□6
いつもの変わらない服装。
派手になるよりかはいいけれど、なにか変えた方がいいのかと数分悩んだ。だけど、僕には同じような服しか持ってなくて変えようがない。
まあ、いいか。
諦めて店の中に降りていくと、彼女は時間ぴったりに僕を迎えに来ていた。
「おはよう。今日は絶好の天気です」
挨拶を返す前に、晴れていることがとても嬉しいのか満面の笑みで報告してくるから、つられて僕も笑う。
彼女は麦わら帽子を被っていて、そこから見える黒髪からはまた違った綺麗さが溢れていた。彼女の服装で変わっているところといえばそこぐらいで、いつも通りなことに内心ほっとした。
「さっ、行きましょう!」
昼食が入っているであろうカゴを揺らしながら、颯爽と歩いていく。その姿はまるで我慢ができない子どもみたいで、僕にまでワクワクした感情が移ってくる。
いってきますと、店番を変わってもらったタウさんに告げると、顔も上げずに手だけで返す相変わらずさに少し気持ちが緩んだ。
急いで彼女の後ろを追いかけた。
土曜日とあってか、人通りが多い。人通りのせいにしなくても、当然彼女の隣なんて歩けるはずもなく。ひと一人分の間を空けて歩いた。
目の前の彼女は、体からなにか発しているのかと思うほど軽やかに歩いていて、無駄がない歩きとその姿に見とれては人にぶつかった。すみません、と謝りつつも彼女を見失ってしまわないように歩いた。
――なにあの色。
すれ違いざま小さく聞こえた声。
彼女を追うことに使っていた頭を、一気に、周囲の雑音に切り替えさせられる。聞き慣れたはずの声が矢になって、僕にグサリと刺さる。
今からでも遅くない。彼女を呼び止めて、ごめんなさいと謝ればいい。きっと傷つけてしまうだろうけれど、それくらいがちょうど良い。彼女には僕を酷いやつだと思わす必要がある。
大きく息を吸い込み彼女を呼び止めようと顔を上げた時、彼女が僕の方に向かって歩いてきていた。
「行きましょう」
そう言って僕の腕を引く彼女は、どこか怒っているように見えた。
麦わら帽子からのぞく顔でもなく、大きく力強い歩き方からでもなく、ただなんとなく、「ああ怒っているな」と思った。
それでもなお、僕は話しかけようとした。
ごめんなさい、と謝ろうとした。
「気にしないでください」
雑音の中はっきりと聞こえた声。
「あなたは、これから行くところを考えて」
握られた腕に、彼女の手が食い込む。
僕のことを考えて、怒って、気を使って。彼女は優しかった。その優しさが僕には苦しくて、「はい」と弱々しく言った後、彼女に引かれるまま歩いた。
ただ、ごめんなさいと謝りたくなった。
あの後僕たちは三駅分電車に揺られ、僕の知らない街へ到着した。
電車の中で彼女は一言も話さなかった。不機嫌ではないようだったけれど、ずっと窓の外を眺めて僕の腕から手を離さなかった。それは目的の駅に着いてからも同じで、変わったことといえば力の強さが緩まったくらいだ。
歩幅はいつも本屋から去っていく時と同じ速さ。ただまっすぐ前を向いて、僕たちの街よりも緑が多く、のどかな道を歩いていく。
山道みたいなところに変わったかと思うと、いきなり「目を閉じてください」と言われた。
大人しくそれに応じる。
彼女が腕を引いてくれていたけれど、それでも足場が悪いせいでつまづいた。
「開けていいですよ」
差し込む懐かしい光に目を細めながら、目を開けた。
すると、ぶわっと風が吹いたみたいに僕の中に景色が入り込んだ。今まで見たことのないたくさんの花がそこにはあって、僕らを歓迎するように甘い香りをさせながら揺れていていた。
あまりの綺麗さに言葉を失う僕に、彼女は言う。
「あなたに、これを見せたかったんです」
麦わら帽子をとる彼女は、目の前の花畑を見ながら懐かしそうに笑った。
それだけで、この場所が彼女にとってどんなに大切な場所なのかわかった。
わかったからこそ不思議だった。僕に見せたいと思う気持ちが、僕をここに来させた意味が。ただピクニックをしたいという簡単なものではないとわかっている。
「ウノさん、」
「ウノでいいです。私も、ミサキって呼びますから」
ニコリと笑った。
「お昼にしましょう」
シートを敷いて、カゴから三種類のサンドイッチを取り出して、丁寧にお皿まで出して。僕たちはこの綺麗な場所で昼食をとった。
何気ない話を。いつも本屋で話すようなことを、彼女は楽しそうに話した。
彼女が笑う度に花も揺れて、髪もなびいた。
少しだけなら許されるだろうか。
こうして彼女の隣にいることを、言葉を交わすことを、いつか触れるかもしれないその肌に。……僕は幸せだと感じていいのだろうか。
「ウノはきれいだね」
気づけばそんなことを口にしていた。
当然、彼女は驚いた顔をした。なんの前触れもなくそんなことを目の前の男が口にしたとしたら、そうなるのも当たり前で。僕は急いで言葉を繋げる。
「かっ、髪……が……です」
「私じゃないんですね」
「え、」
「ふふ、冗談ですよ。でもありがとう」
彼女はほんの少し自身の髪に触れて、花畑の方を向いた。
初めて聞く、彼女の家族の話だった。
「私の母も髪が綺麗だったと言ってました。それを私が受け継いだんだ、って」
「言ってた……?」
「私の母は――両親は亡くなりました」
パン屋のおばさんたちは本当の両親ではない。それを今知らされ、彼女が、今までどんな気持ちで家族の話をしていたのかと考えた。
そんなこと僕にわかるはずもなかった。
きっとずっと、わからない。
「そんなに深刻な顔しないで。私何も覚えてないんです。亡くなった両親について、何も」
持っていたカップの縁をなぞった。
「ただ、この場所だけは覚えてて。顔も声も思い出せないけれど……、小さな私は花の中ではしゃいでいて、とても楽しかった」
あの頃を思い出すように花畑を見つめた。
たったひとつしかない思い出を彼女は大切にしていて、愛しているようにも感じた。
そんな風に思える彼女を羨ましく、そしてとても悲しく思った。
幸せそうな彼女でもこんな過去があって、その過去のまま今を生きていても幸せだったであろう彼女から家族を奪った運命は、なんて、残酷だろう。
でも、彼女は言った。
たとえそれを知ったとしても、今の両親を避けたりしない。私を愛してくれたことには変わりないから、と。
彼女は、最近知らされたという真実を受け入れていた。深く考えずに(考えたかもしれないが)彼女は今をまっすぐ生きていた。彼女の髪のようにまっすぐ綺麗に。
「でも、少し寂しいですね」
少なすぎる思い出が。
亡くなった人と話すことが出来ないことが。
彼女は、それらの複雑な感情を表すかのような表情をしていた。
僕には彼女の気持ちを想像出来なくて、どう声をかけていいかもわからなくて。「抱きしめたい」と思う気持ちを押し殺すことで精一杯だった。それは僕のすべきことではないから。
今朝は、僕の腕を引いてくれた彼女の後ろ姿を、あんなにも大きく強く感じたのに。今花を眺める彼女の背中は、とても小さく弱く感じる。
「…………きっと、いい両親だったんでしょうね」
いい両親の例なんて僕にはさっぱりだけれど、下手なことを言うよりもいいと思った。
僕は愛されたことがない。
誰かから愛を学んだ記憶が無い。
だからこそタウさんやリャンさんたちの、愛と呼ぶかもわからない優しさを僕は苦しいほど素直に受け取れない。脳が受け取ってはいけないと拒否するかのように、僕を混乱させ、涙として溢れさせる。
わからなかった。
でも、それがまた苦しかった。
彼女は少しだけ時間をかけて、
「いいえ、違います」
振り返らずにそう言った。
「あ、でもわかんないです」なんて笑いながら付け加えていたけれど。
僕の隣に戻ってきて、膝を抱え、摘んだのであろう小さな花をくるくる回しながら話を続ける。
「目の前で殺されましたから」
――がつん、
誰かに鈍器で殴られたような痛みがはしり、心臓が全身に響くぐらいに脈を打つ。
「悪い人たちと繋がりがあったそうで、それで殺されたんだろうって。……両親の死は、事故だと片付けられたのもそのせいだって」
「――それは」
彼女が僕の方を向く。
彼女が不思議そうに首を傾げているのは、僕が顔を歪めているせいだ。
違うと言ってほしかった。
「それは、いつですか」
必死に、彼女を困らせてでも言ってほしかった。
「ミサキ、どうしたの……?」
「いいから!」
ただならぬ雰囲気を感じたのか、彼女は小さくつぶやいた。
「12月25日」
クリスマス。
そう聞いた時、心臓が止まった気がした。
嘘であってほしいと、この数秒の間にどんなに思っただろう。僕が思う日ではないなら、肩を下ろして「よかった」と言えたのに。
どうやら僕の思いは届かなかったようで。
僕に、思い出させたくもない記憶を……彼女が失ってしまった記憶を一気に流させる。
「そうか……あの子は………………」
なぜ、わからなかったのだろう。
目の前にいる彼女は、あの日のあの子と同じ目をしていて、僕にたくさんの罪悪感を与える。叫び出したい気持ちと気づかなかった愚かな僕への悔しさが、今にも溢れてしまいそうで苦しかった。
――――彼女から家族を奪った運命は、なんて、残酷だろう。
その運命は僕自身だった。
彼女が覚えていないことが唯一の救いかもしれない。
いや、むしろ覚えていてくれた方が好都合だった。僕を憎んで、復讐でもなんでもいいから僕を殺してくれればよかったんだ。
僕は彼女から、もっと早くに離れるべきだった。こんなにも離れ難いと思う気持ちが生まれる前に。
あの日、初めて彼女に会った雨の中、通り過ぎていった通行人の一人に僕がなれたなら。
「私は」
彼女が僕の髪に触れる。
彼女の両親の色も染みついたこの髪に。
「綺麗だと思うわ、ミサキの髪」
きっと、これは本心で。
今朝の通行人の言葉を、僕が気にしないでいいように、彼女は言ってくれている。
本来なら少しでも喜べていたはずの言葉に、僕は、胸を締め付けられる痛みしか感じなくて。「どうか言わないで触らないで」と彼女の手を振り払いたかった。
「……っう、……うう…………っ」
ごめん、と口に出せない言葉を、ただ繰り返し繰り返し僕の中で言い続けた。
突然泣き出した僕を彼女は優しく受け止めてくれた。
12月25日。
僕が「殺し屋」であった最後の日だ。
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