5
「……まさかとは思うが、今まで馬に乗ったことは?」
「ありませんっ!」
叫びに近いアンナの声がダリルの言葉をぴしゃりと遮る。ズキズキと痛む腰や背中に感覚が戻らない両足、体を支えているのは必死にしがみついているダリルの腕だけ。その全てがダリルの言った覚悟に含まれるのなら、ちゃんと説明して欲しかった。
アンナは自分で決めた反論しない覚悟だけはつらぬこうと全ての言葉をのみこんだ。
「悪い……俺のせいだ」
今までにないダリルの声のトーンに、一瞬理解が遅れる。
背中に何かが触れたと思った直後、ぐるっと世界が反転する。力強い腕に抱きかかえられアンナの体は宙に浮いていた。
「い、痛い……」
しぼりだすような微かなアンナの声に、ダリルが息をのむ。
「少しだけ我慢しろ」
抱きかかえられたまま宿屋に入る状況や、ダリルと密着している事実。気にすることは色々あるはずなのに、ふとももに走る激痛が全ての思考をかき消していく。
痛い、とにかく痛い。宙に浮くアンナの両足の下で体を支えているダリルの腕が、多分一番痛い場所に当たっている。アンナはぎゅっと瞳を閉じ、ただただ痛みに耐えた。
「少し待っていろ」
ゆっくりと寝台へアンナを下すと、ダリルは足早に部屋を出て行った。
「待っていろ、なんて言われても……いつまで?」
バタンと閉められた扉を見つめ、アンナは一人残された部屋で小さく息を吐いた。せめて痛みの原因ぐらいは確認しておきたい。だがそれにはスカートを脱ぐ必要があった。後の治療のことを考えるとまくり上げただけでは不十分で、どちらにしてもダリルが戻って来たことを考えると行動に移さない方が賢明に思えた。
ここまで行動を共にして解ったことは、ダリルは説明が少なすぎるということだ。聞かない私も悪いのだけど、とアンナは考え込む。聞いたらちゃんと答えてくれるのだろうか?またあの盛大なため息が返ってくるだけのような気がして、アンナはまた一つ小さく息を吐いた。
いつ戻るかも解らないダリルを、ジンジンと広がる筋肉の痛みと共に待つ。
「ただの村娘が王都の騎士様に反論するなんて……」
今日を振り返りアンナは頭を抱えた。体中に響く痛みは思考をも暗く落としていく。
「
アンナは結っていた髪に手を伸ばし、ほどき始める。バサバサと指先で空気を含ませるようにほつれを取り
コンコンとノック音が部屋に響いた。
「アンナ、俺だ入るぞ」
こちらの返事も聞かずにガチャリとドアが開く。スカートを脱がなくて正解だったと入口を見ると、目を見開いたダリルが呆然と立っていた。
「髪をおろしたのか……別人に見えて部屋を間違えたかと思った」
「それは何ですか?」
ダリルの両腕から二つの大きな
「こんなもので悪いが湯と井戸水を持ってきた」
ダリルは部屋の中央までそれを持ってくると、アンナの前にドスンと置いた。揺れる水面がたぷんと跳ねる。一つはゆらゆらと湯気が立ち込め、もう一つはつんと冷気をまとっている。手桶の持ち手に何枚か布をぽんと置くと、ダリルは寝台へと腰掛けるアンナと視線を合わせるように膝を折った。
「その……震えるほど怖い思いをさせて悪かった」
罰が悪そうに視線をそらしながらダリルが言葉を続ける。
「こうなったのは俺のせいというか……配慮が足りなかった。まず初めに馬に乗ったことがあるかを聞くべきだった、すまない」
「いえ……お湯まで用意して頂いて、ありがとうございます」
ダリルは小さな瓶を取り出しアンナに手渡した。
「打ち身や、すり傷に効く塗り薬だ、必要なら使ってくれ」
それだけ言うとダリルは立ち上がり足早に部屋を出て行った。
何も答えられず受け取った小瓶をアンナはじっと眺める。その小瓶を持つ手が微かに震えていることに気づき、ダリルの言葉の意味を理解した。それと同時に可笑しさがこみ上げる。
「これも筋肉痛なんだけどなー」
震えるほど怖い思い、真剣なダリルの表情と言葉が彼の印象をがらりと変えていく。
指先の小さな
「案外、いい人なのかもしれない」
手渡された小瓶をサイドテーブルへと置き、アンナは服を脱ぎ始めた。明日ちゃんと話をしてみよう、そう心に決めながら。
「う、うわぁー思った以上に酷い……」
赤黒く染まった自分の内ももに、ちゃんと苦情も伝えようとアンナは改めて決意した。
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