遅咲きのたられば

@nazuku

第1話

恋をして頭が痛くなるなんて久しぶりだった。

深いため息をついて頭を抑えながら可愛くない革靴を脱ぎ捨てる。暗い部屋の中は、ただいまと言う代わりのガサガサいうビニール袋の声に返事をする声もなく静かだった。

私はなんて馬鹿なんだろう。そんな呟きと、彼の横顔を交互に頭に浮かべながら部屋を歩き回る。今日一日ずっとそんな調子だった。眠くなった昼休みも、上司の自慢話のあいだも、気付いたら考えてしまう。次第に、私の頭はおかしくなったんじゃないか、と考えるくらいには、私の頭の中は彼のことでいっぱいだった。

あの優しげな笑い声とか、女の子のように白い肌とか、少し茶色の睫毛とか、そんなことばかり思い出す。本当に馬鹿だと思う。26にもなって、まるで女子中学生みたいに純朴に焦がれるなんて。


「そういうの似合うね」

私が抱えたぬいぐるみを見ながら微笑む彼は優しい。いい年してそんな子供のキャラクターが好きなのか、とか馬鹿にされる覚悟でいた私には、その一言がすっと、入り組んだ時計の螺旋をかいくぐって来るように、心に刺さった。琴線に触れたとでも言うべきか。ずっと、“可愛い子”ぶらないようにしてきた私にとっては、予想外な褒め言葉で、もうそれだけで、恋に落ちた。


もしかしたらずっと、私をそんな風に見てくれる王子様を探していたのかもしれない。


「はぁーでも、さすがにこれは馬鹿だよなぁ」

一人ぼっちのリビングの壁に声が沁みていく。彼がこの前食べていた、ミートスパゲッティとコーヒー、そっくり同じ物が目の前に置いてあった。思わず買ってしまったのだ。さすがに恥ずかしくなってうなだれる私の姿が窓ガラスにうつって、長い髪がカーテンのようになっているのが見えた。こんな、メイクも落ちかけの状態で、ただのコンビニのパスタを買って顔を綻ばせているOLなんてさぞ気味が悪かっただろう。そんなにも好きなことに正直自分が一番君が悪かった。


まるで突然にして私の中に知らない女子中学生が住み着いたみたいな感覚。全てはこの前、愛用していた箸が折れて、ふと彼が箸で歯を欠けた話を思い出してから。そこから全てがおかしくなった。私が変なんじゃない、箸が呪いをかけたに違いない。


彼のことを考えすぎて痛くなった頭をぎゅっとおさえる。きっと栄養が足りないだけだ。思い切り大きくパスタを巻き付けて頬張る。味はよく分からない。きっと美味しいんだろうな。温めて出来た露が、プラスチックの容器の縁を流れていく。そういえば彼、パスタも箸で食べるって言ってたっけ。何の音もしない部屋で一人、パスタを啜る。明るい部屋は、私の脳内を見透かして、何を初心なこと考えてるんだ、と笑っている気がした。どうにかして、彼以外のことを考えなければ。そうだ、まだストッキングも脱いでなかったな。足をパタパタさせながらご飯を食べる。そうすると子供に返った気がした。子供みたいに一途な自分が恥ずかしくて、子供っぽく装わずにはいられなかったのだ。無意味に天井を仰いで、あー、と無機質な声をあげる。


「こんな片思いってあるかな」


誰も答えてはくれない。食べかけのパスタも、電気の付いていないテレビも。ただ、ミートソースの良い匂いだけが漂う。だって、と私は誰も聞いていないのに続けた。


「だって彼女がいたこともない童貞だよ?」


そんな奴になんでこんなに、恋患いをしているのか。恋患い、とはうまく言ったものだと初めて知らされるのが、彼だなんて。

初めて、好きで仕方なくて頭がパンクしそうになるなんて。そんなこと信じられなかった。私を作り出す全ての細胞が1から作り替えられたようで。私じゃない私に、受け入れがたいむず痒さがある。高校や大学生のころ、恋に悩んで身動きのとれない友達が理解できなかった。私には、一生縁のないものだと思っていたのに、私。


脳みそをこんがらがった毛糸のようにかき回す思考をぐっとコーヒーで流し込む。コーヒー嫌いなのにな、そう考えながら飲んだ後味は、ほろ苦くて甘かった。

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