6 友情コンプライアンス

 そこらの旅館に負けないほど、ハモ料理は豪華だった。お造り、湯引き、炙り、天ぷら、南蛮漬け、お吸い物と、食卓はまるでハモの博覧会だ。天ぷらはハモだけじゃなく、レンコンとしし唐もイケてたが、ごく個人的な理由で玉ねぎには手をつけなかった。玉ねぎ自体は嫌いじゃないが、脳漿をぶちまけながら海に漂うタマぞうの死骸を思い出すと、どうしても箸が止まってしまう。何も知らない左右は当然気にせず食べていたが、その様を見るだけで妙な罪悪感を感じるのだった。

 民宿の食事処には、僕と左右あてら聖子しょうこの三人だけで、フクジュの姿は無かった。奴を一人部屋に残すなんて不用心だろ、と聖子に言ってやりたいところだが、生憎こちらはこちらで問題があった。

 “親友”だという聖子の発言を鵜呑みにしていたワケじゃないが、僕たち三人が食卓についてから、二人は一言も口を利かない。ツンとしたままただただ機械的に食事を摂り、ひりひりした空気がこっちにまで伝わってくる。こんな雰囲気じゃあ、せっかくの料理も台無しってもんだ。

「左右、怪我の調子はどうだ?」

 僕は訊ねた。蛇が出そうな草むらに、石ころを投げてみるような感覚。

「……うん。そこまで深い傷はないんだ」

「そうなんだ。良かっ……」

「アタシの心は深く傷ついたけどね」

 と、聖子は無遠慮に会話に割り込んでくる。

「……なんで蒸し返すの?」

 左右が珍しく……というか、彼女がむっとした顔をしているのを、僕は初めて見た。逆に言えば、それはこの二人がやはり近しい関係という事なのだろうか。それにしても気になるのは喧嘩の理由だ。

 例の“神様”の話をして、聖子は血相を変えて民宿にすっ飛んで行った。僕と渚が死骸を捨てている間になんらかの口論が行われたのだろうけれど……だとすると、間接的に僕が原因という事にもなる。この場を仲介する義務ぐらいはあるかもしれない。

「……なんか分かんないけど……謝った方がいいのかな?」

乖田かいだくんは全然悪くない。聖子ちゃんが分からず屋なだけ」

 と、左右が言った。

「あー、そういう事言っちゃうわけ? 蒸し返そうとしてんのはどっちよ」

「乖田くんは巻き込まれちゃったんだよ……? なのに、一人だけのけ者なんて、絶対おかしいと思う」

「それ百万回聞いたから。アンタの言ってることは、アタシの気持ちなんて関係ないから、だからムカついてんのよ!」

「聖子ちゃん、子供みたいな事……」

「アタシが子供みたいな奴って知ってる癖に! アタシの能力はアタシと左右の二人だけの秘密で、ずーーーっとやって来たのよ! 二人だけの秘密! これは重大な友情コンプライアンス違反だわ」

「それは今までの話でしょ? 今この状況は『私、聖子ちゃん、乖田くん』の三人だよ」

「アタシたちの十年間とこんな島での小競り合いなんて、ちっとも天秤が吊り合ってないっつーの! アンタは冷たい奴よ左右あてな! 他の連中と変わりない、利己的な人間の一人だわ。都合の良い言葉で自分を正当化して……」

「“友情”なんて言葉で正当化してるのは聖子ちゃんだよ……誰かを蔑ろにしなくちゃ確かめられない友情なんて、私は信じない」

「順番が違うって言ってんのよ! アンタが仄めかさなくても、乖田夕が信用できる奴と分かった時点でアタシが自分の口から説明した! 分かってるでしょ? アタシの能力がバレればバレるほど対処されやすいって……」

「そもそも私、仄めかしてなんか無いもん」

「仄めかして無いって? 乖田夕は気づいたわ、私の能力に。でしょ!?」

 僕は突然話を振られて、思わず体をビクつかせた。

「あ、え? いや、はっきりとは……」

「ほら気づいてる! 乖田がスバラシ会のスパイだったらどーすんの? 責任取れんの!?」

「それ友情じゃなくて自己保身だよ……!」

「アンタの土俵に立って喋ってんのよアタシは!」

 どん、と食卓を叩く聖子。ハモの死骸が微かに撥ねた。

 ……まるで言葉の殴り合いだ。いつにも増して苛烈な聖子はもちろん、左右はあくまで静かな口調を保っていたが、彼女の内々にくすぶる怒りが、炭火のように熱量を潜めているのが窺えた。相手が言葉を発する度に炎は赤くぎらつき、誰かが火傷しまいかとひやりとする。

 この場を諫めるなんて、僕は思いつくことも忘れていた。部外者がおいそれと触ることの出来ない、理解の出来ないプライドのぶつかり合い。長年蓄積された友情の歪みだろうか? うっかり手を突っ込もうなら、タダじゃすまない。

 にしても、二人ともなんて頑固なんだ!

 聖子は憎々しげに左右に指を差し、言葉を続けた。

「……アタシの本懐は別のところにあるの! アタシが言いたいのは……アタシは……能力なんてバレても、別にどうでもいいのよ。二人っきりの秘密って言ったのに、それをずっと守ってくれると思ったのに……そこは……ロマンじゃん! 形の無い大事なものじゃない! 大人になったら失効なの!? アンタは変わったわ。アタシの知ってるあてなは死んだ! 夢も何も無くなった現実主義のゾンビだわ! あの頃のぎらつきはどこにいったの!? そう。ピアノをやってた頃の左右あてなは……」

「やめてよ! やめて!」

 左右の絶叫にすら近い怒声に、僕はぎくりとした。

 僕だけじゃない。聖子も目を丸くしている。

 彼女がこんな声を出せるなんて……想像もしていなかった。

 左右は目に涙まで浮かべ、言葉を続ける。

「……それこそ、友情コンプライアンス違反じゃない……! ピアノが何の関係あるの……? ……聖子ちゃんのバカ……自分が踏みにじられたら、相手も踏みにじるの!?」

「……だ……だって……!」

「友情なんて言って、私の事、所有物か何かと思ってるんでしょ!?」

「……違う、アタシは……」

「私が言うことを聞かない“道具”だから、そんな言い方出来るんだわ!」

 がたん、と席を立つ聖子。

 顔は青ざめ、しどろもどろで、焦点も定まらない。

「……クソッ! クソックソックソッ! クソーッ!」

 がたーん、と椅子を蹴りこかし、聖子は部屋を出て行った。

 僕はしばらく聖子が出て行った扉を眺めていた。何事かと思った渚が入れ替わりで顔を覗かせるが、僕は“ごめん”のジェスチャーで彼にアイコンタクトを送る。渚は転がった椅子と、両手で顔を押さえる左右を交互に見て、何も言わずにそそくさと奥に引っ込んだ。少々気の毒だが、空気の読める奴で良かった。

 僕は椅子を元の位置に戻し、ボトルを手にとって、左右のグラスにウーロン茶を注いだ。左右はしばらく自分の中でいろんな感情が渦巻いていたらしく、気持ちをぐっと体内に押さえ込んで耐え忍んでいた。やがて両手を顔から離し、ゆっくりと目を開け、小さな溜息をすると、首を横に振る。

「……最悪。最悪だよ……」

 ほとんど手をつけられていない聖子の夕餉を眺めながらぼやく左右。冷静さと共に、気まずい空気がじわじわと部屋を支配する。

「お互い成長しないどころか……亀裂は広がる一方。エゴの押し付け合いだもん」

 それはやはり、一朝一夕の間柄じゃない証拠でもある。僕は心配しつつも、ほんの少し二人が羨ましかった。こんな言い合いが出来る相手なんて、僕にはいない。

「びっくりしたな。左右があんな風に怒るなんて」

「……ごめんね」

 左右は心底申し訳なさそうだった。

「別に責めてるワケじゃなくって……人間らしいところもあるんだなって言うか……あ、いや……」

 僕は自分の失言に気付き、慌てて言い直す。

「その、左右は完璧だから。頭も良いし、性格も良いし」

 美人だし、と言いそうになったのを、なんとか飲み込む。

「……乖田くんには、私がそんな風に見えてるの?」

「え? うん、まあ」

「じゃ、化けの皮が剥がれちゃったね」

 別にそんな事は無い……というのは本心だが、慰めと自戒のイタチごっこは左右も望んでないだろう。

 化けの皮、か。このぐらいの事なら誰にでもある事だし……そんな言葉を使うなら、彼女は自分自身を本当はどんな人間だと規定しているのだろうか?

「……ま、嫌いになんてならないよ。皮だと思って何枚もめくったら玉ねぎでした、なんてのはどうかと思うけど」

 きょとん、とする左右。

「えっと……どういう意味?」

「中身の無い奴って事だよ」

 あー、なるほど、と左右が納得する様子を見て、僕は思わず自分の顔が火照るのを感じた。そして、余計に玉ねぎが嫌いになった。

「あんまり深く追求しないでくれよ」

 ほんの少しだけ可笑しそうに笑う左右。

 それから僕たちは、義務感に似た感情を抱きつつ、黙々と晩飯を食べ続けた。空気はしんみりとしたままだが、聖子が居たときの逆巻く颶風に比べればいささかマシだ。相手の咀嚼音が聞こえそうなほど静かな食事。戸惑い覚めやらぬまま、先ほどの喧嘩のハイライトを……主に、“ピアノ”というフレーズに激怒した左右を脳内で振り返っていると、ふと、彼女と二人っきりだという事実に意識が傾く。

 料理をお箸で摘み、口元へ運ぶ仕草。前髪がはらりと落ち、掻き上げる仕草。時計を眺める横顔。襟元から覗く鎖骨、涙の気配が残る物憂げな瞳、小ぶりな唇。彼女の美しい挙動や造形をぼんやりと眺めながら、脳裏にふと浮かぶさやかな疑問。

 僕は左右の事を好きなんだろうか?

 そうだとしても不思議な事じゃないけど……果たして、そうなのだろうか?

 美人で、頭が良くて、性格も良くて、人並みにうっかり(先ほどのような)間違いを犯す。僕が彼女を好きになる理由が、まるで手の行き届いたコンビニのように綺麗に陳列してある。

 高嶺の花。それはきっと、そうなんだろう。

 ただ、僕が彼女に対して感じる印象は、もっと巨大な見えない壁に阻まれた何かだった。彼女の何気ない仕草や発言にその片鱗を感じる事があって……その度、僕は深い井戸の奥底のような、永遠に理解し得ない何かを覗いたような、妙なざわめきに心が揺れるのだった。

 ……バカの考え休むに似たりってやつだ。

 休むならまだしも邪推だなんて、僕の悪い癖だ……


 左右と聖子は件の喧嘩が尾ひれを引き、別々の部屋に泊まるらしかった。必然的に僕と左右は同じ部屋で一夜を過ごす事になってしまうわけで、役得ここに極まれりって感じだが、やはりいろいろと気を使う。落ち込んでいる左右相手に気の利いた会話も思い浮かばず、お互い居るのか居ないのかよく分からない時間を小一時間ほど過ごすと、僕はついつい気疲れし、なんとなく部屋を出てしまった。

 ロビーに掛かった大時計の規則正しい秒針に眠気を誘われながら、ただただ過ぎていく時間をぼんやりと過ごす。日中の戦いの疲労から携帯を触る気も起きず、ぼーっと無銘の風景画に視界を納めていると、廊下の奥からふらふらと誰かがやって来た。暗くてよく分からなかったが、こちらに近づくにつれシルエットは仔細を明かし始め、いざロビーに辿り着く頃になってようやく聖子だと気がついた。こいつはこいつでショックを受けている様子で、彼女お得意の人を食ったような笑みは見られず、眼鏡の奥の瞳はどこかしょんぼりとした様子だった。浴衣に着替えていた事もあって、まるで普通の女の子のようだった。

「……あー、腹減った。左右のせいで晩御飯食べ損ねた」

 聖子は誰とも無くそう言い、どすん、と僕の目の前に腰掛ける。憎まれ口は忘れない。

「……昼間は助けてくれて、ありがとうな。一つ貸しだな」

 僕が言うと、聖子は両手を頭の後ろに置き、ソファーに横になった。

 足をくの字に曲げ、全身をソファーに納めると、浴衣の下半身がはらりとはだける。付け根まで大胆に覗くつるりとした太ももに、思わず目を奪われてしまう。だらしない奴め、と心の中で呟き、僕は目を逸らした。

「別に貸しとか思ってないわよ。チームじゃない、アタシ達」

 それらしい事を口にする聖子。彼女の言う事を額面通り受け取ってはいけないというのは、短い彼女との付き合いで学んだ事だ。

「チーム、ねえ。このまま崩壊しないだろうな?」

 じろっとこちらを睨む聖子。

「……左右、なんか言ってた?」

 気にしてない風を装い、ぼそっと彼女はそう言った。

「そりゃ言えないな。僕と左右のコンプライアンス違反だからな」

「使えない奴」

 なんとも無残な言いぐさ。あまりムカつかなかったのは、彼女の口調が負け惜しみのように聞こえたからだろう。

 聖子は目を瞑り、ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いた。

 静かなロビーの空気、疲労感、薄暗い照明の感じや、淡風の観光ポスター、ピンクの簡易公衆電話、非常口の緑色の光……色々な要素が合わさって、僕は不思議な解放感と居心地の良さを感じていた。そしてそれは……認めたくは無いが、聖子の奴の存在も加味しての事だろう。

 聖子は他人に気を遣わない。あけすけどころか、不用心なまでに開けっ放しで、だから誰とでも衝突する。こうしてシュンとしている姿からも、ただただシュンとしているのが伝わってくる。彼女の血肉は感情で造られていて、見る者の心も剥き出しにさせるのだった。それが良い方向に噛み合っているのが今この瞬間だとすれば……先ほどの左右は、最悪のケースというわけだ。

 じゃあ逆に左右は? 聖子と違いデリケートで、いい人だ。嫌われたく無いし傷つけたく無いから周りは気を遣う。でも、彼女と上手くやれた時の“達成感”は、緊張の末の産物だ。それはやはり聖子には得がたい魅力で、ようするに二人は正反対って事だ。

 聖子は目を開け、ぽつりと呟く。

「……アタシの能力、知りたい?」

 喧嘩の種になっているだけあって、こちらからなかなか聞きにくい事だったが……どういう風の吹き回しだろうか、彼女は自分からそう言うのだった。信用されるまで教えないなんて豪語していた手前、そんなにあっさりと教えて貰えるとも思えないが……人をからかって楽しむ為の、前振りってところだろうか。

「ふん。知りたいって言ったって、どうせ教えてくれな……うおおっ!」

 聖子は何を思ったのか、体を撥ね起こしたかと思うと、突然こちらの頭上に腕を振りかざした。無意味な拳骨をカマされるのかと、僕は慌てて自分を庇う。

 ……が、聖子は拳を振り上げたまま動かない。

「……な、なんだよ!」

「どうして防御すんの?」

 彼女はいたって真面目にそう訊ねる。

「するだろ! 殴られると思って……」

「それ、本当にアンタの意思? 殴られると思って自分の頭を庇ったの? ……違うでしょ。条件反射的に体がそうなっただけでしょ?」

「……だ、だから何だよ!」

 聖子はゆっくり拳を下ろすと、浴衣の中に手を入れ、ぽりぽりと自分の胸を掻いた。大胆に覗く胸元。Tシャツの襟首の形に、くっきりと日焼けの境界線が描かれているのが見えた。

「乳首痒い。浴衣が擦れる」

「……は? え?」

 彼女の言動の脈絡の無さに、僕は思わず絶句した。ふくよかとは言わないが、衣服の上から見える膨らみは年相応のそれだ。浴衣の下は元々ノーパン・ノーブラが基本なんて聞いたことあるが、一体、現代の何割の人間がそうしてるって言うんだ? ……ましてや、こんな古ぼけた民宿のよれよれの浴衣でノーブラなんて……無防備にもほどがある!

 僕は不自然に視線を宙に漂わせた後、再度ちらりと聖子を盗み見る。彼女は最初の体勢と同じように、仰向けにソファーに寝転がっていた。胸元で主張を控えようとしない乳房。ちょうど、コンビニの肉まんぐらいだ。刺激されたせいで硬くなったのか、頼りなげな薄手の生地に浮かぶ、ほんの少しめくってしまえば確かにそこにあるという“約束された突起”に……僕はただただ、苦悩し、絶望した。ほんの一ミリも満たない布きれの向こうにあって、砂漠に浮かぶオアシスの蜃気楼のように、決して手の届かない誘惑。それがいかに残酷な事か、彼女は知らないのだ。

 こちらの胸中なんて露知らず、聖子は淡々と言葉を紡ぐ。

「……条件反射的に自分を庇った。それは勘が働いたからよ。『殴られちゃう!』っていう、本能ね。その本能は、アンタのたった十数年の人生で、無意識的に蓄積した莫大な経験から自動的に算出された回答。頭を庇えば、殴られてもダメージにならないっていうね。アンタの意識下とは無関係な、肉体の反応よ」

 僕の無意識下の反応がもう一つあった事を聖子は知らない。

 彼女は、びしっ、とこちらにチョキを差しだした。

「ジャンケンが強い人っているでしょ? 同じ確率で戦っているはずなのに、結果はそうはならない。勘の良い奴っていうのは、そう言った無意識下の演算に優れている人間なの。アタシの能力は、それを宇宙的な規模に拡張したものよ。

 アタシ自身が普段忘れちゃってる些細な情報……視界に映った葉っぱ一枚一枚の形とか、誰かの腕に生えた産毛の数とか、何月何日何曜日何時何分何秒の雲の形とか、その日の夜の星の数とか、脳の襞にこびりついた情報という情報をかき集め、ニューロンを電気信号が駆けずり回るのを遙かに超越した計算力で、“神様の声”とでも言うべき最適解を算出する。喧嘩だってそう。ちょっと相手の動きを見れば、そいつの筋力や思考、行動の癖を読み取って、全ての攻撃を予測出来るし……もっと広い範囲の予測だって分かっちゃう。誰がどこにいつ頃やってくるか、そいつがどんな感情でどんな格好か……あるいはもっともっと、社会の動向や、人々の反応、マーケティングの盛衰、アタシには分からないけど、アタシの神様(能力)が教えてくれるの」

「それはつまり……予知能力だ」

 僕は思わず身を乗り出し、そう言った。

「ま、分からない事は分からないんだけど。凄いっしょ?」

「……凄いなんてもんじゃないぞ。お前の言ってることが本当なら……それこそ神に等しい能力だ」

 ふふん、と満更でも無さそうに、聖子は笑った。

「……でも、言ったとおり、能力には必ず“デメリット”が存在する。それは誰にも避けられない因果みたいなもんよ。強い能力になればなるほど、その代償は大きい」

 ぼりぼり、と聖子はまた自分のちく……お胸を掻いた。

「アタシはこの能力を使えば、どんどん“自分”が破壊されていく。人には耐えられない情報量に、人としてのどっかが壊れていくの。アンタみたいに“カロリーを摂れば元通り”じゃなくて、慢性的に、不可避、不可逆に。要するに、廃人化ね……昔はアタシ、こんなじゃなかったの。とってもシャイで、お利口さんな、男の子の前で絶対に乳首なんて掻かない女の子だったって、信じられる?」

「信じらんねえ」

「信じてくれなくたって良いわ。あの頃のアタシは死んだもの。死んだ人間の話なんて、クソの役にも立たないわ! ……そして、今のアタシも明日には死んでいる。それは絶対に回避できない未来なの。分かる? アタシには時間が無いの」

 がばっ、と聖子は起き上がり、ソファーの上で胡座を組む。切実な顔で、まっすぐこちらを見ていた。

「……アタシ、助けたい人間が二人いるの。一人はもちろん、左右あてな。アタシの唯一無二の親友で……アタシの人生そのもの。さっきはあんな風に言っちゃったけど……大淀スバラシ会なんてアホの連中にあてなが苦しめられるなんて、我慢ならないわ」

「それには賛同するよ」

 僕が言うと、聖子は子供のような笑顔を浮かべた。ほんの少しだが、彼女が可愛く見えてしまったのは……彼女の乳首が浮いているのを見てしまったせいだろうか? 僕の一生の不覚は、即ち男という生き物の憐れさだ。

「ま、そう答えるのは分かってたんだけど。それがアタシの能力だから」

 と、彼女はくすくすと笑う。やはり、不覚だった。

「……で、もう一人なんだけど……邪推せずに聞いて欲しいんだけど……アタシが救いたいもう一人の人間は“大淀きらら”。大淀スバラシ会の会長で、アタシの……そうね、“相棒”だった人間なの」

「大淀きらら……!? 相棒!?」

 僕は思わず立ち上がり、彼女の言葉を反芻した。

 大淀きらら? 大淀きららって言うのか?

 彼女は敵の元締めを知っていたのか?

 ……しかもそいつを、救うだって?

「アタシのシャツ、『英会話で個人レッスン』って書いてたでしょ? あれはアタシだけじゃ意味の無いものなの。大淀きららが持っているシャツは……『あなたにピッタリの先生を見つけよう!』。クソみたいな英会話教室の広告モデルをやったときの戦利品で、あの子とアタシの絆。アタシ達は、地下アイドル時代の仲間だったの」

 畳みかけるような驚愕。俄には信じ難いが、本当なのかもしれない。彼女がタマぞうと戦った時に見せたバク宙や、妙に引き締った肉体は、要するにその時の“杵柄”ってわけだ。

 聖子はのっそりとソファーから体を起こし、立ち上がって背伸びすると、つかつかと窓際に歩み寄った。まだそれほど夜は更けていないのに、外はすっかり真っ暗で、不気味なぐらい静かだった。

「……何か、今日は気分良いわ。さっきまで最悪の気分だったから、揺り返しってやつかしら。たまには他人に色々喋ってみるものね! 夕くん。左右が信用してるアンタだから、アタシも信用して色々喋ったわ。アタシにだってまだ良心はあるのよ……バカあてな! それにアンタもまあ、頑張ったしね。評価しないのはアタシの主義に反する。

 重ねて言うけど、アタシがこんな人間だからって、くれぐれも邪推しない事ね。裏切り者は絶対許さない。アタシに牙を剥くなら、アンタなんて五秒でぶっ殺してやるわ」

「……あっそう」

 と、僕は言った。良心とは一体なんだ。

「でも……まあ、その……アタシは……何て言うか……そういう事だから。要するに、そう言う事なのよ、乖田夕! 左右、怒ってる? あいつはあいつで……アタシとは違う闇を抱えてるわ。面食らう事もあるかもしれない。でも悪気は無いの。アタシも左右も信用しなさいよ。特にアタシの事はね。以上」

 そう言い残すと、彼女は右手を差し出し握手を求めてきた。一瞬躊躇ったものの、馬鹿正直に握り返そうとすると、ひょい、と手を翻す。こんな悪戯、文字通り“挨拶代わり”だ。聖子は嬉しそうに手をひらひらと振り、民宿の奥へと消えていった。

 彼女の後ろ姿がなんとなく寂しそうに見えたのは、その能力の凄まじさと、破滅的なデメリットのせいだろうか。あるいは、妙に“友情”なんてを大事にする性分と、誰にも理解されない性格の矛盾のせいだろうか。

 ……それにしても、だ。

 この島に来て“不思議の国”に迷い込んだ僕は、聖子の吐露を聞いたお陰でより一層深い森の中へと迷いこんだ気がした。大淀きらら、大淀スバラシ会……淡風のどこにあるのかも分からない民宿の内観をぼんやりと眺めていると、自分が何をしているのか、何が正しいのかも分からなくなる。今日という日が、たった一日だなんて……!

 ……聖子はサイコ少女だが、嘘つきじゃない。ぶっきらぼうだが切実な言い草に、あいつの気持ちが少しだけ感じられた。彼女が僕を信用するなら、僕も彼女を信用する。こんな状況だからこそ、少しでも気持ちの支えになるならそうするべきだ。ぶっ殺されたくないし。

 今日は酷い一日だった。顔面から転んで、血反吐を吐いて、死んでしまうほど殴られた。

 本当なら今すぐ汐摩に帰って、独りぼっちの部屋でゆっくり眠りたい。

 そうしないのは、左右が心配だから? それとも聖子?

 積み重なった混乱を整理するには、僕の心身はあまりにも疲れすぎているのだった。

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