3 佐渡聖子

 自分の能力を語りたがらない異能者、あるいは逆に言いたがったり訊きたがったりする異能者。これは同じ異能者でも人それぞれ違う。(自分の能力に自信がある人間は後者のパターンが多いけど)

 左右あてらあてなという異能者の能力は、とても創造的で自由で素晴らしいものだが、彼女が自分の能力について語りたがらないのは、能力うんぬんというより、左右という一人の少女の性分だと思う。

 彼女は元々、ピアニストだった。小さい頃は神童と呼ばれ、テレビにも出演した経験があるし、何とかホールで何とか楽団に混じって公演した事もあるし、グレンなんとかの生まれ変わりだとか、ホロなんだとか言われていたらしい。彼女がピアニストだったというのはイノー内の噂で訊いたことがあったが、そこまでのレベルの演奏者だと知ったのは、もっと後になってからの話だ。その理由もやはり、彼女自身が言いたがらなかったためだけど。

 極端に控えめな彼女の性分が、ピアニストとしての彼女の人生と少なからず関係しているものの、今はそちらに言及するより先に異能能力の説明をしようと思う。

 彼女の能力は具象化。自分のイメージしたものを、ある“トリガー”を用いて現実に生み出す事が出来るというものだ。“トリガー”とは即ち音。イメージと音が結びつけば、彼女の想像力は現実のものへと姿を変える。“音が見える演奏家”なんて話も聞いたことがあるけれど、彼女は実際に音を“目の前に生み出せる”のだった。

 アンラッキー・フクジュの呪いにより、不幸のどん底に落ちた僕を助けたのは、他ならぬ彼女の異能能力だ。呪われたミネラルウォーターを吐き出させるため、彼女は海水を自ら具象化し、僕の胃袋を洗浄した。不幸の連鎖で海に落ちた野次馬がいたが、その野次馬が溺れまいと藻掻くバシャバシャという水音が、彼女の能力のトリガーとなり得た、というワケだ。


「ゴボォォォッ! うおぉうぇええぇっっ!」

 嘔吐に嘔吐を重ねる。胃や喉に激痛が走り、涙も出まくった。

 海水での胃洗浄はまさに地獄の様な苦しみだが、実際に地獄に墜ちるよりはいくらかマシだった。

 なにより、彼女の判断力と勇気の前では、贅沢なんて言えっこない。

乖田かいだくん、ごめん……ごめんね! ……いけそう?」

 僕は呼吸を荒げ、ふらふらと立ち上がる。

「ハァーっ、ハァ……な、なんとか。あ、ありがとう……これが左右の……能力か」

 左右の視線は既に別の方向へ向けられていた。遠くに見える、慌てふためくフクジュの姿。僕の嘔吐を見て全てを理解したのか、あの腹立たしい笑みはすっかり消えていた。

 フクジュは抱えていた鞄を地面に置き、一丁のライフルを取り出す。もちろんそれは本物では無く、プラスチック製の……サバイバルゲームで使う、ペイントガンだ。奴はペイントガンをこちらに向けようとしたが、慌てて手元が狂い、地面に転がしてしまった。

 魂胆は読めた。

 ペイントボールでこちらに不幸を“付着”させようとしているのだ。

(そうはさせるか……!)

 僕は思った。

 ……よくもまあ、散々コケにしてくれたものだ。地面に頭をぶつけさせられ、野次馬に笑われ、血反吐を吐かされ、左右も全身傷だらけ。謂われの無い理不尽なあれやこれやに、怒りが行き場を求めて、体中を這い回っている。

 異能者として生きていくために目指した、波風の立たない人生。

 今この瞬間は、それを忘れざるを得ない。

「……あいつには訊きたい事が山ほどあるけど……」

 僕はクラウチング・スタートの体勢を取る。

 人間にぶつかった事は無いが……大怪我するときは、一緒だ。

「とりあえず、ぶちのめしてやる……!」

「ま、待て! 乖田! フクジュに何をする気だ!?」

 フクジュはライフルを拾おうとしたが、こちらの行動に気を取られ、それどころじゃなくなった。

「フクジュに体当たりするんだよ!」

「やめろ! 今、フクジュ自身に『おまじない』をかけた! フクジュは……フクジュに危害を加えると……フクジュは不幸と呪いの中心だから……ぶ、無事で済まないぞ!」

 苦し紛れの脅しか、ただの悪手か、はたまたやぶれかぶれなのか。

「それって、お前(ラッキーアイテム)と不幸の能力で、プラマイ0じゃないのか?」

 フクジュは一瞬、パクパクと口を動かすだけで、言葉が出ないようだった。

「馬鹿! やめ……やめとけ! 警告したぞ! フクジュは……警告したぞ!?」

「この期に及んで、なんで上から目線なんだよ……この」

 アドレナリンが分泌され、心臓が早鐘を打ち始める。脚部に漲っていく強いエネルギー。

 フクジュまでの距離は、およそ100m。障害物は無い。

 やはり脅しだったのか、奴は慌ててライフルを拾おうとした。

「くそオカルト野郎がッッ!」

 破裂音とともに大地を蹴り上げる。

 自分の足が折れてしまいそうなほどの躍動。

 堪りきったフラストレーションを爆発させ、僕の体は一瞬、この世の全てから自由になる。

 左右の叫び声が聞こえたような気がした。

 滲む景色、耳が痛いほどの風の音。

 視界に映るのは、恐怖に歪むフクジュの顔だけ。

 80m、40m、10m……

 世界新記録を軽々と塗り替え、渾身の体当たりがフクジュに炸裂する。

 ぐしゃっ。

 という肉のぶつかる音を最後に……

 当然の帰結として、僕もフクジュも、ブレーカーを落としたように目の前が真っ暗になって、意識を失った。

 次に目を覚ましたときは、きっと病院の天井を見上げているのだろう、という予感を抱きながら。


 ……が、僕が目を開いて最初に見たのは、見慣れない女の子の顔面ドアップだった。

 眼鏡の奥に光る冷めた瞳は、寝不足気味なのか充血している。柔らかそうな栗色で癖っ毛気味のショートヘアは、パーマではなく天然っぽかった。この世の全てを憎んでいるような表情は、所謂“年頃の女の子”として真っ当な人生を生きていない事が一目で分かった。

 ふん、と彼女は鼻息を僕の顔面にかけ、ゆっくりと顔を引き、すぐ側に居た左右に何かを耳打ちした。左右は、うんうん、と頷くと、『分かった。またね、聖子(しょうこ)ちゃん』と一言。例の女の子……聖子は、そそくさと立ち上がると部屋の扉を開けて、どこかへ行ってしまった。そこで僕は初めて部屋の内観を一望し、自分がどこかの民家のような場所にいる事に気がついた。部屋は静かで、こちこちと壁時計の秒針だけが響いていた。

 全身にダメージが残っていないか確かめながら、ゆっくりと上半身を起こす。左右が慌てて僕の体を支えるが、彼女が心配するような負傷はしていないようだった。思い切りやったつもりだが、人間相手ということもあって、無意識に力をセーブしていたのかも知れない。

「……ここは?」

「民宿だよ」

「何時間ぐらい寝てた?」

「三時間ぐらい」

「フクジュは? 死んでなかった?」

「うん。軽い脳震とうだって、聖子ちゃんが言ってた」

「さっきの子だよな……なんで分かるんだ?」

「聖子ちゃんはお医者さんの娘なの」

「“ちょっと変わった女の子”ってのは……」

「うん。佐渡聖子(さどしょうこ)ちゃん。今は隣の部屋にいるよ」

 もう一部屋借りるなんて、贅沢な奴。でもまあ、男女が同じ部屋ってのもマズイか。となると、男一、女二人の部屋分けで、僕が贅沢な奴になるわけだけど。

 なんとなく首を捻って痛めてないのを確認し、一息ため息をつくと、思い切って布団から出る。大きな窓から西日が差し、部屋の家具や左右の顔にくっきりと陰影をつけている。壁には漢詩の掛け軸がかかっていたが、無学な僕には何一つ理解できず、すぐに興味を失った。

 そして否応なく視界に入る、左右の現状。不幸の裂傷のせいで、彼女は体のあちこちに包帯を巻き、顔にも痛々しい絆創膏を張っていた。

 フクジュの能力のせいとは言え、僕を救うべくして負った傷だ。まだ血が止まりきっていないのか、包帯に浮かぶ瑞々しい赤色は、僕に深い罪悪感を植え付けた。

「……マズったな」

 と、思わず呟く。

「……そうだね。悪目立ちしちゃった」

「それもそうだけど……随分と怪我させちゃったからさ」

 それも、女の子の顔にだ。

 僕が言うと、左右は首を横に振った。

「乖田くんが死ぬより、ずっとマシだよ」

 左右は血と体力を奪われ過ぎているのか、目に見えて困憊していた。

 疲れているのは僕も同じだったが、とにかくグースカ寝ているワケにもいかない。他の異能者に襲われたという事実は、僕たちがこれから直面する危険を容易に想像させる。

 “大淀スバラシ会”とかいうカルト集団の危険性を身をもって理解した以上、本来の責務の重要性が増したとも言える。しかし、危うく殺されかけてまで僕たちがするべき仕事だとは思えないし、左右も病院に連れて行かないと。汐摩に帰るか、引き続き調査を行うか。問題にすらならない選択だ。

「とりあえず、横になってくれよ。発着場でのイザコザが変な噂になってるだろうけど……もうイノーがどうこうの騒ぎじゃない。救急車を呼ばないと。そもそも、どうしてこんな民宿にいるんだ?」

「聖子ちゃんがそうしろって言ったから。病院はダメだって」

 当たり前の様に彼女がそう言う。僕は困惑せざるを得なかった。

「……なんであの子がダメって言ったら病院に行けないんだよ。神なのか? あいつは」

「……神様じゃないけど、神様とお話出来るんだ」

「神様と……お話?」

 僕は思わず苦笑いした。

 左右は小さくため息をつくと、まるで老いぼれた飼い猫のように、ゆるゆると怠慢な動きで布団に潜っていく。それはさっきまで僕の入っていた布団だが、自分の布団を敷く体力も無いらしかった。ふと彼女は動きを止め、自分の包帯を眺める。血で布団を汚してしまうことを躊躇ったのだろうけど、構わず僕は彼女に布団をかけた。左右は申し訳なさそうに、にっこり笑った。民宿の人には僕から謝る。命の恩人に、そのぐらい。

「左右はそれを信じてるのか?」

 僕は話を戻した。

「……乖田くんも、すぐに分かるよ。とにかく、病院はダメ。私は大丈夫だから……でも、ちょっとだけ仮眠するね。夕食は七時らしいから、その時に起こしてね。それと、聖子ちゃんの事だけど……」

「うん」

「……聖子ちゃんは……」

「うん」

「……ぐぅ……ぐぐぅーー……」

 左右は寝た。喋ることも喋りきれず。しかし、それを責める事なんて僕には出来やしない。

「……お休み」

 いろいろと納得のいかないこともあるが、僕は部屋の電気を消すと、左右の寝息を尻目にそっと部屋を抜け出した。


 彼女の天使のような寝顔を心に刻みつけながら、僕は聖子のいる部屋にやってきた。神様とお話だなんて、そんなメルヘンチックな奴にも見えなかったが……とりあえず今は、この乖田夕とお話して頂ければ光栄だ。どうして病院がダメなのか。左右の痛々しい姿を見て、それでも僕が納得するような理由が、果たして存在するのだろうか。いくら神様のご指示だろうと、『オルレアンを解放したい』なんてぐらいじゃあ僕は納得しない。

 部屋にはご丁寧に鍵がかかってあった。三回ノックして数十秒立ち尽くした後、もう三回ノックをする。更に一分ほど待って、ようやく佐渡聖子は顔を見せた。

「……ちょっと良いか?」

 聖子は露骨に嫌そうな顔をして僕の顔を見る。

「……」

 聖子は一言も口を利かず、また部屋の奥へと戻っていく。ドアを閉じて鍵をかけられてない以上、“入りたきゃ勝手に入れば?”というニュアンスだと、僕は受け取った。

 部屋に入った瞬間、僕は自分の目を疑った。

 なんと、あのフクジュが部屋の中にいた。

 フクジュは布団で苦痛に顔を歪めながら眠っていた。僕とこいつは同じ速度でぶつかり、お互いに傷ついた。罪悪感を感じない……と言えば嘘になるが、全ては争いの結果だし、喧嘩をふっかけてきたのは奴の方だ。異能者同士が喧嘩をすればこうなるのは分かりきった事だ。こうしなければ、逆に僕がこうなっていた。フェアでもアンフェアでも無いし、憎んでもいないし憎まれたくも無い。出来ればこれっきりにしたい、というのが全てだ。

「……こいつの辛そうな顔を見ろよ。これが軽い脳震盪か?」

 と、僕は言った。フクジュは体が痛むのか、呼吸も短かった。

「こいつも左右も、病院に連れて行かないといけないんじゃないのか?」

 僕が言うと、聖子は眼鏡をクイッとあげる。よく見ると彼女は、“英会話で個人レッスン”なんて文字がかかれた、ヘンテコなTシャツを着ていた。自分の体に広告スペースでも設けているのか? 日本語好きの外国人みたいな珍奇なセンスだが、まさか日本語を知らないワケじゃあるまいし。しかし、まだこいつの口からは何も言葉を聞いていない。

「……お前、医者の娘だって?」

 聖子はちらっと僕の方を見るが、何も話そうとはしない。

「佐渡聖子、一言良いか? お前の親が医者でも、お前は医者じゃない。素人判断で病院に連れて行かないのは、左右はもちろん、このくそオカルト野郎と言えど、間違っちゃいないか?」

「……」

「おい、聞いてんのかよ」

「……」

「おいっ!」

「……聞いてない」

 口を尖らせ、ぶっきらぼうに言い捨てる聖子。

 これが幼稚園児なら可愛げもあるだろう。

「……あぁ?」

「聞いてない」

 ああ、そうですか。と、僕は心の中で毒づいた。

「……じゃ、独りごと言うからな。怪我人、救急車、病院。以上!」

「無理」

「無理ってんなら、説明しろや! 本当に日本語が出来ないのか!?」

 じろり、とこちらを睨む聖子。

「察しろ」

 敵意丸出しの応対に、自分の顔の筋肉が引きつっていくのを感じる。

「察しろ、ね。ふーん。じゃあ、僕の察しが悪いのを謝れば説明してくれるか?」

「やだ」

「じゃ、病院に連れてくぞ」

「無理」

「なんで」

「察しろ」

「なんで察しなきゃいけないんだよ」

「察しろ」

「なんで」

「察しろ」

「なんでってば」

「察しろ」

「説明しろ」

「察しろ」

「説明しろ」

「察しろ」

「説明しろ」

「察し……」

 僕は思わず、勢いよく立ち上がった。

「じゃあもう、死ねよ!」

 左右の友達というから頑張ってみたが、もはや付き合う義理は無い。最初から救急車を呼ぶべきだったし、それ以外の判断なんてあり得なかったのだ。

 ポケットから携帯を取り出すと、電源が落ちていた。フクジュとぶつかった衝撃で壊れたのか? ……と思ったが、ふと違和感に気がつく。妙に軽いのだ。不思議に思ってカバーを開けてみると、バッテリーの姿がどこにもない。

「ガチガチガチガチガチガチ」

 聞き慣れない異音。振り向くと、おちょくるようにバッテリーを噛みしだく聖子がいた。僕は携帯のバッテリー泥棒の頬を掴むと、唾液でべとべとになったバッテリーを無理やりひったくる。

「返せ、クソ! いつの間にお前……」

「……アンタがそうすると思ってアンタが寝てる時にバッテリーを抜いといた」

「お前これじゃ……クソッ……携帯つくのか? お前の携帯貸せ!」

「やだ」

「はぁぁぁ!?」

 聖子は悪びれず、黙ったまま明後日の方向を見ている。

 僕は深いため息をついた。

「……あーそう。分かった。もうお前を人として見なすのはやめた。言葉というコミュニケーションツールの使い方を知らないのだから、猿とか、豚とか、それらと同等の生き物としてみなす。反論の余地があるならどうぞ。これが最後のチャンスだ。でなきゃ、僕は僕の思うとおりにさせて貰う」

 聖子は、やれやれ、と言わんばかりに両手を挙げて首を横に振った。

 やれやれ、はこっちのセリフだ。だが、口に出して言ってもどうせ言葉は通じない。

「……人間は考える葦であるって言葉、知らないの?」

 嫌味ったらしい口調で、聖子は初めて言葉らしい言葉を発した。

「知ってるよ、そのぐらい。お前こそ、ロクに知りも知らない言葉……」

 と、その瞬間、聖子はキッとこちらを睨み付けた。

 瞳に宿る、肉食獣のような、純度の強い凶暴さ。

 歯を剥き、眉間に皺を寄せ、およそ理性の欠片も感じない。

 つい気圧され後ずさろうとしたが、聖子はそれより早く飛び上がり、思い切り胸ぐらを掴んで僕を壁に叩き付ける。

「ぐあっ!」

 民宿が小さく揺れた。

 ほとんど頭突きのような勢いで額を押しつけ、身の毛のよだつ形相のまま、聖子は捲しに捲し立て始めた。

「アタシが猿ですって? 豚ですってぇ!? だったらアンタは“考えない葦”じゃん! ただの葦じゃん! 植物が言語機能使ってんじゃないわよ! 猿とか豚以下の、イネ目イネ科のカスが!」

 眼鏡の奥の瞳がぎらつき、真っ直ぐにこちらを突き刺す。

 彼女は言葉をまくし立てた。その凄まじい剣幕は、僕に反論の隙を与えない。

「考えてもみなさいよ!? 病院に行って誰が来る!? ケーセツよ、ケーサツ! 『治安を乱すんじゃないぞ』なんてお説教をしに来るんじゃないわ! ゲンコツ一発食らってお終いじゃないわよ! それだけじゃない! 異能者を嫌ってる連中! 養護する人権屋! マスコミ! ワイドショー! 退屈に飢えた民衆! 能力を使った殺人未遂なんて、偽善的加害者の大好物だわ! アンタも左右もフクジュもみんな纏めてあーでもないこーでもないって下らない論争に巻き込まれて、精神がズタボロになるまで言葉のリンチと屈辱を受ける! 正当防衛? やらなきゃやられた? それはさぞさぞ“真実”ってやつでしょーーね! 正義ってやつでしょーーね! でもそれは当事者の真実であって、第三者には関係ナシ! 連中にとっては都合の良い幻想が全て! 真実はいつだって幻想に追いつけないのが、この世の真実なのよッ!」

「そ……そんなの、そうとも限らな……」

 彼女の言葉に生まれた隙に滑り込むように、僕は慌ててそう言った。

「『そうとも限らない』!? くそカスっ! 愚かなアンタに国語のテストをしてやる! “事実は小説よりも奇なり”! 正しく言い換えてみなさいッ! “事実は小説よりも奇なり”! ホラホラホラホラ!」

「な、何を……」

「ハイッ時間ぎれー! 正解は、“ほとんど小説の方が奇なり”! 『小説なんて作り話より、現実が奇妙でファンタジックであってほしい~☆』なんて、人は甘い幻想に吸い寄せられんのよ! じゃあ“人は見かけによらない”は!?」

「見かけ……?」

「ハイッ遅いっ! 正解は“ほとんど人は見かけによる”! 『人は見かけによらない、あまつさえ、見かけより“素晴らしい人”であるはず~☆』なんて……そんなの……以下略! そうだ、アンタが初出のことわざをアタシが作ってやるわ! “左右も僕も、正当防衛だからみんな味方してくれるなり~☆”! どうよこれッ!? 楽観主義の、思考停止の、自己中心的の、遅れたゆとり世代の、考えない葦の、光合成大好きマシーン……」

「う、う、うるせえっ!」

 僕の胸ぐらを掴んでいた聖子の腕を、思い切り振りほどこうとした瞬間……。

 まるで分かっていたかのようなタイミングで彼女は手を離した。

「うおっ……」

 勢いよく空を切り、力の行き先が迷走する。体幹が重心を崩し、僕はその場で転倒してしまった。

 ごちん、と柱の角で頭をぶつけ、火花が視界に迸る。

「ぐああっ! ……クソ……」

 生暖かい感触が頭を伝い、畳を汚す。

 よくも僕が手を払いのけようとする神がかりなタイミングで、彼女は手を離したものだ。しかも運悪く頭をぶつけて、血まで出ている。

 ……運悪く?

「はっ……!?」

 まさか、と思って僕は布団で眠るフクジュに目をやったが、彼は脂汗を浮かべて苦しそうにしていた。とても“呪いのアイテム”をこっそり僕に持たせるような余裕は無い。たまたま僕が腕を払うタイミングで聖子が手を離したのも、勢い余って転んで柱で頭をぶつけたのも、決して“不幸の悪戯”では無いのだ。

 違和感に戸惑いつつ、聖子の方を見る。彼女は意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「バカ丸出しね。遊んでないで、アタシの言葉を聞きなさいよ。『転んで頭をぶつけたから僕だけ病院に行く』って言うなら、勝手にすりゃいいけど。ぷぷっ」

 僕は痛む頭を抑えながら、壁に這い寄って背を預けた。落ちていたタオルで額の血を拭い、落ち着くために小さくため息をつく。

「……クソ……そいつが……フクジュが起きたらどうするんだ? そいつこそお前の話なんて聞きっこないぞ。病院にも行くし、警察にも一方的にある事ない事言うぞきっと。仲間を呼ぶかもしれない」

 聖子は自分の胸に手を当てた。

「アタシは良かれと思って、苦労してそいつをここに引きずり込んだのよ。アタシがどれだけ善意ある行動をしたか、そいつの方が分かってるはずよ。肋骨は二、三本折れてるっぽいけど、別に肋骨なんて……」

 と、言葉の途中で彼女は何かを思いついたらしく、僕とフクジュを見比べる。

「……って、なんでこっちは骨折してて、こっちは骨折してないの?」

 僕とフクジュを指さして、彼女はそう言った。

「……知らねえよ。そいつの……フクジュの運が悪かったのか、僕の運が良かったのか、それとも、僕も骨折したんじゃないか」

 と、僕は言った。聖子は、眉を潜める。

「は? 骨折してないじゃん」

「……僕の能力は、“瞬発力”。それは、自分自身の自然治癒にも適用される。つまり、勢い良く骨折が治ったんだよ。悪いか」

「……治った……? 骨折が? たった三時間で?」

 しかめっ面や軽蔑の眼差しをしていない聖子を見たのは、その時が初めてだった。表情の奥から感じる、ほんの微かな“感心”……あるいは、ただの“関心”か。

 言ってる間に、柱でぶつけた傷も回復したのを僕は感じた。深すぎる傷は眠らなければ治らないが、かすり傷程度なら集中すればこうして治る。

 腕組みをして何かを考えている聖子に構わず、僕は自分の言葉を述べた。

「……とにかく、もう少し穏便に話して欲しかったもんだが……お前の問題意識はよく分かった。お前が言いたいことは分かるし、一理あると思った。でも、被害妄想めいた一方的な決めつけにも聞こえた。だからもう少し言葉を選んで、ゆっくりと説明してくれ。この状況の分析と解決策を、お前の意見を聞きたいもんだ」

 聖子はのろのろと部屋の隅っこへと歩くと、女子高生が持つにはあまりに無粋なスポーツバッグを漁り、なにか黒い物体を僕の方へ放り投げた。それはラップ・フィルムでくるまれている……おはぎだった。おはぎは鞄の中で無理に詰め込まれていたのか、無造作に力が加わってマズそうに変形し、圧力に逃げ場を失った餅米がはみ出していた。おまけに何か赤い材料が顔を覗かせていたが、恐らくこれはペースト状の梅干しだ。

 彼女は言った。

「……能力にはメリットとデメリットがある。代償と言い換えてもいいけど。左右も能力を使った影響で寝ちゃってるはずよ。アンタの能力もきっとカロリーか何かが足んなくなるはず。昼も食べてないし。アタシのおはぎあげる」

 僕は小さい声で、ありがとう、と言った。この世で一番不味そうなおはぎだが、彼女がこういう形でこちらに歩み寄っているなら、それを無下にするのは得策ではない。またさっきのような剣幕で捲し立てられたんじゃ、話し合いにもならない。

 彼女は湯飲みにコーラ(!)を注ぎ、僕に差し出した。きっと彼女はおはぎをコーラで食べるんだろう。僕は食べない。

「もぐ……んぐ……」

 仕方なくおはぎを頬張るが、流石にコーラには手をつけなかった。

「乖田。乖田夕。夕くん。夕さん。夕ちゃん」

「……なんでも良いよ」

「夕くん。怒らないでよ。アタシ……すぐああなるの。突っかかってくる奴がいたら、我慢出来ないの。おはぎ美味しい?」

「……う、うん」

 元々見た目はこんなでは無かっただろうし、味は思ったより普通だった。むしろ、美味しいと思う。出来ればちゃんとした造形のまま、緑茶と一緒に食べたかったけど。

「アタシ、左右ともしょっちゅう喧嘩しちゃうんだけど……でも、今回のこの事件で、左右だけは絶対守りたいの。親友だもの。アンタが協力してくれるなら、アタシの手駒も増え……じゃない……作戦の幅も広がるし……アンタは便利そうで……いや、優秀な能力……リンゲルマン効果でラクしちゃうっていうか……ああ、クソッ! なんでこんな言い方になっちゃうの……!」

 彼女はさっきまでとは打って変わって、視線は落ち着き無く部屋中を彷徨い、しどろもどろに言葉を紡いでいる。

 ……猿や豚なんてのは言い過ぎた。ただ、彼女はやはり“コミュニケーション”に難があるのだろう。特に、誰かと友好的に話すということに、彼女は極端に不慣れなようだった。人には得手不得手がある。壁に押しつけられながら怒鳴り散らされるのは勘弁だけど、多少口汚くても、僕だってある程度は譲歩する。ある程度は。

「……お前がどう思おうと、利害が一致するなら僕は協力するよ」

 僕が言うと、へへへへへ、と聖子は笑った。

「そう、それ。利害一致。その為には……アタシも、可能な限りアンタに良くするわ。アタシのパンツでおでこの血を拭いた事も、これっぽっちも怒ってないし」

 僕はぎょっとした。見ると、タオルと思っていた布きれは、白い生地に“くまさん”がワンポイントとしてあしらわれた、彼女の小さなパンツだった。

「わ、悪い!」

「いいのよ。つまり……『女子高生は民宿の部屋に、無造作にパンツをほったらかさない』っていう先入観がもたらした錯覚だわ。だからアタシは自分を納得させる事ができる。お気に入りのくまちゃんパンツを年中“あの日”みたいに真っ赤にされても、乖田夕は悪くないって。それぐらいの理性はアタシにもある。ていうかパンツなんてただの布だし。おでこから血が流れている時は、拭うために使われるべきだわ。でしょ?」

「……そう……だな。そうかもな」

 と、僕は言った。

「とにかく、話を戻そう。僕たちはどうすればいい? 佐渡聖子、お前は一体、何をどう考えているんだ?」

 聖子はじっと僕の目を見て黙っていたが、ぷすっ、と小さく笑うと、ごそごそと自分の鞄を漁り始めた。

 利害一致の協力者……あるいは彼女の“手駒”である僕は、彼女の不穏な笑みに……いや、彼女のありとあらゆる行動から窺える不穏さに、正直、不信感を拭い去る事が出来ないでいた。

 とりあえずは、聞くだけだ。僕は僕の考えで判断する。立場は同等なのだから。

 そもそもこの子は……普通じゃ無い。

 左右は『神様とお話が出来る』なんて言っていたが、いけない神様と会話をしているようにしか思えない。あるいは、悪い意味で『神様とお話しちゃってる』のかもしれない。あるいは神様じゃなくて、神様の皮を被った悪魔なのかも。それなら納得出来る。

 普通じゃなくてもいい。だが、せめて“マトモ”でいてほしいってのが、僕のささやかな願いだ。

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