8 生ける屍
淡風には北と南に二つの主要観光地がある。北淡風と南淡風という飾り気のない通称で呼び分けられており、同じ島の中でくっきりとコントラストをつけていた。
北淡風は本州に近いだけあって、レストランやカフェのような華やかなイメージの店が多く、淡風の顔としての役割を担っている。一方、南淡風はどちらかと言えば地域産業がメインなので、農場や牧場の見学が主な観光スポットだった。お店のほとんども地元民のためのもので、飾り気は無いものの、言い方を変えればより“純度の高い淡風”を味わえると言ったところだ。僕たちの根城である民宿はそんな南淡風の外れにあるのだった。
田園風景を眺めながら、なんとなく町の方へと歩き続ける僕と
勿体ないことをしていたな、と僕は思った。ゆっくり落ちていく太陽が黄金色に田畑を染め上げる様は、幻想的というかノスタルジーというか、とにかく、とても美しかった。生ぬるい風はクーラーで調整されすぎた僕の体温を、自然なものへと引き戻してくれる。吹き出す汗もどこか心地よく、もやもやと凝り固まってしまった心の毒素を一緒に吐き出しているようで、要するに散歩の効果は絶大だったのだ。
無言の解放感に身を委ねていた僕と左右だが、最初に口を開いたのは彼女の方だった。
「……ねえ、
いいよ、と僕は答えた。
「私の両親の離婚って、私のピアノが原因なの」
左右はそう呟いた。突然のデリケートな会話に僕は思わず眉を潜めたが、当の本人に気負ったところは無く、彼女なりに整理をつけている話なんだという事が分かる。とは言え、極力自分の話をしたがらない彼女をして、こんな会話の切り口を持ち出したのは、やはり長閑な南淡風の解放感につられての事だろうか。
僕は彼女の言葉に耳を傾けた。
「私が人よりもピアノが得意だったのは……お母さんのお陰なんだ。お母さんも元々人生の半分をヴァイオリンに捧げた人で、私に“そこそこ”の才能があると気付くと、いち早く私に音楽の教育を施してくれたの。持てる財力と人脈と時間を使って、可能性の全てを私に費やしてくれた。最初は自分と同じヴァイオリンを私にさせたがっていたみたいだけど、二年ほどして並行して学んでいたピアノがメインになったの」
「なんで?」
「ピアノが好きだったのもあるけど……ヴァイオリンが苦痛すぎたから。だって、専門家が同じ家に住んでいるんだもん」
左右は少し苦笑しながらそう言った。
「お母さんは厳しかった?」
「厳しかったよ。厳しすぎて、よくお父さんと喧嘩してた。ピアノに転向できたのもお父さんが必死に説得してくれたお陰なんだけど……そもそもお父さんは私に音楽を叩き込むのは反対だったんだ。『あてなを自分の理想の道具に使うな!』なんて。でもお母さんは『才能のある人間の邪魔をするな!』の一点張り。
私は音楽どうこうより、二人が喧嘩してほしくなくて、子供の頃はその事ばかり考えてた。だから、必死で練習したの。私が上手くなれば、お母さんは優しくなって、お父さんが私を庇ってお母さんと喧嘩しなくなると思ったの」
子供にとって両親は世界の全てで、案外、子供は子供なりに色々考えているものなんだろう。ただ、やはり子供が考えるべき事じゃ無いし、彼女が異常な環境で育った事は疑う余地も無い。僕は左右を不憫に思った。
彼女は『気にしないで』と言わんばかりに、淡々と言葉を続ける。
「私のピアノを聴いた大人達が“子供らしからぬ情感”なんて言葉で持て囃していたけど……それは音楽に対する愛情というより、執念とか、使命感とか、そういった類いの歪んだ感情だった。眩い才能の光に見えても、実は魂を焦がしてやっと得られた燈火だったの。端から見れば、歪んでいても歪んでいなくても、あまり関係無いみたいだったけど……むしろ、そんな歪んだ情感が個性的に見えたのかもね。
……そんな私に友達なんて出来るはずも無いし、居ても意味が無かった。聖子ちゃんと出会って初めて意味の無い人間関係の価値を知ったんだけど……それでも私の人生の中心は、音楽だった。私のピアノが完成して、初めて自分の人生が始まるんだと信じてた。はっきり言って、音楽なんてある時期から少しも楽しく無かった。好きとか嫌いとかっていう感情を超越した思想に、私は取り憑かれていたの」
何の気持ちも露わにしないような語り口だったが、やはり左右の表情はどこか悲しげだった。“整理をつけた過去”には間違い無いのだろうけど……人の気持ちや記憶はやはり、そんな簡単なものじゃない。実際の言葉で紐解いていくにつれ、彼女の心の梁がグラグラと揺れ始めているのだった。もちろん、僕は最後まで聞きたかったし、彼女が喋ろうと思っている以上、水を差すような事は言わないけれど。
しかし、空気を読まない珍客……つまり、転がっていたセミの死骸を見つけると、左右は僕の方に小さく照れ笑いを浮かべ、必要以上に大きく迂回した。突然息を吹き返したセミ爆弾による“被害範囲”を考慮した対応だろう。
死んだものを起こさないように。
慎重に、安全に。
「……ほっ」
左右はほっと一息つくと、話を続けた。
「……えっと、それでね。二年前のある日、夜中に一人っきりでピアノを弾いていたら、突然ピアノを挟んで女の子が立っているのに気が付いたの。私と同い年ぐらいの、亜麻色の髪の女の子。最初はお化けかと思ったけど、妙な親近感を感じて……不思議と、これは私の心が産んだものだって気付いたわ。その時の気持ちとか、音楽の感触が合わさって初めて発現した私の力……つまり、異能能力だね。
女の子は私の弾くピアノを聞きながら、じっとこっちを見ていた。悲しそうだけど、優しい微笑みを浮かべていたの。私の人生を許容してくれるような、哀れんでくれているような。曲を紡ぎながら、私は色々と想像を膨らませたわ。この子はどんな曲が好きなんだろうとか、どこに住んで居るんだろうとか、どうして私の前に現れたんだろうとか、友達になれるんだろうか、とか……でも、うっかりピアノの低音部分をトチっちゃうと、まるで夢から醒めるように、女の子は私の目の前からふっと居なくなった。
私はまず、女の子が消えた事にがっかりした。もう少し聴いていて欲しかったのに、なんて……でもそんな寂しい気持ちも、すぐにかき消えたわ。『得意な曲なのに、どうしてトチっちゃったんだろう?』っていう疑問が、喪失感を塗り替えたの。歯磨きしたり、靴下履いたりって事以上に失敗するはずの無い楽曲だから、ほんとに不思議だった。何の気なしに鍵盤に目を落とすと……私の左手は私の思いとは関係無く、捻れた木みたいに歪な形をしていたの。こんな風に」
左右は自分の左手を可動範囲ギリギリのところまで捻り、僕に見せた。
人の手とは思えない、痛々しい有様。
まるで、異常な環境でねじ曲げられた彼女の心そのもののようだった。
左右は言葉を続ける。
「心因性の運動障害で、お医者さんに『ピアノに対するストレスが原因じゃないか』って言われちゃった。私の半生は、その一言でお終い。ピアニストの左右あてなは死んで、ただの左右あてなだけが、この世にぽつんと取り残された。
お父さんはお母さんを責めたけど、お母さんは自分を責めた。そしてお母さんが私を音楽の事で責める必要が無くなると、当たり前みたいに離婚が決まった。家族ごっこを繋ぎ止めていた“ピアノ”っていう糸が切れると、私達はあっけなくバラバラになっちゃった。
お父さんは『あてなはお母さんについていてやれ』って言い残して、家を出ていった。私はお母さんより、お父さんと一緒に暮らしたかったけど……でも……お母さんを見捨てることは、お父さんにも私にも出来なかったの」
「……お母さんの事、憎んでる?」
僕は恐る恐る訊ねる。
「憎んでないし、嫌いじゃない。でも、好きにはなれない」
永久に溶けない氷のように、硬く冷たく、左右はそう言い切るのだった。
「……ごめんね。急にこんな話……前に聖子ちゃんの事を喋って、私は自分の事を乖田くんに喋ってないのはズルいと思って……」
「そりゃ良いんだけどさ」
言いながら、僕は周りの風景が変わってきている事に気がついた。
最初は畑の脇や山の中腹にぽつんと建っていたぐらいだった民家が、次第に軒を連ね始めている。遠くにはいよいよ町らしいものも見え始めたが、妙なのは明かりが少なかった事だ。町は電飾の点いていないミニチュアの様に、ひっそりと佇んでいた。
太陽の姿は地平線に消え、空は紺色に染まり、視界も随分と悪くなってきた。左右の顔も目をこらしてやっとで見える程度。ぎらついた都会の夜と違うのは分かるが、それにしても大昔じゃあるまいし、人の気配すら感じないのはどうしてだろう?
違和感を感じつつも、僕は話を続けた。
「……今の話、左右のせいでもなんでもないじゃん。左右は被害者だろ? 左右は家族仲良く暮らしたくて、頑張った。頑張りすぎてそうなったんなら、それは……」
左右は首を横に振った。
「頑張ったかどうかなんて関係無いよ。存在する音楽は人の好き好きだけど、演奏家は弱者と強者の世界。弱者は悪で、私は弱かった。だから家族は幸福にならなかった。それだけ」
……普段温厚な左右の口から出たとは思えない、シビアな価値観。
そんなこと無い、と僕は気軽に言えなかった。
僕は左右に近しいから、彼女の肩を持った発言をするが……結局それも“外の世界”で喋るだけの無責任なもの。左右のお母さんは自分がそうだった分、演奏家としての人生を知っているからこそ、過剰な“調教”を左右に施した。それは行き過ぎたものだったのかもしれないが、左右のお母さんが知っている“戦場”に対して真っ直ぐに向き合っただけの話だ。僕の人生からは計り知れない世界に対し、平和ボケのような慰めの言葉を吐いたところで、彼女の心には何も届かないだろう。
僕が不安に思うのは……そんな苛烈な優勝劣敗の思想を持ちながら、左右は今の自分をどう保っているのか、というところだ。自然淘汰された存在であるなら、彼女の思想の中で彼女自身は生きながらに死んでいる存在……つまり、ゾンビだ。直視してしまえば、実際の命にさえ関わる現実に違いない。
彼女が音楽を諦めたなら、果たして今の彼女はどうして生きているんだ……?
聖子は左右に対して“闇を抱えている”という発言をしていた事があったが……それは彼女の生い立ちだけじゃなく、彼女の現状の事を言っているのだとしたら?
……逢魔が時。更に日が落ち、極端に落ちた視界の悪さに目が慣れず、人の顔も見分けがつかない時間がやって来る。
気がつけば僕は、すぐ隣にいるはずの左右の顔が全く見えなくなっていた。
光源と言えば、遠くに見える街頭が二、三個、ホタルのような頼りない光だけ。
「なあ、左右……」
不安になった僕は、彼女に声をかけてみる。
が、左右は真っ直ぐ町の方を見たまま、問いかけに答えない。
まるで彼女に何かが乗り移ったみたいで、僕は怖かった。
「左右ってば、おい……」
動かない左右をじっと見続けると、ようやく闇に視界が慣れ始め、彼女の表情が見える。それは紛う事なき“恐怖”の表情。彼女が真っ直ぐ見据える先に、僕はつられて目をやった。
人だった。
男が一人、走ってきていた。
人の姿をしていながら、まるで獣のように、一心不乱にこちらへ向かって。
着衣のあちこちが破れ、露出した肌はボロボロに爛れており、尋常じゃないのが一目で分かる。唖然としていた左右がはっとして、不安げに僕の方を見たが、当然僕にも何の回答も持ち得なかった。
「何だ……あいつ……?」
振り返ると、男はすぐそこまで迫っていた。
相手の目線は左右を捉えている。
「……なんか……やばい!」
僕は慌てて左右を突き飛ばし、男の直線上に立ちはだかると……
男は思いきり僕を押し倒し、そのままマウントポジションで僕の顔面を殴りつけた。
「ぶはっ!」
遠慮も手加減も理性も無い、ただただ暴力の化身となったような凄まじい勢いに、僕は慌てて自分の身を守る。
しかし、相手は考えられないほどの筋力で僕の腕を引き剥がすと、無防備になった顔面にまた一発。
「うぐっ!」
理性は苦痛にかき消され、口の中に血の臭いが広がる。
(こんの……クソが!)
相手が攻撃のために振りかぶった瞬間、がら空きになった右脇腹……肝臓(レバー)に、僕は思い切り拳をぶち込んだ。
もちろん、瞬発力。
マウント状態の腰の入らないパンチとは言え、地獄のような苦痛が相手の全身を支配し、普通の人間なら戦意を喪失させるはずだが……
「いうさふぃうはすおらいい!」
男はより狂乱状態になり、僕の頭を掴むと、思い切り齧り付こうとした。
こちらも半狂乱で、もう一撃脇腹に拳を振るおうとした瞬間……
左右は男の首にぐいっと腕を巻き付け、チョークスリーパーを極めた。
「……えいっ!」
そして、そのまま彼女が男の口元をわしづかみにすると……突然、男は卒倒し、その場にのたうち始めるのだった。
男の口から大量の砂が溢れ出しているのを見て、僕は先日のフェリー発着場での海水による胃洗浄を思い出した。
左右の能力……具象化だ!
男の体内に発生した大量の砂は呼吸器を完全に塞ぎ、男の行動を完全に抑制していた。
左右のなかなかにエゲツない攻撃に、僕は思わず唾を飲み込んだ。例の発着場でもそうだが、この辺の思い切りは、彼女の演奏家人生で培われた死生観の賜なのだろう。頼りになることこの上無い……!
じたばたもがく男を横目に、僕はなんとか呼吸を落ち着ける。
「助かった……く……くそっ、何だこのオッサン!?」
「……か、乖田くん、いっぱいくる……!」
遠くから更に三人……いや、三匹。人の形をした獣が、一心不乱にこちらへ走ってくるのが見えた。
「左右、なんか武器は……鉄パイプとか、バットとか! 具象化してくれ!」
「音が無いよ! こんな砂利道じゃ、砂が精一杯だから……に、逃げよ!」
左右の提案に、僕は賛成した。
左右の手を引っ張り、近くの民家に突っ走る。
民家に立て籠もるのが正解かどうかも吟味する暇無く、僕たちはただただ本能的に逃げ出すのだった。
「すいません! 開けて下さい! 変なのに襲われてるんです!」
バンバン、と民家の戸を叩き、僕は叫んだ。
横開きの戸ががらがらと勢い良く開き、心に一筋の光明が差す。
が、扉を開けて姿を現したのは、顔面が爛れた、視点の定まらない、明らかに正常じゃない老人の姿だった。
状況を理解する間も無く、老人は僕の顔面に手のひらをぶつける。
「ぶがっ!」
ほお骨を強く打ちつけられ、僕は左右もろとも後ろに倒れた。
「こ……こいつも……! くそっ!」
僕は“瞬発力”を使って、襲いかかろうとしてきた老人の腹に渾身の蹴りをお見舞いした。
老人は民家の奥に吹っ飛び、全身を壁に打ち付ける。
が、苦しむ様子も臆する様子も無く、すぐに立ち上がり、また襲いかかろうとしてきた。
痛覚も恐怖も何も無い、まるで生ける屍。
ただただ人を襲う事しだけしか頭に無い……ゾンビだ!
「乖田くん、立って……さっきの三人がすぐそこまで……最初のやつも、もう砂が消えちゃう! 私が能力で生み出したものは、しばらくしたら消えちゃうの!」
「くっ……左右、僕の背中に乗ってくれ!」
「えっ!?」
「早く!」
一瞬左右は戸惑ったが、僕の言わんとしている事をすぐに理解すると、彼女は僕の背中に飛び乗り、ぎゅっとしがみついた。
とにかく、目下襲いかかるゾンビ達を振り切るにはこれしかなかった。
問題はどこまで走りきれるかだ。
「顔ぶつけないように注意して!」
そう言うと、彼女は更に深く僕にしがみつき、僕の肩に顎を乗せた。彼女の胸の膨らみをゆっくりと背中に感じられない状況にあるのはとても残念だが、この膨らみをゾンビどもに好き勝手にさせられないという使命感が、僕の闘志に一層火をつけるのだった。
「走るぞ!」
今にも襲いかかろうとするゾンビをなぎ倒しながら、僕は“瞬発力”を用いて、全力で町の方へと駆け出す。流れる風景、暴風が顔面に叩き付けられ、目も満足に開けられない。
二人分の体重に僕の膝は悲鳴をあげていたが、この際、多少の苦痛は目を瞑る他無い。
少しでも人の多い場所へ……あるいは、身を隠すような場所へ急がないと……!
「か……乖田くん!」
ごうごうと鳴る風の音を縫って、微かに左右の声が聞こえる。
「え!? 何!?」
「か……乖田くん、町に行くの!? 町に明かりがついてないよ! 町もゾンビだらけだったら、どうするの!?」
左右の言う事は尤もだが、いま来ただだっ広い田園地帯で襲われたら、今度こそ逃げ場が無いだろう。二人でじっくり相談する余裕なんて無いのが、僕たちの悲しい現状だ。
「そりゃそうだけど……うおっ!」
「きゃっ!」
突然、僕の足が言う事を聞かなくなる。
瞬発力の勢いは消えず、僕は左右を背負ったまま、思い切り前のめりに転んでしまった。
激しく顔面を打ち、ちかちかと目の周りに光が煌めく。
少し離れた場所にいた二匹のゾンビが、ぎろり、とこちらを見た。
「まずい……す、すぐ立ち上がらないと……」
足に力が入らない。
僕の能力は特に持久力と相性が悪い。
女の子とは言え、人一人を背負ってのマラソンなんて、やはり自殺行為だったのだ。
おまけにゾンビ。連中が苦痛や恐怖心同様、疲労も持ち合わせていなければ……?
左右に引っ張り上げられながら、僕は何とか立ち上がる。
「まずい……力が入らない……」
「乖田くん、走って! じゃないと襲われちゃう……!」
「僕は……あ、後から追いつくから……左右一人で……逃げてくれ!」
「そんなのダメだよ! 乖田くん、ほら……」
左右が手を差し伸べた瞬間、彼女の横顔が眩い光に照らされる。
「えっ……?」
僕たちはぎょっとした。
すぐ近くの建物に掲げられた看板が一際激しく点灯し、闇を払ってその存在を自己主張したのだった。
看板には“リカーショップ・酒屋物語”の文字。
「これは……? 中に誰かいるのか?」
「助けてくれるかも……乖田くん、なんとかあそこまで……頑張って!」
震える全身に鞭打ち、僕は先に走る左右を必死に追いかけた。全身の疲労はもはや痛覚に変わっており、一歩一歩を踏み込むにつれ全身がバラバラになってしまいそうだった。遡る胃液を堪えながら、ようやっとの事で建物に辿り着くと、僕はリカーショップのシャッターにもたれ掛かる。ばしゃーん、という騒音が辺りに響き、遙か彼方に居た他のゾンビらしき影もこちらに振り向いた。
リカーショップのシャッターは完全に降りている。中の人たちに少しでも僕たちを助けようという意思があるなら、どこかに別の出入り口があるのだろう。左右はきょろきょろと入り口を探していたが、生憎、裏手にもゾンビの姿が見えた。リカーショップの看板の明かりのせいか、それとも僕のもたれ掛かったシャッターの音のせいか、連中はこちらをじっと伺っていたが、走り出すのは時間の問題だろう。
中の人にシャッターを開けてもらう?
ゾンビに捕まるより早く、裏口を見つけて匿って貰う?
いざゾンビが迫っていて、自分達の危険を顧みず、鍵を開けて貰えるだろうか?
ゾンビは数十mかそこらの距離まで近づいており、いずれにせよ暢気に考えている暇はない。
「くっそ……ど、どうすれば……」
「乖田くん! 上を見て!」
左右の言葉通り、僕はリカーショップの二階部分に目をやる。
ベランダだ。ベランダには観葉植物が並べられている。二階が民家で、一階が店舗、みたいな感じなんだろう。
が、僕には左右の意図がよく分からなかった。
「……確かに、二階からなら入れるかもしれない……! でも生憎、僕には建物をよじ登る体力が……」
「大丈夫、任せて!」
と、次の瞬間。
「おほん。ド~レ~ミ~ファ~ソ~ラ~シ~ド~~♪」
左右の場違いなサウンドオブミュージックごっこ。
僕は彼女の正気を疑ったが……
気がつけば何も無かったはずの目の前に、リカーショップの二階にまで続く色とりどりの階段が現れていた。
一段一段がそれぞれ別の色をしており、赤、青、黄色、緑と、くっきりと原色で分かれていた。まるでキッズ向けのプレイランドの、滑り台の階段か何かにそっくりだ。
「今のはシー・メジャー・スケールって音階で……つまり、音の階段だよ。さ、乖田くん。早くこれを昇って、二階に逃げよ。もうゾンビ来てるよ!」
彼女のクリエイティブな発想に、僕は心から尊敬の念を感じた。
とん、とん、とん、と軽やかに音階段を上っていく左右。思ったより一段一段が大きく、僕は這いずるように階段を上る。階段は少し硬いゴムみたいで、妙な弾力があった。
「うう……力が出ない……」
「乖田くん、早く!」
「うぐぐ……」
いよいよゾンビも音階段に足をかけ、僕の体にしがみつこうとした瞬間……
「掴まれ!」
二階のベランダから、顔面に包帯を巻いた男が手を伸ばしていた。
ゾンビの次はミイラか?
選択の余地は無く、男の伸ばす手にしがみつく。
僕がミイラ男に捕まった瞬間、ぱちん、と左右が指を鳴らすと……
シー・メジャー・スケールの階段は霞のように消え去って、ゾンビ達は一斉に地面に叩き付けられた。
ベランダに寝転がり、呼吸を荒げる僕と左右。
ミイラ男はもちろん、窓の中から伺う人影も、僕たちのまさかの生還劇に目を丸くしているようだった。
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