□4
いつもみる夢がある。
それは決まって暗闇で、僕一人。目をつぶった僕を風が包み込んで、目を開けると誰もいないはずなのに驚きと胸の痛みが僕を襲う。
僕の中に流れる血液が心臓によって勢いが増していくのを感じる。ドクン、ドクン、とその音が大きく耳を塞ぐほどになって、口を大きく開いた瞬間……現実世界へと戻ってくる。
――今日もみてしまった。
何度もみたせいで、次に僕を襲うものが分かるようになった。それでも何かが出来るわけでも慣れることもない。
起き上がると体が汗まみれなことに気づいた。着替えるのも面倒なくらい体がだるく感じて、窓を開けて体を冷やす。まだ夜もあけていない。深く息を吐いて壁に寄り、窓から見える空を見る。
相変わらず、吸い込まれそうな暗い空だ。
雲に少し隠されながらも、自分の存在を主張する月は不気味なほど光って、街全体を照らしている。あの頃の僕を照らしてはくれなかったのに、今は微かながらも照らしている。
僕には眩しすぎる。
――昼間の彼女もそうだ。
何不自由なく幸せに暮らしてきたであろう彼女には、僕の持っている闇なんかを跳ね除ける力がある。そう思うほど、眩しかった。
それでも。
それでも、彼女を気にせずにはいられなかった。
そんな彼女が雨の中どうしていたのか。それが気になるのも嘘じゃないけど、「ダメと言われたらしたくなる」と同じような理由で「触れないと思うほど気になる」
……なんて、彼女だって「ウワサ」のことは知っているはず。親切にしてくれたが、気味悪いと思っているだろう。
僕は窓を閉めて、すっかり冷えきった体を包むようにして寝た。
夢は見なかった。
***
今日は天気のよかった昨日に対して、反対の天気となった。雨は降っていないものの、街は薄暗くなっており夜なのかと疑うほどだ。
古本は毎日入ってくるわけではない。
序盤にも述べたように暇な日がほとんどなわけで。お客さんに借りた本も面白くてすぐに読んでしまった。
そんな時はたいてい、店の掃除をする。
会計台の隣に設置された棚から取り出したはたきで、さささっと埃を払っていく。たまに本の並びを綺麗にしたり、これ前に読んだなと思い返してみたり、これが結構楽しい。でも、思い返す回数が多くてなかなか進まない。
また終わらないな。
何度読み返しただろう。物語の展開なんて分かりきっている本ばかりなのにまた手に取ってしまう。自分に呆れの溜息をついて、よし、と気合を入れ直した時、
「すみません、本を頼んでいた者ですが……」
現れたのは、傘を貸したパン屋の彼女で。彼女も気づいてから、「あ」と声を漏らして笑顔で会釈した。慌てて会釈し返す僕。
「まさか、ここにいるとは思いませんでした。お手伝いかなにかですか?」
「いえ……なんというか、居候、みたいな」
言葉を濁して言ったが、あながち間違ってはいない。タウさん達の息子ではないし、知り合いだった訳でも無い。「よそ者」には変わりなかった。
この話を逸らすために慌てて会計台の下から本を取り出す。予約していた人の本は、大体ここに置くことになっているからだ。
みたところ、ひとつしかないからこれで間違いないだろう。一応、本の見た目中身を確認して手渡す。
「こちらで間違いないですか?」
「ありがとうございます」
彼女が読むであろう本は、恋愛系ではなく、少し変わったファンタジーだった。
一度読んだから内容は知っている。
確か、小さな女の子が傘を持って不思議な街を探検する話じゃなかったかな。傘をさしてくるくる回るシーンが独特だったのを覚えている。
「知っていますか、この本」
「え……えっと、一度だけ読んだことがあります」
「これ、私の中で思い出の本なんです。よかった。どこにも売ってないから無くなったのかと思った」
心底安堵したような顔に、自然と「よかったですね」と言葉が出た。
誰かの笑顔を見て、罪悪感が生まれるのは初めてだった。彼女を見ていると情けなく惨めになる。僕の過去を消してしまいたくなる。――どうしてあんなことをしたのかと、心底思う。
「きまり」をつけていたって、同じこと。
それに気づいたのは、この生活を始めてからだ。あまりにも遅すぎた。
「本当は傘貸してくれた時“なんで”って思ったんです。“ほっといてくれたらいいのに”って」
「…………すいません」
まさかそんなことを思っていたなんて考えもしなかった。申し訳なさが込み上げ言葉として吐き出された。
が、彼女はニコリと笑って話を続けた。
「あなたの笑顔が、“あ、この人素直に心配してくれてるんだ”って思ったんです。あなた、面白い顔してるんだもの」
「面白い顔?」
「あれ、気づいてなかったんですか?そうだな……こう、こんな感じです」
迷いながらも、僕にその顔を見せようと必死にその顔を作っていた。なんとも言葉にし難いほど、気分の良くなる笑顔ではなかったが、彼女が躊躇いもなくその顔をしたことがおかしくて、可愛らしく見えて、思わず笑ってしまう。
「あっ、なんで笑うんですか!あなたがこんな顔してたんですよ」
「すいません……でも……っはは」
僕は意識してそんな、にへら〜っとした笑顔をしたわけではない。それに僕がしたところで気持ち悪さしか湧かないだろう。
背を向けいじける彼女もまた、可愛らしい。
「あ!そういえば、パン、食べてくれました?」
こくりと頷くと、彼女はすぐに感想を求めた。美味しかったと簡単に述べると、彼女は嬉しそうに笑った。
「あのパン、うちの自信作ですから!また買いに来てくださいね」
「はい」
「言いましたからね?私待ってます」
頼まれもしない限り、買い物なんてめったにしないし、行きもしない。まず出掛けることさえ珍しい僕が、「はい」と答えたのは、きっと彼女に悪いと思ったからだ。
あのパンが美味しくなかったわけじゃない。もう一度食べたいと思うほどの美味しさだった。
だけど優しすぎた味は、今の僕にとって「毒」にしかならない。
「わたし、ウノって言います。あなたは?」
「…………ミサキです」
これ以上彼女との接点を作ってはいけない。
僕が叫んでいたはずなのに、僕の口は簡単に名前を言ってしまった。
その後、彼女は雨が降りそうだからと帰っていった。彼女の言うとおり、空はさっきよりも暗く、少し雨粒が落ちてきているようにみえた。
彼女が傘をさし帰っていく後ろ姿を、僕はずっと見ていた。雨に濡れないように本を抱えながら、傘を、髪を揺らしながら駆け出していく彼女を。
まるで絵本の中の女の子のように、彼女の周りはきらきらと光が舞っていた。
──彼女と関わってはいけない。
そう、誰かが叫んだ気がした。
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