第2話



 莉紗さんと初めて会った次の日、お昼過ぎまで寮でダラダラしてたんだけど、三時過ぎに思い切って出かけてみた。

 ……何をしてるんだろう。約束してないから、いるわけがないし、もし会えたとしても、お喋りできるかどうか分からないし。

 それ以前に、どうして会いたいって思うんだろう? 自分のことなのに、よく分からない。


「もう、帰ろうかな……!」


 橋のところに来たあたしは、ハッと息を飲んだ。

 だって、そこに莉紗さんが立ってるんだもん!

 どうしよう……何て声をかけたらいいのかなって思ってたら。


「あ……夢乃ちゃん?」


 って、莉紗さんが声をかけてくれて、そして、そのままお喋りしたんだ。

 その日もやっぱり、大笑いされて、でも、イヤじゃなくて、そして何の約束もしないまま別れたんだけど

 次の日も思い切って、ここに来てみたんだ。

 そうしたら、やっぱり莉紗さんが立ってた。

 そして今日も。

 まぁ、橋の上じゃなくて、橋の下だけどね。


 でも、何で莉紗さんはいつもここにいるんだろ?

 そう思って聞いてみたんだけど。


「何でって、雨宿りよ。こんな雨の中、橋の上にいたらびしょ濡れになっちゃうでしょ」

「あ、いえ。今日じゃなくって、いつも……」

「それより、拭かなくていいの? 結構、濡れてるわよ」

「え? あ、そうですね。……あ」


 リュックからタオルを出そうと思ったんだけど、もう下に敷いてたんだった。

 予備のタオルなんて無いし、他に何かタオル代わりになるものあったっけ?

 ゴソゴソ探したんだけど……うう、お財布とポーチと古本屋で買った本とゲームしか入ってない。

 ティッシュも無いなんて……って、呆然としてたら。


「夢乃ちゃん、これ使って」

「え? ……いいんですか?」

「いいわよ。もう一枚持ってるから」

「じゃあ、ありがとうございます」


 あたしはペコリとお辞儀をして、莉紗さんからハンドタオルを受け取って、顔の水気を拭った。

 ……うわぁ、いい匂い。何の匂いだろう?

 スーッと透き通ったカンジで、甘くて、胸の奥がポカポカしてくるような不思議な匂い。

 今までに嗅いだことのない匂いだなぁ。


「どうしたの? 夢乃ちゃん」

「え……、あッ! す、すみません!」

「何か臭う? 洗濯したてなんだけど……」

「あ、違います! そのいい匂いだったので」

「そんなにいい匂いだった?」

「えッ! あ、あの、その……」


 どうしよう。ゼッタイ、ヘンな子って思われたよね。

 でも、莉紗さんは気にしてないのか。


「おかしいなぁ。わたし、コロンとか使ってないのに」

「そうなんですか?」

「うん。ほら、嗅いでみて」


 莉紗さんは袖を捲くると、あたしに腕を裏返して差し出した。

 そっと鼻を近づけて、匂いを嗅いでみたら。


「……やっぱり、いい匂いがしますよ?」

「え! ホント? おかしいなぁ……」


 莉紗さんは自分の腕の匂いをくんくんと嗅いで、首を傾げた。


「どんな匂いがするの?」

「うーんと、甘いような、でも甘ったるいカンジじゃなくて、スーッとするような、そんなカンジです」

「ミントアイスみたいな?」

「ミントよりは、もう少し柔らかいカンジな気が……」

「じゃあ、バニラとか?」

「もう少し、凛としたカンジです」

「う~ん、なかなか難しいわね」


 莉紗さんが肩にかかった髪をサラリと後ろに流した。

 ふんわりと舞った髪の毛から、あの匂いが立った。

 シャンプーかリンスの匂いなのかも。


 だけど、莉紗さんは「そんな匂いしないけどなぁ」って。

 うーん……この匂い、何なんだろう?

 よく分からないけど、でも、あたしはこの匂いが好きになってた。


「それにしても、すごい雨ね」

「天気予報だと、夜に降るって言ってたんですけど」

「止むのかしら?」

「たぶん、大丈夫ですよ。さっき見たとき、雲がすごい速さで流れてましたから」

「へぇ、そうなんだ」

「でも、すぐには止まないと思いますけど」

「別にいいわ。この後、何の用事も無いし」


 莉紗さんはそう言って、脚を組みなおした。

 シャラリとミュールについた、小さな飾りが揺れる。

 莉紗さん、そのミュールでここまで登ってきたのかなぁ。

 スニーカーでも、それなりに大変だったのに、どんだけ運動神経がいいんだろう。


「ところで……今日はお買い物?」

「はい、そうです。莉紗さんもですか?」

「……どうして?」

「いつもキレイなカッコですけど……今日は今までで一番、キレイなカンジがしたので、そうなのかなって」

「そう……ありがとう」


 莉紗さんがあたしを見て、ニッコリと微笑んだ。

 その笑顔を見てると、何故か不思議な気持ちになる。

 ドキドキと、ソワソワと、ポカポカを足したような不思議な気持ち。


「ん? 何?」

「あ。い、いえ……」


 あたしは思わず、顔を背けた。

 何だか分かんないけど、この気持ちが湧いてくると、落ち着かなくなってくる。

 昨日の夜も、思い出したら眠れなくなっちゃって……眠くなるまでゲームしてたから、いいんだけど。


 あたしも、莉紗さんも、黙ってた。

 雨音、川の水音、そして時々、上の橋を通過する車の音。

 そんな音の渦が、あたしたちを取り巻いてた。


 ……どうしよう。

 何か話をした方がいいのかなぁ。

 チラリと莉紗さんを見ると……!


「……」

「……あ、あの」

「なぁに? 夢乃ちゃん」

「あ、あの。な、何を……」

「夢乃ちゃんを観察しているの」

「へ?」

「だって、面白いんだもの」

「……そうですか?」

「もちろん。あ、バカにしてるとか、そういう意味じゃないわよ。単純な興味かな」


 そう言って、莉紗さんがふんわりと笑う。

 そうすると、またあの気持ちになって……うー、これじゃ堂々巡りだよう。

 何か話を反らさないと……あ、そうだ!

 元々、何で毎日、ここにいるか聞こうとしてたんだった。


「あの……」

「なぁに?」

「莉紗さんって……好きなんですか?」

「……何で?」

「昨日も、一昨日も、ここで会ったじゃないですか。だから、好きなのかなって」

「……夢乃ちゃんって、唐突ね」

「す、すみません……」

「そうね……夢乃ちゃんは、どうなの?」

「あたしですか? あたしは好きですよ。学校が終わってから、遊びに来たりしますし」

「……え?」

「暑いときとか、友達と水遊びしたり、足を浸しておしゃべりしたりしてるんですよ」

「……ちょっと待って。夢乃ちゃん、何の話をしてるの?」

「え? 川の話ですけど……」


 だって、莉紗さんと初めて会ったのは、橋の上だったし、ぼーっと川を眺めてたから

 てっきりそうなのかなって思ったんだけど、違ったのかな?


「あの、莉紗さん……」

「……ふっ」

「え?」

「ふふッ……あはははは」


 莉紗さんが大きく口を開けて笑い出した。

 昨日もそう思ったけど、こんなに大きく口を開けて笑ってるのに、莉紗さんは相変わらずキレイなままだった。


「ごめんなさいね……ちょっと、ツボに入っちゃって」

「でも、あたし、面白いことなんて言ってないですよ?」

「じゃあ、夢乃ちゃんが天然なのよ」

「え~。そんなこと、言われたこと無いですよ」

「それなら、あたしにとってツボなのね。夢乃ちゃんが」

「はぁ……」

「そうね。まぁ、あたしも嫌いではないかしらね」


 莉紗さんがふぅと息を吐いて、川を見る。

 あたしも目の前の青葉川を見た。

 水の量も多くて、流れもそれなりに速い。

 でも、川岸の側だったら水遊びもできるし、大学生とか家族連れで、バーベキューを楽しむ人たちもいるし

 あと、冬に芋煮会もするんだよ。


 都内のコンクリートで固められた川とは比べ物にならないし、多摩川とも違う。

 こっちで生まれ育った人には当たり前の景色かもしれないけど

 東京から越してきたあたしには、すっごく特別なものに思えるんだ。


「……『ゆく川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず』って、知らないわよね」

「え? えっと……方丈記ですよね、鴨長明の」


 急に莉紗さんに言われてビックリした。

 勉強はそんなに得意じゃないけど、国語は昔から好きなんだよね。

 しかも方丈記は夏休み前の授業でやったばかりだし。


「ふぅん、物知りなのね。まぁ、そんなところかしら」

「何がですか?」

「川を眺めてた理由……もちろん、綺麗な景色を見てたのも理由の一つかもしれないけど」


 莉紗さんがすっと目を細めて、川を見つめた。

 その横顔が、とっても寂しそう……と思ったとき、ふと頭の中をその言葉が横切った。


『久しくとどまることなし』


 とっさにあたしは、莉紗さんの腕を掴んでた。


「……夢乃ちゃん?」

「あ、その……莉紗さんが、どこかに行っちゃう気がして」

「どこにも行かないわよ。こんなに雨も降ってるのに」

「え、あ、あの、そういうことじゃなくって……」

「……大丈夫よ。ごめんね。何かどんよりさせちゃって……もっと楽しいこと話しましょ」

「……そ、そうですね」

「じゃあ……あ、そうそう。この間、聞いた話なんだけどね」


 莉紗さんは、さっきの湿った空気がウソみたいに、ニコニコと話し始めた……んだけど。


「あの、莉紗さん。その話、もしかして……」

「それで、真っ暗なトンネルなのに、どういう訳か、そこだけ光ってて……」

「ダ、ダメです! あ、あたし、怖い話って、苦手で……」

「もう手遅れね……ほら、後ろ……」

「ひーッ!」

「あらあら、夢乃ちゃんは怖がりね~」

「い、いじわる……」


 莉紗さんがニコニコとあたしを見てる。そんなイジワルをされたけど、でも、莉紗さんがキライになれなかった。

 ……不思議だなぁ。



   ◆



「あ。止んできたみたい」

「え……ホントだ」


 ちょっと首を伸ばして橋脚の向こう側を見ると、もう雨はほんの少しになってた。

 雲の隙間から、夏の強い日差しが見えてるし、雨が降ってる間は静かだったセミも、また力強く鳴き始めてた。

 少しずつ、夏の暑さが戻ってきてるカンジがする。


 莉紗さんはサッと立ち上がると、下に敷いてたハンカチをバッグに仕舞って、コンクリートの斜面を軽やかに遊歩道へと下りていった。

 ……本当に運動神経いいんだなぁ。

 あたしも下りようとして、下に敷いてたタオルをリュックに仕舞って……あ。


「莉紗さん、タオル。返し忘……わぁッ!」


 ズルッと靴が滑った。

 慌ててバランスを取ろうとして、逆に前に勢いがついて。

 お、落ちる! 痛みに耐えようと目を閉じた。

 あたしは遊歩道に……あれ?


 予想しない感触があたしを包んでた。

 そして、あのいい匂いをさっきよりも強く感じた。


 もしかして、あたし……。

 そっと目を開けると、透き通るような白い首筋が見えた。

 ゆっくり顔を上げた。

 すぐ目の前に莉紗さんの顔がある。

 驚いた顔で、あたしを見下ろしてる。


「り、莉紗……さん」

「大丈夫?」

「あ、はい……」


 あたしは莉紗さんの身体にしがみついたまま、じっと莉紗さんを見つめ返してた。

 胸が痛いぐらいドキドキしてる。

 離れなきゃって思うんだけど、体が動こうとしない。

 できれば、このままがいいな……って思う自分がいた。


「……いい匂いね」

「え?」

「夢乃ちゃんこそ、いい匂いがするわよ」


 あたしは、キュッと莉紗さんの腕を掴んで、何も言わず、ただ莉紗さんの顔を見つめた。

 涼しげな瞳が、フッと妖しく光った気がする。


「夢乃ちゃん……誘ってるの?」

「え?」

「悪い子ね」

「莉紗さ……!」


 莉紗さんの唇が、あたしの唇に触れた。

 もしかして……いや、もしかしなくても、キスだよね。

 女の人と、それも昨日、会ったばかりの人とファーストキスをするなんて……想像したこともなかった。


 でも、イヤじゃなかった。

 あたしは目を閉じて、莉紗さんの唇に意識を集中させる。

 すごく柔らかくて、温かい。

 触れた唇から伝わる熱が、あたしの身体の隅々に行き渡って、まるで全身の血液が沸騰したみたい。


「んんッ、ん……」


 背筋がゾクゾクする。

 膝がガクガク震える。

 でも、イヤじゃない。

 気持ち悪さなんて無い。


 でも……少しだけ怖かった。

 自分がおかしくなりそうで、だからギュッと莉紗さんにしがみついた。

 鼻から吸い込んだ莉紗さんの匂いが、あたしの心を蕩けさせていくうまく呼吸ができない。もう……もう、限界。


「ん……んん……あ……ふはぁ……」


 唇と身体が解放された。

 力が抜けたあたしは、その場にへたりこんでしまう。

 何も考えられなかった。

 ただぼーっと、あたしの前にしゃがんだ莉紗さんを見つめてた。


「気持ちよかった?」

「え……は、はい……」

「そう……よかったわ」


 それだけ言うと、莉紗さんは、すっと立ち上がって、そのままスタスタと立ち去ってしまった。


 あたしは、ギュッと莉紗さんのハンドタオル握ったまま、ぼーっと後姿を見つめてた。

 でも、莉紗さんは一度も振り返らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る