第16話

―――




……とんでもない時間を過ごし、書類を届け終えた俺は茫然自失で、妖精の住まう、我らが囲碁部部室へと戻ってきた。

 扉越しにパチン、パチンと清々しい音が響いてくる。扉を開けながら、瀧先輩が独りで打っているにしては打音のペースが速いなと思う。誰か登校して来てくれたのだろうか。


少しほっとする。先輩は天然だがクソがつくほどの真面目、という厄介な性格なので、一人で相手するのは荷が重いのだ。よく言えば周りが見えなくなるほど集中が出来るタイプと言える。それ故に囲碁は強いが……田宮・宮田事件の怨みは忘れない。

ところが先輩の前に座っていたのは、広岡先生だった。


「あれ? 先生?」

「ん? おーお帰り。届けてくれた?」

「あっ……まぁ」

と苦笑いを浮かべる。それを見て広岡先生は少しだけ口許を緩めた。

こ、こ、この野郎。

「その顔は、……気づいたんだね」

「びっくりしましたよ。どうして先に言ってくれないんですか?」

「屋上で言ってたでしょ。」

「……あ。」

 でも、あれがそういうことだって誰が思うんだ。

「ところで先生、打てるんですか?」

「うん。昔、囲碁でコテンパンにされたことがあってねー。再会したらソイツを負かしてやろうって修行した。」

「少年マンガみたいですね。先輩、先生はどれくらい打てるんですか?」

「……」


妖精はなぜか沈黙を守っている。

「先輩?」

 先輩の顔を覗き込もうとして、盤面が目に入った。これは終盤だが……棋力の低い俺でもわかる。所謂、圧勝という奴だ。普通なら瀧先輩が圧勝したと考えるところだが、先輩のこの表情がそうではないと語っていた。

ぞっとして先生の方を振り返る。


瀧先輩はアマチュアでかなりの実力だ。素人同士なら大差で負けることなどほぼありえない。それを、この人は。ニコニコしている先生のことを初めて恐ろしいと思った。

「……なたは」

「ん?」

広岡先生はその美しい笑顔をこちらに向ける。



「貴方は一体、何者なんですか――――、広岡先生。」



「大岡ですけど!!!!!!!!?!?」



―――




 話は、とんでもない体験をした時刻へ巻き戻る。具体的には、大岡先生に頼まれ「女の子」を追いかけている場面へ。

 彼女が校庭に見当たらないことに焦った俺はふと、彼女は自転車を取りに行ったんじゃないかと駐輪場に走ってみたところ、大当たり。そこには果たして、彼女の後姿が見えた。


彼女の後ろ姿に声をかけようとした近寄った時、気がついた。

 彼女がカゴに荷物を置いたのは、件の、あの赤い自転車だ。

 ”俺の場所”に置かれた、赤い自転車。アイツの。

「宮田、麻央……?」

気づかぬうちに口から零れたその名前に彼女は振り返り、誰かに似た綺麗な顔でこちらを見つめる。


ハスキーで少し低い、けれど可愛らしい声で彼女は俺に問い掛ける。

「ぼ、……私を呼びました?」

 ドクンと大きな鼓動が鳴る。妙な気持ちだ。怒りでも喜びでも不安でもない、不思議な高揚感。

いよいよだ。いよいよ俺は『彼女』を見つけた。

俺はこう考えた。




でもそれは違っていた。


(by下水堂)

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