第7話

 京子と初めて会った日に行った、横浜に数少ない「お洒落カフェ」で久しぶりに京子と会った。京子は昔と雰囲気が違っていた。髪型がショートカットになっていた。またトレードマークのミニスカではなく、ジーンズ姿だった。

 京子はこれまでの結婚生活での不満、すなわち、なぜ家事を自分だけが負担しなければならないのか、なぜ夜遊びしてはならないのか、といったことを語ると、「旦那とは近々別れる予定なのよ」と締めくくった。

「そんなに簡単に結論出さないで、二人で話し合って何とかしろよ」

 俺はすかさず言った。

「別れるわよ。他に好きな男もできたし」

 京子はそう言って、カフェの入り口を見やると、笑顔を向けた。そこには、背の高い色黒の男がいた。その男は京子の隣に座り、俺に「はじめまして」と挨拶した。京子は男を「彼氏」と俺に紹介し、俺のことを「元彼で今は友人」と男に紹介した。

 京子に「タッキー」と呼ばれた男は、クラブで京子と出会ったことや京子への思い(早く京子と住みたいとか、京子ほど好きになった人はいないなど)を語り出した。俺は「まだ離婚したわけではないから、そういうことを言うのはまずい」と批判した。それは、旦那を哀れに思ったのと男がどうにも鼻持ちならないタイプだったからだ。高級腕時計にどこかのブランドロゴのバッグといういわゆる成金趣味の服装で。

「航がそんなこと言うなんて、意外に保守的なんだ。もっと自由かと思ってた」

 京子は目を細めて言った。

「京子は自由の意味を履き違えているよ。結婚には自由はないんだ。結婚した以上は、それくらいわかってると思ったけど」

「そんなの結婚したことない人に言われたくないわ」

「したことなくても、それくらい常識だろ」

「航が常識に訴えるとは、驚きだわ。航こそ非常識な性の乱れを生きている張本人なのに」

 俺はひるんだ。

「この人、わたしのお姉ちゃんにアプローチしたのよ。ひどいでしょ」と京子は彼氏に囁いた。

「それは、京子と別れてからだし」

「それにしてもね。人妻なのに。結婚という制度を無視している人に結婚を説かれたくないわ」

 いつの間にか、理沙も俺の隣に座っていて、俺のことを「すぐにカラダを求めるゲスな奴」と罵倒した。店員や周りの客まで俺に冷たい視線を浴びせかけた。


 目が覚めたとき、夢の余韻で俺は憂鬱だった。カーテンの隙間からは、穏やかな陽が差している。俺は姿鏡の後ろにあるダンボールの中で眠っている猫を撫でた。十月に入り、半袖では寒くなってきた頃だった。その日は、金曜日だったので、俺は仕事に目処がつき次第、またディスコかどこかに出かけようかと考えていた。あと、およそ一カ月後には誕生日が来る。いよいよ三〇代も終わろうとしている今の内にまた恋愛したいと俺は考えた。それのためには、この時期に何とかしなければ。

 俺はキリの良いところで仕事を終わらせ、七時前に電車に乗った。ディスコのハッピーアワーに間に合わせるようにするためだった。電車の中でスマートフォンにメッセージが来た。理沙からだった。

「今日は何してる?」

 それだけだった。しかし、それは事実上の誘いのメッセージだった。俺が暇である旨を答えると、急遽、新橋で会うことになった。一人でディスコでナンパしてもほとんど成果がないし、実のところ気が重かったので、この展開は嬉しかった。

 理沙は黒のカーディガンに白のタイトスカートというOL風のいつものファッションだった。俺たちは新橋のHUBに向かった。金曜の夜の街は、快適な気候と相まって賑わっていた。HUB店内も混んでいたが、俺たちはテーブル席に着けた。お互いに生ビールを注文して、席に着いて乾杯すると、俺は「離婚の件、どうなった?」と切り出した。

「とりあえず別居することにした。まあ、ゆくゆくは離婚すると思うけど」

「そっか。で、〈彼〉とはうまく行ってるの?」

「……〈彼〉とはもう終わりにしようかと思ってるの。やっぱりゴールが見えないのは辛いし。彼の家庭を壊したくもないしね」

「え~、それでいいの? 〈彼〉と何かあった?」

 俺は椅子から転げ落ちそうになった。

「いや、別に何もない、というか、これまでと変わらないけど。わたしの方でいろいろ考えちゃって。恋愛に生きるのも疲れるしね。一人になってこれからのことをよく考えてみようかって思ってる」

「そっか。今、三六だよね。子どもをつくって家庭を持つことは考えてないの?」

「もう年齢的に厳しいし、それに育てていく自信もないんだ」

「だけど、生きていくには指針というか、目標というか、何かコミットするものが必要じゃないか、って思うんだけど」

「コミットか。そうだね。やっぱり恋愛かな。わたしの場合。さっき言ったことと矛盾してるか。でも、恋愛にもいろいろ種類があるじゃない。〈彼〉とは相思相愛は難しい。結局、〈彼〉といてもわたしが心の平穏を得られないってわかったんだ」

「旦那とはどうなの?」

「旦那とはこれから修復できるとは思えない。わたしの浮気のこともあるし」

「旦那は離婚したいって言ってるの?」

「……それがそうでもないらしいんだけど。わたしのことが嫌いになったわけではないと言われた。自分でもなぜかわからないけど、Hができなくなったんだって。わたしもそういうことを求めないから、まあいいのかと思ってた、と」

「えっ、それじゃあ……離婚する必要ないんじゃ……」

「そうかな。わたしは浮気したし、許せないんじゃないかな」

「う~ん、許せるでしょう。そもそも、旦那に非があったわけで……。でも、これからもずっとセックスレスだとやっぱり問題だよね」

「その件だけど、病院で診てもらうって。でも、どっちにしても、今更っていう気がするけど」

「なるほど」

「別居は確定してる。しばらくは離婚しないと思うけど、ゆくゆくは……って思ってる」

「でも、旦那がしたくないと言うと難航するかもね」

「うん。そうだね。でも、旦那にも他に好きな女ができないとは限らないし」

「……つまりは、いったんお互いの拘束を解除してみて、それでもまだお互いが好きならば、やり直す、という一種のお試し的な別居なのかな」

「……まあ、そうだね」

 俺は旦那の方に感情移入してしまう自分に気づいた。こういう場面で未練たらしくなるのは、男の方が多いのではないだろうか。自分が京子にすがったように。一部のいわゆるモテるタイプの男を除き、男が女を見つけるのは、その逆よりもはるかに難しい。そうした状況から好きな女から交際を解除されることは、男にとって大きなショックになる。とりわけ、セックスができなくなることが辛い。ところが、理沙の旦那はセックスレスにもかかわらず、理沙と離婚したくないという。それは俺には奇妙に思えた。セックスレスでも愛しているというのだとしたら、それこそ真の愛なのではないのか。

「何か食べようか?」

 隣のカップルのフィッシュアンドチップスを見て、食欲が刺激された。俺たちはフィッシュアンドチップスとサラダを注文した。ひとしきり食べ、二杯目のドリンクを空けたとき、時間は八時過ぎだった。別の店へ行くには良い頃合いだった。俺は当初の目的を思い出して、今日はディスコに行く予定だった、と理沙に話した。理沙はここしばらくディスコはご無沙汰だと言う。「久しぶりに行きたいな」と理沙。


 銀座にあるおなじみのディスコ・Gに来た。浅い時間だったので、ガラガラかと思ったが、そこそこ人が入っていた。Gは二階のフロアから構成される大型ディスコである。エントラスの階はバーになっており、吹き抜けの構造で下の階のダンスフロアを見渡すことができる。俺たちは、ダンスフロアの立ち飲み用のテーブルでドリンクを飲みながら、まだ人がまばらなダンスフロアを眺めていた。

 理沙は微かに笑みを浮かべて、曲に合わせて、リズムを取っている。この雰囲気を気に入っているようだ。俺はあまり音楽に没入できなかった。俺の場合、こうした場に来る目的はナンパ以外になかった。音楽に関しては、もっとボリュームを落として欲しかった。音楽とアルコールと暗がりという設定は、見知らぬ男女間の壁を取り去る上で効果的であることは確かだったが、会話するのに適した場ではなかった。話しかけて、あわよくば連絡先を交換できれば、それで成功だった。

「この曲、好き!」

 理沙は新しい曲が流れると大声を出した。ディスコでよく流れる曲だったが、俺は曲について詳しいことを知らなかった。俺が「誰の曲?」と訊くと理沙は「マドンナ!」と答えて、ダンスフロアに繰り出した。俺もまた釣られて、理沙の後について行った。今の曲が掛かってからダンスフロアに一気に人が増えた。俺は理沙からやや離れて後方で踊っていたが、そのうちにニット帽の男が理沙に話しかけてきた。理沙に体を近づけ、何やら熱心に話しかけている。理沙も男に応えていた。やがて男は話かけるのを止めると、理沙の腰に腕を回したりして、さらに体を密着させていた。理沙も拒否するそぶりは見せていなかったので、俺は何もしなかった。そのうち、二人はダンスフロアから離脱した。

「ここにはよく来るんですか?」

 トイレから出たところで見知らぬ男に話しかけられた。年齢は俺と同じくらいか俺よりも少し上に見えた。ダークスーツにノーネクタイというサラリーマンスタイルで、ディスコの男性客のマジョリティを占める人口層だった。俺は男に話しかけられたことを不思議に思いながらも、「まあ、たまに」と答えた。

「ここは騒がしいので、上で話しませんか?」

 男はそう耳元で言った。俺は男をまじまじと見た。男は愛想悪いを浮かべている。ディスコでそんな風に誰かから言われたのは初めてで面食らった。俺は何の話があるのかまったく想像できなかったが(もっとも良からぬことだろうという予感はあったが)、好奇心から承諾した。

 そこまで大音量ではなく比較的話しやすい上の階に移った。テーブル席は空いておらず、俺たちは、バーカウンターの空いているわずかなスペースに体をねじ込んだ。隣では若くない女性の二人組がおしゃべりしていた。

「何か飲みます? 奢りますよ」と男は言った。

「ジントニックを――」

 俺が「カネは払います」という前に男は「OK」と言って、ドリンク注文の列に並んだ。俺はいろいろと想像を巡らせていたが、まともそうな会社員が俺のどこに興味を惹かれたのか皆目検討がつかなかった。

(あるいは、ホモなのか)

 以前、まだ三〇前半の頃、ホモと知り合いになりかけたことがあった。SNSでやりとりしていた若い男がホモだとカミングアウトしてきたのだった。話が合って、おもしろそうな人だと思っていたが、ホモと実際に会うことに大きな抵抗を感じた。当時は、ホモの人に対して偏見というか、恐れがあった。結局、会うことはなく、やりとりも止めたが、今なら会うだろう。

 男が戻ってきた。男は俺にジントニックを手渡し、自分もカンパリソーダらしきドリンクを手にしていた。俺は財布を取り出し、千円札を渡そうとしたが、男は手を振って受け取らなかった。俺は礼を言ったが、奢られることに釈然としなかった。ともあれ、俺たちは乾杯した。

「今日は、ナンパですか?」

 俺は訊いてみた。

「ハハ、まさか。わたしはこんなところに来るのは初めてですよ」

「えっ、そうなんですか!?」

「ディスコなんて、一生縁がないと思っていました」

「じゃあ、今夜はどんな動機からディスコに足を運んだんですか?」

 男は言葉を選ぶように宙に視線を泳がせた。そのとき「あなた、何やってるの?」という声が聞こえた。理沙だった。

「やあ、奇遇だね」

「しらじらしい。どうしてここがわかったの? もしかしてわたしの後つけてきた?」

「まさか」

 二人は相対する中庭のガラス窓のように睨み合っていた。

「もしかして、……ご主人?」

 俺は理沙に向かって言った。

「はい、そうです。理沙がお世話になってます」

「何言ってんのよ。もうやめてよ。ねぇ、どうしてここがわかったのよ?」

「スマホのアプリだよ」

「えっ、なにそれ?」

「GPSで場所を知らせるアプリがあるの」

「まさか、勝手にアプリをインストールしたの?」

「もっと君のことを知る必要があるかと思ってさ。さっき一緒に踊ってた人はどうした?」

「そんなことどうだっていいでしょ。こんなところに現れて、何のつもりよ。しかも、なんで航くんと一緒にいるのよ?」

「前々から話を伺いたかったんです」

 理沙の旦那は俺を見て言った。

「僕に? どんな話を?」

「あなたは自分のしていることに疑問を感じないんですか? こうして妻をディスコに連れ出して。どういうつもりでこんなことをしているんですか?」

 男はいままでの柔和な表情から一転して、険しい表情になって、俺に質問を浴びせかけたた。

「もう、何を言ってるのよ。わたしたちは、別居することになったはずよ。今更、どうしてそんなこと言うのよ」

「おまえは黙ってろ」

 理沙の旦那は静かに、だが、眼鏡の奥の目に力を込めて、理沙に向かって言った。

「さあ、山本さんでしたっけ? 考えを聞かせてください。妻を連れ出して、何をしようとしているのか。わたしはあなたのことも多少は知ってます。探偵を雇っていたのでね。Facebookのサイトも拝見しました。学もあるし、それなりに常識人のように見えますが、そんな人がなぜ人妻に手を出すのか興味がありましてね」

「たまたま人妻だっただけです」

「それでは答えにはならない。わたしは人妻だと知りながら、なぜ誘うのか、と訊いているんです」

「人妻は誘ってはいけないと?」

「そりゃそうでしょ。あなたは裁判になったら、法的責任を負いますよ。不倫の場合、相手も罪に問われますからね。何でもあなたは、従妹の京子さんの元交際相手というではありませんか。京子さんに振られたから理沙に走るというのはあまりに安易すぎませんか?」

 理沙は不安げに俺たちを交互に見た。

「……なかなか痛いところを突きますね。おそらくあなたの言っていることは正しいでしょう。しかし、現実はどうなのか? 結婚したから相手を拘束できると考えることが誤っているとは思いませんか? 確かに法的には拘束できるかもしれませんが、幸か不幸か、人間の感情を法で縛ることはできません。僕は理沙さんを強制して、ディスコに連れてきたわけではありません。お互いに自由意志で行動した結果です」

「なるほど一理ありますね。……しかし、あなたは自分の行動が法的には正当化できないことを認めたことになります。それがどんなに危険なことかわかりますか? 感情的に正当化できれば、何でも許されるわけではないことくらいご存知ではないですか? たとえば、今、ここでわたしがあなたを殴って怪我させたとしましょう。わたしにはそうする感情的な根拠がある。感情的に正当化できることが許されるとしたら、あなたは殴られることを受け入れるしかないんです。違いますか?」

「ちょっとバカなこと言わないでよ!」

 理沙はたまらず夫の肩に手をかけた。

「感情的な根拠があっても暴力はダメです。……そうですね。結婚は法的な取り決めですが、カップルの問題に法律は役に立たないんじゃないでしょうか。飽くまでも、それは器のようなものだと思います。結婚することで自動的に愛が育つわけではありません。ただ、結婚することで、その後の切符を手に入れることはできます。あなたはそこまでは成功したのでしょう。しかしながら、その後は失敗したようですね」

 俺は何か酷いことを言っているような気がしたが、もう後には引けなかった。

「わたしが失敗した? あなたに何がわかると言うんです。わたしたちはまだ夫婦なんですよ。確かに危機的状況かもしれませんが、わたしはまだやり直せると考えています。あなたのような人から理沙を守ることでね」

「『守る』って、ストーカーのような真似をしてですか? GPSで妻の場所を追跡するなんて異常です。やり直すなんて夢物語だと気付くべきです」

「……俺だって、好きでやっているわけじゃない」

 理沙の夫は絞り出すようにそう言うと、俺を睨んでから、残りのドリンクを飲み干した。俺はこういう展開を望んでいるのか、非常に疑問になってきた。

「何と言われようとわたしたちは夫婦なんですよ」男は一瞬体の向きを変えて、周りを見回してから、俺に向き直って努めて冷静さを保とうとしているような口調で言った。「未婚のあなたには、それがどういうことかわからないと思います。わたしは夫婦であることを厳粛に受け止めています。わたしには妻を守る義務があるんですよ。妻は残念ながら……、わたしの意に反することをしましたが、わたしは自分にも非があったと考えています。だから、それを自分の責任として背負って行こうと思います。これは結婚した人間にしかわからないことです」

 俺は理沙を見た。理沙は夫を見ながら、何か思いを巡らせているようだった。理沙の眼差しには熱があり、最初に旦那を詰問していたときの眼差しとはまったく違っていた。

「あなた、やり直すこと考えてみてもいいわ」

 理沙の言葉が男の窮地を救った。俺はその言葉に脱力したが、何か救われた気がした。

「……おめでとうございます。僕が間違っていたようです。二人はまだまだ夫婦のようですね。せっかくだから、二人の時間を楽しんでください」

 俺は二人を後にして、ダンスフロアに向かった。

「航くん、ありがとう」

 背後から理沙の声が聞こえた。

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