□3

普段はタウさん夫婦が営む小さな本屋を手伝っている。


置いてある本は新しい本もあるけれど、大体が中古の本。あまり知られていない本もあり、多くはないが本好きな人がよく来てくれる。

僕も気になった本は読ませてもらっていた。


中古が多いだけあって、そこのところタウさんは何も言わない。「お前一人が読んだところで何も変わらん」なんて言って、読むことを許してくれるくらいだ。さすがに新品はだめだけど。

時折お客さんから読んでみてよ、と言われることもあった。丁寧に自分の本を貸してくれる人だっていた。


そんなこともあり、すっかり本好きになった僕は、この本屋にある本はほとんど読んでしまった。


仕事内容は、主に店番な本の整理など。でも、街の中にポツリとたたずむ小さな本屋だから大体が店番のみ。正直に言えば、お客さんが来ないので暇も同然で、本を読んだり夕飯の買い出しを頼まれたりする方が多い。



「ミサキ」



僕の名前を呼ばれ、読んでいた本にしおりを挟み閉じる。



「パンを買いに行ってくれんか。いつも買っている……ああ、お前は行ったことがないな。地図をやる、買ってきてほしいリストと金も」

「はい」



渡された地図に書かれた目的地は思っていたよりも遠かったが、最近動いていないからちょうどいい運動になる。すぐに支度をして本屋の入口から出ていく。



「いってきます」

「頼んだぞ」



頷いて外に出ると、昨日の名残か空はどんよりとした色を浮かばせていた。


雨は降らないでほしいな。


折りたたみ傘一つ入っていないだけで、鞄がこんなにも軽いんだと歩き始めてから思う。気のせいか、足取りも軽い。


街をこうして歩くのは久しぶりかもしれない。

店番とはいえ、時折買い出しなどに行くことはあったけれど目の前の青果店に行く程度。少し見ないうちに街の変わったところがたくさんあって、早かったはずの足の進みもいつの間にかゆっくりになっていた。


――僕には視線が集まる。


ジロジロと見る人もいれば、チラリと見るだけの人もいる。タウさんのところに来た時よりかはだいぶ少なくなったし、気にしなくなった。でも、やっぱり見てくる人は見てくるし「ウワサ」もまだ残っている。

僕の髪色は、この街の人からすれば気味が悪いとしか思いようがないのだから。



「……ここかな」



美味しそうなパンの香りが店の外まで漂っている。まだ昼食をとっていないお腹にはちょうどいい刺激になり、誘惑に負けそうになる自分をぐっと我慢させた。


ドアノブに手をかけ外側に開くと、ふわっと外まで溢れていた香りとはまた違った濃い香りが僕を包む。

目の前には、「NO.1」と紹介されているパンが他のパンより少し多めに置かれていた。



「いらっしゃいませ」



優しそうに微笑む店のおばさん。

……おばさんなんて言い方、知られたら怒られるかな。

そんなことを考えながら、このまま眺めていても誘惑に負けそうでメモをポケットから取り出し、頼まれた分のパンを買うことに専念した。


最初は入口付近にあったフランスパン、次にあんパン、クロワッサンとメモに書かれたものをおぼんに乗せていくうちに、細かなところにまで気を使ったパンだなと感じる。


パンをトングで挟んだ時、表面のパリパリ感が音でわかり、持ち上げた時の重みで中までずっしりと詰まっているんだと簡単に考えられた。


メモの下に書かれた「自分の分は選んで買っていい」という文字に、嬉しさを感じながら塩パンを乗せ会計へと持っていく。



「いらっしゃいませ。えー、ひとつふたつ……」

「はい、このパン持っていっとくれ」

「はーい。あ、ちょうどいいところに。変わってくれるかい?私はパンを持っていくから」

「うん」



手元しか見ていなかったが、会話の中からおばさんの娘さんだろうか、その人にレジを変わったようだ。

何円なのか告げられるのを待っていると、娘さんの手が止まったまま動かなくなってしまった。



「あの、」



顔を上げた。思わず、言葉に詰まる。

彼女も同じ思いだったのか驚いた顔の後に、軽く会釈をした。僕も釣られて頭を下げる。そのまま微妙な空気が漂った。


先に口を開いたのは彼女の方だった。



「先日はありがとうございます。体調は大丈夫ですか?」

「あ、はい、大丈夫です。……あなたは大丈夫でしたか?」

「傘があったので、それはもう元気ですよ」



自分が元気であることを伝えるかのように、どこか誇らしげに微笑んだ。その微笑みに僕も自然と笑みがこぼれる。


お釣りです、と手渡す彼女が僕の手のひらに触れそうになった瞬間、ピクリとつい体が反応してしまった。彼女も何かを感じたのか、そのまま落とすようにお釣りが僕の手の中に入っていった。


やはり人と触れ合うというのは、いつまで経っても慣れない行為だ。無意識に体が触れないようにと反応してしまった。気を悪くしていないといいけど。

ちらりと顔を伺ったが彼女は笑っていた。よかった。



「この後、時間ありますか?借りた傘を返したいので」

「え、いや……その、」



首を傾げる彼女に口を結んだ。

断らなくてはならない。彼女とはこれきりの関係性にとどめる必要がある。頭ではわかっているはずなのに、僕の口は少しの間しか閉じてはくれなかったみたいで。弱々しく「はい」と答えてしまった。


彼女はぱっと嬉しそうに笑った。


「じゃあ少し待っててください。ここではあれなので、出来れば外に」



急いだ様子でエプロンの紐をぬるめながら、彼女は店の奥へと消えていった。


返さなくていいです、と言えたならどんなにかっこよかっただろう。言おう言おうとしていた口も、結局、彼女と話せるかもしれないということに負けてしまったのだ。


紙袋を持つ反対の手を、緩めては結んでを繰り返す。

少しだけならと思う心の隙間から、決めていた覚悟を垂れ流していく。これは僕への罰だと言い聞かせていたはずだった。


――少しだけなら。


手紙でも置いて帰ればよかったものの、大人しく外で待っている時点で緩んでいる証拠だ。



「よかった、いた」



店裏から出てきた彼女は、僕を見つけるなり安心したように方を撫で下ろす。

少し息を整えてから、あの日僕が貸した傘を彼女は差しだした。綺麗にたたまれた傘は僕のものかと疑うくらいだ。



「ありがとうございました。我ながら馬鹿なことしてたなって思いました、ごめんなさい」

「いえ…………、誰でもありますよ、そういうことしてしまう日が」

「あなたにも?」



答えに迷ってしまう。


馬鹿なことをしてしまうというより、僕は考えない日がないということだ。きっと彼女も何かを思って、あの日あの場所に立っていたんだろうし。そうじゃなきゃ、あんな悲しそうな顔をしない。


遅れて、「……少しは」と答えておく。



「これ、お礼に。うちの一番人気のパンです。確か買ってませんよね?」

「お、おかまいなく。僕が勝手にしたことなので」

「それでも私が助けられたことに変わりはありません。受け取ってください」



ずいっと押すように勧められる紙袋。彼女の気持ちは決まっているようで、受け取るまで引かないというのが表情からもわかる。

頑固な性格なのか。凛とした彼女が眩しい。


ありがとう、とつぶやくように受け取れば、彼女は嬉しそうに笑った。「また来てくださいね」という言葉を添えて。

僕は頭を下げて、行きよりゆっくり歩いた。


両手を塞ぐ紙袋からは腹の虫を刺激する匂いが漂う。綺麗な茶色に染められた生地に柔らかな食感。練り込まれたバターが小麦などの材料と合わさると、こんなにも香りたかい食べ物になるとは、タウさんと出会わなければ知らなかったことだ。

──パンは固くて味気ないものだと思っていたからなあ。


この街のことを知っている気がして、実は知らないことの方が多いだなんて。あの時の僕から考えられないな。

それもそうか。あの時の僕は、世の中の人が目を背けてきた世界しか知らなかったのだから。



「ただいま」

「迷わずに行けたか。さあ昼にするぞ。お前も食べるだろう?」



頼まれたパンの数が多い気がしたのは、僕の分まで含まれていたからだと気づいた。『自分の分は選んでいい』なんて書いていたから塩パンを選び、帰って自室で食べようと思っていた。

二人の空間を僕は壊したくなくて、食を共にすることを避けていた。


……違う。僕はただ食は誰かと共にすることを知らなかった。


だからタウさんの言葉に驚いた。呆然とその場に立ちすくむ僕に、早くしろと言わんばかりのタウさんの目に気づいて、後を追った。


奥にある小さな部屋に向かうと、リャンさんがスープをちょうどテーブルに並べ終えたところだった。

おかえり、と優しい声と表情で迎えられた。


この家は暖かい。タウさんもリャンさんも、僕の過去を知っていながらこうして住まわせてくれている。


パンの入った紙袋をテーブルに置き皿を出していると、彼女からもらったパンをタウさんが見つける。



「どうしたんだ、これは」

「ああ、えっと、傘を貸した子がちょうどパン屋の人で。お礼にと頂きました」

「そうか」



言うのに気が引けたけれど、他に理由が思いつかなくて素直に答えた。タウさんも気に止めることなく、食事の準備に戻った。


パンとスープの香りが部屋いっぱいに広がっている。テーブルにあるのはあの頃と変わらない食べ物なのに、すごく美味しそうだ。

人数分のコップを用意して、暖かいお茶を注ぐ。自分の分まで配り終えると同時に席についた。



「いただきましょうか」



手を合わせて神に感謝を告げ、スープから口につける。


初めてリャンさんが飲ませてくれたものはココアだった。火傷しない程度の温かさと、口いっぱいに広がる甘さが、あの頃の僕には涙が出るほどの優しさに感じた。強い味を感じたのは久しぶりで、「美味しい」と思う度に僕の心にじわりと広がっていくものがあった。


リャンさんのスープを飲む度に、そのことを思い出す。


彼女がくれたパンもその日の優しさに似ていて、涙が出そうになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る