10 幸せなんて、糞食らえ!

 動画の中で、大淀スバラシ会の広報担当・貝川歩は、相変わらずの鉄面皮を崩す事無く、それでもどこか憤りを心の内に抱えた早口で、言葉を紡ぐ。

「全く馬鹿げた話であります。異能者が異能者としての輝かしい第一歩を踏み出そうとした矢先、同じ異能者がこの淡風をゾンビまみれにしてしまうとは、言語道断、不埒千万。

 この事件の首謀者は我々“大淀スバラシ会”とは無関係であるばかりか、紛うこと無き“反乱分子”であると我々は認識しており、一刻も早くテロリズムを収束させんと努力を惜しまぬ所存であります。

 ルールを悪が勝るなら、更なる正義が必要です。正義には力が必要で、我々は力を持っている。今の淡風を救えるのは、大淀スバラシ会の他に存在せず、詰まるところ我々は我々の信念に基づいて行動に移す他ありません。他人の命をゴミ同然に扱う輩を……そんな人間の命を大事にする道理がどこにありましょう? 能力者が死ねば、島民の呪いも解かれる。それなら我々がやるべき事は一つです。

 『キル・ザ・ネクロマンサー作戦』は、この動画を投稿した現時刻を持って発令となります。我らは正義の女神の剣となって、ネクロマンサー(ゾンビ使い)とそれに荷担する連中を一人残らず断罪する者でございます。剣には一切の慈悲も同情もありません。それこそが今、この淡風で必要とされている全てでありますから」

 貝川歩は冷ややかにカメラを見ながら、自分の首を掻き切る真似をし、まだ見ぬ事件の犯人……ネクロマンサーを威嚇した。

「キルでございます! ピースはありません。キルこそがピース。ピースこそがキル。日本という国は平和はタダであると勘違いしておりますが、ここ異能者の国では平和の本当の有り様を目の当たりにする事でしょう。すっトロい政府に付き合う必要は無いのです。行動無きところに幸福は存在せず。皆様が安心して眠れる日まで、我々は戦い続ける所存であります。それでは、ごきげん……」

 と、貝川が全てを言い終える前に、動画は終了した。よほど急ピッチで撮られたもので、最終チェックも甘かったのだろう。

 とにかく、この動画がフー・チューブに投稿されたのと時を同じくして、僕はまさに窮地を迎えていた。

 ゾンビに噛まれてしまった。

 自分がどうなってしまうのか、分かりきった結末を理性が受け止めきれず、ただただ本能だけが事態を悟り、絶望を促す。次の瞬間、僕は知性もモラルも愛情も全てを失った歩く屍となり、すぐ隣にいる左右あてらを襲って破滅に転がり落ちていくのだ。

 あっけないバッドエンド。

 目の前が真っ暗になり、重たい緞帳がゆっくりと幕を下ろす。

「きゃぁぁぁぁっ! 乖田かいだくん!」

 左右の絶叫。劈くような悲鳴に、鼓膜が痛む。

 ふと、妙な違和感を感じる。

 僕の右腕には確かにミイラゾンビが齧り付いている。そして、その呪われた歯はざっくりと肉にめり込んでいる。しかし……不思議な事に、血が一切出ていないのだ。アドレナリンがもたらす錯覚でも何でも無く、痛みも無い。

(……畜生!)

 僕は慌ててミイラゾンビのどてっ腹を蹴飛ばし、相手を壁際に叩き付けた。どしん、と家が揺れると、天井からぱらぱらと埃が落ちる。

「乖田くん!」

 左右は僕の名前を呼ぶ。

「……まだ意識がある……?」

 見ると、僕の腕は確かにくっきりと人の歯形にへこんでいた。が、まるで作り物にでもなってしまったかのように何の感覚も無く、おまけに拳を握る事さえ出来無い。

 いや、違う。まるで、じゃない。

 僕の腕は“作り物”になっていた。

 ピノキオよろしく、完全な“木の腕”になってしまっているのだ。

 深い茶色に浮かぶ年輪の跡。無事な方の手で触ってみると、紛れもない本物の質感を感じる。ゾンビの歯を通さなかったのは、毒を運ぶべき血も肉も存在しなかったからだろう。

 うなり声。ミイラゾンビはまた立ち上がり、こちらを真っ直ぐ睨んでいる。

 混乱のまっただ中、相手との衝突に備えようと身構えたその時……

「おらよッ!」

 奇声と共に突然、ミイラゾンビの頭上にすっぽりと投げ縄が落ちてくる。縄はミイラの胴の辺りまで垂れ下がると、一息にぎゅっと奴を縛り上げた。カウボーイがやる、アレだ。

「ふげらろろろこいきいあぎぎぎぎ!」

 強力な緊縛により強制的に取らされた“気をつけ”の姿勢のまま、ばたん、とミイラゾンビは地面に転がってしまう。不気味な呻き声と共に、まるで釣られた魚のように地面をのたうち回る。

 縄の先には……酔っ払いオヤジが立っていた。酒臭そうな息を荒げながら、彼はまるで曲芸のような意外な特技を用いて、ミイラゾンビを拘束したのだ。

 いや、意外でもなんでもないのかもしれない。改めて見れば、ジーンズにシャツ、馬を模したバックルや、脛まである派手な装飾のブーツ……それに、バーボンと……インディアン!

「……か、カウボーイだったのか!?」

 僕は思わずそう叫んだ。

「いや、趣味だ!」

 オヤジは言った。

「だが……やはり、西部劇は最高だぜ! お前も見とくんだな!」

 ぎゅっと縄の締め付けを強めると、ゾンビは更にじたばたともがく。よくも縄なんて見つけていたもんだ……と思ったが、無責任とさえ思える楽天的な振る舞いとは反して、火事場泥棒なりのゾンビ対策を見つけておいたのだろう。そしてそれは、危なっかしい博打の末の偶然とは言え見事に功を奏している。

 ただ、僕がこうして平常を保っていられるのは、偶然を遙かに越えた“奇跡”によるものだった。改めて自分の腕を見ると、まるで幻覚か何かだったようにいつものひょろっとした腕に戻っていた。一体、何だったんだ? 神様が助けてくれたのか?

「おい! 何ボサっとしてんだよ!」

 オヤジが倒れている鷹取に顎をしゃくって、僕と左右ははっとした。

「そ、そうだ! こいつももうすぐゾンビに……」

 僕は慌てて自分のベルトを外すと、鷹取の腕に手錠のように巻き付けた。左右は何かの電化製品のケーブルで足をぐるぐる巻きにしている。

「……ごめんね、鷹取さん! ……でも、全然動かないのはどうして?」

 左右が言った。確かに、無駄と知らずにもがき続けるミイラと違って、鷹取は両手両足を縛られても、ピクリとも動かず畳に寝転がっている。足には決定的証拠のようなゾンビの歯形がくっきりと浮かんでおり、僕たちを怖がらせるのだった。

「……くっそ……おい、あっちの部屋にバスタブがある。そこにこいつら放り込むぜ!」

 オヤジはガラガラと襖を開け、もがき続けるミイラゾンビを引きずって行った。僕と左右は鷹取が一向にゾンビ化しない事に首を傾げつつも、言われるがまま担ぎ上げ、ふらふらとオヤジの後をついて行くのだった。


 外から町内放送の歪んだメロディが聞こえてくる。時刻のお知らせってやつだろうか? よほど遠くで鳴っているのか反響した音像は朧気で、疲労にぼんやりした頭を更に弛緩させるようだった。

 音楽が終わると、続けざまに『よい子のみなさんは、まっすぐお家に帰りましょう』という録音アナウンス。帰れるもんなら、帰りたいってんだ。現時刻は22時18分……随分と妙な時間に流れているが……この異常事態の中では、些細な間違いぐらいにしか感じられない。

 とにかく、バスタブから聞こえる呻き声を除いて、僕たちはまた一時の安堵を手に入れた。流石のオヤジも堪えたのか、あるいはミイラ男という頼れそうな人間がいなくなったためか、神経質そうに町の様子を眺めながらベランダでタバコを吸っていた。混沌とした一日に弛んだ思考を今一度働かせるため、僕は二、三度大きく深呼吸をした。休むのは全てが終わってからでいい。

「……ふう……」

 なんとか喋れそうな心持ちになり、僕は言葉を紡ぐ。

「確かに、僕の腕は肘から指先まで木になっていた。カチコチに固まってたんだ」

 当然、先ほどのイザコザで放置した疑問を洗い直す必要がある。

 僕の命を救った、例の奇跡だ。

「まだカチコチなの?」

「いや、割とすぐに治った」

 左右は僕の右手をつついてみるが、僕の腕はとっくに普通の肉感に戻っており、彼女の人差し指がほんの少し沈むのだった。

「……乖田くんの新しい能力なのかも」

 左右は言った。が、僕はすぐに首を横に振った。

「……違うと思う。これは多分、左右の能力だ」

 左右は、きょとん、とした。

「私の?」

 僕は頷いた。

「これにそっくりだった。この民家の柱みたいに、丈夫で重たい木になっていたんだ」

 こんこん、と僕は柱を叩いた。

「今この場で一番イメージしやすい材質になったんだとすれば……なんとなく左右の能力に似てないか?」

 左右は人差し指を顎に当て、ちょっと考えた。

「……私は何もしてないよ。何も出来無かった。あの瞬間、私は『神様、助けて!』って祈っただけ」

「でも、神様は助けてなんてくれないだろ」

 聖子しょうこは『神様の声が聞こえる』なんて表現を使うが、もちろん声の主は神様なんかじゃない。彼女の内なる宇宙が産んだ幻聴だ。そして今回は、左右の中にある宇宙が僕を助けた……と、僕は仮定している。

「ひょっとすると、僕も左右自身も、左右の能力を根本的に勘違いしてたんじゃないか?」

「勘違い……?」

 左右は口元を抑えながら、少し顔を俯かせた。

「……左右は前に、僕の胃に海水を流し込み、フクジュの呪いを解いてくれた。じゃあ、その海水はどこから来て、どこに消えたんだ? 左右の想像の世界から? 元々の場所にあったものはどこに行ったんだ? 何も無いこの空間だって、本当は空気っていう物質があるはずだぜ?

 海水も、砂粒も、音階の階段も……何も無い空間に生まれたんじゃなく、“空気が変質した結果”なんじゃないのか? そう考えれば今回のこの現象だって説明がつく。左右はその能力で、僕の右腕を“変質”させたんだ。この民家を構築している“材木”を連想して」

 左右は微動だりせず僕の説明を聞いていた。あくまで平静を装っていたが、彼女の中で何か嫌な予感が働いているのか、ほんの少し表情が曇りつつあるのが僕には分かった。

「……じゃあ、今まで音でしか能力を発動出来なかったのは?」

「それが左右の得意分野だから。左右の能力の本質が『イメージに必要な何らかを原本(オリジナル)として、現実に対して一時的に転写する』能力だとすれば……それは音でも光でも触感でも、あるいは匂いや味なんかでも、本当は何でも良いんじゃないか? 対象も空間だけじゃなく、この世のありとあらゆるモノがキャンバスっていう」

「つまり……」

「左右は“産み出す”事と“音”にこだわりすぎてたんだ」

 まるで嫌な予感が的中したように、ぎくり、と左右は身を強ばらせる。

「左右の能力は、具象化でもなんでもない。本質は……多分“コピペ”なんだよ」

「……コピペ……?」

 左右はぽつり、と呟く。

 彼女はしばらく口元を覆ったままじっとしていたが、視線は落ち着き無く宙を彷徨う。やがてみるみる内に顔中が真っ青になり、くるり、と僕に背を向けてしまった。“聴いた音を現実に具象化させる”という発想が、彼女のアーティスト然とした勘違いだとすれば、僕の言葉もさぞ嫌味に聞こえたに違いない。

「や、その……コピペっていうのは雑な言い方だったけど……率直に言えば、そういう事なのかなって」

 コピペをパクリの類義語として捉えるなら、それは表現者のプライドを悪戯に刺激する実に浅はかな言葉選びだ。無粋な言葉を使うんじゃなかった! と、僕は少し後悔した。

 しかし、その後悔すら浅はかな誤解だった事に、すぐに気がついた。

 左右が目の前に右手を翳すと、めきめきと音を立てながら、木の枝に姿を変えていく。

 体は女性で、腕だけが植物になったイビツな佇まい。

 彼女の新しい能力の開眼に興奮する僕とは対照的に、彼女の顔はいっそう暗い陰を落とし、今にもその場に崩れ落ちそうになっていた。

「……私……また……」

 と、彼女は呟く。

「また私……音楽に固執してたんだ……未練たらしく……」

 彼女は僕の失言に対して何の感情も抱いていなかった。彼女を支配していたのは、彼女の中で複雑にせめぎ合う葛藤。環境と才能と理想と現実に雁字搦めになってしまっている彼女に対して、僕は何の言葉もかけてやれなかった。いや、どんな言葉をかけたところで、遠く届かないような気がした。

 僕が口ごもっていると、左右は辛そうに笑った。

「……かっこ悪い? ピアノが好きでもなんでも無いなんて言って……完全に辞めたなんて言って、本当は未練ばっかりで、結局、何も捨てきれない」

「そりゃ……好きなんだから、しょうがないだろ」

 と、僕は言った。

「左右がピアノを好きだなんて、音を生み出す事が好きだなんて……そんなの誰も否定しようの無い事実だ。じゃなきゃ、それこそ左右の半生は救われない。

 ただ……今この場の状況は、そんなもの許しちゃくれない。生きるためには自分を捨てなきゃいけない事もある。左右は無意識にしろ自分のプライドを捨てて、音という制約を振り切ってまで僕を助けてくれたんだ。感謝こそすれ、かっこ悪いだなんて……」

 左右は少し赤くなった目で、きっとこちらを睨み付けた。

「でも、家族は助けられなかった」

 怒りとやるせなさが混じった張り詰めた声色で、彼女は言った。

「お父さんを追い詰めたのは、その下らない“好き”って感情のせいなの。私は辞めようと思えば、もっと早くピアノを辞められたはずなのに……ピアノが好きで好きでどうしようも無くて、誰にも負けたくないってプライドが無ければ、体が壊れちゃうぐらい無茶やらなかったのに……!

 お母さんの厳しい教育に進んで飛び込んでいたのは実は私自身で、それが両親の不和の原因だって思ったら……私って……最低じゃない? ピアノに対する私とお母さんのプライドのせいで、お父さんだけが巻き添えを食って、一人だけ仲間外れで孤独に苦しんでたなんて……!」

 ぷつん、と何かが切れたような彼女の深く静かな吐露。

 いつもは微笑みや無表情という堤防が塞き止めている感情が、一旦溢れ出すとその勢いは止まる所を知らなかった。

 僕は今度こそ慎重に、言葉を選んだ。

「やりたかった事なんだろ? おじさんが最後まで応援してくれたのは、それが左右の幸せだったからだろ?」

「幸せなんて、糞食らえ!」

 左右は聞いたことの無いような汚い言葉で罵った。

「……そう。幸せなんて要らない。私にはそんな資格無いし、これ以上不幸のなりようも無い。私の人生は時計の針と一緒に進んでいるだけ。私の青春は、夢は……もう終わったの。静かに、誰にも迷惑をかけず、何も望まず、植物のように……私はそうやって生きなきゃダメなの。ねえ、乖田くん」

 左右はまっすぐこちらに向き直り、木になっていない方の手で、ぎゅっと自分の胸の辺りを掴んだ。やがて髪は葉をつけ、顔半分には年輪が刻まれ、片目がちょうど木の節穴に変わっていく。見る見る内に彼女の体は植物へと姿を変え、そのまま永遠に元に戻らないんじゃないかとさえ思えてくる。

「あ、左右!」

 僕は動揺し、思わず叫んだ。

「乖田くん。私を使って幸せになって。そうすれば私の人生の……少しは慰めになるかも」

 黒く塗りつぶされたような光の無い瞳に、僕はぞっとした。彼女の体の後ろに、歪んだ渦のような揺らぎが見える。止めどなく漏れ出す彼女の混沌。動揺した僕に彼女の言葉が伝わるのには、いくらかの時を要した。

 いや、いくら時を要しても、彼女が言おうとしてる事なんて一つも分からない。

「……それがいいよ。私を使ってよ、乖田くん。私は私を持てあましてる。だから……この命を勝手に使ってくれれば私は嬉しい。好きなんて要らない。プライドなんて要らない。幸せなんて……もう要らない。どうして幸せになる必要があるの? 私が幸せになった所で、誰かが幸せになるの?」

「あ、左右……もう、やめろ!」

 痛々しいドリアード然とした姿を、僕は直視せず言った。

「……左右は僕の命の恩人だ。あんまりぞんざいに扱わないで欲しいな!」

 そう言い残し、僕は逃げるように部屋を後にした。心臓が激しく脈打ち、興奮が収まらない。全身が痺れ、脳髄も痺れ、自分が何を言ったのかも思い出せない。

 うかつな馬鹿野郎だ! 彼女が執念で積み上げた人生はあまりにも高すぎて、ほんの少しつつくだけでぐらぐらと揺れて崩れ落ちてしまう。気丈な優等生は仮面の姿で、彼女の本性はアンバランスで未熟なものなのに。彼女が自分を保つには、全てを諦める他に無く、僕が悪戯に刺激しなければ諦めている事すら忘れていたはずなのに。

 病気を患い、辞めざるを得ない状況になり、彼女はピアノを辞めた。家族を繋ぎ止める為に嫌々やっていたと彼女は言っていたし、古傷として残った思い出は、酔っ払いオヤジや鷹取のような何の事情も知らない第三者に(自覚の有る無しはさておき)事あるごとにえぐられる。本当はもう綺麗さっぱり忘れてしまって、次の人生を進んで行くべきなのに。

 それでも、彼女は本能で音にこだわっていた。彼女はやっぱりピアノが好きだったのだ。自分の指でこの世に音を紡ぐのが、美しい演奏を奏でて自分や他人を幸福にする事が心の底から好きだったのだろう。そして否応なしに引き剥がされた“好き”という感情の裏返しが“音による具象化”という能力の勘違いで、それは彼女自身が絶対に認める事の出来無い無自覚なこだわりだったのだ。それを認めてしまえば、忘れていたはずの願望が彼女をまた強く縛り付けてしまう……願望の行き着く先は“淡風の神童”や“平和な家庭”という理想の牢獄。彼女の人生はそこに永久に捕らわれ、まるで植物のようにどこにも行く事が出来無くなってしまう。

 ちらり、と一度だけ振り返ると、左右は元に戻っていた。部屋の中央に突っ立ったまま項垂れ、自虐の渦巻く感情に必死に耐えている様子だった。

 ぐつぐつ煮えたぎる絶望に蓋をして、少しでも穏やかな人生であると思い込む。自分は虚無だと、信じ込む。

 そんな彼女を救うことが出来る人間なんて……この世には居やしない。

 それこそがまさしく絶望なのだった。


 ふらつく足でダイニングまでやってくると、冷蔵庫の中にあった麦茶を勝手に拝借し、渇きに渇いた喉を潤わせた。一息に飲み干して、また注ぎ直す。自分自身の行動に理性が伴わず、頭の中は彼女の事で一杯だ。

 ……左右、左右、左右、か。

 前に聖子が、彼女に対して『アタシとは違う闇を抱えている』と言っていたが、その理由がよく分かった。面食らうどころじゃない。顔面に強烈なストレートパンチを不意打ちで食らったみたいだった。

(左右は命の恩人だ。僕も自分の力で左右を救えればって思ったけど……異能者ってのは、無力なもんだな! 彼女の命を救えても、彼女の人生を救う事なんて出来やしない。どれだけ人の力を超越しても、本質は何も変わらないんだ。『私を使って』なんて左右はヤケクソ気味に言ってたけど……じゃあ、僕は僕の能力を一体誰のために……?)

 ふと、携帯のバイブレーションがズボンのポケットを振るわせる。

 聖子だ。

「あ、もし? 無事?」

 聖子の声は、歩調に合わせて少しブレている。どこかへ移動しながら電話をしているのだ。

「聖子か……」

「……何よ。滅入る声出さないでよ。何かあったの?」

 相変わらず勘の鋭い奴だ。僕は首を振って、気持ちを切り替えた。

「……いや、何でも無い。どんな感じだ? 解決策は?」

「愚問だわね! アタシという天才に対して」

「マジか……!」

 前回の電話では彼女にしては妙に自信無さげな口調だったが、いざ解決策が見つかってみるといつもの増長慢。きっと見つけてくれると思ったし、それでこそ佐渡聖子だ。

「お前なら見つけてくれると思ったぜ! 頭痛はもう大丈夫なのか?」

「ラムネ食ったら治った」

「ラムネ? なんでラムネ? ……まあいいや。にしても、良く分かったもんだな。どうやって分かったんだ?」

 ふふん、と聖子は得意げに笑った。

「能力を解放して町を見ていると、いろいろ見えてくんのよ。災害の発生時刻における町の予想人口密度とか、ゾンビの一般認知度に基づいたゾンビパニックの際の心理状況と逃走経路とか……それらを考慮して被害想定を感染源が単体、複数、能力者自身の場合でそれぞれシミュレートし、実被害の状況と照らし合わせて事実を仮定する。ゾンビの数だけじゃなく、逃げ隠れしている人々、死体の数や血痕の渇き具合、割れたガラスの散らばり方、道ばたに落ちている紙切れについた足跡、ぶちまけられたコンビニ弁当の米粒……見聞きする情報全てが真実の声よ。

 で、真実と仮定のカオスから推測するに、感染源は単体で、効力に能力者を中心とした範囲的制約があり、ゾンビによる暴力行為は能力者自身にまで危険が及ぶものだとアタシは判断したわ。能力者がこの場に止まりつつ己の身を守る必要があるなら、事を構える前に最初から安全地帯にいるはず。ゾンビの身体能力や特徴からセーフハウスとして機能する建物の候補を特定し、更にその中からまだ安全と判断できる場所を絞り込んで……」

「あー、いい、いい。分かった!」

 途中から僕は聞いてなかった。

「訊いたのテメーだろがよッ!? ……ま、とにかくアタシは、この状況における自然を徹底的に洗って、その中の不自然を探していたのよ。特異点ってやつね。作為的な事に不自然は付きものってワケよ」

「……で、その不自然の中心は? どこなんだ?」

「それなんだけど……」

 聖子はいかにもな口ぶりで、一度言葉を切る。

「あんたら、酒屋にいるんだっけ?」

「ああ」

「まさかとは思うけど……『酒屋物語』?」

「……そのまさかだけど」

 僕と聖子は一瞬、お互いに息を飲んだ。

「世の中には都合の良い不自然ってのがあるワケよ」

 と、聖子は言った。

「これはフクジュの能力の反作用かもね! アンタの不自然な不幸が、不自然な幸福としてこうやって収束したんだわ。作用と反作用、効力と代償。異能能力は常に同じだけの逆の力が働いてるわけ。いい? アンタらが避難している『酒屋物語』に、恐らくネクロマンサーは居る」

「……ネクロマンサーって、ゾンビ能力者の事か?」

 そうよ、と聖子は言った。

「スバラシ会の連中が勝手につけた呼称で、連中はネクロマンサーを見つけて殺すって言ってる。あんのイカレポンチ集団……ま、見つけたのはアタシが先だけど。あんたと左右の他にそこに避難してる奴っている? 怪しい奴は?」

「いる。鷹取ココロっていう女子高生。ゾンビに噛まれてぶっ倒れたけど、ゾンビ化はしてない」

「ふーん。他は? 店の中に怪しい奴は?」

「二十代ぐらいの会社員と、四十過ぎの飲んだくれ。二人とも男で、一人はゾンビになった。ゾンビは鷹取と一緒にバスタブに放り込んでるから、とりあえず心配はいらない」

「おっさんはおっさんだから異能者じゃないわね。それだけ? 店の中はくまなく調べた?」

「調べてない」

「調べないで待ってなさいよ。まだ仕掛けられて無いなら、罠を張って待ってる可能性がある。その鷹取って奴がネクロマンサーって可能性は極めて高いけど……何かヘンだわ。なんでそいつはゾンビに噛まれたの? 事を起こしといて噛まれるなんてドジ過ぎない?」

「何ていうか……変わった奴なんだ。すっとぼけてるというか、会話が成り立たないというか……僕はあいつが、今までどうやって生きてきたか不思議なぐらいだ」

「最初っからゾンビだったんじゃないのぉ、そいつ? とにかく、アタシが行くまでじっとしてなさい。あと四、五分で着くから」

「分かった。裏口の鍵を開けとくよ。けどお前ホントに大丈夫なんだろうな? いま外歩いてるのか? ぞろぞろゾンビを連れて来られちゃ、こっちも素直に入れてやれねーぞ?」

「ダイジョブダイジョブ。ゾンビはみんなお家に帰ったわ。さっき田舎放送が流れてたの聞こえてたでしょ? ゾンビどもが暇そうにしてたから、アタシが流してやったのよ! 自分達の帰るべき場所を見つけたって感じで、みんなスピーカー目指してふらふら歩いて行ったわ。アタシは“アタシだけの町”を悠々自適に歩いて帰っから、ちゃんとドア開けとくのよ?」

 流石だな、と僕は思った。

「……分かった。待ってるぞ!」

 僕は電話を切ると、麦茶をもう一杯飲み、そそくさと階段を降りていった。

 一階は事務所と店舗に分かれており、民家と事務所部分が直結していた。ゾンビを寄せ付けないように店舗部分は電灯を切っていたが、ひっそりと佇む無数の酒やフリーザーの低く無機質な音は、ゾンビというよりお化けが出て来そうだった。

 ぱちん、と僕は事務所の電気を点ける。事務所というより、二階の住居ゾーンへの通路のようなもので、デスクとパイプ椅子がスペースを取りすぎており、かなり窮屈だった。倉庫と便所らしきドアの前を通り過ぎ、裏口のドアにやってくる。

 裏口の鍵を開けて彼女との約束を守る。本当に大丈夫なんだろうな、という懸念もあったが、僕は基本的には聖子を信じる事にしていた。あいつさえ来れば後は何とかしてくれるだろうという妙な安心感は、癪だけど否定出来ない。

(しかし……ネクロマンサーが鷹取だった場合、聖子はあいつを殺すんだろうか? それとも、他に手段が? 時間が無いのは同じ事だし、それにスバラシ会がネクロマンサーを探してるって言ってたな……)

 僕は考えながら、トイレの電気を無意識に点けた。麦茶を飲み過ぎたらしい。

(ネクロマンサーを殺す邪魔をすれば、僕たちもスバラシ会に殺されるんだろうか……?)

 がちゃり、と便所のドアを開けると……

 先客が居た。

 傲慢で意地悪そうな顔、ウェーブがかった金髪、ちんまりとした背丈。

 ……紫電ノノ?

 なんで紫電ノノがここに!?

「おらぁっ!」

 めごっ、とノノの強力なストレートパンチが、僕の顔面にクリーンヒット。目の前に火花が散り、血の臭いが鼻腔に広がった。続けざまに、膝蹴りが鳩尾にめり込む。

「ぐはっ!」

 性別や体格差なんて関係の無い苦痛に襲われ、僕はその場に崩れ落ちた。

「ノックしろやゴミ! 変態!」

 そう言うノノだが、別にパンツを下ろしてはいない。わざと鍵を開けて、不意打ちをカマすために待ち構えていたのだ。

「げほっげほっ……ろ、ロリコン趣味は……無……ぶはっ!」

 ノノがうずくまる僕の頭を蹴り飛ばす。

「誰がロリだ! お前と年齢変わらんわ! ボケナスッ!」

 ……顔中がガンガン痛む。痛みの引くのが遅いのは、瞬発力による加速治癒が機能していないためだ。今日一日、能力を酷使しすぎた!

 ノノは僕の髪を引っつかんで無理やり頭を上げさせると、バタフライ・ナイフを取り出し、首元にあてがった。

「鷹取ココロんとこに連れてけ」

「鷹取を……どうするつもりだ? 殺すのか?」

「殺すのはお前だけよ、乖田夕。タマぞうともりおじの恨みをここで晴らしてやってもいいのよ?」

「オシャレな眼帯だな」

 紫電ノノの右目には、何故か眼帯がしてあった。真っ黒の生地に、赤い炎が刺繍してある。高校生になって、突然中二病に目覚めたのだろうか?

「話逸らしてんじゃねーわよ! イラつく奴ね!」

「お前はスバラシ会だろ? 鷹取は……ネクロマンサーなのか?」

「お前の知ったことじゃないわ! ぶっ殺されたいの!?」

「殺されたくない」

「だったらさっさと歩けって言ってんのよ、この……」

 と、その瞬間。

 ばきゃっ、と鈍い骨肉のぶつかる音がしてノノは吹っ飛んだ。

 いつの間にやら聖子は裏口からこっそり入っており、ノノの横っ面に不意打ちの鉄拳を食らわせたのだ。

 ノノは激しく事務所の床に倒れ込み、バタフライナイフを落としてしまう。慌てて這いずりナイフに手を伸ばすが、僕は容赦無く彼女の手の甲を踏みつけた。

「あぎゃっ!」

 そして、ナイフを遠くに蹴り転がし、ノノの頭を膝で押さえつける。ノノは悔しそうな表情で突然の乱入者を睨み付け、ぎょっとした。

「……さ、佐渡聖子……! なんでここに!?」

「努力は報われんのよ、クソチビ」

 聖子は何かをぼりぼりと囓りながら、そう言った。空箱を三つ……四つ、テーブルに放り投げる。

 聖子の放ったのはラムネの箱じゃない。頭痛薬だった。一錠や二錠じゃない。箱単位で彼女は頭痛薬を飲んで、ネクロマンサーの居場所やゾンビ対策、そしてこの紫電ノノの罠に対する“予知能力”を発揮していたのだった。作用と反作用、効力と代償。努力を越えた自己犠牲に、僕は思わずぞっとした。

「ノノちゃん、アタシらには時間が無いんですわ。喋る事喋って貰わないと、どうなるか分っかんねーわよ? 今日はお人形も連れて来てないんでしょ?」

 聖子はノノに顔を近づけ、相手の恐怖心を煽る。

「……お前らなんかに喋る事なんて何一つ無いわ! キチガイビッチ! ホモ野郎! やれるもんならやってみろ! くそカスどもがーーッ!」

 ふーん、と聖子は眼鏡をくいっと上げながら、相手を冷たく見下ろす。

「……楽しい事言ってくれるじゃん?」

 そう言って、聖子は不敵な笑みを浮かべた。

 彼女の笑みを見て、不意に自分の運命を予感した紫電ノノ。

 初めてその憎たらしい顔に、絶望の色を交えるのだった。

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