第一章 四話

「やれやれ。君たちは本当に元気がいいね」

「一人は元気、なくしちゃったみたいですけどね。大丈夫、光樹?」

 理科の先生らしく、いつの間にか白衣をまとった先生(曰く、白衣は気分の問題だ、とのこと)は肩をすくめて笑う。秋泉の言うとおり、もう天体観測のための元気も気力も残っていない。返す言葉もないほどに、俺はひどくふらふらになっていた。

「ただ、滝花さん」

「――はい」

 いつもは穏やかな笑顔を浮かべている天間先生が真面目で、難しい顔をしている。不穏な空気。今から叱りますというあの空気を先生は醸し出していた。

「先生。確かに莉子は俺を無理やり滑らせましたが、悪気があったわけじゃ」

 大人はよく勘違いをする。その行為が許されるのか、そうじゃないのかは当人たちの距離感次第だ。俺が別に気を悪くしていないのに莉子が怒られるのは――。

「いえ、そのことではなく、体調のことです」

「骨折ならこのとおり、もう大丈夫ですよ!」

「危ないよみっくん!」

 骨折した方の脚で跳ね、その場で回ってみせる。心配しすぎなのだ、この人のいい先生は。そこまでやってみせて、なぜか先生は声を出して笑った。

「夏越君は友達思いの優しい人ですね。ですが、違うんですよ」

「へ?」

「私が心配しているのは滝花さんの体力、体調です。……せっかく二学期から普通に登校できるのだから、無理をして具合が悪くなってしまってからでは、医者せんせいから叱られてしまいますよ」

 中学二年に上がった頃から彼女は学校を休みがちになった。春休みに一度倒れて病院に運ばれ、みんなでお見舞いに行ったのは記憶に新しい。病気のことは聞く機会を逃してしまったので詳しくは知らないが、検査入院だとかで学校を留守にしていたこともあるので、軽いものではないとは知っている。

「すみません。少し、はしゃぎすぎました」

 莉子は元気なくしょげながら謝った。何か言おうとしても、何かが口を突いて出ることはなく、秋泉と夜渡も同じく、黙っていた。

「はい、お説教はここまでです。お給料でないのに先生はそんな熱心に指導しません。それと、夏越君、苦手なのによく出来ました。これはご褒美です」

 これで幕引き、というように先生は俺に缶コーヒーを差し出す。ブラックだ。飲めないことはないけれど、好きではなかった。

「なんだ光樹、そんな顔をして。ブラックコーヒー嫌いか? 俺のコーラと交換するか?」

「……いや、いい。それより、滑り台でちょっと疲れた。休む」

 ため息をついてブルーシートに座り込む。表面は少しゴツゴツとしていて、荒れているようだった。それでも、鉄の薄いの床一枚よりは遥かにマシだ。

壁の方に寄りかかり、缶コーヒーのプルトップを引き上げながら天体観測の様子を伺う。円状の広場の真ん中には、いかにもという形の天体望遠鏡が組み立てられていた。

「夏越君は見ないのかい? すごいよ。学校の備品の天体望遠鏡とは言え本当によく見える」

「俺は、そういうのいいです」

 もともと星になんて興味はない。ただ、誘われたから遊び半分で参加しただけだ。

「そんなこと言ってないで、見てみなよ! 目で見るよりもずっと綺麗だよ!」

 手でこまねいている秋泉。その目は大人びた顔に似合わず、子供のように煌めいていた。

「仕方ないなあ。期待させておいて、損をさせんなよ?」

「安心して、ぜーったい驚くから」

 両の手で勢いをつけて立ち上がる。こっちこっちと秋泉に言われるがまま、天体望遠鏡の近くにしゃがみこんで、レンズに片目を預けた。

「……げきょう」

「え? なに?」

「万華鏡みたいだ……いや、万華鏡よりすげえ……!」

 肉眼で見た時の比じゃない。大小様々な、ものすごい数の星が瞬いている。そうとしか自分の持っている言葉では表現できなかったから、無意識にそれを万華鏡と称し口から出てしまう。

「すごいでしょ? 今観てるのはね――」

「やめとけ莉子。こいつ、聞いちゃいない。ネバーランドに行った子供みたいになってる」

「すげえな天体望遠鏡! これ、ここ動かせばいいのか?」

「こら! 勝手に動かさない!」

 胸が躍った。子供じみていると思った。でもどうしようもない。

ただただ綺麗だった。瞬く星の粒がひたすら綺麗だった。綺麗で綺麗で、綺麗だった。そんな陳腐な言葉しか思いつかないほど、レンズに写る星の海は果てしなく輝いていた。


 感動もひとしお。天体望遠鏡を使った星雲の観測も一段落し、俺たちは寝袋に入りながら、今度はじかに頭上の星を仰いでいる。先生は車でタバコを一服するため展望台を降りているので、今この空間にいるのは四人だけだ。大きく開けた場所なのに、四人固まって寝っ転がっているのはなんだか妙だった。

「どう? 綺麗でしょ? すごいでしょ? 天文部」

「すげえけど、なんで莉子が得意げなんだよ。準備したのは先生と夜渡だし、綺麗なのは星だ」

 右隣の莉子が意気揚々と喋る。そうだ、前から疑問に思っていたことがある。

「なあ、莉子。とそれと夜渡もさ。なんで天文部に入ったんだ?」

 運動が苦手な莉子はまあ、なんとなく分かる気がする。だが、ガタイがよく運動神経に優れる夜渡なら、バスケだったり陸上だったり、どんな運動部でも活躍できたろうに。あえて天文部を選んだ理由があるのだろうか。

「私も気になる。りっちゃん、そんな前から星、好きだっけ?」

 秋泉も興味があるのか、話題に乗っかる。莉子は半笑いで、恥ずかしそうにしていた。

「えっとね。笑わないでね?――わたし、天文学者に成るのが夢なの」

「天文学者!?」

 俺と秋泉は口をそろえて同時に驚いた。

「や、やっぱり変かな?」

「いや、お前。変じゃないけど……」

 スケールがでかすぎて、笑えと言われても笑えない。

「単純に星が綺麗で好きってのもあるかな。でもそれだけじゃなくて、なんていうか。宇宙ってすごいなって。今わたし達の上で輝いている星の光もさ、何百年、何千年。ううん、へたすれば何百万年も前の光なんだよ? もしかすると、その星自体はもうすでになくなっているのに、光だけ届いているのかもしれない」

 そういえばそんなことを、この前の天間先生の授業でやった気がする。それでもイメージは沸かなかった。

「科学がこんなに進歩しても、宇宙のことはほとんど分かっていない。となりの恒星どころか、となりの惑星にだって行けない。宇宙が生まれて百三八億年。地球が生まれて四八億年。――わたしたちが生まれて十三年とちょっとだけ」

 莉子は寝返りを打つ。白くて小さい顔が目の前に来る。

「そういうスケールの大きさっていうか、ふところの大きさっていうか。人生の悩みなんてどうでも良くなる、そんなところが好きなの。それにふれている間は、わたしも――」

 莉子はそこで一旦区切った。顔を耳まで赤くして、半べそで、一度語るのを止めた。

「な、何か言ってよ! 二人共!」

「いや……なんか」

 先ほどの星空とはまた違うが、何を言えばいいのか分からなかった。言葉を失って、滝花莉子という人物を少し見失った。

 普段は子供みたいで、幼くて。そんな彼女が真面目に自分の夢を語る姿を見て、急に遠くに行ってしまったような、遠ざかったような、そういう錯覚にも似た感覚を覚えた。そうしたうまく言葉にならない文字列を、秋泉が代わりに組み立てるように話してくれた。

「私、圧倒されちゃったっていうか。同い年なのに、すごいね。尊敬する」

「もうそんな! すごくないよ! ただの夢だから! 理想だから!」

 声を裏に返しつつ気恥ずかしさを隠しながら、彼女は逆方向に勢いよく寝返りを打つ。

「ていうか、わたしだけ話させてズルいよ。次は夜渡の番」

「そうだな。夜渡、お前も天文学者になりたくて天文部に?」

 莉子に言われて、もう一人の天文部に話題の手綱を渡す。少し間を置いて、彼は言った。

「天文部に入った理由は二つ。一つは何かとドジな莉子のおりだ」

「な!? 真司におりなんて頼んでないよ!」

 莉子の反論を意に介さずやはり飄々ひょうひょうと、淡々と続ける。

「もう一つは、天文学者じゃないが、まあ似たようなもんになるための下ごしらえ、前準備。いや、思い出作りだな」

「天文学者じゃないって、どういうこと? 夜渡は何になりたいの?」

 相変わらず妙な言い回しだ。けむに巻くつもり気配を察したのか、秋泉が逃がさず尋ねる。

「……お前ら、素粒子って知ってるか? 物質の性質を決める最小構成が分子。その分子を構成するのが原子。ってのは天間先生の授業で習ったよな」

「私、理科は苦手」

「俺も同じく! 国語と体育以外はだめだ!」

「……お前ら。本当に俺と同じクラスだよな?」

「わ、わたしは覚えてるよ……一応」

 莉子はともかくとして、二人はこれじゃ心配だ、と夜渡は大きなため息をつく。渋々というのがあからさまな口調だ。

「じゃあできるだけ簡単に説明するぞ。全ての物質は原子が結合して作られている。原子の種類は水素とか鉄とかカリウムとか色々あるが、動物も、植物も、水や地球も、原子の集まりってのは一緒だ」

 夜渡は少し起き上がって、ここまでついてこられるか、と確認を取る。女子二人は頷いているので大丈夫なようだった。ちなみに俺はもう諦めていた。

「その原子は原子核とその外周を取り巻く電子で構成されているんだ。で、普通、原子核は陽子と中性子が集まってできている」

 俺の頭ではもう限界だった。諦めて夜渡の方に背を向けようとすると秋泉と目が合って気まずいので、仕方なく満天の空を拝むことにする。

「この中性子と陽子は、更にアップクォークとダウンクォークというもので構成されている。この二つのクォークと電子が素粒子。これ以上は分割できない。つまり物質を細かく分け続けた時の終着点が素粒子。こいつらの他にもタウ粒子とかミュウ粒子、ニュートリノ、光子、グルーオン、ヒッグス粒子とかがあるんだが――全部しゃべっても仕方ないな」

「うーん、難しすぎるよ」

「夜渡、ほんとに中学生?」

 過ぎたるは――なんとかかんとかって奴だ。これには莉子も秋泉も苦笑いしている。

「なんなら試したほうが早い。莉子は左手、光樹は右手を出して。で、掌を合わせてみろ」

「え、ど、どうして?」「は、なんで?」

「いいから」

 強い口調で言われて右手を寝袋から出す。ひんやりとした空気が手の甲に当たった。

「ほら、莉子も早く」

「――わかったって」

 寒いのか、中々手を出さない莉子を夜渡が急かす。そろそろと現れた左手に合わせ込むように掌を当てる。

「……」

「……手、合わせたぞ」

 俺のほうが少し大きい。冷え性なのか、彼女の指先は冷たい。少しずつ、じわりじわりと、指先と掌の熱が移り去っていく。

「手、すり抜けないよな?」

「そりゃ、当たり前だろ」

「なんでだと思う?」

「はあ!? いや、お互い実体? だし? 幽霊じゃないし……」

 そんなの当たり前だ。当たり前すぎる。誰も不思議に思わないぐらい当たり前だ。

「物質はすべて原子で構成されている。つまり当然その周囲を素粒子の一つ、電子が飛び回ってる。そして電子同士は、光子という別の素粒子を放出、吸収し合っているんだ。この光子の伝播のおかげで、物質と物質は互いにすり抜けず反発する。んでもって――」

 ひと呼吸して、夜渡は続ける。

「光子ってのは俺たちが見ている光の正体だ。星とか懐中電灯とかの光と同じ。これも光子が物質に干渉している結果だ。極論だが、ボールをバットで打ち返せば飛んでいくのも、遥か彼方の恒星の光がここまで届くのも。もっと言えば、人の意識も電子を使った電気信号の塊だからさ。その光を見て綺麗だと感じるのも、誰かを好きになって舞い上がるのも、素粒子の世界じゃ、全部、全て同じことなのさ」

「……なんかロマンチックなようで、そうじゃない話ね」

「そんなことない。素粒子の世界――素粒子物理学の世界はロマンにあふれている」

 秋泉の感想に、夜渡は少し的を外した答えを返す。珍しいと思った。夜渡がこんなに熱く何かを語るのは、見たことが無い。

「わたし、前聞いた時のこと、そのあたりまではなんとなく覚えてる。それがどう宇宙に、星につながってくるんだっけ?」

「――莉子は、将来の夢のこと。夜渡と話したことあったのか?」

「え? うん。いつか、部活でこんな風に天体観測したときに」

 不意に。正しくは無意識に。どういうわけかそんな質問をして、横やりを入れてしまった。

なぜそんなことを訊いたのかを考え始めるよりも先に、夜渡が莉子の質問に答える。

「宇宙と素粒子は切っても切り離せない。例えばCP対称性の破れ。宇宙に無数にあった物質と反物質のうち、なんで物質だけが残ったのか、とか。今の標準モデルだけでは説明できない宇宙上の謎の質量、いわゆるダークマターとか、な」

 ダークマター――よくわからないけどなんかかっこいい。普通の中学生が抱くのはそんな子供じみた感想だけだろう。でも、彼の顔は真剣そのもの。

「素粒子、つまりこの世界の最小構成を探究することが、果てしなく遠く広がり続ける宇宙を理解することへ繋がっていく。一と全が表裏一体の学問、素粒子物理学。その内の、この世のあらゆる事象をつなぐ大統一理論の究明が俺の夢だ」

 真剣な顔で、子供のような純真な眼差しで、大人顔負けの未来を語る。原子や分子はともかく、その先の話は大人だってほとんど知らないだろう。

 会った時からそうだった。俺は、夜渡真司に敵わない。勝とうと願っても叶わない。知恵や知識はもちろん、どんな球技も短距離走もマラソンも、手先の器用さも、身長も、人望も。

あらゆる分野で、状況で、こいつには勝てない。勝負にならない。

「……やっぱ、すごいな夜渡は」

 憧れとか、尊敬とか、悔しさとか、嫉妬とか、不甲斐なさとか、綺麗と汚いが@綯交ぜになった一言だった。時折、今のように彼の強さに圧倒されたとき、自然といつもこう漏らすのだ。そしてこいつの答えは決まっている。いつだって決まっている。

「だろ?」

 そう言って不敵に笑う。謙遜せず、だが驕らない。実力を偽らない。

「……で、いつまで手を合わせてるんだ?」

 苦笑交じりの夜渡の言葉で、俺も莉子もお互い猫のように素早く手を引く。夜渡は寝袋越しでもわかるほど大げさに笑う。

「もう良いなら早く言えよ!」

「いや、いつまで手を絡めあってるんだろうとは思っていたけどな」

「真司のいじわる。あんまりからかうと怒るよ?」

 語調を強めた莉子が食ってかかる。けれど、小さないさかいはそこで強制的に打ち切られた。


 鈍い音。雷のような、空に響く音が何度もこだまする。


「――ビックリした。花火かな?」

「時間的にそうだな。きっと湖のほうだ」

 夜渡は右腕につけた時計をのぞいて時刻を確認していた。

 この地方では毎年夏に近くの大きな湖の上で、花火大会が執り行われている。打ち上げ数は全国一位。その前後の日はどこもかしこも観光客のせいで渋滞になり地元民はそこそこ迷惑している。今日はその花火大会の日ではないのだが、それとは別に八月は毎日、十五分程度の小規模な花火大会が開かれているのだ。今の音は多分それだ。

「こんな離れた山の上でも聞こえるのね」

「ここらは盆地だから、山から山に反射して届くんだろ」

 秋泉のつぶやきに今度は的確な回答を返し、夜渡は寝袋から抜け出した。俺たちも同じように、寝袋を後に展望台の端まで歩く。その間も、音は断続的に鳴る。

「あいにく、ここからじゃ音しか味わえないみたいだけどな」

「ちぇっ」「なーんだ。見えないんだ」

 期待をして損した。背を向けてだらしなくもたれかかる。同じように、秋泉も隣に座り込み肩をすくめていた。その彼女が、ある提案をする。

「ねえ。今年、みんなで花火、見てないよね? 夏休みが終わる前に見に行こうよ」

「……」

「花火なんて毎年見てんだろ? よく飽きないなあ。それよりプール行こうぜ、プール。市営プールにさ」

 花火は別に嫌いではない。間近で見るとやはり迫力があるし、綺麗だとも思う。が、生まれて何度も見てるとさすがに飽いてくるものだ。

 それよりも少しでも水に浸かって涼を味わいたい。花火を見るのと水に触れるのでは、どちらがより涼しく心地よいか、文字通り火を見るよりも明らかだ。

「市営プールはいつも混んでるだろ? ろくに泳げたもんじゃない。それよりは花火だな。そういえば今年まだだったし。天体観測もいいけど、花火だって負けてない」

「なんだよ。ソリューシリキガク的には、星の明かりも花火の光も一緒じゃなかったのか?」

「たとえ同じでも、ミクロとマクロじゃ観測の意味も結果も違うさ」

「マグロ? だからこの県に海はないって――」

 冗談交じりにそんなことを言ったら、話を脱線させないで、と秋泉は俺の頭を叩きつつ言う。

「まあでも明日は夏祭りだしね。夏祭りを満喫するには――」

「明日の昼の内に夏休みの宿題を全員片づけられるか、だな。花火の話はそれからだ」

「うっ……」

 夜渡と秋泉のせいで嫌なことを思い出す。しかし、大丈夫。俺には勝算がある。持つべきものは友である。

「なあ莉子」

さっそく立ち上がり、目下もっか、課題を終わらせていそうな莉子に声をかける。が、彼女は遠くどこかを、街の明かりではなく山々が連なる真っ暗闇のほうを見て返事をしない。

「莉子? どうした?」

「え!? あ、ごめん、ぼーっとしてた。なに?」

 もう一度声をかけると呆けていた莉子がやっと我に返る。

「おーい、君たち、天体観測は満喫しているかい? 寝ている子はいないだろうね?」

と同時に、天間先生が展望台に現れてしまう。残念。いくら俺でも、先生の前で悪事は働けない。仕方ないが、時間はある。明日、機会を伺うことにしよう。

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