第5話
俺は一年ぶりに実家の門をくぐった。実家は、いわゆる日本家屋の旧家だ。住めば都かもしれないが、実際的な不便はある。それは、だだっ広く、ふすまだらけの構造のため、空調が難しいことや、プライバシーが確保できないこと、畳の部屋しかないので、椅子が置けないといったことだ。俺はすでにそうした不便に目をつむれなくなっていた。実家を出てからの期間の方がとっくに長くなっているから無理もないだろう。一人暮らしの狭いアパートの方が居住性は圧倒的に上だ。一人暮らしをしてから、十代半ば頃からこの家が非常に住みづらくなったのは、プライバシーがないことが原因だったとわかった。一人暮らしでは、好きなときにオナニーしたり、人に迷惑を掛けなければ、あらゆる自由が許される。そういう自由の王国に慣れきった人間には、いくら実家と言っても、くつろぐことは到底できない。
妹夫婦が子連れで実家に戻っていた。妹は島内の人と結婚して、この家の近所に新しく建てた家に住んでいた。まだ幼い子どもが二人いるため、子育てに追われる毎日のようだった。
居間では、父親と妹の旦那がテレビで夕方のニュースを見ていた。俺はまず仏壇に手を合わせてから、二人といっしょにテレビを見た。昭和時代は、箱型だったブラウン管のテレビが今では、薄い液晶テレビに変わっているが、こうやって夜、家族でテレビを見るのは、昔ながらの風景だ。ここでは、テレビが日常の時間を満たしている。テレビは未だに社会とのインターフェースだ。俺にとってネットがそうであるように。久しぶりにテレビを見ると、最初は新鮮だが、二、三〇分で辟易してくる。
やがて晩御飯ができて、夕食となった。大勢で食事を摂るのは、独身者の日常にはない風景だ。学生の頃には一人での食事を極度に避ける人もいた。俺もまた昔はそうだったが、やがて慣れてくる。そうしてますます単独行動が当たり前になってくる。そういうわけで、こういう団欒は悪くはないが、それがないと困るというものでもなくなっていた。しかし、一人で暮らすよりは二人で暮らしたほうが何かと好都合だろう、とは考えていた。家電をムダに買ったりしなくて良いのが、エコロジーの観点から魅力的だった。俺はここ最近、ミニマリストの生活を目指していたが、一人ではいくらモノを持たないようにしても、ひと通り家電を揃える必要がある。結局、一人暮らしは相対的に高コストなのだ。ミニマリストのライフスタイルをさらに推し進めるには、二人以上で住むことが必須になる。
食事中は、子どもたちの一挙手一投足に盛り上がった。一族の未来もひとまず安泰ということで、親も喜んでいるようだった。お盆にふさわしい光景だろう。お盆には先祖の霊が家族の元へと帰ることになっているので、お盆は一族の祭りのようなものだ。一族の繁栄に寄与していない俺は、お盆に戻った先祖から見ても残念な存在だろう。母親によると、親戚中でいい年して結婚していないのは俺以外にあと一人だけということだった。「いい年した大人が独り者というのもねぇ」と母親。昔は、人は一定の年齢になったら結婚するものという暗黙の前提があった。それは未だに一般的な価値観かもしれない。特に事実婚が一般的でない日本では。しかし、そういう常識的な結婚観に与さないとしても、ある程度の年齢になったら、結婚が輝いて見えるのもわかる気がする。よく「結婚して落ち着きたい」という人がいるが、それは、結婚して家族をつくることで、心の拠り所を持ちたいという意味のように思える。まあ、家族でなくても、恋人でも同じことだ。その気持ちはよくわかるが、心の拠り所という盤石なものをつくることは、そう簡単ではない。一般的に言って、相思相愛という状態は、まったく安定していないからだ。結婚というタガを嵌めたところで、人の内面までタガを嵌めることはできない。だから、結婚式での愛の誓約など、非常に疑わしいものなのだ。お互いに「愛してる」と言ったとしても、そこにどれほどの重みがあるか。ある人の結婚しやすさは、多分により良い生活に資するかどうかで決まる。つまり、男の場合、財力や優秀さ、女の場合は、性的魅力や性格の良さが異性からの求愛行動に大きく影響する。それらは相手に快楽を提供するからだ。自分に何一つ快楽を与えない人を愛するのは至難の技だ。しかし、快楽だけでは愛へと至らないだろう。愛の要件として、唯一性が挙げられるが、性的な快楽を含む快楽はその根拠にはならない。交換不可能な存在となるには結局、コミットメント、要するに結婚しかないのではないかと思う。たとえば、結婚して長年寄り添ったとすれば、結果として唯一性を帯びることになる。しかし、熟年離婚の問題や「生まれ変わっても同じ人と結婚したいか?」という問いに「はい」と答える率がそれほど高くないことを鑑みると、積極的な唯一性は、単に共に時間を過ごすだけでは十分ではないと考えられる。やはり、それを獲得するには、過ごした時間の質が問われるだろう。
「プロフィールにはどんなこと書いてるのよ」
母親の「婚活してるの?」という質問に俺が「出会い系サイトで相手を探している」と答えると、妹は訊いてきた。実際は今はただ登録しているだけだが、ナンパで相手を探しているというのは何か言うのを憚られるものがあった。
「ごくシンプルな自己紹介だよ。趣味、仕事、あと人生で何を重視するかだ。俺の場合は、シンプルな暮らしだよ。モノよりも時間のある暮らし。あとは自由。そういうことがわかるよう書いてるよ」
「まあ、悪くはないと思うけど。相手にメールしたいと思わせる要素がないと難しいんじゃない? 相手は結婚したい女性なんだから、彼女たちに気に入られるようなことを書かないと」
そうは言っても、そういうものがないのだから仕方がない。結局のところ、年収は大きな要素ではないだろうか。出会い系サイトに登録していたある人は、年収が倍増したら、応募者も倍増したという。しかし、そうして応募してきた人たちに愛を見出すことは難しい。打算から出発して、愛し合えるとは思えない。だが、結婚=子育てには事業のような側面があるのは確かだ。そして、子どもを産みたいから結婚するという人を批判することもできない。それは自然な本能だから。男は寂しさ、女は家庭。それが結婚への主要な動機ではないだろうか。まあ、それでもいいとは思うが。聞くところによると子育てもそれほど悪くないらしい。ただ、そうなると俺の場合、収入面で厳しくなるだろう。というわけで、俺は結婚から遠いところにいると考えざるを得ない。
「プロフィールは、正直に書くのが一番だと思うけど」
「結婚にも戦略が必要なのよ。第一印象で損しないようにしないと」
「便宜上、婚活と言ってるけど、結婚でなくてもいいんだよ。パートナーあるいは同士と言ってもいい。そういう人を探すのにどんな戦略が要るって言うんだ」
「またまた理想論を言う。結婚相談所にでも行って、話を聞いてきなよ。きっと目からうろこだと思うよ」
「お前のほうこそ現実がわかってない。結婚相談所がどんなものか知ってるのか? そもそも入会すらできないよ」
「……そうかな。できるでしょ。収入だってそこまで低くないでしょ。結局はやる気なんじゃないかな」
「まあな、確かに『結婚』にこだわるなら、そうかもな。結局、俺はそこまで結婚にこだわってないんだ。事実婚でもいいと思ってるし」
「でも、日本では事実婚は厳しいよ。特に子どもをつくるとなると」
「そうだろうな。まあ、そのときはそのときで、今、そこまで考えて行動する必要はないだろ」
「そうかな。まあ、好きにしたら」
妹は長男の食事の世話をしながら言った。
結局、俺は三日間、かなりアウェイ感を感じながら実家でだらだらと過ごして、帰路に着いた。実家はもう異文化圏であり、家族といえども距離を感じた。家族とか血縁というものにこだわりがない俺にはそれは問題ではなかったが、未だに家族の絆を重視する人は多い。そういう価値観から、家族をつくる機能がある結婚が重視されるのだろう。結婚を通して、未来に新しい人を送り出すことが、一種の信仰になっている現実がある。今のところ、永遠の生は無理だが、子どもを残すことがその代わりになると考えることはできるだろう。一生の間に、何か優れた業績を残すことができる人はごく一握りだが、子孫を残す人はかなり多い。その両方を達成する人もいる。そういうことに人は生きる意味を見出しているのだ。さて、俺は何に生きる意味を見出すのか? 人生を死ぬまでの暇つぶしと考えて、ただ好きなことをすれば良いという人もいるが、それは欺瞞のように思う。そこまで好きになれることがある人など一握りではないだろうか。それにたとえばセックスが好きだとしても、女と自由にセックスができる男はほとんどいない。大金を稼ぐことを目標にする人は少なくない。年収一千万を目指すとか。しかし、カネで手に入るものと言えば、結局は、刺激でしかないだろう。いくらカネがあっても、有意味な人生を送れるかどうか疑問だ。確かにカネがあれば、いろいろと面倒を回避できるから、間接的には有意味な人生を送る上で役立つとは言えるだろうが。
ブログは何年も続けているが、それにどこまで情熱を捧げられるか今もって疑問である。見る人はそれなりに増えているが、飽きたら止めるかもしれないし、それが人生の生きる糧とまで言えるかどうか。まあ、ブログで稼げればそうなるかもしれないが、それは難しそうだ。
新幹線の中で取り留めもない思索にふけっているときに、LINEに理沙からメッセージが届いた。
「暑いね。お盆は帰省してたかな? ちょっと相談があって連絡したよ。近々会えないかな?」
「暑いね。今から家に戻るところだよ。理沙ちゃんは、お盆何してた? いいよ。いつにする?」
理沙はお盆の過ごし方には何も答えず、次の金曜日を指定してきた。
「その日でOKだよ。相談ってどんなこと?」
「うん。会ったとき話すね」
俺はそれ以上訊かなかったが、何か良からぬことであるような予感がした。
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