こもりうた

葵くるみ

こもりうた

 それはまだ、少女が小さいころの思い出。

 優しい、少ししわがれた、そして懐かしい女性の声が脳裏に今も残っている。

「――ねえ、はるかちゃん。おばあちゃんの教えた歌はね、ぜったいに歌っちゃいけないんだよ。ね、おばあちゃんと約束してくれるかい?」

 そして、その問いかけにこくっと頷く少女。

 少女――はるかには、祖母に教わった古い古い『うた』があった。

 それも一つではない。かなりの量の古いうた達を、祖母は一つ一つ丁寧に教えてくれた。

 でも、何故かそれらを歌うのを、祖母は固く、固く禁じていた。

「この『うた』たちには魂が込められているからね。もしも下手にこれらを歌ったら、悲しいことが起きてしまうからね」

 祖母ははるかにきつくそう言って聞かせた。が、当然のことかも知れないが、はるかの頭の中は疑問符でいっぱいだった。

「じゃあ、歌っちゃいけないのに、どうして『うた』を教えてくれたの、おばあちゃん?」

 はるかが素直にそう尋ねると、祖母は一瞬寂しそうな笑顔を浮かべ、そしてはるかの頭をそっと優しく撫でた。

「はるかちゃんが大きくなったら、いずれわかるよ。歌わなくちゃいけないときが来ることが、わかるよ」

 そう、意味深に言いながら。


 ――小さい頃の、本当に小さい頃の、淡い記憶。

 今は亡き祖母が元気だった頃の、懐かしい記憶。

 それから十年余。はるかはいま、高校二年生になっていた。



 はるかは、子どもの頃のことをあまりよく覚えていない。

 なんでと聞かれると困るけれど、幼い頃のことはなんだか妙に曖昧なのである。まあ、生まれてすぐのことを記憶している人なんてまずお目にかからないし、そういう人の方が普通なのかも知れないけれど、はるかはなんとなく大切なことが欠けてしまっているような気がして、ぼんやりと毎日を過ごしていた。

 彼女のルックスのことを言えば、全体的に愛嬌のある顔立ちをしてはいるが十人並み。身長も体重も、ついでに言うとスリーサイズも、同年代の平均くらいなので見た目で目立つと言うこともない。

 成績は中の中、見た目も相まって学校では普段そう目立つ生徒ではない。もともと通っている高校も、特にこれと言った大きな特徴のない、しかしある意味それを売りとしている私立の共学で、学校のレベル自体も決して高くも低くもないという感じである。

 つまりどういうことかというと、この『はるか』という少女は平々凡々を地で行く少女なのだった。

 ちなみに、『はるか』のフルネームは安部はるかという。どこぞの超高層ビルに名前は似ているが、これもごくごく偶然なだけだし、むしろ彼女としてはその名前ゆえにそれにちなんだあだ名を付けられたり、あるいはアイウエオ順で出席番号が早いからという微妙に理不尽な理由でクラス替えしたばかりの頃に半ば強引にクラス委員長に任命されることがあったりと、あまりいい思いをした記憶もない。

 ――ただ、彼女の長所がまるでないかと言えばそう言うわけでもなかった。

 はるかは昔から歌うことが好きだった。しかもそれが綺麗なソプラノボイスだったこともあって、中学までのころは合唱コンクールでソロパートを歌うことになったりなどと言うことも少なくなかった。

 そしてそれはすなわち、目立つことの少ない彼女の、数少ないスポットライトを浴びるときでもあった。

 高校に入ってからは選択の授業で声楽を選んでいたし、部活も合唱部に所属していた。といっても目立ちたいからではなく、純粋に歌うのが好きだからである。

 歌っているときは彼女の周囲にあるもやもやした気分もすがすがしいものに変わる。歌を歌うことであっさりと気分を晴らすことが出来るのだから、ある意味単純な精神構造をしているのかも知れないが、逆を言えばそのくらい、彼女にとって『歌』というモノは大切なものだと感じていたのだった。

 共学の高校の合唱部であるから、当然ではあるが男女混声合唱などもよく歌う。けれど、そんなときもソロパートを担当させてもらうことが多かった。理由としては幾つかあるが、ソプラノパートの中でも声域が広く、加えて耳がいいことも理由として挙げられることが多かった。

 耳がいいと言うことは、つまり間違った音の拾い方をしないと言うことにも通じる。よく言われるいい方に置き換えれば、絶対音感。音を間違えて歌うことがない。加えて、一度聴いたメロディは頭にたたき込まれる為、だいたい聞いたことのある歌であれば、きちんと歌うことが出来るという強みも持っていた。

 ただ、これは学校の成績に繋がるものでもなく、あくまでも部活の中で有効活用できる武器、という感じなのであった。それに、はるかは自分が必要以上に目立つことを恥ずかしがる少女でもあったから、特技があってもそれを自分から言わなければ気づかれないのをいいことに、クラスでは物静かな目立たない少女、と言うポジションを得ていた。彼女が自分から求めた立ち位置であるから、目立たなくてもまったく気にしていなかった。

 目立つのは苦手なのだ。小学校の頃にたまたま合唱コンクールで目立ってしまったときは、どうして自分が、とやや人間不信に陥ってしまうくらいに目立つということを苦手としている。極端と思うかも知れないが、彼女は歌うことで目立ちたいと思っているわけではないから、それで目立ってしまったことで逆に戸惑ってしまったのだ。

 時にはソロパートを変わってくれと音楽教師に泣きつくこともあったくらいだが、たいていのものは

「そんなに綺麗な声を埋もれさせてしまうのは勿体ないのよ」

 と、そんなことを言い聞かせて、結局ソロを歌わせてしまう。

 だからはるかは、歌は好きだけど、こういうときだけは苦手だった。


 それはある日のことだった。

 学校からの帰り道、ふと目を車道にやると、恐らく車にはねられたのだろう、すっかり弱り切った猫が震えてかがみ込んでいた。かなりぐったりとした様子で、一刻も早く獣医に診てもらわないとまずい――はるかの目にはそう映った。

 そこは決して人通りも車も多くない道で、近くには猫の集会所らしきものがあることもはるかは知っている。

 だからこそ、彼女は慌てて怪我をしているらしい猫に近寄った。足をしきりに気にしているところを見ると、骨も折れているかも知れない。猫は近づいてきたはるかに一瞬だけ威嚇するような視線を向けたけれど、やはり怪我が痛いのだろうか、すぐにまた丸まってしまった。

(足の骨が折れているだけならいいのだけれど)

 はるかはそうであることを祈りながら、近くにある動物病院へ猫を抱えて駆け込んだ。通学路の途中にあるこの動物病院は、はるかの周囲ではいいお医者さんだと評判の高い人なのだ。手持ちの金は無いが、家に戻れば多分何とかなる。そう思いながら、はるかは動物病院の受付に頼み込んだ。

「さっき道で倒れていたんです。多分車にはねられたんだと思うんですけれど、どうか診てあげてくれませんか」

 必死に訴えるその様子に、受付の女性も優しく頷いてくれた。急患扱いで診てくれることになり、はるかとしては有難いことこの上ない。

 診察室に通されると、三十路半ばくらいのまだ若い獣医師が柔らかい笑顔で迎えてくれた。

「怪我をした野良猫だそうだね。色々デメリットもあるだろうに、こういうところに連れてきてくれてありがとう」

 言いながら、獣医師はてきぱきと猫の様子を診る。やはり足は骨折していたが、それ以外にもどうやら内臓を負傷しているようだ、と彼は告げた。

「正直かなり危ない状態だね。そのまま放置をしていれば、多分明日の夜明けまでに……と言うことも十分考えられたから、君の判断は正しかったとおもうよ」

「……! どうかお願いです。見つけられたことと、この病院に連れてくることが出来たこと、どちらも偶然かも知れないけれど、それでもこの子を見過ごすことはできないので……!」

 そう言って、はるかは深く深く頭を下げる。獣医師はそっと目を細めた。

「僕だって、もし似た状況にあったら、真っ先に猫を保護するよ。大丈夫、手は尽くしてみるよ。……よく頑張ってここまで連れてきたね。助かるように祈ろうね」

 その言葉に、少女はぱっと顔を輝かせる。

「本当に、よろしくお願いします……!」


 はるかはとりあえず、猫を動物病院にお願いしてから家に帰ることにした。

 スマートホンで時間を確認してみれば、もう夕飯の時間をとっくに過ぎている。事前に連絡をいれる余裕もなかったから、きっと家族は心配していることだろう。ここからなら自宅まで早足で十五分ほどだろうか、比較的家に近いところなので急いで家族に連絡を入れてから帰路を急ぐ。


 ――と。

 耳元で、何か、【声】が聞こえたような気がした。

 どことはなしに懐かしい響き、優しい声音。……それがかつて、祖母に教わったうたの一つであると気づくのに、それほど時間はかからなかった。

 でも、どうしてこんなところで。

 はるかは耳を澄ましながら、声の主に会いたいのをぐっと我慢して家路を急ぐ。

 うたは優しい声音なのに対してどこか寂しげな曲調と歌詞で、そのアンバランスさが逆に不思議と耳に残った。

 しかしはるかは気づかなかった。最初に歌声を聞いてから十分ほど小走りに移動しても、その声量がまったく変わっていないと言うことに。


 家に帰ると、母が出迎えてくれた。

 ごく普通の住宅地。戸建てが多いのは、かつての都市計画の名残だ。

「猫が無事だといいわねぇ」

 事情をあらかた話してあったので、母はそう言いながらはるかに詳しい話を聞く。交通事故でボロボロになった猫はまだ幼そうだった、と話すと、この辺も半野良みたいな猫は多いからね、とわずかにため息をついた。

 たしかに首輪こそ付けていなかったものの、綺麗な毛並みをした猫だったのは間違いない。つやつやとした黒い毛並みの猫で、だからこそ怪我の発見が遅れてしまったのかも知れない、とはるかは個人的な見解を説明する。

 黒い毛並みは、血の汚れに気づきにくいから。

「無事に元気になるといいわねえ、その猫ちゃん」

 母はそう言って、ほっこりと笑って見せた。夕飯を食べていたはるかも、こっくりと頷いた。


 翌朝、はるかはいつもよりもかなり早く目が覚めた。

 猫のことが気になるのもそうだが、実はきのうの帰り道から聞こえていた歌声が、眠ってからもずっと聞こえ続けていたのだ。

(あの歌声……一体何なんだろう)

 なかなか眠れなかったこともあって腫れぼったい目をこすりながら、はるかは顔を洗う。その合間もずっと歌声は聞こえ続けていて、正直なところ頭が痛くなってくる。

 歌声自体は決して不快なものではない。けれど、ずっと絶え間なく聞かされ続けているのは、辛い。

(ほら、また今も)

 歌声が途切れないのに、どうやら他の人には聞こえていないようで、どうしたものかと悩んでしまう。どうしてこんな声が聞こえているのか、本当に分からないから、余計に戸惑うばかりだ。


 ……おいで、おやすみ、……いとしい子、やさしい子……


 その調べは紛れもなく眠りを誘う子守唄。

 それなのに、眠ることが出来なくて、だからこそもどかしい。

「……猫さん、大丈夫かなぁ……」

 思い浮かべるのは、昨日動物病院に預けてきた猫のことだ。無事に峠を越えていればいいのだけれど、とはるかは祈るほかなかった。


 翌朝。朝食もそこそこに、はるかは急いで家を出る。

 動物を扱っている病院は、基本的に入院している患畜たちのことも考え、誰かしらが当直に当たっているはず――母親にそう指摘されて、登校前に猫の様子を見に行こうとしたのだ。

 しかし、動物病院に近づくにつれて、あの歌声が不思議と大きくなっているようにも感じた。

 綺麗な、美しい歌声なのだけれど、同時になにがしかの恐怖心も与えてくるような旋律が、耳の中を、頭の中を、わんわんと響いていく。

(やっぱり疲れているのかな……)

 ここのところ部活のコンクールも近く、気を抜けない日々が続いていたこともあって、はるかはぼんやりとそう考えてしまう。なんだかんだで疲れているのはたしかに間違いのない話だから、聞こえているはずのない声まで聞こえてしまうのかも知れない。

 やがてたどり着いた動物病院のインターホンを使って尋ねてみると、

「昨夜くらいからずっと危ない状態で、……さっき」

 え、とはるかは耳を疑う。

 ――さっき、息を引きとっただなんて。聞きたくない現実だった。

 思わず涙があふれ出す。動物が好きで、ずっと昨日から心配の限りだったので、悲しみはひとしおだ。昨夜ここに連れてきた時点で、確かにかなり厳しい状態とは思っていたけれど、たとえ実際に触れあったのが一日もなかったかと言っても、自分が助けようとしていたのにもう会えないかと思うと本当に辛い。

 そしてふと気づいた。さっきまでガンガンと頭に響いていたあの不思議な旋律が、いつの間にか聞こえなくなっていると言うことに。


 それから数週間が経過して、気が付けば部活のコンクールも終わっていた。

 コンクールの結果は、地区大会で三位。地方大会への出場権は手にしたが、結果が決して芳しくなかったのは認めざるを得ない。

「安部の歌が、いつもよりも少しハリがなかった。ソロパートがどこか上の空だったぞ」

 部長にそんなことを指摘され、そしてたしかにその通りだったので、思わず肩を落としてしまう。

「すみません……この間から、ちょっと気になることがあって」

「でもほかに余り迷惑をかけないようにな」

 先輩にそう言われ、はるかもこくりと頷く。決して怒っているわけではないのだと、それはわかるから。

 ――それにしてもあの歌はなんだったんだろう。

 彼女の頭を悩ませていること――それはあの妙な歌だった。

 どこか懐かしさを感じる、それなのに同時に空恐ろしさも感じる旋律と歌声。

 そして、それをどうやら誰も認識していないこと。あのあとはは親に聞いても、動物病院の受付で聞いても、誰もそんな歌を聴いていないと応えたのだ。けれど、はるかの胸にはその旋律がどこか懐かしく感じられ、だからこそ不思議でたまらなかった。

 どうして、どうして。

 ずっと胸の奥に問いかけていく。それなのに答えはでなくて、だからこそもやもやしてしまう。

 そして考えて考えて――ふと、思い出したものがあった。


 それは幼いとき、祖母が教えてくれた、あの不思議な『うた』だった。


 むろん、まったく同一というわけではない。だが、たしかにそのメロディラインは似ていたのである。

 歌ってはいけないはずのうたが聞こえる、だなんて。それも他の人には何故か聞こえない、だなんておかしな話だ。

 しかしその歌をまた聞きたいと思ってしまったのも事実だった。

 何か忘れているかも知れないことを、思い出せるような気がしてしまったから。

 放課後、もう誰も残っていない音楽室。はるかは練習のあと、ピアノのフタをそっと開けて、鍵盤を叩く。

 ぽーん。

 心地の良い音が耳を刺激する。はるかは記憶の糸をたぐりながら、あのとき聞こえた曲を再現しようと試みた。幸いというか、彼女はいわゆる絶対音感だ。音の再現はそう難しくはない。

 指一本でぽんぽんぽんと鍵盤をリズミカルに叩きながら、その旋律は作り上げられていった。

(綺麗な曲)

 はるかはそう思った。たしかにメロディはとても柔らかな響きで、何か神秘的にも感じられる。そしてやはりというか、祖母がかつて教えてくれ『うた』とうり二つでもあった。

 そしてそれに気づいたとき、はるかの口からは思わずうたがあふれ出していた。幼い頃教わった、たくさんのうたの中から、一言一句の間違いもなく言の葉がこぼれ落ちていく。しかし、ずっと聞こえていた曲とは歌詞が少し異なっていた。なぜなら、祖母が熱心に教えてくれていたのは日本語ではなかったからだ。

 どこのものともつかない言葉が、自然と口からこぼれていく。初めは小声で、だんだんと大きな声で。

 歌うことって、こんなに気持ちのいいことだったんだ――はるかはそんなことを感じていた。もともと歌は嫌いではないが、いまの瞬間ほどそれが充実していると感じたことはない。

 やがて一曲が歌い終わると、はるかは時計を見て慌てた。もうずいぶんと時間が経過している。帰らないと親も心配するに違いない。

 急いでカバンをひっつかむと、はるかは昇降口へと急いだ。靴を履き替える必要があるからだ。けれど、そこで彼女は思わず動けなくなってしまった。

 何故って、そこにはどう見ても古式ゆかしい雰囲気の、真っ黒い和服を着た少年が、立っていたのだから。

「さっき歌ってたの、君だよね?」

 はるかよりも数歳幼く見えるその少年は、そんなことを言ってにこっと笑って見せた。まったくもってこの場には不吊りあいな格好の少年ではあるが、何故だろうか、妙に気になってしまう。しかもこの少年には、その黒い和服というのがひどく似合っていた。まるで宵闇を纏ったかのようで、静かな雰囲気をたたえている。

 それよりも、何故歌っていたと分かったのだろう。

「……君は?」

 不安を隠せないといった口ぶりで尋ね返す。すると少年はにかりと笑った。

「その歌は、異界との扉を開くうた。君が僕を呼んだんだ」

 少女の問いには答えない。しかし少年の意外な発言に、目をぱちくりさせるのははるかだ。と言うか、少年の言うことが今ひとつ理解できなくて、不思議でたまらない。

「どういうこと?」

「言葉のままだよ。君のうたに呼ばれたんだ」

 少年はそう言って、ふわ、と身につけていた羽衣のようなものをそっと外し、はるかにすっと近づいて羽織らせてみる。わずかに桜色がかったその羽衣は、ふわふわと軽くて柔らかくて、肌触りが心地よい。

「これ、綺麗だけれど……どうして私に?」

「それは君が持つべきものだからだよ」

 少年は笑うと、ぱちんと指を鳴らした。と――周囲がきらきらとまばゆいくらいの金色に包まれていて、はるかは思わず目をつむってしまう。しかしいったいここはどこなのか。少なくとも高校の敷地にこんな場所はない。まるでどこかに突然連れて行かれてしまったかのような――そんな不思議な感覚。

「ふふ、やっぱりここが一番身体がなじむ」

 黒い和服の少年は、嬉しそうに笑う。

「ずっとよんでたんだよ。君はここに来ることができるって、知っていたから。いや、帰ってくるはずだったから」

 そして少年は目を細めた。金色の瞳――それが人のそれでないようなものに見えた。

「お礼も言いたいんだよ。どじったところを助けようともしてくれたんだし」

 少年はそう言ってくるりと一回転すると、ゆらりと揺れる黒い尻尾が見えた。まさか、もしかしてこの少年は。

「あのときの、猫……?」

 震える声で尋ねると、少年はにんまりと笑って見せた。無言だったが、間違いなく肯定していた。尻尾が楽しそうにゆらゆらと揺れている。

「歌ってはいけないうたなの、そうお祖母ちゃんに教わってきたから……でも、ここはどこなの?」

「ハザマ」

 はるかの問いに、少年は簡潔に答えた。

「ここはあらゆる世界に繋がってる場所。でも、ここに住んでるモノもいる」

 まるで子供だましなその答えにはるかは首をひねるばかりだけれど、少年は笑った。

「君の歌ったうたは、このハザマに伝わるうたなんだ。そのお祖母ちゃんという人も、きっと少し変わっているね」

 ハザマに来たことがあるのかも知れないよ――そんなことを少年がいい、わずかに牙を見せて笑ってみせる。

「でも、普通の人だったよ……?」

「ニンゲンはうそをつくから。あえて黙ってたのかも知れないよ、君の素質や正体を知っていたからこそ」

「素質? 正体?」

 はるかが尋ねると、少年は頷いた。曰く、そもそもこのハザマなるところに来るためには、そのヒトに素質がなければならないのだという。それは、目や耳や、声がいいこと。この場合の「いい」というのは、異界との境界を越えてしまう――物理的なものではない、そう言う感覚的なものだ。超自然的、とも言えるかも知れない。

 あるいは、もともとその世界ならざる存在であるか。

「だから、ボクは君を迎えに来たんだよ」

 少年はそう言うと、すっとはるかの手を取った。

「行こう、『はるか』」

 その瞬間、はるかの目の前で何かが弾けたような気がした。

 まるで、何かの薄い皮膜がなくなってしまったかのようで。いや、何かがふつりと切れてしまったかのようで。

 はるかは――いや、『少女』は、それまで学校にいたことも、部活のことも、すべて手放しても構わないと思うようになっていた。

「……うん」

 ぼんやりとした声で、少女は応える。名前という質を取られ、少女の属する世界が変わったのだ。急激な変化で、まだついて行くのがやっとな部分も無くはないが。

「ね、歌って。君の歌声は、この世界への呼び声になるからね――」

「いいの?」

「もちろん。このハザマと、他の世界を開く役目を持っているんだからね、君は」

 少年に乞われ、少女は嬉しそうに歌い始める。どこの世界の言語とも異なる、誘いの歌を。

 子守唄のように、やさしく、緩やかに。

 そして伸びやかに、少女の声は響き渡る。その声に呼応するかのように、金色の野原のあちこちが輝きはじめた。きっと、異界との扉とやらが少しずつ開きはじめたのだろう。

 その光景を見て、少女はますます声を大きくした。自分の役目を理解しているから。

 彼女は、このハザマの出入り口を管理する『ローレライ』。

 ギリシアに伝わるローレライ伝説は人を死に至らしめるが、彼女は少し違う。この閉じた空間に人を呼び、そしてそこでともに過ごすのだ。優しい歌声は、彼女の性格をよく示している。

 そしてハザマいっぱいに、彼女の声が響き渡った。




 ――その日、ハザマ以外の世界から『安部はるか』という存在は消えた。

 誰も知らない、誰も覚えていない。世界にそんな存在は初めからなかったかのように。

 その代わり、ハザマで少女は歌い続ける。

 すべての人の幸せを祈りながら、世界のハザマをたゆたい続ける――

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こもりうた 葵くるみ @tihaya-buru

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