□5

あれから彼女は、時々僕を訪ねてくるようになった。


どうやらタウさんとよくパン屋で話していたらしく、彼女は僕の話を聞いたことがあると言っていた。本を取りに来るまで同じ人物とは思わなかったとも。


タウさんは、彼女に「来る時でいいから」と欲しいパンを書いた紙を渡していた。そんな時は必ず翌日に来る。親切に小さな袋に僕の分のパン、というおまけをつけて届けに来る。


彼女もよく本を読むらしく、互いに面白い本、影響を受けた本などを話した。それから今日はこんなことがあったと、彼女の身の回りの出来事を表情をコロコロと変えながら、それでも楽しそうに彼女は話した。


僕は自然と、彼女が来るのを待っていた。

「じゃあまた」という言葉に期待していた。


彼女との時間が、僕の生活の一部と化していく感覚。

こうして、彼女が髪を結って僕の仕事の手伝いをする後ろ姿を、そっと見つめてしまうことが当たり前になる日々。


とうの昔に忘れてしまったこと。……いや、知らなかったこと。


あの夢を見る度に「だめだ」と思うけれど、彼女に会ってしまえばそんな考え呆気なく消えて、「次で最後」に変わるんだ。


――何度目の「次で最後」の日だろうか。

彼女が出掛けようと僕を誘った。


僕が渋い顔をしたのに気づいたのか、彼女は僕の顔を覗き込んだ。今から説得しますと言わんばかりの表情で、口を開く。



「たまには外に出ないと。この街はいい所がたくさんあるんです。私は、私の好きな場所に、あなたを連れていきたいの」



説得力のある瞳だった。


なぜ僕なのかなんて聞いてしまえば怒られてしまいそうだ。でも、それはずっと気になっていて、彼女なら僕以外に誘う人がいるはず。言葉は悪いけれど、選べるのだから、わざわざ僕を誘わなくてもいいと思う。


僕が外に出れば、どんな目で見られるかなんて知っている。知っているからこそ、彼女とは歩きたくない。


僕が口を閉ざしている意味を察してくれると思っていた。



「今週の土曜日で時間は……そうだな、十時にしましょ。あ、お昼ご飯は私が持ってくるので大丈夫ですよ」



彼女は、どうしてこんなにも眩しいのだろう。彼女の笑顔や瞳にはなんとも言えない力があって、僕はそれにすごく弱くて「はい」としか言えなくなる。


結局断れなくて、僕の返答を聞くなり彼女は嬉しそうに帰っていった。



「出掛けるのか」



一部始終を見ていたのだろうか。タウさんがそう僕に尋ねた。

タウさんの言葉に何も返せず彼女が去っていった場所を見つめていたら、タウさんは僕の手元に飲み物を置いて言った。



「楽しんでくればいい。あの子はいい子だ」



言おうとすることはわかっていた。僕も同じことを思っていたから。


それでも僕と同じ目で彼女が見られるのは嫌で、悪影響になるんじゃないかと考える。僕がこの店に働いていることさえ、最近になって大丈夫かと思えるようになったのに。があったから、ここに来る人達は好奇の目を浴びせなくなったのに。


彼女とは日が浅い。だからきっと知らない。

知ってしまえば、僕を軽蔑し離れていく。


タウさんが置いていったマグカップには、温かなココアが注がれていて。それがいつもより少し甘くて、タウさんの優しさの味を知った。


『楽しんでくればいい』

少しだけ、行く覚悟ができた気がした。

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