第2話
「白雪姫はわざと毒林檎を食べた。だってそうじゃない?いつか王子様が、なんて夢見がちな笑顔で歌って見せても、周りにいるのは煤けた小人ばかりできっと分かっていた筈。王子様がこんな森の奥に来る事なんて無い事を。」
だから、無知を装って毒を食べたんだよ。思ったよりも低く老婆のような掠れた声で呟いた言葉は、蛍光灯のジーンという虫の羽音に似た囁きに紛れた。誰もいない部屋の日焼けしてクリーム色になった壁に溶け込んでいく。妙に白くて目の痛くなる照明の下、彼女は一人無機質なパソコンの前で座っていた。画面には書きかけの楽譜が、次の音を待ってちかちかと点滅している。
私は夢に逃げている。自分の曲を作るよりも、誰かの曲を譜面に起こしてばかりの日々は、毎日が奥歯に砂が詰まったようで、蛍光灯の眩しさにいつも顔を顰めていた。画面上で踊る音符達は、近づいたり離れたりしながら、様々な羽根を纏って自由に五線の上を舞う。楽しそうに空に行ったかと思えば土に近づき、更に線を飛び出して行ったりもする。そんな彼女達を書き上げている私は、ずっと部屋で一人、椅子に根が生えたようだ。シェイクスピアに、足に根が生えようとも貴方を待ち続けます、という台詞があったことをふと思い出した。そんな健気な王子様がいるわけないのに、と丸まった背中を起こしつつ吐いたため息は脳の奥から雪崩れてくるような音がした。
彼女は自分の惨めさは熟知していた。人の曲の手伝いばかりで自分の曲は求められない。その心臓に鉛をつけて深く冷たい海に沈まされる気分をずっと味わっていた。そんな彼女を唯一波に掬わせることがあった。それはまるで、幼い少女のようではあったが、空想をすることだった。
腰から下には根が生え、心臓は波にゆらゆらと気まぐれな満ち引きに弄ばれる。ただ一つできることは、昨日の晩御飯の臭いが残った部屋で、キーボードを叩くことだった。でも、それは私にとってはキーボードではなく、鍵盤だ。私は音と向き合い、指を走らせる。電気の音、遠くから聞こえる自動車の低音、近くの住民の微かな笑い声、静かな耳鳴りと、僅かに上下する肩と一緒にそよぐ呼吸音、どこを叩いても同じ打音しかしない鍵盤の音。手を止めれば、全身へ生を送ろうと懸命に働く心臓の音まで聞こえるような、独りの空間。誰もいないことは、手を止めて夢想する私を邪魔しないことで、それが唯一の幸せだった。
私は歌っている。一音しかない鍵盤を弾く演者として、誰にも知られない気持ちを音のない曲に乗せて私と寄り添う空気へと揺るがせている。この小さな胸の、あばらの奥で、絡まって解けなくなった麻糸のような私の自意識が、凝り固まった氷へ染みついていく無常さが、分厚い血肉と脂肪の壁を突き破って外気へ触れるようにと、重たい血の流れる腕でそっと奏でている。
眩暈でふらふらと揺れる視界は、音符の羽根に揺られているようで、静けさから聞こえる耳鳴りは、彼女たちの囁き声のようで。
彼女は夢想している。あどけない、夢見がちな少女のように浮ついた瞳で。それが彼女の救いだった。脳の奥からじんわりと吐き出す、悲しみの言葉が呪いのように体を重くする。この心臓が動くことをやめたらいいのに。そんな愚かしい願いを、恋をするような顔で鍵盤に染み込ませる。
小さな部屋の中、滲む汗と微睡む瞼を抱えながら、彼女は演奏している。漠然とした死への恋慕を、いつか王子様が来たらいいのに、と。
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