第3話 居場所
福留さんが死んだ。
その死は、電気料金が変更になったのと同じくらいに平凡に、唐突に訪れた。私に福留さんの死を教えてくれたのは、マンションの掲示板に貼られたたった一枚の紙っぺらで、その無機質で他人行儀なご挨拶は物悲しい事実を静かに佇ませていた。管理人さんが死んだのだ。
管理人といえば、受付にいて、おはようございますとか、こんにちは、とか挨拶する程度の仕事しかしない人という認識が強いだろう。小さな50センチ四方の窓から見える顔だけの存在。しかし福留さんは違った。
「おかえり。ママを待つなら、ここで座ってるといいよ」
玄関の外で箒を持ち、小柄な体にしてはすこし筋肉質で溌剌と動く管理人さんは、学校から帰ってきた私を見るなりそう言って、ロビーの椅子を指差した。小さな私に向けられた優しい笑顔は、爽やかで、昔に陸上選手をやっていたというのも頷けた。目尻に皺を寄せ、歯を見せて笑う、その明るい笑顔が幼いながらに私は好きだった。まだ幼く礼儀も知らない私に福留さんはとても親身に接してくれた。親を待つあいだには様子を見に来てくれたし、親がくると私を呼びに来てくれた。鍵を忘れて、開けて貰ったことだってあった。いつだって小さな私を気遣ってくれた。
福留さんは神出鬼没だった。春はマンションの前の庭で花に水をやっていた。夏は暑いのか受付にいることは少なく、秋はマンションの前にたまる枯れ葉を掃き集めていた。冬は重い雪を一人で全て片付け、いつもお昼には道が綺麗になっていた。いつもどこかで動いていて、受付の管理人さんというよりも、マンションの管理人さんという、言葉通りの仕事をする人だった。
「おかえり、えりちゃん」
いつもそう呼ばれていた。小さかった私は年を重ねる度に、少し気恥ずかしくなって他人行儀になっていったけれど、福留さんはいつも変わらなかった。ある日は受付の小さな窓から、年に似合わない活気のある笑顔をこぼし、ある日は年に似つかない若々しい体で箒を掃く手を止めて振り返った。
思えばいつも掃除ばかりしているように見えた。私はきっと、ありあまる元気が、じっと座ることが出来ない性分にさせているのだと思う。とくによく手入れをしていた庭は、花が輝くように咲き、その美しさに私は慣れてしまっていた。福留さん自身が、このマンションの入口を明るくしている気がして仕方がなかった。そのくらい、いつも元気だったのだ。
褐色に日焼けした肌で、よく鳴る声で、毎年、毎日、家を出るときも、家に帰ってくるときも、私たちは挨拶をしていた。それ自体が日常として染み込むように、私は大人になっていっても、福留さんが老いていくことにはあまり気付かなかった。私にとって、管理人さんはいつでも、いつもの管理人さんであったからなのかもしれない。
福留 行夫は亡くなりました。その一文を読まずとも、管理人さんがいなくなってしまったことは分かっていた。その実感はひしひしと、私のいつもの日常を浸食していた。
カーテンの下りたままの受付、風に飛ばされ玄関に溜まったゴミ、不揃いな枝木。
おかえり。と言う声は聞こえない。受付を見ても、庭を見ても玄関を探しても、どこにもその活気は見当たらない。
ただ、冷たいコンクリートの入口が私を迎え入れてくれるだけだ。玄関のすぐ横の、綺麗だった庭も、たった一週間たっただけで荒れ、風に乗ってきたゴミが散らばり、輝きを失っている。死んでいるのだ。私の日常は、一つ死んでしまった。直接管理人さんの死を確認した訳ではない。けれども私の周囲が、私の毎日は今までとは変わってしまっていた。
いつの間にこんなに時間が経ってしまったんだろうか。私にとって管理人さんは、小学生のときに優しく話しかけてくれた、快活な管理人さんのままで、ついこの間まで変化を知らない日常でしかなかった。
玄関を通ってすぐ横の枯れた庭を眺め、私はそっと黙礼をした。過ぎ去った日常に、日常があった居場所に。
遅咲きのたられば @nazuku
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