飲みすぎによる代償で、明日には二日酔いというまた別の代償が待っている事だろう。

 全て二階は事も無し。

 というわけで一階に戻ると、聖子は拘束された紫電ノノをにやにやと見下ろしていた。

 ノノは梱包用のゴムロープで全身を長机にしっかり固定されていて、身動き一つ取れずにいる。負けん気の強い彼女はそれでも挑戦的な視線を天井に向け、『どうとでもしやがれ!』と言わんばかりに口を開かない。

 これから聖子が何をするつもりなのか僕には分からない。が、何をするにしても、ロクでも無い事なのは容易に想像出来た。彼女は一言僕に「アタシの邪魔をするな」と耳打ちし、返事に困っていると「いいな?」と念を押してくる。念を押されるという事はそれだけ看過出来ない事が起こるワケで、いかにも強情そうな加害者と被害者がぶつかり合うのを、僕にはしっかりと見守る責任があった。

 とは言え、紫電ノノに訊くべき事は沢山ある。鷹取はネクロマンサーなのか? ゾンビ達を……渚を元に戻すにはどうすればいいのか? いったい淡風がなんでこんな事になって、大淀スバラシ会は何をしようとしているのか?

 聖子は地面に膝をつき、机上の生贄の眼前に肘を置いた。吐息がかかる程の距離にまで顔を近づけられ、ノノは嫌悪感と恐怖心に抗うように歯を食いしばった。

「ねえ、おチビちゃん。あんた、死にそうになった事ある?」

 と、聖子は深く、静かで、凄むような口調でそう言う。

 ノノは、ぷい、と聖子から顔を逸らし、じっと壁を睨み付ける。

「苦しみから逃れるためには便器だって舐め回したくなるような、最低な目に遭った事ってある?」

 聖子はその辺にあった新品のタオルを一枚ノノの顔に乗せ、ゴムロープでぎゅっと縛る。顔面の痛みに、ノノの体がびくんと脈打った。

「んんっ! んーっ!」

 堪えきれず、ノノはついに呻き声を上げるが、彼女の言葉は既にねじ伏せられていた。

「無いでしょ? ノノちゃん。普通無いよね~。でも、良かったね! これからそういう経験出来るかも……貴重な体験は、人を成長させるわ。心が成長すれば、身長も成長するかも! 乖田かいだくん、そこのお茶取って」

「え?」

「お茶よ。そこにあんでしょーが。早く!」

 僕は言われるがままに足元のケースを開き、酒屋の商品であろう一本のペットボトルを取り出した。聖子はキャップを開け、ゆっくりと立ち上がる。

「今からこの1.5リットルのお茶がノノちゃんの顔面に降り注ぐわ。たっぷり水分を含んだタオルはあんたのちっちゃなお口とお鼻を塞ぎ、呼吸を一時的に阻害する。血中酸素は瞬く間に低下し、言いようのない苦しみが全身を包み込む。悶える肉体はやがて理性を裏切り、鼻でも気管でも好き勝手に水分を吸い込み始め、二重三重の苦痛があんたを襲う。

 生存本能がぎゃあぎゃあ騒ぎたてる中、ノノちゃんはほんの一欠けらの理性でこう考えるわ。『私はどうしてこんなに苦しい思いをしているんだろう?』。『こんな目に遭わずに済むにはどうすればいいんだろう?』『このキチガイビッチを満足させるにはどうすればいいんだろう?』『私が後生大事に……まるで自分の処女膜のように大事に守っているあの事やこの事って、こんな苦しみと天秤にかけるほど大事なものだったっけ?』……なんて。

 次に呼吸を許された瞬間、天にも昇る快楽と生への喜びで、あんたは絶対に喋りたくないアレやコレやを、ひょっとすると、ほんのちょっぴり喋りたくなってるかも。もちろんアタシはそういう結果を望んでいるけど、あんたの自主性も極力尊重するわ。あんたにも自尊心ってやつが……あるんでしょうからねッ!」

 ぼとぼとぼと。

 と、タオルに覆われたノノの顔面にお茶を浸していく聖子。

 繊維の隅々にじわじわと水分が行き届き、拷問官の言葉と寸分違わず、ノノの呼吸器は完全に密封されるのだった。

「ブホッ! がぼがぼがぼ、ズルブフッ! ングーッ! ブブブバブ、バブブズズブ、ズズズズ! んんっゴホゴボゴボ! ズル、ブッ! バフッ! ンググググー! んーんーんーんー! がはっ! ゴボッ! ゲブッゲッ……げろばふっ! ングゥゥーーー! んー! ブフォッ! グッ、ゲボフ! ガッフッ! ンーンーンーンー! ゲボッ! ゲッ! ガボ……ん……ンググ……う……」

 混乱と窒息と苦しみ、そして死の予感。

 行き所の無い生への渇望が、苦悶となってテーブルを掻き毟る。強靭なゴムロープを引き千切るんじゃないかと思わせる程、ノノの小さな体から信じられない程の力が漲り、がたがたとテーブルごと暴れ出した。転倒を危ぶみ、僕は慌ててテーブルを押さえつける。聖子は何を勘違いしているのか、こっちを見て『あんたも共犯者だわね』と言わんばかりに嫌らしい笑みを浮かべるのだった。

「うう……ンぐぐぐぐ……ブハッ! ズルッ! ズルルルル! ブーッフォ! バフォ! んんんんん! んーっブッ! ブバフッ! バブッ……ゴバッ! んぐぉっ、ンゴーーー! ンー! ンーンー! ンー! ンゴゴゴーー! がぼっ! ゲッ! ゲボブ! ンゴアーッ! んおー! ッブフッ! ぶぶっ……ぐ、グゥ……」

 三途の川に片足を突っ込み、徐々に力が抜けていくノノ。

 聖子はご丁寧に注ぎ口を親指で塞ぎ、少しずつ少しずつ時間をかけてノノを苦しめていたが、 やがてペットボトルの中身が空になると、容器を無造作に放り投げた。ノノの顔面を縛り付けていたゴムロープを緩め、タオルを取る。

「……ゲホッ! げーっほ! ゲホゲホゲホ! はーっ……うっ、ゲホッ! カハッ!」

 ノノは激しく噎せ込み、気管に入ったお茶を必死に吐き出す。目からは涙が、鼻からは鼻水が溢れていた。

「ネクロマンサーは誰?」

 と、聖子はノノに訪ねる。

「はっ、はっ、はっ……」

「誰なのよ」

「……はっ、はっ……し……知らないわ……この、人殺し……!」

「人殺しになってあげよっか?」

「……はぁ……こ、殺す度胸なんて……どうせ無いクセに……あたしを虐めてせいぜい楽しみなさいよ! 大淀の誰かが……すぐそこまでやって来てるわ……拷問したけりゃすりゃいいじゃない! 外道っ!」

「あっそ」

 べちょ。

 と、タオルをノノの顔に乗せ、聖子はまた彼女の顔をゴムロープで縛り付けた。

「ングッ!」

 聖子がこちらに手を差し出すが、僕は思わずためらった。

「なにやってんのよグズ! お茶!」

「やりすぎじゃないのか……?」

 僕の言葉に、聖子は鼻で笑う。

「ふん! 共犯者の覚悟も無く、アタシを止めようともしない。平和ボケも大概にしなよ! 何度死にかけたら目を醒ますわけ!?」

 聖子の僕に対する意見は一たす一のように正しい。

 ……でもこの違和感は、一体何なのだろう?

 僕はしぶしぶお茶をケースから取り出し、聖子に手渡した。

「そうそう。あんたはアタシにお茶を渡すだけでいいの。後は全部アタシがやってあげる。あんたは悪くないわ。乖田くんは善人? それとも偽善者? どちらも大いに結構! アタシはあんたの行動だけを評価する。溜まった罪悪感はSNSでシコって勝手に処理してな。て事で……お待たせ、ノノちゃん。お茶だよ!」

 間髪入れず彼女はペットボトルの蓋を開け、タオルの上に中身を注いでいく。

「んぐっ……ぐうゥゥーーー! んっ、ブバホッ! ブブッ、ずるるっ……がぼっがぼふっ! ングーーーーッ!」

 そして始まる地獄のリピート再生。ノノにとって永遠とも思える時間が始まる。

 彼女の苦悶が全身から伝わり、僕は思わず自分の息を止めてしまった。悠久の数十秒間の後にようやく二本目のペットボトルが空になると、聖子は機械的にゴムロープを緩め、ノノに再び安息の機会を与える。

「ぶっ、げぶっ……はー! はー! はー! げほっ、ガフッ……げぷっ」

 お茶と唾液と胃液に塗れたノノの髪は、テーブルに無造作に張り付いていた。彼女の胸元も、アイパッチも、何もかもびしょ濡れだ。

「はーっ……げぷっ、はーっ、はーっ……ぐっ……! 死ね……死ねクズ……!」

「憎まれ口以外に喋る事は無いみたいね」

 と、聖子はまた僕に手を差し出す。

 僕はケースからお茶のペットボトルを取り出し、聖子に手渡した。罪悪感は1.5リットルのペットボトルよりずっと重い。

「あっ! え……ちょっと待って……早いって! 死ぬ! 死んじゃう!」

「だから何」

「……あ、あ、あ、あたしは……そそその……」

「……」

 口をぱくぱくしながら言葉を探すノノを聖子は見下ろしていたが、彼女の忍耐はほんの二、三秒しか持たなかった。

「……ちっ。時間稼ぎするなら、次は二本よ! 乖田くん、もう一本!」

 犠牲者はぎょっと青ざめる。

「た……たたた……鷹取……」

 ノノの声は震えていた。

「た……鷹取を殺さないで!」

 解き放たれる、悲痛な訴え。

 聖子はその意味するところを一瞬考え、眉を顰める。

「……んなこと訊いてないけど」

 ノノはついに観念したのか、自暴自棄な様子で半狂乱に捲し立て始めた。

「鷹取よ! ネクロマンサーは鷹取なの! でも、鷹取が最初のゾンビで……鷹取のゾンビ化は事故なのっ! 進行していく不治の病みたいに、不可避の出来事で、誰にも止められない事で、鷹取は悪くないから……でも大淀の連中は鷹取を幽閉して、死ぬのを待つしか無いって! あたしは鷹取を助けてあげようと思っただけなのにっ! あたしならあいつを助けてやれるのにーっ!」

「やっぱね」

 聖子は僕の方を見る。

「鷹取ココロの能力は、自己犠牲型の能力だった。発動のタイミングも、能力のコントロールも利かない異能者。この異常な感染力も理解できるわ。『灯滅せんとして光を増す』ってわけよ」

「鷹取の能力の影響力は“ライブラリー”の奴がとっくに調査済みで、鷹取はただ死を待つだけの存在で……あたしゃそれが哀れで……」

「ライブラリー?」

 僕は思わず訊き返した。

「異能能力を分析出来るスバラシ会の異能者よっ! “ライブラリー”は、あだ名! 鷹取の“ネクロマンサー”みたいなもんよ! あたしは“ミートパペット”だし、フクジュは“呪詛ニキ”、大淀は“プリンセス”! あんたらにもあだ名はついてるわ! “観測者”佐渡聖子、“Bダッシュ”乖田夕……」

 Bダッシュ?

 と、僕は思った。

「他は?」

「知らない……」

「Bダッシュ、お茶!」

 聖子がさっそく僕を良く分からないあだ名で呼びつけ、手を伸ばす。

「待って! 知ってる……知ってるわよ! どうでも良いわよ、あんな薄情な奴ら! “消しゴムツール”! “斬鉄剣”! “古典派”! “リビジョン”! “タイガー・シックスティーン”! ……あ、あとは知らない! 全員は知らない! 自分の能力を喋る奴もいれば、喋らない奴もいるから……それに、能力の詳細も知らない! アタシ別に仲良く無かったもん!」

「仲が良かった奴のは黙ってるってわけ?」

「……ちっ……ちがっ……」

「今のところ、アタシがネクロマンサーを助ける理由は無いわね」

 ノノは聖子と僕を交互に睨んだ。

「鷹取を殺したらお前らも殺してやる!」

「ふん! そうよ。殺し合いはとっくに始まってる。誰が招いたのか知んないけど、誰かが死ななきゃいけないクソったれな状況だわ。誰が死ぬかは既に決定済みだけど……ね!」

 べちょっ、と聖子はノノの顔面にタオルを乗せた。

「ンググーッ! ングー!」

 そして彼女のうめき声。

「待て、ちょっと待ってくれ、聖子! 僕からも質問させてくれ」

 聖子は鬱陶しそうにこちらを一瞥すると、しぶしぶタオルを顔面から引っぺがした。

「ブハッ! はあ、はあ……」

「紫電ノノ。お前はネクロマンサーが鷹取で、彼女が最初のゾンビだって言ってたけど……彼女は普通に活動していた。すっとぼけた奴だけど、決してゾンビじゃあなかった。僕たちと会話して、左右にサインまでねだっていた。お前が言ったことと食い違ってるし……かと言って、お前が嘘を言ってるようにも見えない。

 なあ、教えてくれよ。このままじゃ本当に……誰かが望まない形で事態は進んでいく。紫電ノノ、お前は一体、どうやって鷹取を救うつもりなんだ? 本当に手立ては、それしかないのか?」

「つまんない質問」

 聖子は腕を組みながら、真っ直ぐこちらを見て嘲笑う。

 僕は聖子の方へ歩み寄り、ばん、と壁を一度叩いた。もちろん、びっくりしたのはノノだけで、聖子はこんなことで微動だりしない。蛍光灯の光が眼鏡に反射し、表情も窺い知れない。

「聖子、お前さっき僕の事を“平和ボケ”って言ったな? だったらお前は、“闘争ボケ”だ! 戦い、生き残る事に必死で、敵を憎んで排除する事しか考えていない。相手は同じ人間だぜ? それもこんな狭い国の隣人、同い年ぐらいの連中。なんだったら、異能者というマイノリティな存在同士、助け合わなきゃいけない仲間のはずだ。片や加害者、片や被害者……一体、僕たちを隔てているものはなんなんだ?」

「主義が違う」

 聖子は迷わずそう答える。

「主義? 僕とお前だって全然違うぞ! ……確かに、お前の主義は強靭だ。絶対に妥協せず、圧倒的な決断力で、自分も他人も犠牲にして突き進む。お前はお前自身を信じる限り、全てを可能に出来るんだろうな。でも、それはお前一人だけだった場合の話だ。今日この状況じゃ、主義なんてのは自分の殻に籠るための最もらしい言い訳にしか聞こえねえよ。

 ……お前は自分の事を超人と思っているんだろうけど、僕に言わせてみれば自分の理想だけが全ての狂人だ! いや、狂人ですらない。自分のワガママを通すために狂人ぶった、ずる賢いペテン師だ! 僕にはいつまでも通用しないぞ!」

 聖子は僕の言葉を聞く内、みるみる内に怒りに震え始め、手に持っているペットボトルを握りつぶしていく。溢れたお茶は床にまき散らされ、彼女の汚いスニーカーはずぶ濡れになっている。水たまりはゆっくり広がって、僕の足元にまでたどり着いた。

 ……そうだ。彼女と僕は主義が違う。

 今まで仲良くやってこれたのが不思議なぐらい、てんで見ている理想が違う。騙し騙しの関係性は常にアンバランスにふらつき、寄せては返す波のように定まらない。目的を共有していただけのただのチームメイトで、ちょっと意見が違えばこのザマだ。

 でも……それでも僕は言葉を続ける。今にも噴火しそうな彼女の目の奥に“狼狽”が潜んでいる事を、僕は知っていた。それは聖子自身にとっては許しがたい事なんだろうけど……あるいは、炎に包まれるような彼女の生き方から、彼女自身を救うかもしれない希望の光なんじゃないだろうか。

 全ての答えを知ることが出来る、佐渡聖子。

 その先にあるものは、果たして人間として正しい生き方だろうか?

 何か大きな勘違いをしたまま、茨の道を突き進んでいるんじゃないか?

 ……こいつは本当に、自分で望んでこんな事をやっているのか?

「……うるさい……!」

 聖子はぐしゃぐしゃと髪をかき乱し、罵った。

「うるさいうるさいうるさいうるさい! うるさいのよあんた! あんたに一体何が出来んのよ、クソ雑魚野郎! アタシは考えてる! あんたよりも目いっぱい、自分の脳ミソを焼け焦がすほどに考えてんのよ! アタシの神様は正解を教えてくれるし、それは唯一絶対不動の真理なの! 間違いは許されないわ! アタシは考え無しに『分かり合えるかも』なんて淡い期待を抱かない。決して分かり合えない事を知ってるからよ!」

「間違って何度もやり直すのが人間だろ!?」

「そいつは“ウスノロ”よ!」

「ウスノロで結構! お前の強さは僕の強さとは違う!」

「あんたの強さはアタシの強さじゃない!」

「否定してやる!」

「やんのかテメェ!?」

 僕と聖子は睨み合った。お互いに一歩も引かず、自尊心と自尊心が火花を散らすようにぶつかり合う。

 拉致があかず、お互いに引くことも出来ないまま、いよいよコイツとぶつかる他ないのかと覚悟した、その時……

 のそ、のそ、のそ。

 と、廊下の奥からゆっくりとした足跡が聞こえてくる。

 全員の視線がそちらに向けられ、足跡の主を捉えた。

「……あてな!」

 左右あてなは、ぐったりとした鷹取をおんぶしながら、ふらふらとこちらにやってくるのだった。

「鷹取!」

 思わず、ノノが彼女の名を呼ぶ。

「何よ、あてな! そんな奴連れてきて……そいつが鷹取!?」

 聖子のイラつきは、彼女の登場により更に加速する。が、左右は悪びれた様子もなく、マイペースにこちらへ歩を進めるのだった。

「聖子ちゃん……聖子ちゃんの我儘に、私はいつも助けられてた。聖子ちゃんがいっつも正しいし、私は“ウスノロ”だから……私の介入する隙間なんて無かった」

 左右は鷹取をゆっくりと床に下すと、彼女を壁に持たれさせた。鷹取は微動だりせず、まるで人形のように眠り続ける。左右は鷹取の髪に軽く何度か手櫛を通すと、僕達の方に向き直った。

「でも……私と乖田くんの我儘が、聖子ちゃんを助ける事だって……あるのかも」

 聖子は『どういう理屈よ!?』とでも言いたげな困惑した表情を浮かべるが、ふと左右の雰囲気がいつもと少し違う事に気が付く。胸をよぎる言い様のない違和感に、あえて何も言い返さずに彼女の一挙手一投足をまじまじと見つめ続けるのだった。

 ぶつかりあった、僕と聖子の主義。そこへ現れた第三の介入者。抜け殻であるはずの左右に主義や意志というものがあるとすれば、それは自分よりも他の誰かへ執心。そして今この場の他の誰かとは、佐渡聖子に他ならない。

 左右も気づいているのだろうか? 自分自身の“正解”に捕らわれている聖子が、少しずつ人としてズレ始め、大きな歪を生み始めている事に。聖子が聖子自身に……“神の声”に追い詰められ、本当の狂人になろうとしている事に。

 いや、気づいていて当たり前だ。だって、二人は親友なのだから。

「くく……くくく……」

 気味の悪い含み笑いを浮かべる聖子。

 僕は思わずぞっとした。

「……くっくっく……ひっひっひっひっひっひ……」

 一体何が可笑しいのか分からないまま、聖子は自分のお腹を抱えて笑い続ける。

 流石の左右も不安そうな顔で聖子を見る。

「……何、聖子ちゃん、どうしたの!?」

「ひーっひっひっひ、ひゃひひひ、ひひ……ひゃひひーっ!」

 本当に気が狂ってしまったのか!?

 と、思わせぶりな馬鹿笑いの中、ふと、聖子は左右の顔を指差した。

「……ふひひ。笑える。ひっどい顔。あてな、鏡見た?」

「見てない」

「見ない方が良いわよ。その顔、まるで……あんたまさか……ゾンビじゃないでしょうね? ひーっひひひ……」

 確かに、と僕は思った。

 彼女は酷い顔をしていた。

 髪はくしゃくしゃで、目の下には大きなクマ。表情はどこかやつれ気味で、ほとんど幽霊みたいな顔色だ。まるで失恋か、受験ノイローゼか、借金苦か、博打で大負けしたか、三日三晩一睡もできなかった不眠症患者か、あるいは聖子の言うとおり……

「……ふっ」

 思わず笑みが零れる。

 左右はむすっとした顔で僕の方を見た。

「……乖田くん、今笑った?」

「笑ってない」

「……ホント?」

 僕は誤魔化すように大げさに首を横に振った。

「笑ってない。笑えるはずがない。僕も左右も聖子も……みんな酷い顔だよ。何度も死にかけて、いろんな状況に疲弊して……もうボロボロだ。限界だ! なあ、紫電ノノ。僕たちを助けてくれよ。僕たちだってお前を助ける。僕は誰とも喧嘩なんてしたくないんだ。平和ボケの、偽善者の、ウスノロの、クソ雑魚野郎だからさ」

 僕は最後の言葉だけ、聖子に向けて言った。聖子は憐れみの籠った目で僕を見ていた。

「クソ雑魚だから喧嘩に勝てない。勝てない喧嘩はしたくない。それどころか、誰かに助けて貰わなくちゃロクに生きていけない。フクジュの時も、ゾンビに襲われた時も左右に助けられたし……ノノ、お前に襲われた時は二度とも聖子の奴に助けられた。男の癖に情けないと思うよ……! でも、僕だってこの状況に巻き込まれてる一人だ。思うところの一つや二つあるんだ。何かが間違った歯車に噛み合おうとしているのを、なんとか止めたいと思っているんだよ」

 ノノは口を半開きにしたまま僕の言葉を聞いていたが、ごすっ、と聖子がテーブルを蹴りつけると、慌てて両目を瞑った。

「あんたがやってる事は、腐ろうとしてる腕や足に『腐らないで!』ってお願いしてるようなもんよ! 切り落とさないと、自分が死ぬだけだわ!」

 聖子は相変わらず、自分の主張を曲げようとはしなかった。

 僕は彼女につかつかと歩み寄る。

「……か、乖田くん!」

 左右は僕の名前を呼んだ。

 一触即発。左右はそんな風に勘違いしたようだが、僕の本懐は別のところにあった。左右の予期せぬ登場と、その疲弊しきった顔つきのお陰で取り戻せた冷静さ……下らない自尊心で、大きな歯車どころか、危うく自分自身すら狂わせるところだった。

 僕は聖子の目の前に立つと、その場にゆっくりと膝をつき、続いて両手を床についた。

 土下座。

 生まれて始めての土下座だ。

「乖田くん!」

 さっきとは違うニュアンスで、左右はまた僕の名前を叫ぶ。

「……お前は正しいよ、佐渡聖子。お前の能力は完全無欠で、神様そのものだ。間違いを侵さないお前にとっては……他の人間の想像の及ばない程に、人の何十倍、何百倍、間違いってやつが恐ろしいんだろうな。でも、頼む! 一度だけ……一度だけでいいから、間違ってくれ! 

 ……僕は弱い。ここでノノや鷹取を犠牲にする事が、人として何か凄く大事なものを失う気がして、僕は恐ろしいんだ。そのためには頭だって下げる。僕のちっぽけな自尊心なんてどうだっていい。お前の自尊心を傷つける積もりもない。お前の心にほんの少しでも憐れみってやつがあるなら……騙されたと思って、一度だけ間違ってくれないか? 頼む……この通りだ!」

 沈黙。

 みんながどんな顔をしているのか、床を見つめる僕には伺い知れない。

 視界の端に見える聖子のつま先が、二、三度浮いて、地面についた。

 重く、静かな時間がしばらく続いた後、聖子はぽつりと、ほとんど誰にも聞き取れないぐらいの声で呟いた。

「やだ」

 聖子は小さな声で、確かにそう言った。

「アタシは絶対に間違えない。アタシはアタシの“正解”を選ぶ」

「聖子ちゃん!」

 左右は叫んだ。

「……ふん! 勘違いしてんじゃないわよ、うっかりあてな。あんたらがどうするか、黙って見といてやるってのよ……いくらアタシでも乖田とあてなの二人がかりじゃ、万に一つは負けるかもしんないし。勝算が確実と言えない戦いを選ぶよりは、静観こそが現時点でのアタシの“正解”なのよ。アタシはいつでも完璧で間違えない。それが佐渡聖子なの! 何が自尊心よ! あんたなんかがアタシの自尊心を傷つけられると思ったら、大間違いよ! 勝手にしろ! バーカ! アホ!」

 強がりの中に垣間見える彼女なりの妥協。正直な話、僕も左右も“万に一つ”も彼女に勝てる気はしない。でも彼女がそう言うのなら、きっとそれが正解なんだろう。“観測者”の観測結果に異論は無い。

 くるり、と後ろを向くと、彼女はこちらに背を向けたま捲し立てた。

「言っといてやるわ、ニセガンジー! あんたの甘っちょろい理想は、そのうち粉々に砕け散るんでしょうね。そんときゃ一体誰に頭を下げるつもり? 苛烈な生存競争に勝ち残れるのは、真に強い心を持った者だけよ! 弱者は弱者。だからって『僕は弱い』なんて、二度と言うな! 頭も下げんな! それさえ約束するなら、アタシはあんたの言葉にほんの少しだけ耳を貸さないでもない。例えあんたがどうしようもないウスノロでも、多少は大目に見る。アタシは主義に生きる人間だからね。卑屈な奴はつまんない。つまんない奴はゴミッ! ゴミに生きる価値なんて無し! 以上!」

 口汚く身勝手な叱咤は、それでも彼女なりの優しさなんだろう。

(……肝に銘じとくよ)

 と、僕は思った。

 顔を上げると、同じ目線の高さに紫電ノノの顔があった。彼女は戸惑っていたが、先程までの死にもの狂いの形相とは違い、ただただ理解が及ばないといった様子。やがて自分や鷹取が助かるかもしれない事を把握し、理解がじわじわと実感へと変わるにつれ、ゆっくりと安堵の色を伴い始めるのだった。

 が、それも束の間。

 ノノは瞬く間に青ざめ、唇をぎゅっと噛み締めるのだった。

「……あ、あたしを助けてくれんの?」

「お前の協力次第だな」

 僕は言った。

「……あ、あたしに出来る事は、全部協力する。あたしがどうして鷹取を助けて、町がこんな事になったのかも……全部話す。もう変な意地を張ったり、あんた達の寝首を掻こうなんて思わない。だから、一生のお願い。それも、可及的速やかに……!

 さ、さっきの水責めで、いっぱい飲んじゃったの。大量のお茶があたしのお腹の中に溜まってんの……分かんでしょ!? あたしの体の中でのっぴきならない生理現象が起ころうとしてんのよ……! お願い! このゴムロープを解いて! お……おしっこ行かせて! マジで漏れそう! 人前でおしっこちびるぐらいなら、死んだ方がマシ! なあ、乖田! 乖田くん! お願いします! 今すぐこの拘束を解いて! ちびりたくない!」

 僕は慌ててゴムロープに手をかけたが、ゴムは限界まで緊張しており、取り外す事は出来なかった。おまけに完璧に型結びにされており、解くことも出来ない。気持ちだけが急いてまごついていると、ノノの悲痛な叫び声はどんどんその勢いを増していく。

 左右はあたふたとハサミを探していたが、目につくところには見当たらない。棚にペン立てがあり、それっぽいような物を見たような気もしたが……事実無いものは無く、窮地の願望は偽の記憶まで拵える。

 迫りくる限界。おしっこより先に、ノノの目から涙が零れ始める。

「やだ、やだやだやだやだ! 殺して! おしっこちびる前に殺してーーッ!」

 時間と共に急速に落ちていくノノの生還率は、もはや絶望的なものとなっていた。コンマ一秒単位で彼女の膀胱の内圧は増し、全てを終末へと導く。

 ふと、じっと背を向けたままの聖子に僕は違和感を覚える。

「おい、聖子。お前も手伝えよ! ゴムが外れねえんだよ!」

「お願い、殺して! 早く殺してーッ!」

 と、その時。

「おっとと」

 ちゃりん、と聖子の足元にハサミが落ち、僕達は思わずぎょっとした。

 ハサミはずっと聖子の手に握られていたのだ。

 自分の正解を曲げられた事に対するせめてもの逆襲だろうか、この状況を予知した彼女のささやかな悪戯。

 そう、全てはささやかな事だ。

 宇宙規模で見れば、布団のダニがした糞の、更にその中を這う微生物がする排泄物以下の、ミクロの中のミクロな出来事。

 しかし、それを仔細に明記するのは紫電ノノの名誉を著しく損なう行為であり、彼女はダニでもなければ微生物でもない。あくまで彼女は一人の“思春期の女の子”で、彼女の中には宇宙よりも大きく掛け替えのない“自尊心”というものがある。

 僕は自分の目にした出来事を、出来るだけ正確に、嘘偽りなく、湾曲の無い形で述べるつもりだ。とは言え、彼女の自尊心は守られるべきで、一連の事件に無関係なプライバシーを漏洩する権利なんて当然僕には有り得ない。どんな好事家がこの文章を読んでいようと、この一件に関する結末について言及することはないし、シュレディンガーの猫よろしく『重ね合わせの状態』として、彼女の尊厳が“生きながらにして死んでいる”ものとさせて頂く所存である。

 つまるところ、その場にいた連中の心のなかに永遠に留められるべき出来事も、この島では起こっていたかもしれないし、あるいは起こっていなかったのかも。

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