第一章 三話
「綺麗――!」
「すげえ! めちゃくちゃ星見える!」
中学校のすぐ近くに有る栄鳴寺山の上、少し開けたところに作られた公園。先生の車から降りた直後、頭上に迎えてくれた満点の夜空に、俺と莉子は無意識に大きな感想を漏らす。
「莉子も光樹も、子供みたいに目がキラキラしてるぞ」
「光樹に至っては、言ってることも子供みたいだね」
「何大人ぶってんだよ二人共! こんな時ぐらい子供らしく喜べよ!」
「そうだよ! りっちゃんも真司も、もっとはしゃがないと損だよ、損!」
「君達、ほんと元気だね。若いって羨ましいよ」
先生は愛車の黒いワゴン車のトランクを開け、準備をしながら柔らかいため息をついていた。俺は星空から地上へ目を落とし、辺りの風景を確かめる。
大きな公園とはいえ、子供の足では到底登れないため気軽に来ることはない場所だ。一度来たことあるが、あまり良い思い出はない。トラウマになっているそれを見据えて、俺はほろりとつぶやく。
「あれ以来、ダメなんだよなあ」
「何が? みっくん滑り台苦手なの?」
「はあ? そんなわけあるかよ」
「私、忘れられないな。ローラー滑り台から落っこちそうになった光樹の大声」
だから余計なことを口にするな。と目で秋泉に訴えるが、遅かった。あれは、秋泉の家族に連れられて、姉と一緒に訪れた時のことだった。
ガキ大将だった俺は、立ったままあのローラー滑り台に乗り、案の定カーブで減速しきれずに吹っ飛んだのだ。ぎりぎりのところで滑り台の端に捕まって、「たすけてえ!」と泣き叫んだところを風祭家に助けてもらったのだ。
「そうか。じゃ、あのローラー滑り台。ちょっと、滑ってこいよ」
嫌な記憶に思いをはせているところに背中をポンと叩かれる。振り向くと、夜渡がニヤニヤと唇の端を吊り上げながら、親指で件の滑り台を指していた。
「いや、いい。天体観測の準備しないといけないだろ?」
「それは俺と先生でやっておく。光樹は素人だろ? レンズを壊されたらたまらないからな」
話は聞いてないという感じで、彼はブルーシートを担ぎながら先生と一緒に展望台へ登っていく。頑丈なコンクリートによって建てられた大きな展望台――と言っても、それは屋外展望台のため外壁は少しひび割れていて、もはや遺跡のようだけど――は、高さにして三、いや六、七メートルはあるだろうか。
その展望台の頂上部と同じぐらいの高さに、トラウマの元凶、ローラー滑り台のスタート地点が設けられている。滑るには、かなりの高さを階段で登る必要があった。
「準備が出来たら呼ぶから、君達は好きなだけ滑り台で遊んでいるといい」
先生も夜渡の悪巧みに加担し、反論の余地も与えられず議論は終わってしまった。
「わたし、ここ来るの初めてだから、ローラー滑り台乗ってみたい!」
「うん、乗ろうよりっちゃん! もちろん光樹も乗るよね?」
こいつ、知ってて誘ってやがる。その証拠に秋泉はうっすら微笑んでいた。面倒くさいというふうを装って断ろうとするも、嬉しくないお誘いは莉子からも出てしまう。
「一緒に乗ろうよ、みっくん?」
「……わ、わかったよ! 俺も乗るから!」
彼女の陽気な笑顔をまっすぐ見ることができず、へたくそに返事をするしか無かった。くそ、どうにでもなれ、と。
街を一望できる、コンクリート躯体の頑丈そうな展望台。それとは対照的に木とか、細い金属の骨組みだけで建てられた、なんとも頼りないローラー滑り台の階段に足をかける。
スペース的に無理をして作ったのか、階段は見た目以上に急だった。
(――大丈夫。小学生のオレだって登ったんだ)
深呼吸をして、おっかなびっくり登るのがバレないように一気に階段を駆け上がる。踊り場に差し掛かった時点で、かなりの高さがあった。ダメだ。下を見ないようにだ。そう奮い立たせて、続けてもう一息登る。足を機械みたいに、規則的に、無意識に動かそうとした。
「――ほ、ほらどうだ。ちゃんと登ったぞ?」
そうしてなんとか頂上へたどり着き、どんなもんだい! と二人に笑ってみせた。
「大丈夫? 顔色、ひどいけど」
「……みっくん、なんでうずくまってるの?」
どうやら笑っているのは俺だけのようだった。足がすくんで勝手に膝が折れ曲がり、地面、じゃなくて、滑り台の頂上で小さくなる。
「……ちょっと、急に動いたら腹が痛くなった」
「動いたら? 急なストレスで胃が痛くなったんじゃない?」
秋泉は心配しているようで、その実、悪魔のように笑っていた。くそ、やっぱ無理。ダメ。
「大丈夫、みっくん? 先生からお薬もらってこようか?」
「大丈夫だよ。お腹痛いなんて、ウソだから。ほら、手を貸してあげるから立ってみなよ」
そう言って秋泉が伸ばしてくれた手に、わらにもすがる思いで手を伸ばし掴む。ゆっくりと立ち上がり、眼前の光景を目にする。
小学生の頃より、ずっと高くなった目線。それを通して望む景色には、街の灯りが遠く輝いていた。こんな山の、田舎の街からでも夜景というのは見えるのだ。夜の
澄んだ山の空気を肺に吸い込むと、体温が少し下がった気がした。
「――高っ! 怖! ウソだろ、高すぎだろ、ありえないって!」
というか、肝を冷やした。いくら山の上とは言え、夏ではそこまで寒くないはずなのに足が震えてきた。
「ちょっと光樹。手、痛いって」
「おう、悪い。でももうちょっとだけ!」
「……」
無意識に強く握ってしまったらしい。恥ずかしげも無く弱音を吐くと、莉子が心配して声をかけてくれた。
「みっくん、高いのダメなの?」
「ダメなの。俺、高いのダメなの」
トラウマ――スピードの出し過ぎで、滑っている途中で体ごと投げ出されそうになった一件のせいで、俺はいわゆる高所恐怖症になっていた。いくら綺麗な景色が広がろうと関係ない。しがみつくように、秋泉の右手を両手で握って力一杯踏ん張っていた。
「ねえ光樹。ちょっと、そんなにくっつかないで。あ、暑いでしょ?」
「誘ったのは秋泉だろ? 責任を持って俺を支えてくれ」
「こ、こら! くっつくな!」
「いいぞ光樹、そのまま押し倒せ」
展望台から、悪友のからかう声が飛んできた。申し訳ないが、今、雑言に付き合ってる余裕はない。ついには、秋泉の腕を引っ張りながら俺はその場に座り込もうとしてしまう。
「――もう、いい加減放して。ほら、手すりに捕まればいいでしょ」
愛想を尽かしたように呆れて言い放ち、急に腕を振られ手を離してしまった。支えを失って、生まれたての子鹿のように足が震え始める。あの時のトラウマは、体の細胞の奥のほうまで刻まれているようだ。
「か、勘弁してくれよ。この手すりとか絶対折れるだろ? だって、錆びてるじゃん」
「そんなことを言ったら、この床もちょっと錆びてるけどね」
「ひっ!?」
莉子に指摘され滑り台の床を見ると、確かに少し錆びている。途端に、数少ない信用していた要素すら疑わしくなり、いよいよもって泣きそうになる。
「んじゃ、りっちゃんに抱きつきなよ。私は先に滑るね。これ、自転車で置いていった仕返しだから」
「あ、おい待てよ! 秋泉ー!」
制止も聞かず、秋泉はローラーに足をかけ先に地面に向かってなめらかに滑り出す。みるみるうちに彼女の姿は小さくなっていき、滑り台の上から姿を消してしまった。
「もう、マジで勘弁しくてれよ……」
半べそをかきながら弱音を吐く光樹の前に、手のひらが差し出される。まるで、犬がお手をするのを待つ飼い主のように。
「手、貸そっか?」
莉子がこちらに目を合わせないまま手を差し出す。公園の弱い灯りに、莉子の白い肌は照らされていた。差し出されたその細い手に恐怖のあまりすがってしまいそうになるが、触れ合う直前に引っ込め、悪態をついてしまう。
「べ、べつに大丈夫だし。全部、夜渡を笑わせるための演技だから」
「その足が震えてるのも演技?」
「ああ、そうだよ。どうだ? 上手いだろ」
ヘラヘラと精一杯の虚勢を張ってみる。だが聞こえなかったのか、莉子は笑うことも、茶化すこともなく、妙な間が空いてしまう。
少しだけ勢いのある夜風が吹いて、彼女の髪がなびいた。そしてどこか明後日の方に向けていた視線を戻して、莉子はこちらへ向き直って言った。
「ねえみっくん。もし良かったら、さ……今度」
「……なんだよ? 急に」
不安なのか、はにかんでいるのか、笑っているのか、大人びているような幼いような、奇妙で曖昧な表情で言った。普段見たこともない彼女の表情のせいなのか、木が風に揺らされる音が消えて、心拍の音だけが聞こえる。
「光樹! 莉子! 準備できたから、早く滑ってこっちに来いよ」
「はーい、今行く!」
「え、あ、おい」
天体観測の準備を終えたらしい夜渡から催促をもらい、莉子は元気よく返事をした。俺は対照的に、弱々しくうろたえるしかなかった。
「ほら、行こうよ」
「ちょっと待って。さっき何を言おうとしたんだよ?」
「内緒」
その先を聞くのを許さないとでも言うように、莉子に手首を掴まれ、されるがままに滑り台のスタート地点に引っ張られていく。思考が追いつく前に肩を掴まれしゃがませられた。
目の前には、すでに幾重のローラーが遥か彼方まで連なっている。この暗さでは、もはや地面も、カーブを曲がった先もよく見えない。
「準備はいい、みっくん?」
「待ってくれ、もうちょっと。心の準備が――」
「ほら、早くしないとお菓子全部食うぞ」
「りっちゃん、早くそのヘタレを突き落として!」
いつの間にか地上に降り立ち、展望台の方へスロープを登っている秋泉も煽り始めた。夜渡に至っては、中学校での勝負で手に入れたお菓子を頬張りながら野次馬になっている。
そして後ろを振り向くと莉子が珍しく、不敵な笑みを浮かべていた。
「――俺、莉子のこと信じてるよ?」
「えへへ。ありがと。わたしも信じてるよ……みっくんは勇気ある男の子だって!」
「待って! ストップ! ストーップ!」
「ほら、わたしも一緒に滑ってあげるから」
「やーめーろおおお――!!」
辺りの更に高さのある山並みに俺の声は何度もこだましながら、地面に吸い込まれていく。
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