第6話

 八月もいよいよ残り一週間を余すのみとなり、相変わらず暑いが、街にはどこか哀愁が漂っているように感じられた。まあ、夏休みの終わりが近づいているのは高校生までで、大学生と社会人は関係ないのだが、たとえ暦の上であれ、夏という季節の終わりにはどこか祭りの終わりのような寂しさがある。

 待ち合わせ時間の七時に一〇分遅れて、新橋のSL広場に理沙が現れた。

 黒ベースのワンピースという理沙らしからぬ地味な服装に俺は絶句した。理沙は「おまたせ」と小さく笑った。俺たちは、ほど近いチェーン店の居酒屋に向かった。店を選ぶことにあまり意味がないように思えたからだ。

 客の入りは七、八割といったところだった。カウンター席に着くと、二人とも生ビールを注文した。

「お盆はどうしてた?」

 俺はLINEで訊いた質問を繰り返した。

「実家帰って、猫と遊んだりしてたよ」

 理沙の実家は埼玉だったので、帰省というほどのものではないだろう。

「旦那さんの実家には行かないの?」

「……最近、旦那とちょっとトラブってね。今日は、その件で相談したかったの」理沙は眉間にしわを寄せた。「実は、〈彼〉と会ってること旦那にバレたんだ。それで、離婚されるかも。まあ、それは仕方ないんだけど」

「それは……、大変だね」

 意外ではあったが、まったくの予想外というわけではなかった。

「それでね。これからどうしたらいいか、と思って。〈彼〉にはまだ旦那に知られたこと話してないんだ。話したら、別れられるかもしれないと思うと怖くて。わたしはこれからも〈彼〉と付き合いたい。わたしはそれだけなんだ。旦那には悪いことしたと思うけど、でも、しょうがないというか。旦那とはほとんどセックスレスだったし。どうしてそうなったのか、自分にもわからないけど。結婚前はこうなることなんて予想できなかった。やっぱりいっしょに暮らしてみないとわからないもんだね」

「〈彼〉のことがそんなに好きなんだ。それなら離婚のことを黙って付き合うしかないんじゃないの」

「それはわかってるんだけど。でも、いつかは話さなきゃならないと思うの」

「今は話さないことだね。まだ離婚したわけじゃないし。話すとしたら、離婚してから半年後くらいかな」

「だよね。わたしもそれくらいかなと思う」

 ビールが来た。俺たちは乾杯した後、サラダと鶏のからあげときんぴらごぼうを頼んだ。

「〈彼〉も離婚する可能性はないの?」

「ない、と思う。子どももいるし。わたしもそれを望んでいるわけではない」

「だけど、〈彼〉の方でもバレるかもしれない。そうなったら、どうする?」

「それは……う~ん、どうだろう。わからないな。そのときになってみないと」

「やっぱり不倫はハイリスクだよ。というよりも結婚がハイリスクなのか」

「そうね。結婚はなかなか難しいよ。京子もうまく行ってないみたいだし」

「えっ、そうなの?」

「目が輝いてるよ」

 理沙は今日初めて大きく笑った。

「いや、そんなことはない……」

 実際のところ、嬉しいニュースだった。

「この前京子と話したとき、別れるかもって言ってた。結婚してからまだ一年も経ってないのに」

「何が原因なの?」

「う~ん……。京子が悪いのよ。京子は遊びたがりだし。旦那が仕事で忙しい中、夜遊びしたいのに出歩けないのがフラストレーションだったみたい。もう今は家事なんてそっちのけで、夜遊びもしているし、新しい男もいるみたいよ」

「マジか!?」

 俺はあまりの無軌道ぶりに呆れた。いくら自由奔放なところが魅力とはいえ、それはないだろ。しかし、何が彼女をそこまでさせたのか。

「新しい男ってどんな人?」

「詳しくは知らないけど、会社経営者だって」

「もしかして、既婚者?」

「うん」

 俺はめまいがした。まさに不倫放題だ。それが結婚の裏面だ。もはや結婚は、飾りでしかない。俺は「何のための結婚なんだか」と思ったことを口に出した。これは理沙にも当てはまることだ。

「本当に結婚って何なんだろうね」

「……結局、システムが現実にマッチしなくなってるってことじゃないのかな。仕事が終身雇用でなくなりつつあるのと同じように。就職セミナーのときに就職を結婚になぞらえる人がいたけど、もうそういう時代ではなくなってる。結婚も同じなのかも」

「そうだよね。昔みたいに我慢する人少ないものね。バツイチなんて、あまりにありふれてるし」

「でも、日本では結婚する人は多い。やはり未だに結婚は支持されている。年寄りだけでなく、若い人もそうなんじゃないかな。なぜだろう?」

「家庭がほしいからじゃない。わたしもそういう気持ちはあった。でも、結婚して、うまく行けばいいけど、そうじゃないと本当に何のためにって思うよ。わたしは今不倫してるけど、ずっと恋愛していたいわけじゃない。ただ、毎日を充実して過ごしたいっていうか。相手から大事にされたいというか」

「そういう承認欲求は誰にでもあることだよ」俺はビールを飲み干し、おかわりを注文した。「ただ、恋愛だけを承認のリソースとするのは、事実上不可能だと思う。まあ、男女差は当然あると思うけど。それにしても女性でも恋愛だけがすべてという人にはあまり魅力がない。それにおばさんになったら、恋愛も難しいだろうし。そこで、結婚というものがあると思うんだ。昔の日本では、既婚者女性はお歯黒を塗って可視化された。今でも結婚指輪があけど、お歯黒のインパクトには遠く及ばない。お歯黒こそ既婚者であることの誇り、恋愛からすっぱりと足を洗って、主婦業に就くことの誇りを象徴していたのではないか。まあ、昔は恋愛なんてなかったのかもしれないけど。ともあれ、現代では主婦業を通して承認を得ることは至難の業だ。でも、仕事を通しての承認も少数派だろう。女性の平均年収が二百万台であることを鑑みてもこれは間違いではないと思う。結局は、旦那と子ども、要するに家庭から承認を得ているのが一般的だろう。だが、それがうまくいかない。男性は社会でもまれ、女遊びもする。そのなかで、女性だけ家庭に拘束されるのが不満に思うのかな。家庭は伝統的に女性の領域とされてきたけど、京子なんておよそ専業主婦はできないだろうね」

「結局、女性が男性化してきてるのかも。男性の浮気は多目に見られてきたと思うんだけど、男ばかりズルいという女性が現れた」

「そうなると、結婚は難しくなるよね。これまでは、男の浮気を我慢してきたからこそ維持できたのに」

「わたしの場合は、旦那が浮気しているわけではないけど、何というか同居人でしかないのよね」

 理沙は遠い目をして言った。俺は理沙のことが不憫に思えたが、同時に理沙とセックスできないかという邪な欲望が頭をもたげてきた。相談に乗ることで、心とカラダを許すようなことがあれば、と淡い期待を抱いた。理沙は〈彼〉以外に眼中にないだろうが、好きでなくてもセックスさせてくれないとも限らない。俺は隣で唐揚げを頬張っている理沙の生脚に視線を投げた。女の体にこうも執着するのは男の欠陥だが、およそ克服できるとは思えない。それは性風俗産業が証明していることだ。そこでは、作業としてのセックスしか期待できないが、恋人以外の異性とのカジュアルなセックスでは、性風俗では閉ざされている道にも開けているはずだ。セックスには端倪たんげいすべからざるものがある。そこに照準する限りは、女をモノ化しているというフェミニストのよくある批判は的外れだろう。モノ化しているのはその通りだが、モノ化を通して、お互いに快楽を得ているとしたらどうだろうか。セックスを愛に回収するのは結婚制度を維持するためのイデオロギーでしかない。ただ欲望に従うセックスが悪いわけではない。俺はしかし、少なくとも今日は理沙にその気がないことをわかっていた。

「ところで、旦那はどうやって理沙ちゃんの浮気を知ったの?」

 俺はふと疑問に思ったことを口にした。

「それがね。驚いたことに探偵を雇ったの。その手の調査を探偵に依頼することはそう珍しくないらしいんだけど。偶然、街でわたしが〈彼〉といるところを見かけたんだって。それで、怪しいと思うようになって、探偵に調査を依頼した。それからすぐにわたしと〈彼〉がホテルに入る場面を撮影された。旦那から写真見せられたわ」

「旦那は怒ってた?」

「いや、怒ってはない。ただ、悲しそうだった」

「じゃあ、やっぱり理沙ちゃんのこと好きなんじゃないの?」

「そうかな。なんというかね、空気のような存在というか、男女を意識することがないの」

「そういう夫婦もいるでしょ。〈彼〉ともいっしょに暮らしたら、そうならないとは限らない」

「いや、〈彼〉は旦那とは違う。お洒落だし、気が利くし、情報通だし」

 理沙は急き込んで言った。

「そういう男はゴマンといるよ」

「ハハハ、そうかもしれないけど……」

 理沙は何か言いたげだったが、言葉にはならなかった。しかし、その沈黙は十分に理沙の〈彼〉への愛を語っているように思われた。どうして恋人のことが好きなのかを言葉で説明するのは難しいものだ。


「今日はありがとう」

「また、いつでも相談に乗るよ」

 俺たちは最初の居酒屋でさんざん飲み食いしただけで、次の店もなしに別れた。俺はもう理沙に馴れ馴れしくできなかった。俺は理沙のことを哀れに思ったり、バカだと思ったりもしたが、終いには理沙が誰かを真面目に好きになっていることに気圧された。俺は彼女の〈彼〉への思いに、自分が京子に抱いた思いを重ね合わせた。だから、その思いに水を差す真似はできないように感じた。理沙は今、不安で必死なのだ。猫の手も借りたい思いで、いろいろな人に相談しているのではないだろうか。何もなければ、俺に連絡することがなどなかったはずだ。

 俺は地下鉄の駅へと向かう理沙の華奢な背中を見送りながら、「グッドラック」と念じた。

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