彼女の髪は綺麗だった。
吉田はるい
□2
そうだな。
彼女の第一印象は、彼女の髪が綺麗だったことかな。
目が良かったから。そんなものは関係なくて、多分周りの人も長時間彼女を見てなかっただけで、みんな綺麗だと思ったんじゃないかと思うぐらいに。
褒めすぎじゃないんだ。本当なんだ。
今じゃすっかり少なくなってしまった黒髪で、腰まであった髪がスラリとした彼女の体によく似合っていた。太陽に照らされればキラキラと輝く。
僕とは大違いだ。
とってつけて美人って訳では無い。けれど少し幼さが残る顔は万人受けしそうなものだった。
僕は初めて会った日のことを思い出した。あれは奇跡と言っていいんじゃないだろうか。今じゃ「懐かしい」と思うほど時は経ってしまったけど、はっきり覚えてる。
忘れるはずがない。
――ああ、雨の音が聞こえてきた。
***
今日は天気予報が外れた。夕方からポツポツと降り出したかと思えば、そこからは最悪で雨あしは強まっていった。
晴れの予報だった。
みんな傘を持ち歩いているはずもなく、焦りながら走って家に帰る人やどこかに雨宿りする人、店に入る人。
僕は傘を持っていた。いつも持ち歩いている手持ちの折りたたみ傘を出し、開く。
あたりが暗くなってきたからか、街に光が増えていく。
僕はこの街が好きだ。
昔を感じさせる雰囲気と、建物はレンガが多く高い建物は少ない。奇抜な服ではなく、英国風(チェックを基調とした)な服のデザイン。
基本的に気温が低いため、薄着をする人なんていない。薄着で過ごせないことはないけど、薄着で過ごす人がいるとしたらそれは度胸試しとかしてるんだろう。
しかし今日は一段と冷える。
厚手のジャケットを羽織ってきていて正解だった。
地面が水で覆われていく上をゆっくり歩いていれば、目の前に立っていたのは急ぐ様子のない女性。
――綺麗な髪だ。
雨に濡れていたけど、直感でそう思った。
ずっとそこに立っているのか、長袖のシャツはぺたりと皮膚にくっつき、スカートは水を含み重そうに感じた。
髪の隙間から見える横顔はどこか一点を見つめていて、切なげな表情をしている。
ああ、絵になるな。
思わず立ち止まってしまうほど、綺麗だった。
すぐに我に帰り、彼女のそばまで足を早める。突然できた影に彼女が気づき、目線が僕へと向けられた。
「あ、の……これ使ってください」
彼女の瞳に吸い込まれそうだ。
じっと揺れることなく見つめられ、目線をそらしそうになる。真っ直ぐな瞳ほど苦手なものはない。
僕とは違う、穢れのない――。
「私はもう濡れてますから」
雨に濡れて頬に雫が流れていると、思っていた。
ポツリとそうつぶやいて僕から目をそらす瞬間、見えた雫は紛れもなく彼女の瞳から流れていた。
所詮他人だ。僕が聞いたとしても彼女には答える必要がない。
ならせめて、これ以上濡れてほしくない。
彼女にはきっと、出迎えてくれる家族がいるはずだ。そこに帰らせないと。
普段の僕ならできない、彼女の手を取り強引に傘の取手部分を持たせる。
「僕、家がすぐそこなんです。だから使ってください。大丈夫、こう見えて風邪には強いんです」
笑ってみせて、彼女をその場に残し雨の中を急いで走った。呼び止められないように追いかけてこないように、あの頃を足に思い出させ走った。
嘘をついた。
僕の家はここから三十分は歩かないといけない。すぐそこの距離に家はない。
あの場ではああ言うしかなかった。
それに対して罪悪感はない。
ただ、触れた手に僕の「ヨゴレ」が移っていないかが心配だった。
久しぶりに人に触れた。
それも、触れてはいけないと思う人に。
小さく細い手だった。
僕が触れていい人じゃない。僕は誰にも触れてはいけない。この「ヨゴレ」はひとりで背負うものだ。
案外早く、三分の一の時間で家へ着くことができた。
念のため裏の階段を使って、二階にある自分の部屋へと入ったが、ドアの閉まる音で「タウさん」が僕の帰宅を知ったのか階段を上る音がする。
どうにか、このずぶ濡れをごまかそうと辺りを見渡すけど大してもののないこの部屋に逃げ場なんてあるはずなく……
「なんだその格好は」
呆気なくバレた。
ほんの少しの誤魔化しを試みる。
「傘忘れたみたいで、」
「折りたたみをいつも持ち歩いとるお前がか?」
「………………ごめんなさい」
やっぱりタウさんに嘘はつけない。
「ったく……」と呆れたようにつぶやいて、早く風呂に入るよう指示する。それに素直に応じて、上着だけはハンガーにかけ靴を脱ぎ、一階へと降りていく。
僕の濡れた姿に、タウさんの奥さんである「リャンさん」が「あらあら」と心配そうな表情をした。大丈夫です、とだけ伝えて風呂場に向かった。
濡れた服を丁寧に洗濯機へと入れて、タイルの床に足を踏み入れノブをひねる。冷えた体に温かい水のシャワーがあたり、だんだんと体温が回復していくのが自分でもわかった。
……ふと考える。
彼女は無事に家へと帰れたのだろうか、と。
もっと別の言葉をかけてあげればよかったのだろうか。でも僕にはあれが精一杯。
ひとつしかない折りたたみ傘をあげたのは少し残念に思うけど、彼女があれ以上濡れないのであれば、まあいいかなと思える。……タウさん達にはどう説明しよう。
彼女の家が近いといいな。
彼女はブーツだったから水が大量に入ることはないと思うが、張り付いたスカートから垂れる雫が入っていくことが考えられた。
靴の中が濡れていく感覚はとても気持ちが悪い。それに乾くのがすごく遅い。雨の日は嫌いじゃないけれど、あの肌に張りつく感覚は何度経験しても慣れない。
充分体も温まりノブを閉めようと下を向いた時視界に入った、長めの変わってしまった髪。僕とは対称的な彼女の髪を思い出した。
彼女の髪を純粋な白で例えるとするなら、僕の髪は正反対の黒だろう。
一生消えることない、色。
何度洗っても元には戻らなかった。だからとっくの昔に諦めている。
僕の手のひらも、何度洗っても無駄なこと。
それでも繰り返す。毎日毎日、自分のしていることに呆れるまで、「こんなことしても」って思うまで、溜息をこぼすまで洗い続ける。
叶わなくてもいいから、彼女にもう一度会ってみたい。
そんなことを考えながら僕は今日も、手を洗い続けた。
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