第一章 もうすぐ夏休みが終わるから
第一章 一話
――八月二十八日――
夜。身震いをする。いくら夏とは言え、夏休みも終わりに近い二十八日。辺りを山に囲まれたこの高原の街で、半袖ですごすのはいくらか肌寒かった。
「
「大丈夫だって。そんなやわじゃないよ」
縁側でスニーカーの足をぶらつかせていると、居間のほうから姉が声を掛けてきた。そちらを振り向かず、ずっと幼なじみの到着を待っていると、後頭部に何かをぶつけられる。
「アンタ、バカだから風邪なんて引かないと思うけど。一応それ、着て行きなさい」
頭に投げられたのは丸められた長袖のパーカーだった。前半の下りが不服ではあるが、俺は渋々とそれを羽織ることにする。ジッパーを上げると日に干された洗濯物特有の暖かさのある香りがした。
「
「七時頃。あと五分ぐらいじゃね?」
「アンタにしては上出来ね。約束の時間前にきっちり準備終わってるなんて。いつもはぎりぎりまでもたもたして、秋泉ちゃんに怒られてんのに」
「別に普通だって。遅れたら、先生たちにも迷惑だろ?」
今日は友達と集まって天体観測をする約束。俺は隣に住んでいる幼なじみと一緒に行くことになっている。残り三分。いつも十分前には準備が終わっている彼女にしては、珍しく遅い。
「今日は何人集まるの?」
「四人。あと、それから先生も」
「四人……アンタと秋泉ちゃんと、
粘り着くような不愉快な声のほうにちらりと目を向ける。腕を組んでわざとらしくふむふむと頷きながら、にやついていた。
「なんだよ? 気持ち悪いな」
「いやあ、どっちが本命かなって」
「はあ!?」
今度はしっかり振り向いて答える。何を言い出すんだこの姉は、と。驚きの言葉の後に続けたかった反論を姉貴は遮って、まくし立てる。
「やっぱり秋泉ちゃん? 中学生のわりに大人っぽいしね。昔から面倒見のいいお姉さん的幼なじみ。高配点じゃない?」
「バカじゃねえの?」
本当にバカらしい。これ以上付き合ってられないとこちらが肩をすくめるのを気にもせず、姉貴は言う。
「それとも莉子ちゃん? あっちもあっちで小柄で女子女子してるし。それに、確かあんた妹欲しかったんだっけ? あの子は妹っぽい可愛さが凝縮されてるよね。なんかこう、守らなねばという志を抱かざるを得ないというか」
「莉子は一人っ子だ。妹じゃない」
「そんなの知ってるわよ。妹っぽいっていう例え話」
ノリ悪いわね、もてないわよ、とぼやく。帰省してきた姉貴は、いつにも増してやかましかった。多分、お酒が入っているせいもある。絡み酒の面倒くささは両親によく似ていた。
「少し大人っぽい幼なじみと、幼さを残した可憐なクラスメイト……。そしてインテリイケメンのライバルとの四角関係……! いいね、青い、春が青いよ!」
「今は夏だ、春じゃない」
「夏! 天体観測! 女の子と! くう眩しい! お姉ちゃんには眩しすぎるよ!」
「だからうるさいって、この酔っ払い。つまみの食い過ぎで、つまめる肉がまた増えるぞ?」
あ? と大層不満げな顔で、おもむろに関節のストレッチを始めた。まずい。柔道だの合気道だのをたしなんでいる姉貴の相手はしたくない。酒を飲んで暴力的になっている姉貴から逃げるために、縁側を飛び降りて家の門の方へ走った。
「きゃっ!」
「おうっと! ごめんなさい!」
門の手前で、急に現れた人影にぶつかりそうになる。門のすぐ外、小さな羽虫が飛び回っている街灯の薄明かりが、幼い頃から見知っている顔を照らしていた。
「――ってなんだ。秋泉かよ、謝って損した」
「何、その言い方。光樹のくせに」
「あらこんばんは、秋泉ちゃん」
「こんばんは!
長い髪を頭の横で結って胸元へ流しているのはいつも通りだったが、服装の方は長袖のカーディガンに足首の出ないデニムパンツをはき、完全防備という具合だった。「お、秋泉ちゃんはしっかり長袖だね。感心感心」
「まあ、結構肌寒いですから。さすがにもう夜まで半袖の人はいないんじゃないですか?」
「あはは。だってさ光樹」
「ほっとけ」
下品に俺を指さして姉は笑った。そんなデリケートじゃない。余計なお節介だ。
「光樹、半袖で行くつもりだったの? そのパーカー、美咲さんのじゃない?」
首をかしげて、いたずらっぽく聞いてくる。前髪とともに、流した
それはさておき、学校で先生と友達二人を待たせている。友人の片方はいいとして、もう一方は遅れたらネチネチ文句を言ってくるに違いない。そうなる前に、俺はいつも中学校に通うときに使っている愛用の自転車を引っ張り出し、すぐにまたがった。
「あ、待ってよ光樹! えっと、それじゃ、いってきますね」
「いってらっしゃい! 光樹をよろしくね」
置いて行かれないようにと秋泉もすぐに自分の自転車に乗り、こちらのほうへやってきた。
二人、並んで静かな街をゆっくり走り出す。自転車のライトが静かに唸り、速度に合わせて前方を丸く照らし始めた。ここから待ち合わせ場所の中学校までは下り坂なので、行きは楽だ。
「坂であんまスピード出したら危ないよ」
「え? そんなに出してないって。余裕余裕!」
言いながらペダルを踏む足に力をこめる。坂の重力と相まって、自転車はさらに一段加速した。
「あ、こら! 待ってってば! 待ちなさい!」
「ははは、じゃあな! 先に学校に行ってるぞ!」
頬に当たる風が涼しくなればなるほどに、怒っている幼なじみの声が少しずつ遠のいていく。それは秋の鳴き虫の声に紛れて、そのうち聞こえなくなった。
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