第一章 五話
――八月二十九日――
近くに有る高校の校舎から、吹奏楽部が練習に励む音が遠く聞こえてくる。音にはまとまりがなく、それぞれが自由に音を出しているようで、蝉の鳴き声と混ざり合い夏の喧騒の一部になっていた。
天体観測から明けた翌日、俺たちは残った夏休みの宿題を終わらせるために、勉強会をする予定だった。
日差しのもと、ゆるやかな登り坂を秋泉と二人、それぞれ自転車を押して登る。
「それにしても、昨日の光樹の滑り台。ガタガタ震えて本当に面白かったね」
「ほっとけよ。元はと言えば秋泉があんなこと言い出すから、あんな目に遭ったんだ」
集合場所の夜渡の家への道すがら、秋泉に昨日の話を蒸し返される。昨日の帰り道と合わせると、都合、三回目になる。
そんな彼女は昨日とは打って変わってショートパンツにティーシャツ、足元はサンダルで頭にはリボンのついた小さな麦わら帽子と夏真っ盛りの格好だ。
「ごめんごめん。もう弄らないから、いじけないでよ」
「怒ってない。いじけてない」
苛立って自転車を進める速度を上げると、謝りながら少し後ろをかけてきた。足を止めるつもりはなかったが、信号のない交差点で軽トラックが牛のようにのっそり走っているのに出くわして、少しの間立ち止まる。同時に聞こえていた楽器の音が静かに鳴り止んだ。
「ねえ、光樹は、さ。昨日の話、どう思った?」
顔をこちらに向けて聞いてくる。昨日の話、とは察するに莉子と夜渡の夢のことだろう。一言で表すのは難しい。けど、一番はこれだ。
「尊敬、かな。夜渡は、まああんなもんかなって感じだけど、莉子のほうは……素直にすごいと思った。ちゃんと将来の夢あるんだなって」
「うん。りっちゃん頭もいいしきっと……成れると思う。天文学者」
軽トラックが通り過ぎて道が空き、俺たちはまた自転車を押し始める。アスファルトの上を並んで歩く。
「私はなんか焦っちゃった。もうすぐ二学期、はじまっちゃう。もう少ししたら受験や進路のこととか、真剣に考えなきゃいけない。部活の子でもう塾に通ってる人もいるんだよ?」
「塾? 気が早いな。部活と一緒にするのも大変だろ」
秋泉の所属している吹奏楽部は運動部並みに忙しい。夏休みの最後の週は部活が休みらしいが、お盆前までは毎日部活にいそしんでいるようだった。そんな部活動と勉強を両立させるのは至難のわざに違いない。
「すごくきつい。だからその子、部活辞めるのも考えてるんだって。一学期の期末テスト、悪かったみたいで」
「テストがちょっと悪かったぐらいで、部活辞めるなんてな。大げさだよ」
学生の本分は勉強であるとは言われるが、部活だって立派で大切なことだ。骨折でサッカー部を実質退部している身分としてはなおのこと、出来る限り部活を続けるべきだと思う。
「でもテストも大事なことだから。自分の将来に結局つながっちゃうから。まあ、そんな話もあったからさ。莉子と夜渡、すごいなって。ちゃんと夢があって、夢に向かって前向きで、さ」
そう言って、結った髪を揺らしながら青空を彼女は仰いだ。憂う横顔に、俺は尋ねる。
「秋泉は夢とか、やりたいこと、あるのか?」
「んー。夢はともかく、やりたいことなら一応あるよ」
「お、そうなの?」
その時、背中のほうから再び音が鳴り始め、二人で振り返る。金管楽器と木管楽器と、あとは打楽器とかその他大勢の音色が綺麗に絡み合った、合奏の音。古い歌謡曲だがカバーされたものを聞いたことはあった。過ぎた夏を惜しむような、切ない、儚げな歌詞が印象的だった。
「――多分、パート練習が終わって、全体練習かな」
少し歩いて高校の近くまで来ていたので、より明瞭に音色が聞いて取れる。俺も秋泉も自然に足を止めて耳を澄ます。せわしなく音符が飛び回っているような、とにかく派手な曲だ。
一糸乱れぬ派手なパートが終わり、トランペットのソロが始まる。強弱のつけ方とか、息の長さとか、どれくらいすごいのかはわからない。ただ、これだけ離れた場所でも強弱がはっきり分かる時点で、多分かなりの力量があるんだろうと、素人ながらに思った。
「――ソロ、上手いな」
「まあ、全国大会常連高校のソロだからね――いいな。私もソロ、吹きたい」
前に向き直って、最後のサビを背に聞きながら再び歩き出す。
「私ね。あの高校に行きたいなって。あの高校に入って、吹奏楽部に入部して。ソロを勝ち取って、全国の舞台で吹いてみたい」
「それが秋泉のやりたいこと?」
「そ。二人に比べたら、全然すごいことじゃないんだけどね」
いや、目標が全国というのは十分すごいことだと思う。秋泉は堅実に、地道に、確実にをモットーに生きているような人間だ。きっとひたむきに努力し、そしてやり遂げるに違いない。
「すごいな。なんていうか、みんな考えてる。俺なんて何にも考えてない。進路も夢も」
秋泉にもやりたいこと、進みたい道が見えている。夜渡と莉子は言わずもがな。四人の中では俺が一番子供だと改めて思った。
「自分のペースで考えてけばいいよ。真面目に悩んでるの、光樹には似合わないよ」
「おいおい、俺だってたまには悩むんだぜ?」
「例えば?」
二年後とか、五年後とか、ずっと先の悩みはよくわからない。が、三日後へ向けた大きな悩みはあった。
「夏休みの宿題、とか」
「……いや、毎年だから分かってたけどさ。ほとんどやってないでしょ。何科目残ってるの?」
「……全部だよ」
「全部!? 自由研究も?」
そうだよ、と頷く。「ぷ!」という音がそのまま当てはまるように、秋泉は失笑した。
「だから、勉強会するんだろ? そういう秋泉は何の課題残ってるんだよ」
「私? 私は数学の課題だけ」
尋ねるだけ無駄だった。こいつは昔から毎日計画的にこなし、余裕をもって夏休みの終わりを迎える方だ。先に終わって暇を持て余している秋泉に、何度助けてもらったか覚えていない。
「なんだったら手伝ってもいいよ。そうだね……一科目につき夏祭りで一品おごりでいいよ?」
「一品か……カタヌキでいいか?」
いいわけないでしょ、と怒る彼女と一緒に歩いているうちに集合場所につく。高校を越えたさらに向こう側の、俺たちの家からは少し離れたところ。木陰の涼しい神社の境内の中に夜渡家は
「いいよね夜渡神社。小さい神社だけど、だからこそ興味がわく」
「おい、人の神社の前で小さいって言うなよ。うちの神様、怒るぞ?」
どうやら神社の息子の夜渡はすでに外で待っていたらしい。少しムッとした顔で現れた。
「ごめん夜渡。悪い意味で言ってるんじゃないの」
「大丈夫だろ? 仏の顔も三度までだ」
「……光樹、うちが祀ってんの神様だ。仏様じゃない。寺と神社の違いも分からないのか?」
「え? 仏様も神様の一種だろ?」
正直言って、神様も仏様もご先祖様も、見えないけど偉いってところが同じなら似たようなもんだろ。そう言うと夜渡も秋泉も「さすが我らが光樹」と、苦笑していた。
そうして談笑していると自転車に乗った莉子も現れる。
「おはよーみんな。もしかしてわたしを待ってた」
「おはよ、りっちゃん。大丈夫、今来たとこだよ」
「よし、これで全員そろったな」
四人の到着を確認した夜渡は、軒下に駐めていた自転車に手をかけ、すぐに離す。
「そうだ秋泉。うちの神社が気になるなら、お参りだけでもしていくか? この神社、今年は家庭訪問で来た天間先生ぐらいしかお参りしてないから、きっと暇してる」
「ほう。で、なんのご利益があるんだ? 金運か?」
「ちょっと光樹。それ、いくらなんでも失礼」
「あはは。みっくんらしいけどね」
莉子と秋泉が後ろで笑っているが気にしない。夜渡はこめかみに指を当てなんだっけと、少しうなってから言う。
「あーと、うちはあれだ。旅立ちの守護と――」
「旅立ちの守護? 卒業式まではあと一年半もあるぞ」
まだ中学二年の夏。進路に悩んだりはしても、実際の受験はまだまだ先。卒業のお祝いを前借りするにしてはあまりに早すぎる。
「いや、もう一つある。後悔の清算だ」
「後悔の清算……キリスト教の懺悔みたいなもの?」
いや、ちょっと違う、と秋泉の予想を柔らかく否定して、夜渡は続ける。
「懺悔ってのは、自分の過ちを神様に告白することだ。うちのはもう少し厳しくて、その過ち、後悔に、自分でケリをつけられるように神様が後押ししますよって話」
「……よくわかんないな。もっとわかりやすく頼むよ」
「ちょっとは自分で考えようよ、みっくん」
莉子に諭されるが、夜渡は快く噛み砕いて説明してくれた。
「ようはもう一度チャンスを与えるから、がんばれってご利益だ。興味あるなら、今度うちの神社の成り立ちとか言い伝えの本貸してやるよ」
「コンティニューの神様かよ、そりゃいい。お参りして行こうぜ。あと本は別にいい」
読書は嫌いじゃないが、古めかしい読み物は好きじゃない。自転車のスタンドを勢いよく下ろして道端に駐め、境内の社へ足を運んだ。
「おい、ちゃんと二礼二拍一礼を――、いや御手洗もしてねーしいいか」
「おーい! お前らはやんないのかよ?」
「こら、神社で騒がない! 神様のお家なんだからね」
声を上げると叱られる。その叱った主がとなりへ来て作法について指南を始めた。
「お賽銭入れてから鈴を鳴らす。で、二回お辞儀、二回拍手、最後にもう一度お辞儀。合掌するのはお寺様だから間違えないでね」
そして莉子と夜渡もすぐに追いつく。秋泉が言った作法のとおり、四人でお賽銭を静かに入れ、鈴を鳴らす。木陰の神社に似合う、ひんやりとした鈴の音が辺りに鳴った。
「…………」
目を閉じて各々願う。みんなは何を祈っているだろう。ひとまず俺は、宿題が終わらなかったらチャンスをもらえますようにと祈った。
その時風が吹いて、もう一度鈴を鳴らした。実に都合がいい解釈だけど、神様が願いを聞いてくれたような、そんな気がする。俺たちは最後に二礼二拍手一礼をして、頭を上げた。
「ま、でも、後悔なんてしないように最初からがんばるのが一番だよな」
「お、たまにはいいこと言うな光樹。ところで宿題はどれだけ残ってる?」
「…………」
「みっくん、今年もやってないの?」
莉子が心配そうに覗き込んできた。目をそらし、自分の発言と、夏休みを満喫しすぎたことをさっそく後悔した。
「光樹がコツコツやるわけないでしょ? んじゃ悔いのない休み明けにするために、みんなでがんばろう!」
「これは、光樹の宿題を見守る勉強会になるかもな」
「がんばれみっくん!」
「うるせ! 家だと暑くて勉強になんないんだよ。早く行くぞ図書館に!」
俺は言い訳を散らしながら自転車に飛び乗った。木陰で蓄えた涼を奪われるよりも早く、できるだけ速くとペダルを踏み、図書館に続く坂を駆け下りる。
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