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「困ったなー、どうしよう……」


アンナは体中に走る痛みに耐えながら、ゆっくりと起き上がった。それと同時に、ぐーと低音が響く。


「……お腹すいたな」


ぺたんこのお腹に手をあて、アンナは深く長く息を吐いた。

ダリルが用意してくれたお湯と井戸水で、痛みをやわらげる処置をしている間はよかった。ジンジンと脈打つように押し寄せる筋肉の痛みが全てをかき消してくれていたから。お湯も冷め、一番症状のひどい内ももの打撲を冷やし始めた頃、何も口にしていない事を思い出したのだ。


一度自覚した空腹は意思があるかのように、どんどんと主張を強くしていく。何度目かの低音を聞いたアンナは、一度脱いだ服に渋々と手を伸ばした。




部屋を出て辺りを見渡すと、薄暗い廊下の先にぼんやりとした明かりが見える。アンナは痛む足を庇いながら、ギシギシと軋む廊下を歩き出した。ダリルが隣の部屋だったら出歩いていることがきっと解ってしまう。今このタイミングで部屋から出て来られたら何て言えばいいのだろう。アンナは空腹への恥じらいと出歩く罪悪感で、ごちゃごちゃになった気持を整理出来ないまま、廊下に音が響かないように慎重に明かりを目指した。


明かりは階下から漏れているものだった。話し声らしき音も聞こえ、人がいることにほっとしたのもつかの間、下にダリルがいたらどうしよう、とアンナは頭を抱えた。


手すりにつかまりながら何とか下の階へたどり着くと、そこはいくつかの席にまばらに人が座る酒場の様な場所だった。アンナは周りを見まわしダリルの姿がない事にほっと胸をなでおろす。


「あの、すみません」


カウンター越しに店主らしき白髪の老人に声をかける。作業の手を止めアンナの姿を認識すると老人は驚いたように目を見開いた。


「お嬢さん、もう起き上がって大丈夫なのかい?」


「はい、お湯や布などたくさんお世話になったみたいで、本当にありがとうございました」


アンナは素直に心からの感謝を言葉にする。


「いやいや、あれは全部騎士様が用意したんだよ、わしは井戸の場所を教えて宿の手桶を貸しただけだ」


アンナの言葉にやんわりと首を振り、宿屋の主人は優しく微笑んだ。


「お嬢さんを抱きかかえて入ってきた時は何事か、と思ったが騎士様が必死になったのも解るよ」


あ、と気づくと同時にアンナは自分の顔に一気に熱が集まるのを感じた。そういえば痛みで全て吹き飛んでいたが、盛大な見世物のように宿屋に入ったことを思い出し、熱を帯びた頬を隠すようにうつむいた。


「お恥ずかしいところをお見せして、申し訳ありません」


「はっはっはっ、そういうところも騎士様が気に入ったんだろうね」


貫禄ある笑い声とともに、何かとんでもない勘違いをされているような気がしたが、アンナは弁明よりも先に、空腹をどう切り出そうかとうつむきながら考えていた。


「そうだ、ひとつ頼まれてくれないかい?」


主人がカウンターの中から二つ包みを取り出し、アンナへと差し出す。


「何か軽食を作ってくれ、と頼まれたんだが……なかなか取りに来られなくてなー、悪いが届けてもらえないか」


茶色い紙に包まれたサンドイッチに、思わず頬がゆるむ。そんなアンナを見て主人もまた優しい笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。あの、どちらにいらっしゃるかご存知ですか?」


「きっとまだ厩舎きゅうしゃだろうね。場所は解るかい? ここを出て左へぐるっと回ったところだよ」


主人から包みを受け取り、もう一度お礼を告げてからアンナは痛む足を庇いながら歩き出した。軽く炙られたベーコンの香りが気分だけでも幸せにしてくれる。

問題を先送りにしても、何も改善されない。明日ちゃんとダリルと話そうと思っていたことを今この時に前倒ししよう。


主人が渡してくれたきっかけが背中を押してくれているようだった。



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聖女となる日。 篠宮 ゆたか @mikuromikuro

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