結婚という選択
spin
第1話
三月下旬の風が生暖かい、春めいた日の金曜の夜だった。
俺は霞ヶ関の只中にある新しい複合ビルの一階にあるソファーで
(彼らは日本国という大きなものを背負っている。そこが違う。俺の場合は、結果として国の産業に貢献することもあるだろうが、むしろ外国企業の参入の手助けをして、足を引っ張っているかもしれない。日本企業の繁栄を支援しているわけではないし、自分の仕事以外の何かに対して責任を負っているわけでもない。その違いが服装に表れている。スーツとは、要するに、エージェントであることの徴だ。国……。俺にとっては権力機構という畏怖の対象である国。国の法律で守られていることは確かだが、法律に違反すれば社会的・物理的制裁を受ける可能性があり、あまり恩恵を感じられない。むしろ、とりわけ徴税という形で国家権力が行使される場面を恐れている。俺はどういうわけか国に親近感を覚えられない。一部の国家公務員は俺とは比べ物にならないほど優秀であるのは確かだ。能力の面でも俺には到底務まりそうもない。しかし、同程度に優秀だったとしても俺が国のために働くことはないだろう。国に限らず、何かのために働くという態度を維持できそうもない。だから、勤め人としての立場に耐えられなかった。日本社会では、社会人といえば勤め人ということになっているから、俺のような人間は、社会人失格と見なされる可能性もある)
七時五分頃にスーツ姿の博が現れた。博と会うのは、忘年会以来約三カ月ぶりだった。この前会ったときの赤フレームとは違う、メタルフレームの眼鏡がスーツに似合っている。
俺たちは、貸し切りや満席で二軒ばかり断られた後、ビル内の地鶏を売りにした居酒屋に入った。前を合わせるタイプの和服スタイルの若い男の店員に個室に案内された。
二人とも生ビールを注文した。
「仕事は忙しい?」
俺は訊いた。
「年度末だからね。それに今年から原子力規制庁に異動になって、前よりも忙しくなったね」
「どんな仕事してるの?」
「俺は下っ端だから、上から言われたことをやっているだけだよ。まあ、雑用かな」
「規制庁か。博は原発についてはどう思っているの?」
「再稼働しかないよ。というか、周りがそうなのに俺だけ反対するわけには行かないだろ」
「確かに……」
ビールが来た。俺たちは乾杯した。
「そう言えば、今日は何の用事でここまで来たの?」
「登録してる会社で翻訳ツールの講習会があって。今日日、産業翻訳はITツールなしにはできない時代なんだ」
「なるほど。そういうものなのか」
三〇後半の男の場合、仕事の話が挨拶代わりになる。俺たちには鶏唐揚げ、シーザーサラダなどの食べ物を注文した。
話題は、郷里の同級生の話に移った。中学のとき、俺たちと同じ野球部だった啓太が脱サラして、地元の町でラーメン屋をやっていた。博は今年の冬に帰省したときに、その店に行った話をした。
「ラーメンはうまかったよ。客もそこそこ入ってたし、繁盛してるんじゃないかな」
俺は啓太とは成人式のとき以来会ってなく、遠い昔の記憶しかなかったが、野球部の練習で、人一倍声を出すその威勢の良い所はラーメン屋に向いているように思えた。
「俺らにはそういう仕事上の大きな変化はもうないか。後は結婚だな。親もうるさいし。俺、今度結婚相談所にでも登録しようかと思ってる」
「結婚相談所!」
俺は思わず、大声を出した。
「職場の上司から見合いの話もあるけど、見合いというのも窮屈でね。断ると上司との関係にも影響しそうだし」
博はレタスを噛み切りながら言った。
「結婚相談所がどんなところか知ってるのかよ?」
「まあ、ある程度は。だけど、出会い系サイトなんかよりも確実に結婚できそうだろ?」
「う~ん、それはそうかもしれないが。一〇万単位のカネを掛けてまで、やることか……。それよりも、ナンパスポットに繰り出した方が楽しいと思うが」
「ナンパなんて若者のやることさ。
「まあな。所得が若者レベルな俺には結婚相談所というオプションはないよ」
「ハハハ。でも、そこそこは稼いでるんだろ?」
「……契約社員並みだな。極端に少ないわけではないが」
「なら、いいじゃないか。俺みたいに毎朝満員電車に揺られることもない身分なんだから」
「……それにしても、結婚相談所とはな」
俺は内心で落胆していた。というのは、博といっしょにナンパに繰り出したり、あわよくば合コンをセッティングしてもらおうと思っていたからだ。俺には結婚願望はなかったが、恋愛への願望はあった。もっとも、日本では結婚が一般的である以上、自分の年ならば、結婚を視野に入れなければならないことはわかっていた。とはいえ、結婚を前提にするという発想は俺にはなかった。恋人同士になれば自然と結婚へと行き着くというのはロマンチックにすぎるだろうか。
「この年だと恋愛も厳しいっていうのもあるし。もう、最初から結婚でいいだろ、という……」
博は俺の頭の中を読んだかのようだった。
「そうかな? 二〇歳代前半の頃に比べたら、チャンスを見つけるのも一苦労というのはあるけど、今なら、大人の恋愛というか、経験を積んだ者ならではの恋愛ができるように思うが」
「航はどうか知らないが、俺は恋愛経験も少ないし。それに恋愛にそれほど惹かれるものもない。苦しい思いの方が強い」
「苦しいというのはわかるよ。失恋は自殺の動機になり得るくらいだし。だけど、だからこそ、というのもあるように思う。要するに、苦しみ抜きの快楽はない。薬物にも副作用があるし」
「……まあ、俺は快楽もわからないし、恋愛には未練はない。他にも楽しいことはある」
「それはそうだ」
頼んでいた料理が来た。俺たちはお互いに腹ペコだった。しばらく無言で食べた。
一段落つくと、お互いに飼っている猫の話になった。俺たちは携帯端末に保存してあるお互いの猫の画像を見せ合った。俺の場合は、猫は、どこか恋人の代わりになっているようなところがあった。俺が猫を飼い始めたのは
二時間ちょっとで飲み会はお開きとなった。俺は別の店を打診したが、博は明日早いということで帰りたがったので、別れた。
横浜駅に着いたときは、十時を少し回ったところだった。俺は何度か行ったことのある立ち飲みバーに向かった。そこは駅から徒歩五分くらいの人気のない路地でひっそりと営業しているこじんまりとした店だった。バーカウンターに加えて、壁沿いのカウンター、さらに奥にテーブルが配置してある。
店に入ると、年配のカップルが奥のテーブルを占めていた。他に客はいなかった。俺は壁沿いのカウンターに陣取ると、バーボンウイスキーのロックを注文した。
店の無音テレビで字幕付きのドラマを見ているとき、若いカップルが店に入ってきた。女の子は膝上二〇センチくらいの白のニットワンピースを着ていた。思わず露な脚に見入った。
店では、若者、中年、老年の各世代がそれぞれの空間を守っていた。俺は自分だけが仲間外れであることを意識した。約一年前まで自分の生活の大きな部分を占めていた京子が今、自分の隣にいたら、各世代のカップルが共存する形になったのだが。
京子とはSNSを介した飲み会で知り合った。あろうことか彼女が俺に一目惚れしたのだった(彼女は後に、メガネ男子がタイプだと言った)。俺は彼女の意味ありげな視線にどう反応したものかわからず、ドギマギした。京子は背が高く、ウェーブのかかった髪と大きな目が印象的で、飲み会でも非常に表情豊かだった。仕事は、外資系企業で英文事務をしているという話だった。京子は、映画に造詣が深く、自分と馬が合うように思えた。加えて、京子には華やかさがあった。それは単に派手というのとは違った。美人なら人目を引くがそれだけでは華やかとは言えないだろう。華やかさは、性的魅力だけでなく、たぶん知性・品性と性格の良さがあって初めて醸し出されるものではないだろうか(それは言葉遣いや服装に如実に表れる)。
トイレに行くとき、女子トイレから出てきた京子と鉢合わせした。甘いがどこかエッジの効いたフレグランスの香りが漂った。彼女の眼差しは、俺の姿を捉えると、輝き出した。「飲んでますか~」と京子。「わたし酔っ払ったみたいです」と俺の胸に指を立てた。「みたいだね。俺はまだまだかな」と俺が言うと、京子は顔を近づけ、「この後で二人で飲みませんか? わたしいい店知ってます」と耳元で囁いた。
その日の夜、俺は有楽町のバーで京子といっしょにいることがあまりに非現実的で嬉しくて、にやけ笑いを堪えるのに必死だった。京子は熱心に身の上話をした。
「この三〇年間、わたしはいろいろと失敗も犯してきた。でも、それがわかったのは大きい。これまではそんなに悪くない人生だったと思う」彼女は三〇になったばかりだった。女にとって三〇という年齢は一区切りだろう。俺は「失敗ってたとえばどんな?」と訊いた。
「そうね。たとえば、服とか。これまでわたしはファッション・ヴィクティムだったの。いわゆるブランドものの服とか頑張って買ったりして。ファッション雑誌も月に三冊買ってたわ。一種の中毒だったわね。流行がファッション業界が仕組んだことだってそのときは気づかなかったのね。昔は大きな視点を持てなかった」
俺はその話を非常に興味深く、また感心して聞いた。京子が単に美人というだけでないことがわかり、俺は嬉しかった。その日は、終電前には帰ったが、次のデートで交際を申し込んだのだった。
思えば京子と付き合い出した頃は、俺にとって、人生で初めての至福の日々だった。過去に付き合ったか、またはデートしたどの女とも京子といるときほど高揚感を感じることはなかった。俺は彼女と街を歩くのが誇らしかったし、彼女の笑顔に癒やされた。京子は日に日に俺にとって重要な、欠かせない存在になっていった。俺は京子を喜ばせるためにあらゆることをする用意があった。実際、生まれて初めてペアリングを購入し、お互いの指に収まるシルバーの指輪に二人の未来を重ねたのだった。
だが、そうした日々の中でも京子は冷静に俺のパートナーとしての適格性をはかっていたのだ。ただ、俺が気付いていなかったというだけで。京子が初めて俺を拒んだ夜があった。京子はベッドの中で「疲れているから」と俺に背を向けた。その日は、いっしょに映画を見た後、俺が京子の家に泊まった。その日、特に喧嘩などしたわけではなかった。また、何か彼女を失望させるようなことをしたり、言ったりしたという記憶はなかった。だから、俺は彼女の反応を言葉通りに受け止めたが、やはりそれは口実だったのだ。そのとき、京子はすでに俺に見切りをつけていたのだろう。だが、なぜか? はっきりと言われたのは、それから二週間後に会ったときだった。
「航は今の生活に満足してるの?」
京子が渋谷のカフェで言った。六本木で絵画の美術展を見た後だった。
「うん、してるよ。すごく。京子は?」
「わたしは……、してない!」
京子は挑むような眼差しを向けた。
「なぜ?」
悪い汗が出そうだった。
「航と付き合って三カ月になるけど、航という人がわからない。航には野心や信念はないの?」
「……仕事面では野心というものはない。無理しなくていい、続けられる仕事であればいい。野心と言えば、好きな女と暮らすことだけだ。だから、信念は強いて言えば、恋愛至上主義かな」
「そうなんだ。ロマンチックなんだね。わたしはもっと現実的なんだ」
「というと?」
「航は結婚は考えてないの?」
「考えてるよ」
「嘘! 結婚を考える人の言うことじゃない! それかわたしとは結婚観が違う。結婚するからには、子どもを産んで育てたいのよ。私はね。航にはそんなビジョンあるの?」
「ないけど。京子が子ども欲しいなら、協力するよ」
「恋愛至上主義者の言いそうなことね。そういうところがどうもね。わたしにはイラッてくるのよ」
俺は京子の眉を釣り上げた顔を初めて見た。正直、俺には京子が言っていることを理解できなかった。俺にとって結婚とは、恋愛の延長線上でしかなかったし、子どもを産んで育てるのにビジョンが必要とも思わなかった。ビジョンがないとどう困るのか? カネの問題か? 子育てには莫大なカネがかかると巷で喧伝されていることは知っていたが、カネをかけなくても子育てはできる。京子は俺の何に苛立っているのか? やはり俺の恋愛至上主義か?
「どういうところが?」
「常にわたし中心なところが」
「……そんな。恋人を大切にして何が悪い」
「最初の頃は、嬉しかったけど、それってどうなのかな? わたしたち、いい大人なのよ。皆、いろいろと忙しい毎日を送ってる。航が暇というわけではないけど。そうね……。なんというか、女だったら、そういう人も少なくないと思うけど。航がそういう人だとは思わなかった。……単刀直入に言うと、恋愛だけの男っていうのは私には、なんというか、傲慢に聞こえるかもしれないけど、物足りないのよ」
京子とはその日が最後になった。カフェを出ると、「これからは別々の道を歩きましょう」と京子。俺はほとんど泣きそうになって京子にすがった。京子は「しっかりしてよ。航ならきっと大丈夫だから」と言い残すと、早足で俺から遠ざかった。
京子よりも五歳年上の従姉の
俺は球形の氷を舐めながら、女の子の生脚に視線を投げて、劣情を煽った。男の場合、結婚の動機と言えば、やはりセックスだろうか。ただ、それは同棲していればできることだ。俺はバーボンを飲み干したところで店を出た。
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