9 トーキング・デッド
ちゃぽん、と液体がガラス瓶の中で踊る音が部屋の中に響いた。
白髪交じりの短く刈り上げた髪、そして無精髭。汚らしいジーンズに黄ばんだシャツ。
いかにもだらしなさそうなオヤジが、ウイスキーを瓶のままあおり、じっとこちらを見ている。畳の上に図々しく寝転がり、時折酒臭そうなゲップ。鼻のテッペンまで真っ赤で、既に出来上がっているのは誰の目にも明らかだった。少し離れたところに僕たちを助けてくれたミイラ男が壁を背に立っており、等間隔の距離に長い黒髪が印象的な女子高生、そして僕と
僕たちの逃げ込んだ“酒屋物語”の二階は至って普通の民家で、内装の全てが古ぼけていた。草臥れた座布団、変色した襖、今時なかなか見る事の出来無い土壁。全員が全員土足でいるところを見ると、家主はここにはいないらしい。
「……金は払ったのか?」
ミイラ男が訊ねるが、オヤジはまともに取り合う様子も無く、まあいいじゃねえかと言わんばかりにニヤつくだけ。恐らくはオヤジの手にあるウイスキーの事で、避難場所が避難場所だけに、躊躇の無い火事場泥棒の結果なのだろう。
とはいえ、僕たちも他人事じゃない。時間が経てばゾンビ達が自然と人間に元に戻るのか、あるいは半永久的にこのままなのか。もし後者の場合、打開策も何もない僕たちはこの“酒屋物語”に軟禁され続ける事になるし、やむなく食料を『お借りする』他ない。
ミイラ男は包帯の隙間から呆れ顔を覗かせ、ぼりぼりと頭を掻くと、首を横に振った。火事場泥棒はもちろん、そもそもこの状況で酒に溺れるなんて事自体が、彼にはとっては信じられない事のようだった。
「……この非常事態に、子供三人、大人が二人。それが、子供三人に大人一人、酔っ払い一人になる。この意味が分かるか?」
ミイラ男は言った。
「子供三人、酔っ払い二人になったらどうだ? バーボン飲み放題だぜ?」
オヤジがウイスキーをミイラ男に勧めてみるが、当然ミイラ男は取り合わなかった。やれやれと首を振り、包帯を巻いた顔をそっとさする。包帯にはうっすらと血が滲んでおり、うずく痛みに顔をしかめるのだった。
「あの……大丈夫ですか?」
左右がミイラ男に訊ねる。
「ああ。ゾンビに引っ掻かれて、危うく鼻がもげるところだった。くそっ……」
ミイラ男の着ているカッターシャツはところどころ破けており、激しい争いの跡が伺える。僕と左右は異能者二人がかりで首の皮一枚だったのだから、よくぞ無事に逃げ切れたものだ。
ミイラ男は左右と僕を順番に見据える。
「……気を悪くしないで欲しいんだが、君らは異能者なのか?」
僕と左右は顔を見合わせ、同時にうなずく。
「はっはっは……良かったなァ。子供一人に、大人一人、酔っ払い一人に、異能者二人だ」
オヤジは皮肉っぽく笑った。
「……どういう意味ですか?」
僕は訊ねた。
「別に。ただのガキじゃないんだから、酔っ払いよりは働けるってぇ意味さ。俺の分も頼んだぜ、スーパーマン」
オヤジは僕にそう言った。
僕が何かを言い返す間もなく、オヤジは左右の方を見る。
「それに『淡風の神童』ちゃん」
左右の表情が強張る。
「泡風の神童……ああ、ピアニストの!」
ミイラ男も知っていた。“有名人”に事欠く狭い島国だからこそ、一人の“有名人”への熱量や感心はとても高いのだろう。黒髪の女の子も、ちらり、と左右を盗み見た。
「……でも、もうやめたんです」
左右は笑顔を作って、そう答えた。
「知ってるさ。ニュースで見たからな」
オヤジが言った。
「病気でピアノが弾けなくなるなんて、ドラマチックに終わったもんじゃねぇか! なあ? 本でも出したらどうだ? 本が当たって、もし映画化したら……まあ、観に行かねぇけど、ビデオで借りてやるぜ。AVに挟んでよ」
下劣なオヤジの憎まれ口に、さすがの左右もいつもよりほんの数ミリ口角が下がっている。彼女は努めて他人に不快な感情を見せまいとする人間だが、無表情であればある程、彼女の心が揺れ動いているなによりの証拠だ。
「自分の娘ぐらいの子をいびって楽しいですか?」
堪らず、僕はオヤジに言った。
「だーははっはは! 楽しいねぇ。凄く楽しい」
「最低ですね!」
「ふん。そう怒んなって。お前ら異能者に比べりゃこんな茶々入れ可愛いもんだろぉ? 見ろよこの町の現状をよ」
「ゾンビまみれなのは、左右のせいじゃありません」
「……ふん! 知ってるさ。大淀なんとかって連中だろ? 淡風をバカにしくさりやがって。何が『淡風を自分たちの国にする』だ! これが自分の国に対する仕打ちか? 結局はガキの集まりってわけさ。俺たち淡風島民はインディアンで、“涙の旅路”は酒の向こう側、ってな」
オヤジはそう言って、一人で笑っていた。
「大淀の連中かどうかはまだ……事故って可能性もあるし」
僕は言った。
「事故ぉ?」
「能力者は、使いたくて能力を使うとは限らないです。うっかり発動してしまうものだって……」
だっはっは、とオヤジはまた高らかに笑う。
「うっかり町を滅ぼすわけだ! バケモノどもが」
バケモノ、ってのはゾンビの事か? それとも異能者の事か?
後者なら少しは言葉を選んで欲しいものだが、これ以上無益な会話を続けないよう、僕はぐっと堪えた。小汚いクソオヤジめ。
「おっさん、あんまりみっともない真似はよしなよ」
ミイラ男が包帯が痒いのか、ぼりぼりと鼻の縁を掻きながらそう言うと、オヤジは憎たらしげに彼を睨みつけ、またウイスキーをあおるのだった。
良識を持った大人と、良識を一切持たない大人。
僕は二人をそれぞれそうシンプルにカテゴライズした。
……まだ何も分からないのは、もう一人だ。
「……」
僕たちのやりとりに目もくれず、黒髪の女子高生はじっと一点を見つめている。その視線の先にあるのは、ただの土壁だ。ぞっとするぐらい美しい顔立ちに、凍り付くような鋭い目つき。彼女が何を考えているのか窺い知る事は出来ないし、好んで世間話をするようなタイプにも見えない。僕たちが来る前はミイラ、オヤジ、黒髪の三人だけがこの空間にいたわけで、その時は彼女も何らかの会話を交わしたんだろうか。
この狭いコミュニティの中で僕たちは“新参者”であって、こちらから気を遣って彼女に会話を振るべきだろうか? とも僕は考えた。しかし、その度にさっきみたいに酔っ払いオヤジに茶々を入れられると思うと、どうも気が進まない。僕が観た事のある数少ないゾンビ映画は、どれもちょっとした不和で主人公たちのコミュニティが破綻し、悲劇的な結末を迎える。彼女が取っている“沈黙”という選択肢は、あるいは一番賢い振舞いなのかもしれない。黒髪の短めのスカートから覗く白い足を、嫌らしい目でじろじろ眺める酔っ払いオヤジを見ていると尚更そう思う。僕はじろじろなんて見ない。一度でしっかり見る。そして、もう十分に見た。細いウエストから伸びるすらっと伸びる長い足は、完璧な脂肪と筋肉のバランスで曲線を描き、そっと触れただけで傷つきそうなほど繊細に美しく、光輝いていた!
と、そこへピコピコしい着信音が部屋に響き渡った。左右が慌ててワンピースのポケットからスマホを取り出すと、「聖子ちゃんだ」と一言。
「もしもし……聖子ちゃん? うん、大丈夫。今、町の酒屋さんに避難してる。
あんな下らない奴の事なんてどうでもいいのよ! と、聖子の声が僕の脳内に再生された。聖子が無事だと分かってホッとしたこっちが馬鹿みたいだが、あいつの人間仕様に馬鹿正直に付き合ってイラついてしまう方がむしろ馬鹿げている。
「うん……大丈夫? 聖子ちゃん、随分息が上がってるけど……えっ! 民宿が襲われた!? それで……渚くんがゾンビ!? ちょっと待って、乖田くんに代わるから……」
「なんで僕に?」
「こういう話は、乖田くんの方が良いと思う」
僕は一瞬躊躇したが、左右からスマホを受け取った。
「聖子か? 今どこにいるんだ?」
聖子の荒い息が受話口にかかり、ブオブオとうるさかった。
「……はあ……あ、アタシの事はいい……それより……この騒動の犯人を捕まえないと……な、渚が死んじゃう!」
「渚が!?」
「うう……あ、あいたた……走ったら、偏頭痛が……」
「なんで渚がゾンビに!?」
「噛まれたからよ……いたた……」
「そ、そっか、ゾンビだもんな……でも、死んじゃうってなんだよ!? ゾンビになったら死ぬのか!?」
「相変わらず馬鹿野郎ね……! フツーに考えてみなさいよ! 疲労も無い、痛覚も無い……人の能力を大きく超えた力を強制的に絞り出させられてるのよ……!? あっという間にぶっ壊れちゃうわ!」
言われてみれば、確かにそうだ。ゾンビという言葉に無限の体力を想像してしまっていたが、彼らは異能能力に操作された人間に過ぎないのだ。疲労という感覚がマヒしているだけで、有限の体力を消耗している事に変わりはない。
「アタシは……情報が必要だわ。見晴らしのいい場所で能力を使って、ゾンビたちの発生源を特定するつもり。分かるかもしれないし、分からないかもしれないし、分かっても時間がかかるかもしれないし……まあ、とにかくそれがプランA」
「プランBは?」
「アタシが分からなかった場合、もしくはアタシがゾンビになった場合、もう渚を救出するのは絶望的だわ。体力の弱いゾンビが倒れてるのを何体か見かけたけど……多分、明日まで持ちこたえる奴はいない」
「渚を諦めるなんてダメだろ!」
「アンタの理想は聞いちゃいないわ。現実の話よ!」
「じゃあなんなんだよ、プランBって」
「事態が収束した後、アタシたちは復讐者として立ち上がる」
「アホか!」
僕はつい怒鳴ってしまった。
「渚が死んだ時点で敗北だ! 敗北を前提にしたプランなんて、プランじゃねーだろ!」
電話の向こうで小さく唸る聖子。
「……それもそうね。アンタにしては珍しく正論言うじゃない……あいたたた……」
「お前が冷静さを欠いているように思えるけどな。頭は大丈夫なのか?」
「イカれてるわ」
「違う……頭痛だよ」
「たまにあんのよ……能力の影響かもしんないけど……すぐ治まる」
「……無理すんな、とは気軽に言えない状況だけど。でも、無理すんな」
「乖田くん、優しーっ☆ 生きて再開出来たら一緒にチェキ撮ってあげるーっ☆ っててて」
地下アイドル時代の片鱗を覗かせながら、聖子は頭痛に苦しむのだった。
聖子の頭痛が能力の影響ということは……つまり、僕が瞬発力を使った時の著しい消耗と同じ“代償”だ。
「……このゾンビ現象を引き起こすのに、能力者は一体どんな代償を払ったんだろうな。以前、紫電ノノが造った肉人形だって、大量の臓物を用意するっていう代償が必要だった。自身を消耗させる代償なのか、下準備を必要とする代償なのか……」
「……正直、アタシが一番恐ろしいのはそこだわね」
聖子は言った。
「これだけの規模の能力……それこそ自身の全てを代償にしていても不思議じゃない……例えば、もし能力者が感染源たる“最初のゾンビ”だったら? 自分を最初の犠牲者にすることで、初めて発動できる能力だったら? 効力を解除できる人間はおらず、ゾンビ化した全ての人間が死ぬまで終わらない。感染者も、能力者自身も、もちろん渚も。残されるのは人っこ一人いない荒涼とした淡風と、復讐する相手すらいないアタシたち。考えうる限り最悪のバッドエンドで、その可能性は十分ある。
……こればっかりは運ゲーだわね。アタシの神様は答えを“教えて”くれるけど、答えを決して“変えて”はくれない。アタシの予感は良く当たるわ。良いものも、悪いものも」
「良い予感だけ信じるしかない」
「アタシが信じるのは、行動だけよ」
数秒間の沈黙の後、聖子は「んじゃね」と言って電話を切った。
異能者になった時点で、誰も彼もがツイてない。悪い事があれば良い事もある、という幸福の収束が貯金のように使いどころを選べるなら、今この時をおいて他に無いだろう。渚は良い奴だし、僕たちは彼に凄くお世話になった。親御さんたちが僕らの滞在を疎んじても、一生懸命説得してくれたのはあいつだ。みすみす死なせるなんて、そんな事は絶対にさせない。
……それにしても、このままだとこのゾンビ化現象は、異能者の歴史きっての大災害になるだろう。
死者の数は、千人? 一万人?
そうなると、異能者はいよいよ国家の敵になる。
……あるいはもう、なっているのかも。
電話を左右に返す。左右は会話の端々から大体の事は把握できたらしく、何も僕に聞いては来なかった。渚の為に出来る事があるなら、という気持ちも同じはずだ。
酔っ払いオヤジは興味がないのかそういうフリなのか、ウイスキーを飲みながらぼおっとしていた。ただただ酔いが回りすぎているだけかもしれない。黒髪の女子高生も、相変わらず一点を見つめて人形のように静止している。
「……打開策があるのか?」
背中をぼりぼりと掻きながら、ミイラ男だけが僕に訊ねてきた。
「……きっと見つけてくれると思います」
「君の友達が?」
「……はい」
「そうか……それならありがたいんだけどな。ネットじゃ自衛隊が出動するかって騒ぎだが、相手が人間である可能性が残っている以上、武力行使は出来ない。むしろ、感染が疑わしい俺たちが閉じ込められるってだけの話だ」
言いながら、ミイラ男はまたぼりぼりと背中を掻いた。
友達……か。
ここに来る前に聖子と言い争った事が、ふと脳裏を過ぎる。『私は友達なんていらない』なんて豪語していたけど……僕はあいつを友達だと思いたいと思っている。いや、少し違う。僕はあいつに、認められたいのかもしれない。その表現が一番しっくりくる。そこにどんな感情が源泉としてあるのか、紐解くには僕はまだあいつの事を知らなさすぎるのだけれど。
……それにしても、ミイラ男だ。
さっきから体中掻いているが……汗疹かなにかだろうか? 虫さされ?
包帯から覗く頬も、少し爛れているように見えるが……
「ミイラさん。随分痒そうだけど……」
「お前らァ!」
僕が言いかけた瞬間、焦点の定まらぬ視線で、オヤジが口を開いた。
「他の連中は……ろうしてんらよォ。おめぇらのお仲間はよぉ……」
「お仲間?」
「お前らも……ろうせ、おおよろスバラシ会だろォ……?」
違います、と僕は答えた。
「嘘つくんじゃれえ! 異能者れこの島にいるってこたぁ……そうらろがよォ!」
「違いますよ。僕や左右はむしろ連中を調査しに来た人間です」
「何が調査ら……だったら、さっさと何とかしてみろってんら……『大淀の連中ろ棺桶を用意しろ!』ってくらい言ってみろってんら……シャバゾーがぁ……!」
(うるせえよ酔っ払い! さっさと酔いつぶれて寝ゲロ喉に詰まらせて死ね!)
と僕は思った。もちろん口には出さなかったが、酔っ払いの絡み酒がウザすぎる。酒は飲んでも飲まれるな、とか言うけど、酒が好きな大人は酒に飲まれたい連中ばかりじゃないか?
と、その時。
「シャバゾーって、何?」
突然、短く凜とした声が、狭い空間を振るわせた。
今まで石のように沈黙していた黒髪の女子高生が、満を持してついに口を開いたのだ。圧倒的な存在感と、真っ直ぐで力強い口調に、その場にいた全員が一瞬にして釘付けになってしまう。
(……喋った……!)
しかし、彼女の冷ややかで知的な外見とはかけ離れた、あまりに取るに足らない、場違いな質問の内容に、全員が思わず眉をしかめる。ぼりぼり、とミイラ男が腹を掻く音だけが辺りに響き、何とも言えない沈黙がしばらく場を支配した。
「……なんだって?」
ミイラが聞き返す。
「シャバゾーって、何?」
僕が最初に聞いたとおりの質問が、また黒髪から返ってきた。
「……シャバゾー……シャバゾーってのは、まあ……『シャバい奴』の事、だな」
ミイラ男が恐る恐る言うと、黒髪は“ふーん”と言った感じで小さく頷いた。
そしてまた静寂が部屋を支配する。
「……シャバいって何かしら……?」
今度は誰に訊ねるワケでもなく、黒髪はぼそりと呟くのだった。
ともあれ、この期を逃しては彼女と会話をする機会は無いといった感じで、ミイラ男は質問を続けた。
「……それが訊きたい事なのか?」
「いけないかしら?」
黒髪はとてつもない眼力でミイラ男を睨みつけ、そう言った。ミイラは思わずたじろぎ、「いけなくはないけど……」なんて言葉を濁してしまう。
「その……長く黙っていたわりにはって思ったのさ」
「あまり喋るなって言われてるの」
「……誰に?」
「母に」
「なんで?」
「……分からないわ。考えた事も無い」
「女子高生だよな? 異能者なのか?」
「ええ。違うわ」
ミイラは片手で彼女を制止する。
「ま、待て、ちょっと待って。女子高生に対する返事が『ええ』で、異能者に対する返事が『違うわ』だな?」
「ええ。その解釈で間違いないわ」
そう言うと、彼女は思い出したように自分の鞄のファスナーを開き、中から一冊のノートを取り出した。何の変哲もない大学ノートで、表紙に“現代文”と書かれている。もう片方の手には油性ペン。
つかつかと真っ直ぐ左右の方へ近づくと、黒髪はノートとペンを彼女に差し出す。左右は体をビクつかせ、予測不能の黒髪の行動に身構えた。
「な、何?」
「……こんな事をいきなり頼むのも失礼かもしれないけど……サインを頂けないかしら?」
「さささ、サイン!?」
「ダメかしら」
黒髪の強烈な圧力に耐えながら、左右はなんとか首を横に振る。
「わ、私、サインなんて……もうピアノも弾いてないし……」
「録音してあるでしょ? CDで聴けるわ」
「でも、私なんかが……」
「謙遜しないで。有名人なんでしょ? 有名人はサインするものよ」
「でも……」
「私は有名人なら誰にでもサインを貰うわ」
(最低じゃねえか!)
と、僕は思わず心の中でツッコミを入れた。
左右はそれでも何か言おうとしていたが、彼女の無邪気さすら窺える天然物の圧力に観念し、ノートとペンを受け取るのだった。
「サインなんて……もう一生書かないと思ったのに……」
「どこでもいいから空白のページに……『鷹取ココロさんへ』でお願い」
「……うん」
さらさらさら、とペンが走る音。
「おいおい、いいのかぁー? 俺より酷いころやっれんじゃねーかァァ」
オヤジのガヤに、僕は反論出来なかった。左右が僕に語ったピアノに対する因縁は僕しか知らないだろうけど、“有名人だから”という理由で辞めた人間にサインを求めるなんて、普通の神経じゃあり得ない行為だ。ただ、黒髪……鷹取のサインを求める姿が、あまりに悪気無く、当たり前で、堂々とし過ぎていたのだった。
同時に、僕は薄々気づき始めた。知的で堂々とした態度に騙されたが……彼女は間違い無く普通じゃない。人は誰しも平均的な能力を持ち、穏やかな人生を送れるわけでは無いが……類い希なルックスという長所と同じだけ、彼女は大きな短所を背負っているようだった。母親が気を遣って『あまり口を開くな』と忠告する程の、重い枷。
僕の三人に対するカテゴライズが、これでようやく終了した。
良識のある大人、良識の一切無い大人、そして“重度のコミュ障”。
それも世にも稀な、他人の狼狽や拒絶を意にすら介さない、“パワー系のコミュ障”だ。
……彼女からサインを貰える人間は、恐らくこの鷹取ココロが最後だろう。少なくとも、僕はそう思う。
「……はい。どうぞ」
左右はすぐ隣の僕にサインを見られたく無かったのか、ノートを閉じて鷹取に返す。心なしかその顔は、嬉しいような、悲しいような。
「どうもありがとう。必ずCDを聴くわ。ハイレゾでね」
「うん。ありがとう。でも、CDにハイレゾは無いんだ」
「……じゃあ、ハイレゾって何?」
「ハイレゾっていうのは……」
言いかけて、左右は首を横に振った。
「どんな音で聴いてくれても嬉しいよ」
「そう。分かったわ」
と、鷹取がノートを受け取ろうとした瞬間……
「あっ、痛い痛い痛い痛い痛い」
彼女は突然、壊れてしまったオモチャのように、痛みを訴え始める。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
「うわっ!」
あまりに異質な状況に、僕と左右は思わずその場から飛び退いた。
……まさかとは思った。ゾンビに刻まれた顔面の裂傷。ほんの少しだけ、ゾンビの“毒”が彼の体に混入し、ゆっくりと全身を蝕んでいた可能性に、気付かなかったわけじゃない。なんとなくそんな気もしたが、あまりに普通に喋るもんだから『大丈夫そうだな』なんて、油断してしまっていた。暢気に構える状況じゃ無い事は分かっていたはずなのに……僕は相変わらず、どこか“ヌルい”のだった。
詰まるところ。
鷹取の白く美しい足に、ミイラ男が齧りついていた。
一筋の鮮血がふくらはぎを這って、ぽたぽたと畳に赤い模様を描いた。
同時に、僕の中で安堵がガラガラと音を立てて崩れる。
「か、感染してやがったァァ! このミイラ野郎!」
オヤジは慌てて跳ね起きて壁際へと後ずさった。
「ああー痛い痛い痛い、痛いわ痛い痛い痛い」
鷹取の苦痛に悶える悲鳴(?)を聞きながら、僕はほとんど反射的にミイラ男の襟首を掴み、壁に投げつけた。ミイラ男の体がオヤジの方へごろごろ転がると、オヤジはふらつく足で慌ててその場を離れ、階段を降りて一階へと逃げて行った。
命の恩人を投げ飛ばすのは多少の罪悪感があった。
が、それよりも問題は狭い空間でゾンビと対峙するこの状況。
いや、ゾンビ“二体”と対峙する状況だ……!
「ああっ、気分が悪いわ」
鷹取はふらふらと部屋の中央へと歩くと、そのままぱったりと崩れ去る。
「鷹取さん!」
左右は彼女を追いかけようとしたが、僕は慌てて制止した。
「もう無理だ! 噛まれた!」
倒れる鷹取を挟んで対角線上にミイラゾンビがいる。じきに鷹取も起き上がり、僕たちへと襲いかかってくるだろう。下に降りる階段は、ミイラのすぐ側だ。
(殴っても殴っても、相手は襲いかかってくる。無力化させるためには、ふん縛るのがてっとり早いだろうけど……果たして、暴れまくる相手をどうやって縛る? もっと良い方法は無いのか? 例えば……閉じ込めるとか……でも、どこに?)
ミイラゾンビはゆっくりと立ち上がり、目の前に寝転がる鷹取を見下ろすが、襲いかかる様子は無い。もはや“同族”として認識しているのだろう。やがて彼は、標的を僕たちに変える。
(……殺すか?)
脳裏を勝手に走る思考に、僕は思わずぎくりとした。
……手段を選ばないなら、ミイラを殺してしまえばそれで終わりだ。部屋で少しは休んで、もう一度ぐらい“瞬発力”は発揮出来る。それが人を殺傷するのに十分な数である事も、僕はよく知っている。
この島にやってきて、フクジュの奴に殺されかけた。紫電ノノの着ぐるみ二体にも殺されかけたし、ほんの少し前にも多数のゾンビに囲まれた。そして今も。
生き死にというものが眼前に近づくにつれ、大事なはずの感覚が摩耗し……そこにはもはや、善悪の感情も、人としての尊厳も、何も存在しない。むしろ、それこそがこの世の真理のような気さえしてくる。
僕は一体、どこへ向かっているんだ?
他人を……それも命の恩人を、殺してしまうだって?
僕は何なんだ?
バケモノなのか?
「乖田くん、危ない!」
左右の言葉にはっとする。
目の前には、尋常じゃない速度で牙を剥くミイラ。
慌てて身構えて、相手をタックルで押し倒そうとするが……僕の踏み込んだ足は鷹取の落っことしたノートの真上にあり、思い切り床を滑ってしまった。重力に引っ張られるがままに、派手に転倒してしまう。
ヤバイ、とすら考える間も無く、反射的に自分の身を庇い……
がじり、と嫌な音が耳に届いた。
ゾンビの歯は、僕の右腕をしっかりと咥えていた。
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