大切な時間

桂木けい

第1話

 そう、あの事故に遭ったのは、私が二十五歳の夏の夜だった。


 当時はまだ妻の早紀とは結婚はしておらず恋人同士の間柄だった。


 もう付き合い始めてから五年ほどの月日が経っていて、お互いに少し倦怠感のようなものを感じていた頃だったと思う。


 その日、私が運転していた車の助手席に早紀を座らせて、外で食事をしてから彼女を家へ送ろうとしていた時にそれは起こった。


 不意に対向車線の中型トラックがセンターラインを大きく踏み越えて、私たちの乗る車と正面衝突をした。


 身体を突き抜けるような衝撃と、生命の危険にさらされている恐怖が私たちを襲う。

 その時の体験を今でも明確に覚えているが、あの時に見た辺り一面が真っ白な光に塗り潰された光景は今でも忘れる事が出来ないでいる。






 少し話しを戻そう。






 私と早紀は仲の良い恋人同士のハズだった。


 あの日ファミレスで晩飯を食べていた時に、「そろそろ親に会って欲しいんだけど…」と彼女に相談を受けた。


 もう子供と呼べる年齢では無いと自覚している。


 だから、あえてキレイな言葉で表現するなら、彼女と“大人の関係”になったのは付き合い初めて一年くらいの頃だった。


 別に他の女性と浮気をした経験も無いので、とくに疚しい理由がある訳でも無いのだが、いざ“結婚”の二文字が目の前をチラつくと、何故か決心がニブってしまうのだ。


 決して認めたくは無いが…もしかすると、私もそんな矮小な人間の一人なのかも知れない。


 彼女の事は大好きで心から愛してると公言出来る。


 それは彼女を独占したいとか、抱いてキスをしたいとか、欲望に類する感情も含まれているが、率直に言えばドコからドコまでが純粋に愛と呼べるのか? なんて、今もって全く判りはしない。


 もしかすると最近になって彼女との関係が上手くいっていないように感じてしまうのは、私の方により多くの原因があるような気がしてならない。


 そんな状態の中で一緒に外食へ出たのがマズかったのか?。


 彼女の申し出に対して“まだ行きたくないな”と考えてしまったのが、どうやら顔に出てしまったらしい。


 店を出て車の運転席で正面を向いてハンドルを握ってさえいれば、この微妙な空気を時間が押し流してくれると信じていた。


 そして、今思い返せば、きっと何かの罰だったのだろう。

 この後に彼女を乗せた私たちの車はあの事故へ巻き込まれる。


 大きなエンジン音ともの凄い衝撃が走り二人の全身を貫く。


 とっさにハンドルを左へ切って真正面からの衝突を回避しようと試みたが、実際にどうなったのかまでは判らない。


 一瞬で車のフロントガラスに、真っ白な幾筋もの光が走る。


 次の瞬間! その光が砕け散って、ガラスの破片が洪水のごとく私たち二人の身体を包み込む。


 私は無意識に彼女の方へと身体を寄せて必死に守ろうとした。


 だが、その行為すら、守れ無いかも知れない彼女に対して、自分はここまでやったという自己満足で無いと誰が信じてくれるだろうか?。

 実際に彼女を守れるのは私の身体では無く、車の安全装置なのだから…。






 気がつくと白い天井を見上げていた。

 やはりここは天国では無い。


 最もこんな自己中男が行ける場所では無いと知ってはいるが、天井の際から金属製のフックと透明の点滴袋がブラ下がっているのを見て実感した。


 首や頭、それに腕や脚など、身体を動かそうとすると全身に痛みが走る。

 だが今のところ致命傷と言えるようなケガはどこにも無さそうだ。


 幸いな事に私のケガは軽傷、それも打撲程度で済んだらしい。


 そして昨夜の事故を思い出して彼女が居ない事に気づいた。




「気がつかれましたか?」


 ベッドの上で一人モゾモゾしていると、若い看護婦さんが入って来て点滴の残量を確認する。

 手にはA4サイズのバインダーを持ち、何かのチェックシートに記入をしている姿が見える。

 私が起きて居るのを確認すると体温計を手渡され、検温するようにと促された。


「早紀は…いえ、私の他にもう一人女性が居たはずでなのですが?」


「ええ、奥様でしたら、まだ集中治療室にいらっしゃいます」


 もしかすると運転免許などの身分証明を持たなかった彼女の事を、私の妻と思い込んでいるらしい。

 しまし、今はそんな事より彼女の容態について尋ねる事が先だ。


「彼女の容態は悪いのですか?」


「そうですねぇ~…」


 この看護婦さんの説明によって、早紀が一般の病室ではなく今もまだ集中治療室に居るのが判った。

 そして彼女の…そう彼女のお腹の子供が事故の時にシートベルトで圧迫されてしまい、母子共に危険な状態にあると知った。


「え、ええっ?!」


 ベッドの上から飛び上がらんばかりの勢いで上半身を起こす。


 実はこの時、まだ首や腰も相当痛かったのだが、衝撃の事実を知った驚きの方が遥かに大きかった。

 病室の壁は白っぽい色だったはずなのに、何故か室内がとても暗く感じたのは、負い目のような罪の意識があったせいだろう。




 早紀のお腹の中に自分の子供が居るかも知れないという事実を、この時に初めて知った。

 だが、まだ父親になるという実感は無かった。


 だってそうだろう? まさか、こんなタイミングで子供の親になるなんて思いもしない事だろう。


 しかし、これで早紀が私を親に会わせたかった理由が判った。


 結婚するより先に子供が出来たなんて判れば、ヘタレで外面ばかり気にする私が逃げてしまうとでも考えたのだろう。

 まぁ、その予測は当たらずとも遠からずと言ったところか。


 現に昨夜は彼女のお願いを無下に断ってしまい、これで実績が出来てしまった。


 集中治療室の前で彼女と彼女の子供が無事な事を祈り、点滴ハンガーを引きずりながら病院の廊下を行ったり来たりしている。


 待っている時間がとても長く感じて、途中で身体が痛くなってきた。

 それでも自分の病室に帰る気にはならず廊下のソファーに座り込むと、緊張と疲労によりウトウトと寝てしまった。


 しばらくして、看護婦さんに起こされて目を覚ます。

 すると処置室の灯りが消え、中から搬送用のベッドが運び出されて来る。


 ようやく早紀の止血が済んで一般の病室へと移される時だった。


 この時に彼女の顔をそっと見てみたが、まだ眠ったままだったので心配になり、後から出てきた医師に彼女の容態を確認せずには居られなかった。


 そして医師から「もう大丈夫」と言われて、ようやくひと心地ついた心境になったのを今でも覚えている。






 その後、彼女は私の妻となり女の子を無事に出産した。


 子供の名前は彼女と二人で考えて、両方の母親の名前から1文字ずつ貰い美鈴みすずと名づけた。


 最初の頃は早紀への贖罪のような気持ちで始まった彼女との結婚生活だった。

 それでも、それまでの付き合いが長く、お互いの事を良く知った上での結婚だった事が幸いし、その後は穏やかな毎日を過ごしている。




 子供が産まれた最初の頃は、毎晩のように夜泣きする美鈴にかなり悩まされたが、それから半年もすれば首がすわり膝に抱っこする事も出来た。


 一歳になる頃にはヨチヨチと歩き出したのを見て、妻と2人で抱き合って喜んだモノだ。

 そして二歳から三歳になると、もうカタコトを話し出したのを聞いて、うちの娘は天才なんじゃないかと真剣に考えたものだ。




 この頃になり、ようやく父親としての感覚が養われてくるのだが、お腹を痛めた母親とは違って、男親の場合は親になるまでの時間が少し長く必要みたいだ。


 結婚する以前には倦怠期も経験していて、もしあのまま別れていたら今の時間は存在していなかっただろう。

 そう考えればあの事故も、私たち夫婦に取っては乗り越えるべき何かの一つだったのかも知れない。


 今は美鈴を産んでくれた妻への感謝もあり、彼女たちへの愛情を日々の生活の中で感じる自分が居る。

 もしかすると幸福というのは、こんな感じの毎日を過ごす事への感謝の気持ちなのではないかと考えるようになった。


 その生活の中で、父親として関わっていける自分が居る。


 これは私が子供の頃からずっと口に出せずに想い描いていた家族の風景だった。

 そこには父と母が居て、子供と仲良く一緒に暮らしているだけの普通の光景だが、私が子供の頃には願っても決して手に入れる事が出来ないモノだった。


 父親として少しの戸惑いを持ちながら、チョット恥ずかしい様な感じの幸福感がする。

 このささやかな時間がずっと続くような、そんな気がしていた。






 今日は早紀と結婚してから十回目の結婚記念日になる。


 結婚した年に産まれた美鈴は今日で九歳になった。

 もう小学校では三年生になっていて、最近では私が仕事から戻って来ると、妻より先に玄関で出迎えてくれたりする。

 そして“ただいまのギュッ”をしてくれるのだが、服をそこらに脱ぎ捨てると妻より先に注意されるほどお姉さんに成長しており、この先が思いやられる今日この頃だったりする。




 玄関から廊下を歩いて妻が居るはずのキッチンへと向かう。


 もう夕食の用意はほとんど終わっていて鍋からは湯気が出ている。

 それは食器を並べている途中のようだったが、彼女の姿が何処にも見当たらない。

 もしかすると何か足らない食材でもあって、近所のスーパーへ買い物にでも行ったのだろうか?。


 一度部屋へと戻り、手荷物を置いて上着を脱いでからキッチンへと戻る。


 すると、もうお姉さんになった美鈴が居て食器を並べてくれている。

 お茶碗とコップとお箸、それにお皿が出揃うと、後は妻が帰って来るのを待つだけとなる。


 美鈴がテーブルの正面の椅子に座ると、私も椅子を引いて腰を掛ける事にした。


「お母さん遅いね? まだなのかなぁ?」


「お父さん、今までありがとう」


 娘の手には小さな包みがあり、結婚記念日に妻が美鈴に手渡していたと思われるプレゼントの小箱があった。

 私も妻へのプレゼントを用意していたが、それはまだ部屋に置いて来た手荷物の中なので、後から取りに行こう。


「あたし、そろそろお母さんを呼びに行かないと・・・」


「もう、お外は少し暗いから、ここでお父さんと一緒に待っていよう?」


「だめなの…あたしが行かないと、だめになっちゃうの」


「なら、お父さんと一緒に行こう」


「ううん、お父さんと一緒には行けないの」


 とりあえず美鈴の言う事を聞いて、彼女に妻のお迎え任せてもいいのだろうか?。

 しかし、いくら近所のスーパーまでとは言っても、小学三年生の女の子がこんな時間に一人で出歩いても大丈夫なのだろうか?。


 …などと考えていると、気が付けば美鈴が椅子から降りていて、玄関のある廊下の先まで行ってしまった。

 そして私が居るキッチンへと振り向いて“行ってきます”のバイバイをしている。


「み、美鈴、いいからちょっと待ちなさい!」


 今も娘が急いでいる理由を思い浮かべてみるが、やはり解らないまま気持ちばかりが焦ってしまう。




「たくさん大切にしてもらったから、あたし…もう行かなくちゃ」


「だから何の事を言っているんだ、美鈴?」


「お父さん、今までやさしくしてくれてありがとう、お母さんのことも大切にしてあげてね、やくそくだよ」


 私と言う人間はこうも飲み込みが悪かったのかと今更ながらに思う。


 もしかすると娘が何を言っているのか判っているはずなのに、それを聞いて恐れてしまった自分が居て、その先にある未来を最後まで認める事が出来ない。


 泣き笑いの表情を浮かべながら、手を振っていた美鈴の姿が消える。




 すると、キッチンも廊下も消えて、テーブルや椅子など全てのモノが消えてしまった後、真っ暗な世界の中に一人だけ取り残されてしまった私がいた。






 気がつくと病院のあの廊下に戻っていて、処置室の前にあるソファに座り込んだ姿勢のまで眠りこんでいた。

 するとちょうどその時、正面の扉が開くとベッドの上に寝かされたままの早紀が出てきた。


 こうして一般病室へと移された早紀の後をついて行き、病室の椅子にもたれかかって彼女の寝顔を眺めていた。


 彼女の事は大切に思っていたので結婚を考えた事もある。

 だが私には、誰かとずっと一緒に暮らしていく自信のようなモノが欠けていたのだろうと今はそう思っている。


 そろそろ答えを出す必要があるのかも知れない。


 愛情というモノの正体については、正直なところ今でもまだ判らない。


 彼女を抱きたいという性的な欲求や、他人に渡したくないといった気持ちもあるが、これが愛情だと素直には考えられない。


 お互いに年齢を重ねた後も、この気持ちがずっと続くのかは分からない。

 仲が悪い夫婦が居る家庭で育てられる子供の気持ちは本当にミジメなものだ。

 そのような家庭なら、むしろ要らないと今でもそう思っている。


(このまま目を覚まさなかったら私は…)


 血を拭いた跡の残る頬を見ながら、ふとそんな気がして急に不安が募ってくる。

 一時的に容態が悪かったのだろうが、今は何とか回復してくれている。

 このまま安静にしていれば大丈夫と、医師からの説明は受けていた。


 それでも、もし彼女を失ってしまったら…と考えてしまい、落ち着く事が出来ずにいる。


 そして、医師から説明を受けた時に聞いてしまったのだが、お腹の子供はダメだったらしい…。


 まだ妊娠初期の状態で外見からでは妊娠していた事が判らなかったのだが、私たちの小さな命が消えてしまったと言う事だった。


 昨夜の事故さえ無ければ、これからも私たち夫婦と一緒に毎日暮らして行ける生命だった。




 私はその女の子を知っている。




 何故か顔を思い出す事は出来ないでいるが、良く笑う、とても、とても可愛い女の子だったと記憶している。


 しかし早紀と私とその子の三人で過ごす“大切な時間”が、今はもう戻って来ない事を考ると思考が途切れてしまい、目の前が滲んでよく見えなくなる。




 それから少しだけ時間が過ぎると、早紀がようやく目を覚ました。


 まだ彼女自身にも何が起こったのか正しく理解が出来ないような、そんな表情だったが、目頭から一筋の透明な線を見つけた。


 そして、私がここに座っている事に気づくと、私に向き直り小さな声で何かを言った。


「この子が私を呼びに来たの…女の子だったわ」


 ここで彼女の声が途切れてしまい、この後は深い嗚咽のような声に変わる。




「たしか…私の代わりにどこかに行くって、そう聞いたのよ」


「信じるよ、本当に、そう信じる…」


 今の私には、彼女の言う事の意味が解かる。

 彼女も自分が夢で出会った相手が誰なのか理解している。


 その気持ちをどう表現して私に伝えれば良いかと、上手に言葉を選べず戸惑っているようだった。


 もし彼女ともう一度やり直せると言うのなら、私は何を代償に求められても支払う事が出来るだろう。


 彼女と一緒にこの病院を出て、もう一度一緒に暮らして、落ち着いた頃にもう一度あの子の事を話そう。


 まだ産まれていなかった、笑顔の可愛かった、私たちの娘だった女の子の事を…。

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大切な時間 桂木けい @kei-0914

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