第2話

 五月最後の土曜日の夜、プランタン銀座前で理沙と待ち合わせした。シャツ一枚で心地良い初夏の天気だった。理沙は待ち合わせ時間に十分ほど遅れて現れた。七分丈の紺のパンツに七分袖の白のブラウスで、いつものようにOL風の装いだった。

 某サイトで見つけて予約した、初めて行くシンガポール料理店に向かった。

 キャパ二~三〇人の中規模の店だった。俺たちは、入り口近くのテーブル席に案内された。理沙と二人で会うのは、二度目だった。俺は前回よりも緊張していた。

 理沙とは京子と付き合っていた頃、京子を通じて知り合った。理沙は京子と友達同士でもあった。容姿は似ているとは思えなかったが、二人とも気さくであり、雰囲気的に似ているところがあるように感じられた。理沙と京子と京子の友達のカップルの全部で五人で何度か会った。お決まりのパターンは、HUBで飲んだ後、ディスコに繰り出すというものだった。全員で輪になって踊ったりして、グループ交際ならではの楽しさがあった。京子と付き合っていることもあったが、そのとき理沙に関心が向かうことはなかった。印象深かったことは、旦那とディスコに来ないのか、と訊いたときの理沙の反応だった。「旦那はディスコに興味ないし。それに旦那と踊っても盛り上がらないわよ」と理沙は眉をひそめて言った。前回会ったとき、理沙から妻子ある男性と恋愛している話を聞いたとき、そのときの言葉を思い出した。

 京子と別れた今となっては、理沙と性交したとしても問題なかった。旦那とはセックスレスという話が彼女との性交への期待を高めた。他にも期待を膨らませる要素が理沙にはあった。それは理沙がハプニングバー(ハプバー)に行った経験があることだった。理沙はハプバーで例の男性と性交した話をした。理沙は見た目はまともそうなだけに、俺はその話に衝撃を受けるとともに、大いに性的に昂奮した。理沙は決してグラマーな体つきではなかったが、そのことは問題ではなかった。結局のところ、余程のブスか何かでない限り、パンチラに昂奮するように、意外な性的奔放さに必ず男は昂奮するものだ。

「久しぶりだね」

 タイガービールで乾杯すると理沙は言った。

「だね」と俺は小ぶりのルビーのペンダントが輝く理沙の胸元を見ながら言った。「最近仕事はどう?」

 理沙は、某デパートのチョコレート店で販売の仕事をしていた。立ち仕事で、休みも少なく、楽な仕事には見えなかった。理沙曰く、PCができないから、接客しかない、ということだった。PCができない理由として、理沙は機械が苦手なことを挙げた。確かにPCが機械というのは間違いではないが、それを言ったら電話も機械である。機械が苦手だから電話を使えないという人はまずいない。結局、PCを使うかどうかは、ネットへの依存度によるのではないだろうか。理沙はと言えば、やはりFacebookもtwitterもやらない。そのことにより、ネットをやる人間との間で情報取得能力に差が生じている。いわゆるデジタルディバイドである。本人もそのことに気づいているとは思うが、ネットをやらないのは、女性によくあるように生活に興味が限定されるためだ、と俺は考えていた。生活の維持に限れば、ネットの利用は必ずしも必要ではない。

 そうした態度を視野が狭い、あるいは時代遅れと見ることもできるかもしれないが、俺は理沙に癒やしを感じていた。ただ会って話すだけで良かった。決して難しい話はしなかった。同世代の男性とは原発やら政治やらの話をすることもあるが、そういう話題には緊張感があった。あまりバカなことは言えないし、議論になれば、あからさまでなくても勝ち負けがあるためだ。翻って、理沙とは議論することがない。それは、議論に向いている話題がないためかもしれない。恋愛に加えて、お互いの日常やレジャーが話題となった。そのような話題では、共感が目標になる。理沙にしてみれば、俺はあまりおおっぴらにできない恋愛について話せる数少ない人の一人だと思う。俺はそういう自分の位置付けに満足していた。

 しかし、俺は、とりわけ理沙の性の冒険譚を聞いてからカラダの関係の可能性を考えた。男女が二人で会う以上は、そういう関係も視野に入れているのではないか、とどこかで思っていた。理沙が俺とセックスしても〈彼〉に悪いと思う必要はない。〈彼〉にも妻がいるのだから。

「――そういう客にいちいちイライラしているからね。接客向いてないのかな、って思うことがあるのよ。でも皆そうなんだろうね。わたしだけがストレスを感じてるわけじゃない。問題は、どうやってストレスに対処するか、だね」

 理沙は「やたらと試食を求めるウザい年配の客」について愚痴をこぼした。

「ペットを飼うとか?」

「ペットは、癒やされそうだね。だけど、やっぱり世話が大変だからね。わたしには無理かな。でも、自然には癒やされるね。公園でボーっとするのが最近のマイブームなんだ」

「それはなんかヤバいね。うん、感情労働ってやっぱり精神的にハードだよね。まあ、俺も学生時代にレジのバイトしてて、客に怒られたことが何度かあって、そのときのことは今でも覚えているよ」

「えーっ、そうなんだ。どんなことで怒られたの?」

「相手は中年の男性で――」

 会話はなだらかな川の流れのように流れた。しかし、何を話していても、理沙が薄暗い場所で衆人環視の中、男とヤっている淫靡な想像が間欠的に頭によぎった。

 ラクサとチキンライスを平らげ、お互いにタイガービールの他にカクテルを空けたところで、店を出た。俺は理沙と歩きながら、手をつないだ。銀座の街は、デートでもない限りは来なかった。きれいな街ではあるが、俺にとっては、新宿などの猥雑な雰囲気の方が居心地が良かった。しかし、今はこの雰囲気も悪くなかった。

 俺たちは少し歩いて有楽町のバーに着いた。そこは、古いビルの二階にあるこじんまりとした、薄暗いバーである。昔、京子に連れられて来た店だった。俺たちはテーブル席に着いた。カウンターのソロの男性客、テーブル席の女の子の二人組みが先客だった。

 理沙は「外観からは予想もできないシックな店だね」と店を褒めている。俺は二人の関係を進展させるという目標に照らして、今日はここまで順調に進んでいると感じていた。俺はマティーニ、理沙はカンパリソーダを頼んだ。

「最近ディスコ行ってる?」

「うん。ゴールデンウィーク(GW)中に一度行ったよ」

「どうだった?」

「一人と連絡先交換したよ。三一歳の派遣OL。今度、その子らと合コンすることになった」

 地味目な娘だったが、合コンなら多少とも期待できた。相手が合コンを指定してきたので、お互いに友達狙いなのかもしれない。

「イイじゃん。楽しみだね」

「まあね……」

 期待薄のカードであったが、合コンという企画があるだけでもマシとは言えた。また、こうして理沙とデートするのも楽しい時間であった。京子とのデートよりは劣るが、それでもある種のゲーム性――率直に言えば、性交の可能性――が二人の時間を特別なものにしていた。

「理沙ちゃんは今度いつ〈彼〉とデートするの?」

「う~ん、決まってない。急に入ることが多いかな」

「そっか。会えない日が続くと辛いよね」

「まあね」

 理沙はドリンクを啜って言った。

「〈彼〉と結婚したい?」

「どうかな。どっちにしても、それはないよ」

 理沙は伏し目がちに言った。本心では結婚したいのだろう。だが、その可能性を考えることを自ら禁止しているようだ。相手への期待が関係を壊す可能性があるからだ。お互いに結婚している以上は、あまり期待できない。そこが不倫の辛いところだ。しかし、俺と不倫するならどうだろうか? それに何の意味があるか、と訊かれたら、答えに困るが、俺は欲望に塗れた言葉を吐いた。

「あまり〈彼〉に集中するのも良くないと思うよ。他の人とも恋愛することで、気持ちを楽に持てるようになるんじゃないかな?」

 俺はマティーニを飲み干し、次にバーボンウイスキーのロックを頼んだ。もう、かなり気持よくなっていた。理沙はまだ最初のドリンクを半分も空けてなかった。

「こうして俺と会っているってことは、自分でもわかってるんだろうけど。俺なら大歓迎だよ」

「……『大歓迎』?」

「俺と恋愛するのはどうかな?」

 俺は理沙の手を掴んで言った。

「航くんと? それは節操なさすぎでしょ」

 理沙は大きく目を見開いた。

「……そう言われると返す言葉がない。ハプバーの話聞いてから、Hな妄想が膨らんでね。俺も男だから」

「ハプバーか。もう行かないよ。わたしどうかしてた」

「……でもさ、ほんとに理沙ちゃんのこと好きなら、ハプバーなんて行かないんじゃない?」

 残酷な質問だということをわかっていたが、それはいつか訊きたいと思って温めていた質問だった。

「わかってるよ。それくらい。でも、ハプバー行ったのは、半年くらい前だからね。それからはもう行ってない」

 理沙は少し怒ったようにぶっきらぼうに言った。


 店を出て、俺たちは次の約束をすることなく、有楽町駅で別れた。俺は失意のまま、電車に揺られた。

(……『節操ない』か。そうだよな。それはわかっていたが……。しかし、アプローチしたことに後悔はない。結局、拒否られたから敗北感を感じるのだ。だが、「敗北」というある種甘美な言葉には収まらない、恥辱とでも言うべきグロテスクな感情がわだかまっている。なぜだろう? きっと申し出が愛に由来したものではないからだろう。愛に由来していればもっと激しく失恋の痛みを感じただろうが、こうしたグロテスクな感情は生じなかったはずだ。遊びで性行為を求めたことがグロテスクなのだ。ハプバーに行ったという理沙なら、あるいはヤレるかと思い、周到にデートコースを計画した時点ですでにグロテスクだ。だが、もし理沙とヤレていれば、また違った感情を抱いただろう。その時はきっと全面的な達成感に満たされたはずだ。その後は、どうなるかわからないが)

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