第6話. 兎妃 綾人の恋・下

(あ~ そう言えば日本に『飛んで火に入る夏の虫』ってコトワザがあったよね)

薫風そよぐ初夏も終わりの、けぶる空が重々しく五月雨を迎える時候。

季節的にも過ごし辛くなってきたこの気候に、すべからく腐となりて発酵を催する男子校の一風景。

翡翠ヶ丘学園別館。この校舎は、主にイベントで使う生徒ホール、多目的室や視聴覚室を配した翡翠ヶ丘の補助第三校舎である。

その校舎の二階、各部会議室などを連ねるひとつに、ひと際優雅なる間取りを呈した一室、絶対権力の執行機関である生徒会室がある。

要人が裸足で逃げるような、このハイグレード執務室張りの生徒会室の窓辺に、これ以上ないほどに憂いを宿した貴公子が、泣く女子も恋する婀娜あだやかさで黄昏ていた。

「あれ~? 兎妃君どうしたのかな~? そんなに黄昏ちゃって~ まあ、憂いを帯びた兎妃君もこの上なく魅力的だけれどね~♡」

この緩んだ科白を綾人に向けるのは、翡翠ヶ丘の生徒を代表する生徒会長、「緋乃塚ひのづか 秋良あきら」である。

彼は、気概が低速な綾人とはまた畑違いの、何事にもマイペースな御仁ごじんである。

だが、その重い腰をひとたび上げれば、疾風はやてが如く迅速なる決断力と統率性を示し、如才のない才腕ぶりとカリスマ性を以て、采配を振るうのである。

このボケた会長のにそんな才能が?―――綾人は、当初彼のことを訝しみ胡乱に思ったりもしたものだが、目前にて「なにコレ幻?」と自身の目を疑う働きを見せられてしまえば、もう疑う余地もなく認めざるを得なかった次第なのであった。

この『能あるボケは爪を隠す』搭載型会長である緋乃塚が、今日も今日とて綾人に絡み入る。

「何か悩み事かにゃあ? だとしたら僕に相談して欲しいな~♡ 兎妃君は憂いた顔も非常に魅力的だが、やはり僕は兎妃君には笑顔でいて欲しいからね~♡」

うふふ♡ あはは♡ と、レモンを齧り歯を輝かせる『歩く人間ブリザード』は、斜め上をゆく爽やかさで、また綾人の眉間に縦皺を増やすのであった。

(ほんと拷問だよね、コレ)

毎度のことながら、綾人は緋乃塚の歯の浮くような科白に、鳥肌を立てつつ辟易とする。緋乃塚の求愛は、残念ながら綾人には届かないのであった。それどころか、益々残念な方向へとグレードを上げている緋乃塚の科白に、生徒会役員たちは「今日も安心のエアコン要らずだね!」などと、心一丸となって緋乃塚に憐憫な目を向けるのであった。

今日は久しぶりに生徒会室に出向した綾人であるが――桜庭の顔見たさ故――、入室早々と綾人は緋乃塚より、煩悩制御不可能なる愛の調べを受けることとなった。

もはや綾人には、緋乃塚の科白は限りなくヒエログリフの如きカルマとしか思えないが、それでも挫けることなく混沌を甘んじて受け入れているのであった。

それもこれも、すべては桜庭と同じ空間に存在したいが為―――

このような乙女的発想を、自身が心に灯すことになろうとは、やもや思いもよらなかった綾人は、「人生何があるか分からないよね」などと、諸行無常を身を以て実感するのであった。

だが先ずは、この目前で両の手を広げながら「ああ! 君の美しさは天からのサプライズだ♡」などと、ポーズを取りつつ己に浸っているヘボ会長を何とかしたい。

「・・・・・・緋乃塚会長、お仕事は終わったんですか?」

あなたも僕の悩みの種なんですが―――心のなかで高らかにそうシャウトした綾人は、「会長が近くに来ると涼しくなるよね」と思いながら、凍りつく表情筋を総動員してなんとか笑顔を繕っておく。

「いやあ~♡ 兎妃君に心配してもらえるなんて、僕は果報者だなあ~♡ それにその笑顔♡ Oh ~! Vous êtes belle comme un ange♡(君は天使のように美しい♡)鬱屈とした自身を差し置き、敢えて僕だけに極上の笑顔を向けてくれるなん―――」

「はいはい、はそこまでにしてください、会長。まだ書類は山積みでしょう? なに油を売っているのです?」

『趣味は舞台巡り』という緋乃塚が、ミュージカル仕立ての求愛ダンスを綾人に繰り広げようとしたその直前、負のオーラを宿し現れた桜庭にバッサリと幕を降ろられてしまう。

さあ、サクサク片付けてくださいよ―――そう言いながら、桜庭は手にしている帳簿の角を緋乃塚の顔面にぐいぐいと押し付け、綾人から引き離す。

校務に従事するべく、桜庭はいつもの胡散臭いアルカイックスマイルを湛え、緋乃塚に発破をかけてはいるが、その実光る双眸は笑ってはいない。こめかみには、はっきりと青筋が浮かんでいた。

(ふふふ♡ 葉月ったら緋乃塚会長に妬いてるのかな? ほんと可愛いよね♡)

綾人は、緋乃塚を煩わしく思いながらも、桜庭の独占欲をあらわにした妬心を見ることが出来て、そっと心のなかで緋乃塚に向けサムズアップする。

「あ~ 痛い痛い~! も~ は僕の顔をプチ整形したいの~!? ひどいよ! まったく! は僕に対して容赦ないんだからさ~ 僕は会長だよ!? しかも馬車馬のように僕をビシビシとコキ使うなんて横暴だ!」

? 今このひとつったよね?)

僕の葉月を呼捨てですか?―――綾人は、桜庭に恨み辛みを吐く緋乃塚の科白は見事スルーし、聞き捨てならない緋乃塚の愛しき者の呼び捨てにだけ、過剰に反応した。俄然、闘志が湧く。

「緋乃塚会長。校務は会長の大切な仕事です。(僕の)葉月の言うことに僕も賛成です。速やかに任に戻ってください」

綾人は、普段己がサボタージュの根源であることは華麗に棚に上げ、緋乃塚に対し「己の責務を全うせよと」と促した。しかも、しっかりと桜庭をファーストネームで呼ぶことも忘れない。

「兎妃君・・・・・・ああ! 分かった!! 兎妃君がそこまで僕を信頼してくれているのだからね! 嬉しいよ♡ じゃあ早速バリバリ働くからね♡ うふふ♡ 僕のかっこいい姿、ちゃんと見ていてね~♡」

うふふ~♡ あはは~♡ と、席に戻ってゆく緋乃塚である。あまりにも滑稽であり、涙すら誘うのは武士の情けで、心の奥深く蓋をすることにした。

ねえ葉月ちょっと―――綾人は桜庭の手を取り、生徒会室のドアを挟んだ隣にある準備室へと、そっと彼をエスコートする。

「どうしたんだ? こんなとこに―――」

ん・・・・・・ッ!―――二の句を継ぐまえに、桜庭の口唇は綾人の口づけにより塞がれる。

「・・・・・・ッ、ん」

まるで食らいつくような綾人の情熱に、桜庭は只々恍惚と翻弄され、甘受する。

咥内を隈無く蹂躙する綾人の舌が、ちゅぷりと音を立てて桜庭のなかから引き抜かれる。

綾人の熱い舌と微かなる男の匂いに蕩け、撓垂しなだれる桜庭。

愛しくてただ愛しくて、愛しき者をこの手に包み込み、繋がりたかった綾人。

ふたりは隙間なく抱擁し、互いの頬を摺り寄せあって笑み孕む。

「葉月・・・・・・さっき緋乃塚会長と僕のことで妬いてくれたよね? あれ、僕すごく嬉しかったんだよね♡ あの場で葉月を押し倒したくなっちゃうのを、抑えるのに苦労したよ」

ほら触って?―――綾人は桜庭の手を取り、既に欲情している己の股間を、桜庭の手で包み込んだ。その熱量に桜庭は赤らみ、うっとりと綾人の形をその手で味わう。綾人の肩に頬を預け、彼の首筋に口づけを落としつつ、桜庭が口を開く。

「俺も、綾人が会長のまえで『葉月』と呼んでくれて、嬉しかったぞ」

「ふふふ♡ 僕ら、ほんと気が合うよね。葉月といると、ずっと胸がドキドキするんだ♪ ふふ♡ なんだかローラーコースターに乗っているみたいだよ♪ 僕ね?―――たぶん葉月に恋してる」

「たぶん? 確実ではないのか? 嬉しいんだが・・・・・・素直に喜べないな。おあずけを食らわされた犬のような心境だ」

とか・・・それ、俺の立場は?―――そう零す桜庭の顔には、しっかりと『複雑』と書いてあった。

「あは♡ でも、どっちかっていうと、葉月はしなやかで美しい毛並の黒狼って感じだよね♡」

そう言い、綾人は桜庭の漆黒の艶髪を、優しく指で梳きあげる。対する桜庭は、羽毛にでも触れるような綾人の優しい指の動きに恍惚となり、気持ち良さそうに目を細めている。

「なら綾人は差し詰め銀豹ってとこか。猫科の気まぐれなところなんて、そっくりだろう? 言葉ひとつで、俺を翻弄するんだからな。上げたり落としたり忙しいヤツだ。あまり俺を糠喜びさせるなよ」

「ごめんね? 僕、恋ってしたことないからさ、恋がどんなものか、いまひとつ実感できないんだよね。けど葉月に対する僕のこの気持ちは、恋・・・・・・だと思う。でも確実にそうだって言い切れなくて」

綾人は桜庭の耳もとで、もういちど「ごめんね?」と謝る。少し寂しそうに笑う桜庭は、しかしここではたとに気づく。

「―――それは綾人にとって俺が初恋ってことか?」

「うん。そうなるね。僕まだ恋ってしたことないから、この気持ちが本当に恋か比較できないけど・・・・・・でも葉月と一緒にいたい。いつも抱き合っていたい。葉月の笑顔が見ていたい。今朝から僕の心のなかは葉月でいっぱいなんだ。それって―――ことじゃないのかな?」

僕のはじめて貰ってくれる?―――綾人は、桜庭の瞳を見つめてそう告白する。

「もちろんOKに決まっている! 俺は綾人をはじめて見たときから恋をしている。俺の片想いは年季が入ってるぞ」

俺の想いを思い知れ―――桜庭は、己を慈しむように見下ろす綾人の双眸を見つめ、そう告白するのであった。


                ★ ☆ ☆


「ん・・・・・・♡ イイ・・・よ♡ ・・・葉月♡」

「ぅ・・・・・・ん、ッ・・・・・・」

壁に背を預ける綾人の足もとに跪き、桜庭は彼の下肢に顔を埋める。

己に欲情し股間を荒げる綾人の精を放つ、奉仕を自ら買って出た桜庭は、オーラルセックスで彼の昂りを高みに追い上げでいる。

桜庭自身も、己の下肢で窮屈を訴える昂りを解放したいだろうに、自身を差し置き己に奉仕する桜庭の一途さは、綾人にとって肉体に与えられる以上の『心』の快楽を得た。

だがしかし、いったいなぜ?? このような場所も憚らず、万年発情期紛いな真似をしているのであろうか? その答えは、綾人の下半身事情の訴えからはじまる。

「さすがにで戻ったら僕危ない子になっちゃう?」―――トラウザーズの上からでも分かるほどに、己の下肢で主張する股間の膨らみを指さした綾人は、「僕ちょっとソロ活動してから戻るね?」と頬を赤らめ、桜庭の耳もとで呟く。

桜庭は綾人の下肢を見下ろし、も当然のように彼の下肢へと跪き、前立てを寛げた。眼前で猛り育つ綾人の屹立と対峙した桜庭は、躊躇することなく彼のモノを口に含む。

口淫などはじめて・・・・・・いや、男の局部とよろしくすること自体はじめての桜庭であるが、綾人のためであればどのようなことでも出来る自身がある。それほどに、桜庭は綾人を惚れ抜いているのであった。

「んッ・・・・・・葉、月・・・♡ もう・・・イッちゃう♡」

「ん・・・・・・んん、・・・んッ」

どうやら綾人を口に含んだまま、「け」と言っているらしい。

それが綾人にも伝わり、とても嬉しそうに笑み崩れると、喉奥でくぐもった声を漏らしながら桜庭のなかで果てた。

「ふう~ ん~♡ 気持ち良かったよ~♡ ありがとう♡ 葉月♡」

うふふふ♡ と、綾人はこれ以上ないほどに喜び、桜庭に抱きつく。

桜庭は、なんとも複雑な表情をしている。

「(・・・・・・ぐッ、・・・に、苦い)」

涙目になりながら、それでも綾人の精液を、残さず嚥下した桜庭であった。


                ☆ ☆ ☆


う~ん・・・・・・。 その気持ち分かる。

え? なにがって? そそそ、そそんなこと聞かないでよ! とにかく分かるの!

―――なんだかんだ言ってさあ~ このふたり、けっこう上手くやってんじゃん。

不気味なほどに慈しみ合っちゃってさ~ ほんと、ナビってるこっちが寒いんだって~~~ 台本読むぼくの身にもなってよね~

まあいいや。とりあえず先進むね~ え~と・・・それから、それから―――




生徒会準備室での房事から幾許か、桜庭に欲望の処理をしてもらった綾人は、晴れやかな笑顔を振り撒き、秋の翡翠ヶ丘学園祭に向けてのレジュメ作成に意欲を燃やしている。

いつもの気概は低速、運転はストライキという、やる気のなさを筆頭とした綾人の気概に火を点けたのは、他でもない桜庭であった。

桜庭によってきざはしを極めたあと、お返しにと今度は綾人が桜庭の下肢に手を伸ばしたのだが、それをすげなく拒まれてしまった。

少なからずショックを受けた綾人ではあったのだが、そこですごすごと尻尾を巻き、「敢え無く断念」するなど、綾人の辞書には記されてはいなかった。

ことが済んだら戻るぞ―――桜庭のストイックなまでの、己を律する姿勢をどうにかして崩してみたい。そう綾人は、まえを行く彼の精悍なる姿を見据え、獲物を狩る猛獣の如く観察する。

隙を見て彼の歩みを遮り、壁へと追いやり深く口づける。彼の理性に紗をかけることに成功した綾人に、もはや敵う猛者はいまい。ここからは俺の舞台だと言わんが如く、綾人は目のまえの小羊を大そう美味しく召し上がったのである。

その後、何ごとも無けりと言わんばかりに、綾人たちは生徒会室へと戻ってきたのである。桜庭を骨まで食した綾人は、現在心身ともに満腹である。然らば栄養満点であるのは必須で、愛しき者を十二分に得た綾人は、無敵なまでにご機嫌であった。

桜庭の目を盗んでは集りにくる緋乃塚を、笑顔ひとつで「懐柔・翻弄・骨抜き」の三段活用であしらうのも訳はない。ただ今の綾人は清福の波に乗っている。

いつもは持ち場に留まることすら奇跡のような綾人が、姿勢正しくサクサクと事務処理をこなしている。

そんな不可思議な光景を目の当たりにし、「これは嵐の前触れか? もしかして兎妃の皮を被った宇宙人では!? どこかにファスナーがないか探せ!!」などと、役員メンバーたちはこっそりと奇々怪々然な綾人を訝しく窺い、言いたい放題囁き合っている。

まんまと綾人の笑顔に籠絡され、ころりと手懐けられていた緋乃塚も、役員たちの声が耳に届き綾人マジックから目が覚める。

緋乃塚は綾人に気づかれぬよう、愛用のキャスターチェアに座ったまま、滑るように桜庭の傍に寄り、耳打ちする。

「ねえねえ、葉月君? 兎妃君は何故ご機嫌なんだい? いや、嬉しいんだが―――けど先ほどとは雲泥の差の気概だよ?」

「・・・・・・・・・・・・綾人もやる時はやるんですよ」

「!? なにそれ!? 今ちょっと微妙な間があったよ!? さては何か知ってるんじゃないの!?」

「チッ(野生の勘か? 妙に鼻が利きやがる)」

「わあ~!? 今葉月ったら僕に向かって舌打ちした~!! ひどい!! 僕は葉月をそんな子に育てた覚えはありません!!!」

「いえ、俺は会長に育てられた覚えはありません」

「ああ!! 葉月が僕に口答えを!? ああ~ なんてことだ~!!!」

五月蠅うるさいですね―――ッ! 邪魔なお口はですか?」

そう言うと、桜庭は緋乃塚の両頬をぐにっと捻りあげた。

「あいたたたたッッッ―――!! ・・・ひどいじゃないか~ しかも『五月蠅い』なんて、嫌な方の漢字で咎めなくても良いものを・・・」

「だったら早くご自分も校務をなさってください!」

「まったくその通りですよね~ 緋乃塚会長の声が、作業が捗らないんですけど?」

「あ、ああ!! ・・・・・・あ、兎妃君。いや、その・・・ごめんピ?」

「「早くやれ―――ッ!!!」」

「あ~んんッ!! 痛い痛い痛い―――ッ!!」

緋乃塚は、桜庭と綾人から同時に左右の頬をつねり上げられた。


―――♪♪

トラウザーズのなかの、綾人のスマートフォンが着信を知らせる。

「はい」

『綾人さん!! あなたいったい何てことをしてくれたの!!!』

通話の主は、綾人の義母からである。

「え? いったい何のことですか?」

『とぼけないで!! 雛歌のことよ!! よくも―――ッ ・・・とにかく、直ぐに帰ってらして!』

「雛? いや、え? ・・・・・・ちょっと待ってください。訳を説明―――」

『いいから直ぐに帰ってらっしゃい! いいわね!?』

プツンッッ―――!!

眥裂髪指しれつはっしの勢いで激怒する義母に、綾人は問い掛けも半ばに、通話を終了されてしまった。

「・・・・・・なんだったの? 今の。でも・・・なんだかちょっとヤバそうだよね」

はあ―――綾人は大きくため息をつき、ただ事ではない義母の憤怒ぶりに、もやは半分諦めのような感慨で数刻先の義母との対峙を呪う。

雛歌に何かあったの?―――綾人は、義母の言葉を反芻はんすうし、酷く嫌な予感が沸々と湧き上がる感覚に、緊張が走った。

生徒会室での、桜庭や緋乃塚と過ごした一連のひと時。

自身の分担を果たした綾人は、まだおのが任から解放されない桜庭に対し、「じゃあ僕さきに荷物取りに行ってくるね♡」と言い置き、また後でと手を振りながら生徒会室をあとにした。

今日から数日の間、綾人は桜庭のマンションに厄介になる予定なのだ。

駅前のコインロッカーに預けているスポーツバッグを回収しに、一度学園を下校した綾人は、桜庭と風見の店で落ち合うことを約束している。風見は今の店を持つまえは、中華料理店で分厚い鉄中華鍋を振るっていたのだ。文句なしに風見の振る舞う料理は旨い。

綾人は、桜庭の元来の意地悪い笑み――恋は盲目、欲目フィルターにより女神の笑み変換増量中――と、風見の滋味溢れる料理を思い浮かべ、「今日の予定はキャンセルかな」・・・やだなぁ―――と憔悴する。

(折角さっきまでは気分が良かったんだけどな)

綾人は桜庭との蜜月を想起し、またひとつ大きなため息をついた。とりあえず、桜庭に詳細を伝えておかなければならない。まだ緋乃塚の補佐に就いているいるはずだ。直電よりもメール送付のほうがいいだろう。

綾人は、桜庭に送るメール文を作成し、送信する。直後、本日三度目のため息をついたのであった。


                ☆ ★ ☆


閑静な住宅地の一区画、ひと際立派な白亜の建物が綾人の実家である。

とは言えは父親と義母、それに兄と妹の家であり、綾人自身の実家とは捉えたことはこれまで一度足りとてない。

後にも先にも綾人の生家はフランスの、貧しいながらも母との幸せな思い出の詰まった、狭隘きょうあいなるアパルトマンでしかないのである。

蔓薔薇の絡まる重厚なる鉄門扉と対峙した綾人は、「さあ、気合いを入れろ」と己を鼓舞こぶし、ポーチに続く道を覇気のあるストライドで進んだ。

「ただいま」

「お帰りなさいませ、綾人様。奥さまが応接室でお待ちです」

ドアを開けエントランスへと進むと、執事長である狭霧さぎりが、綾人を恭しく出迎える。

「わかった。ありがとう。着替えたら行くって言っといて」

「承知致しました」

自室へと続く階段を上りながら、過去幾星霜かこいくせいそうと義母より罵られた膨大なる謗言ぼうげんデータを思い出す。そのうえで、先刻受話口より受けた義母の罵倒の調子より選別しながら、綾人は脳内シミュレートしてみる。

(最近家を空けることが多かったしね・・・・・・やっぱ、それが原因?)

なにが義母の逆鱗に触れたのか―――綾人は、最も自身に身に覚えのある素因に当たりを付ける。

自室に入った綾人は、肩に下げたスポーツバッグを下ろし、クローゼットより適当な衣服を見繕い、其れに着替えた。

これから敵陣に乗り込むことを慮り、念のため綾人は制服をスポーツバッグに詰め、ドアの側に置いておくことにした。これで、最悪の場合エスケープも可能だ。

深呼吸をし、「さあ、虎の巣に乗り込むぞ」と発憤興起はっぷんほっきし、ドアへと踵を返したその時、

―――♪♪

ジーンズのバックポケットに挿したスマーフォンより、着信を知らせる音が鳴る。

少なからずと、出鼻を挫かれた感を拭えない綾人であったが、それもディスプレイに表示されているナンバーを目にした瞬間に払拭される。

「あッ! 葉月からだ~♡」

憂心去らぬ心情から一転、嬉々として綾人は桜庭からの着信に応じる。

「はい♡ 葉月~♡ 副会長の仕事終わった?」

『ああ。これから下校するところだ。ところで―――このメールはなんだ?』

「なにって? う~ん・・・そのままの意味なんだけどなあ~」

『それが分からんから聞いてるんだ。なにがあった。おまえは大丈夫なのか?』

「えへへッ♡ 心配してくれるんだ♡ うん、僕は大丈夫だよ♡ ごめんね? 変なメール送っちゃって。でも、大したことないから心配しないで?」

『それは無理だろ。あんなメール拝んだあとじゃな―――』

桜庭の言う、綾人からのメール文とは次の通りである。


『実家で問題発生。帰宅しないといけなくなったので、風さんの店にはいけないかも? また折り返し連絡します。 僕の大切な葉月♡ 綾人より』


以上が、綾人が桜庭へと送信したメール内容である(引用文より)。

「あー だよね。ごめんね? でも僕もさっき帰ってきたばっかで、まだよく分からないんだ。これから話聞くとこ。だから葉月は、家に帰って待ってて? あとで連絡するから」

『・・・・・・分かった。待ってるぞ』

「うん♡ ふふ♡ ・・・またあとでね♡」

了承し合い、通話を終了する。

(ふふふ。うれしいな♡ 僕を気にかけて心配してくれるひとがいるって、こんなにも幸せなことなんだ♪)

桜庭の声を聴き、高揚とした綾人は、心のなかで桜庭に「ありがとう」と礼を言う。義母との対峙は、思いの外神経が磨り減るのだ。張りつめた神経が弛緩してゆくのを感じ、グッドタイミングでコールをくれた桜庭に、綾人は心からの感謝を彼へと贈った。

「さあ、行きますか!」

気合いを入れ、今度こそ部屋をあとにした綾人は、義母の待つ応接室へと足を進めたのであった―――




バシンッ―――ッ!!

開戸一番、義母からの平手打ちを食らわされた綾人は、まったくのフライングだった故に踏ん張りもきかず、よろめいて壁に背を打ちつける。

「ぐッ・・・・・・ぅ・・・ッ」

頬への衝撃と、受け身すら取れずに壁に打ち付けた背中の痛みに、綾人は喉奥からくぐもった唸りをあげた。

「お母様!? なんてことを・・・・・・」

壁に背這わせる綾人を悲痛の目で見ながら、彼に対する母親の暴挙に、雛歌は驚愕の声をあげる。

「雛歌は黙っていなさい! 綾人さん! なにをしていたのですか! 早く来なさいと言ったでしょう!」

「・・・・・・すみませ、ん」

どうやら頬をはたかれた拍子に、犬歯に掛かり口内を切ってしまったようだ。口のなかに血の味が広がる。

義母は、綾人が入室するのを、応接室の入口で待ち受けていたのである。そうとは知らず入室した綾人は、義母による渾身の体裁を受けることとなった。

雛歌は、母親のうしろで成す術もなく、事の成り行きを震えながら見守ることしか出来ないでいる。

「綾人さん! あなた雛歌に―――妹になんて酷いことをしたのですか!」

「え? ・・・―――雛!?」

顔を上げ、雛歌の顔を認めた綾人は、驚きに双眸を見開く。

己を危懼きくし蒼ざめながら涙を湛える彼女の頬は、痛々しくも赤く腫れていたのである。

「雛!? いったいどうしたの! その頬・・・なにがあったの!?」

「あの・・・これは・・・私・・・・・・」

「なにを白々しい!! 雛歌はあなたの取り巻きの女たちに、集団で暴行されたのよ!」

「―――ッ!! ・・・・・・雛? それ・・・ほんとう?」

「・・・・・・・・・・・・」

俯き、涙を落としながら、立ち尽くす雛歌。沈黙を肯定として受け止めた綾人からも、おもての血の気が引いてゆく。

「そ・・・・・・か、ごめん。 雛・・・僕―――」

「謝って済むものですか! 元はと言えば、軽薄で見境のない、ふしだらな行いが原因でしょう! あなたのそういうところ―――本当にあなたの母親にそっくりだわ」

「え・・・・・・?」

「なんですか、その顔。とぼけたって無駄よ! 分かっているのでしょう? ご自分のことなのですから。あなたには、あなたの父親の血が流れている。けれど、淫奔いんぽんな母親の血も流れているわ。人のものを平気で横取りする、女郎のような女の血が。血は争えないものね。母親の代わりに、今度はその息子が人を不幸にしているのだから」

「お母様! なんてことを!?」

「っ、――――――」

兎妃家の確執。これまで暗黙の了解のように閉ざされてきた、過去の因縁。

父親と綾人の母親との出逢いと逢瀬。父親と義母との間に出来たひずみ。

綾人を見るたび、繰り返し繰り返し、煮え湯を飲まされる思いで矜持を砕いてきた義母。今、そのわだかまりが牙を剥く。

「・・・く・・・言わ・・・・・・で・・・」

「? なんですって? 嫌だわ。俯いてぼそぼそと・・・気味の悪い子ね! 言いたいことがあれば、はっきりとおっしゃいな!」

「―――母のことを悪く言わないで! 僕のことはどんなに貶めても構わないけど、母を悪く言うのだけは許せない!」

「!! 貶めるだなんて! 人聞きの悪い! だいたいなんですか!? 私に口答えだなんて!! えらそうに! そんなこと、あなたが言えた義理なの!?」

「・・・・・・母は―――母は僕に、なにも言いませんでした。父親のことも、義母さんのことも。日本に来るまで、僕は天涯孤独だと思ってた。母には、父親はいないとだけ聞かされていたから。母は、父さんに家庭があることを知らなかったんだ。だから、その事実を知って、父さんに何も言わず身を引いたんだ」

当時、綾人の父である綾矢りょうやと母とを繋ぐ接点は、母の勤めるbistro――ビストロ――か、母の住むアパルトマンだけであった。

海外出張の砌、 渡海先であるフランスでふらり立ち寄った店で、父は母との運命の出逢いをする。お互い惹かれ合うのに、時間は掛からなかった。フランスに滞在している間、父は日を開けず、母の許へと通った。

はじめて母の暮らすスペースへと足を踏み入れることを許された日、心身ともにふたりは愛を分かち合ったのである。その後も足繁く綾矢は母の許へと通い、仕事の算段がつき帰国する折、父はまた母の許へ逢いに来ると残し帰国した。

だが非情にも、父と同行していた秘書により、綾矢が既婚者だということを知らされる。日本では任ある立場で、スキャンダルは以ての外だということ。

不安分子は秘書が刈り取るとばかりに、手切れ金を払い、母を排除しようとした。だが母は、その金を受け取ることはせず、自ら綾矢から身を引くことを約束した。まもなく母は妊娠を知り、ひとり出産のためにその地を去った。

以降、綾矢は幾度も母を探したが、その消息は掴めなかったのであった。それから五年、母の面影を色濃く残す綾人が己の許へとよすがを寄せ、 母の訃報を悲しんだ。

「でも、この家に引き取られて、父さんに愛情をもらえて幸せだった。僕に兄妹がいると知って、それが嬉しかった。例え・・・歓迎されてなくても、僕は独りじゃないんだって、そう思えたから・・・・・・」

一頻ひとしきり心の内を吐露し、綾人は拳を握る。戦慄く心と、上がった息を落ち着かせ、最後に残る心の片鱗を義母と双眸絡ませ、ここに対峙して宣言する。

「けどやっぱり、人は独りなんだ。母が亡くなったとき、僕はそう思った。なにかを期待すると、その分だけ喪失感も大きいから、僕はなにも望まない。僕には、愛情を望むなんて、贅沢だから。けど義母さんは、僕を嫌ってても、それでも毎日慎矢兄さんや雛と同じように、僕にも分け隔てなくクオーコに食事の用意を頼んでくれていた。ここまで育ててくれたことは、すごく感謝してる。けど、それももう終わりにしたほうがいい。僕の存在は、あなたたち家族の絆を壊すだけだから」

僕はこの家を出るよ―――綾人は、今まで己の背に隠されていた羽に気づかず、日々を押し殺して生きてきた。だが、その背にある翼の存在を気づかせてくれた存在―――綾人のただひとり、大切な存在である桜庭が、自由に翼を広げるすべを教えてくれたのだ。

義母にそう伝え、家を出る旨を父の帰宅後に申し出ることを望んだ。

「ッ・・・・・・勝手になさい! あなたがどう生きようと、私の知るところではありません。けれど、雛歌のされたことは、きっちりと責任を取ってもらいます! また同じことが起こるなんてことにでもなったら、私はあなたを絶対に許―――」

「お母様、止めて! ―――違うの、綾くんは悪くない! 私が・・・私があの時ちゃんと説明出来てたら、きっとあの女性たちも分かってくれていたと思うから・・・・・・ごめんなさい。だから綾くんを責めないで」

「雛歌―――!? あなたまだ綾人さんを庇おうっていうの?」

「いいえ! 私は綾くんを庇っている訳ではないわ。今回のことは、勘違いからはじまっただけ。あの女性かたたちは、私を妹と知らずに、綾くんを独り占めしている悪い女だと思ったから、それで行き過ぎてしまっただけ。綾くんはなにも関知しないところではじまったことよ。だから、綾くんを責めるのは間違ってる!」

「雛・・・・・・」

「例えそうでも、私は大本の原因を作った綾人さんも、雛歌に暴行した女子生徒たちも許せません。それ相応の処置を取らせてもらいますからね」

綾人を睥睨し、そう言い捨てる義母に、もはや綾人に対する一欠けらの情も窺えなかった。既に修復不可能な境地に達しているのだろう、ここに来て腹に据えた、かねてよりの憤懣が露呈し、爆発したのである。

それは、綾人の目にも焼け付く域で映り込み、脳裏へと駆け廻り散漫した。だがそれと対義するように、綾人の腹を括ることにも繋がったのである。

「気の済むようにしてもらって構いません。僕はどんな償いでもしますから」

綾人は義母にそうせんし、次に雛歌へと向き直り懺悔する。

「雛、ごめん。痛かったろ? 僕のせいで酷い目に遭わせちゃって、なんて詫びていいのか分からない」

「そんな! 綾くんが謝ることないよ!」

「ううん。やっぱり僕のせいだよ。僕が彼女たちを、そうさせたんだ。だから雛、明日から僕に雛を守らせて? もう二度と、雛をこんな目に遭わせたりしないって誓うから。僕が雛の登下校に付き添うよ。外出のときは、僕が雛を危険から守る」

「綾くんが? ・・・・・・ほんとう?」

「うん。雛が嫌じゃなければ。でも、雛が嫌って言っても僕は雛を守るけどね」

「嫌なわけない! うれしいッ!」

「よかった。じゃあ、明日から一緒に登校しよう」

「うんッ♡」

雛歌は喜び勇み、綾人の腕へと飛びついた。目尻を赤く染め、綾人の頼もしい腕へと頬を摺り寄せる。

それを義母は一瞥し、ふんと鼻を鳴らして応接室から退室していったのであった。


                ☆ ☆ ★


「―――と言う訳なんだ。だから、ごめん。僕は明日から雛に付きっ切りになると思う。葉月と逢う時間も思うように取れなくなる。葉月が僕に愛想尽かしても、僕は文句は言えない。でも僕はこの先も葉月を想って生きていくよ」

『はっ! とんだ言い草だな。厄介な保険付きの殺し文句を垂れやがって。それじゃあ、俺がおまえに愛想を尽かせば、悪者は俺だろう。そんなことあってたまるか! ・・・・・・分かったよ。いいよ、好きにしろ』

「葉月―――ッ♡」

『だが、いいか。逢わなくとも、毎日連絡の取り合いはするぞ。それに、休みの晩なら少しは時間取れるんだろう?』

「うん♡ 僕いっぱい葉月に連絡するよ? それに学校でも逢えるし! もちろん可能な限り、時間を作って葉月に逢いに行くよ♡」

『ふん! 当然だ。 ―――俺も逢いに行く』

「ふふ♡ うん♡」

綾人と桜庭、ともに睦事むつみごとを語り合い、互いの気持ちを繋ぎ合わせながら通話を終了する。

(・・・・・・葉月)

桜庭の声を奏でていた、スマートフォンの受話口を見つめる。凛然とした彼の勇姿を、綾人は瞼の裏に描き浮かべながら、父との話し合いを想起する―――

応接室でのくだんのち、兄の慎矢とともに帰宅した父親に、自分の軽率な行動がもとで雛歌を傷つけたことを詫びた。

これには兄からの痛恨なる罵声を受けることとなったが、それもまた自業自得なので、綾人は己の戒めとして甘んじて聞き入れた。

父からは、それ相応の訳があったのだろうと諭され、今回の一連の加害者である女子生徒も、親との話し合いで決着をつけ、傷害で起訴はせずに和解する運びを取った。

暴行に加担した女子生徒の顔ぶれは、雛歌の証言と近隣の目撃者証言により、直ぐに割れた。

因みに、目撃者の確認や女子生徒の所在を調べ上げたのは、綾矢の秘書である。しかも、ほんの二時間ほどで、完璧な情報を集めて寄越した。怜悧冷然とした、そつのない敏腕さは秘書の鑑であり、だが綾人にとっては心をえぐるエクスキューショナーでもある。兎妃家に身を置くことになった運び、幼き綾人に真実をリークしたのは、他でもない、父親の秘書である。

然らば残酷な真実を、無垢なる心に植え付けられた綾人が、後に構成される現在の姿は、ある意味この秘書の手によって形作られたと言えなくもない。

しかし、そんなことは綾人にとっては、どうでも良いことであった。中傷も侮蔑たる眼も、綾人にとっては取るに足らぬことなのだ。

その後、綾人は父親に家を出て、ひとりで生活をする旨を所望した。

落ち着く先の当たりは付けてあること、そのための資金は自身から捻出する確保があること、だが未成年なので保証人になってほしいこと。

これらを提示して、何とかなるだろうと踏んでいた矢先、すべてを一喝で一蹴されてしまった。これには綾人も瞠目してしまう。なにせ、これまで父親が綾人に対し、頭ごなしに叱り付けたことはなかったからだ。

母親の面影を宿す綾人。その影を重ね、父親は綾人を猫可愛がりしていた。息子であって息子ではない・・・・・・そんな思いが綾人のなかで拭えない―――はじめて父親の荒げた声音と、怒りに歪む渋面じゅうめんを直視した。

肩を揺すられ、親子でそのような悲しいことを言うなと窘められた。それから、綾人がこの家で、肩身の狭い思いをしていることには気づいていたと、告白を受けた。それでも、血を分けた息子と暮らすことは当然だとばかりに甘んじ、綾人の気持ちを蔑ろにしてきたと、平身で陳謝されたのである。


『綾人の好きなところに住むといい。金のことも綾人は考えなくていい。それは親の責任なのだから。私はね、綾人が初めて頼みごとをしてくれたのが嬉しいんだ』


耳のなかで、父親の言葉がリフレインする。

綾矢は、綾人をそっと引き寄せ、自身とそう大差なく育ってしまった息子をいだき、優しく頭を撫でてやる。「いつのまにこんなに大きくなってしまったんだろうね」それから「すまなかったね」、父親の顔でそう呟いた。

そう長くもない息子との抱擁のあと、すっと綾人から離れた綾矢は、優し気な父親の顔から代表取締役の顔へと面を変え、秘書へと綾人の手続きを指示する。

事無くして、綾人は家を出ることが決まったのである。

自室のベッドへと横になった綾人は、桜庭に事の顛末を報告するため、桜庭のスマートフォンへと通話した。

妹の雛歌の身に起きた不幸。それが自身の身から出た錆であったこと。義母に、到頭とうとう最後通牒を言い渡されてしまったこと。それにより、先刻、家を出ると宣言したこと。雛歌の護衛を務めるにあたり、桜庭との時間が優先できなくなること。

父親に、住む場所を与えてもらったと話したときの桜庭を思い出し、綾人は口許を綻ばせる。

「なぜ俺のマンションに来ない!? 部屋なら空いてるぞ」と、なぜ真っ先に頼らないと憤慨する彼の声音が可笑しくて、綾人はひとり天井そらを眺めて笑いを漏らした。

(葉月に逢いたいな~♡)

綾人は、桜庭のコケティッシュな面貌を想い浮かべ、悪戯に笑みを零す。

早く桜庭に逢いたい―――それは、ただ単に彼に逢いたいだけではなく、衣食住の水準をともにする程、近くに寄り添いたいとの願いである。

その手筈は、思わぬ者からもたらされた。それはかつて、父と母の相容れぬ罪の許より生まれた、綾人というひとりの原罪を知らしめた者。

「きみはカインなんだよ」と教えてくれた、あの優しい声。慈悲深いのか残酷なのか、今も理解にし難い、表裏一体のような秘書ひと

彼が、綾人がこの家を出るための手続きの一切を、整えてくれたのである。

ともすれば、桜庭の父親の秘書である「桜庭さくらば 秋名あきな」と同じ並びのようにも思えなくもないが、その目的は全くの別物であろう。桜庭の父親の秘書は、純粋に葉月の願いを叶えただけだが、綾矢の秘書の行動には影があるのだ。ようは体の良い厄介払いだ。兎妃から綾人を遠ざけるためならば、あの秘書はなんだってするだろう。

だが綾人にとっては好都合である。泡沫うたかたではあるが、これで窮屈ないえから翔び立てる、自由が手に入ったのだから―――

綾人は、これから己が住む地と、慈しむ者に想いを馳せる。それから、明日から雛歌を護衛する志気を高め、心身ともに引き締まっていこうと意気込む。

(え・・・・・・なにそれ。青春モノ? ヤツじゃん・・・)

しかし己の恥ずかしい思考に寒気を覚え、今更ながらに己には似合わない泥臭さを、シニカルな一笑に交えて誤魔化したのであった。


                ☆ ☆ ☆


わあ・・・・・・なにこれ、ヤバい。濃すぎでしょ・・・

皐月のやつ、知ってんのかな? 葉月くんがこんな・・・問題・・・ゴニョゴニョ・・・・・・

作者「いいんだよ―――ッ! そんなことは」

優月「うわ!! びっくりした!! 急に出てくんなよ!!!」

作者「ごめん。ごめん。でもね? きみは―――」

優月「あ~ はいはい、ナビゲーターのオブザーバーなんでしょ! 分かってるって!」

作者「ならいいけど。じゃあ最後の仕上げにいきましょう!」

優月「あ・・・・・・勝手に締めちゃった~ ぼくの役目なのに~」




綾人の宣告通り、次の日から雛歌と連れ立っての登下校がはじまった。

妖艶なる婀娜やかさを振り撒く綾人と、ビスクドールのような淑やかさを持ち合わせる雛歌。美男美女が連れ添い歩く姿は、一見の大見物であった。

雛歌との登下校を実行しはじめて半月。相変わらず、綾人の取り巻きたちの雛歌を射抜く目は狂気染みてはいるものの、事あるごとに「この子は僕の血を分けた大切な妹なんだ。みんな、仲良くしてやってね?」とアピールしているおかげで、今のところ雛歌の通う中等部学科での虐めは起きていない。

妹という立ち位置の強調と、暗に僕の妹に手を出すなという牽制が功をなし、先達ての高等部女子生徒からのアクションや、その他女子生徒からのコンタクトも概ね鎮静化している。

そんな日常を繰り返す一ページ。その放課後のことである。

既に日課となっている、放課後の綾人から雛歌に送るメール文章作成をしていたときである。

「綾人。ちょっといいか」

「ん? あッ! 葉月~♡ なになに♡ 僕に逢いに来てくれたの?」

うッ―――桜庭は、頑是無い綾人の溢れんばかりの笑顔に弱い。しかも、綾人は自身が心許した者に対しては、この上なく懐っこくなるのだ。

(か・・・・・・可愛い・・・♡ 銀豹・・・)

桜庭は、目のまえで己に愛情を惜しむことなく尻尾を振っている、銀の獣毛をなびかせる大型獣を見つめ、感嘆のため息をつく。あくまでもそっと、気づかれぬように・・・・・・

「なんだ・・・また妹へのメールか? 忙しそうだな」

「うん。ま~ そこそこ? ふふ♡ でも葉月の顔を見たら、一気に元気になっちゃった♡」

でも、もう少し葉月を充電したいな―――甘いバリトンを駆使し、桜庭の耳もとでそう呟く綾人は、いとも容易く彼を赤面させてしまった。

「ふふ♡ 感じちゃった? 葉月ってば、可愛いな♡ ほんと、今すぐに食べちゃいたいよ♡」

そう口説くと、綾人は桜庭の手を引き、度々お世話になっている穴場のスポットへと彼を誘ったのである。

因みにそのというのは、この学園でまことしやかにかに語り継がれている場所なのだが、人知れず無人のスポットとして君臨するのには訳がある。

代々の先輩たちが、気に入った後輩に伝授するのが、翡翠ヶ丘学園第三校舎別館。その別館の三階、第四音楽室が、穴場なのである。

この第四音楽室は、オーケストラを編成し、此れを練習するために存在する。

だが事実上、残念ながらオーケストラを組んで活躍するだけの人員が揃ってはいないので、部活動としての役目を果たしてはいない。俗に言う「オケ部」というやつであるが、現在は小規模な吹奏楽部、それと並行してブラスバンド部が存在するだけである。このふたつの部は、本校舎の三つある音楽室での活動で成り立つので、この第四音楽室は無人の穴場スポットという訳なのである。

桜庭が、綾人のスマートフォンに目を落とし、事も無げに物申す。

「・・・・・・いいのか? 急いでいるのだろう? その・・・妹の許に向かうんじゃなかったのか」

「ふふ♡ 大丈夫。さっきはね、僕も葉月に逢いたいな♡ と思ったから、雛には『一時間ほど図書室ででも時間潰しててくれるかな?』ってメール送ったの。分かったって返信きたよ。だから、これから僕の一時間は葉月のもの♡ もちろん、葉月の時間も僕のものだよ?」

「くッ―――・・・わ、わかった。了解だ。ならさっさと行くぞ!」

「うふふ♡ うん♡」

綾人の科白が腰に直撃した桜庭と、彼のそんなイノセントな初心さに萌える綾人。

ふたり寄り添い、ひと時の蜜月を楽しむために、婉然えんぜんたるアモローソな福音が満ちる紅閨こうけいへと、駆け出したのである。


「ねえ綾くん。私綾くんの住んでるお家に行ってみたいな♪」

「ふふふ。ダ~メ。義母さんと父さんの秘書から、くれぐれも女の子は連れ込むなと念を押されているからね。『学生の本分は学問です! 連れ込むのでしたら、書店の参考書だけにしなさい!!』ってね」

「あはは! それお母様? 言い口調が似てたねー♪」

「だろ?」

あはは、うふふ、と、楽しげに雛歌と家路までの道のりを歩く、いつもの光景。

雛歌に腕を組まれて歩くのも、もう慣れたものである。道行く女性や男性が、ふたりを見て熱を帯びたため息をつく。衆人にとって、綾人たちは睦まじいカップルと見えているに違いない。

先ほどまで、桜庭との春情色めく蜜月を過ごし、伴侶ともおぼしき彼を快楽に啼かせていた綾人だ。

そんな綾人が、どんな顔をして雛歌をエスコートしているのだ? そう邪推してしまうのは、恋人としての致し方のない心情である。

という訳で、ただ今「桜庭 葉月17歳・男」は、目下己の恋人をストー・・・・・・いやいや、尾行中である。できれば、主要ターゲットの調査中と思っていただければ、これ幸いである。

「ねえ、綾くん。やっぱりお家に伺っちゃ駄目? 私、綾くんの妹なんだし、お母様たちが危惧するような間柄じゃ―――」

「ダ~メ! ふふ。雛は考えてることが筒抜けなんだよ。まあ、そんなところも可愛いんだけどさ♡ 雛といると、ほんと飽きなくていいや♪」

ふふふと笑いながら、綾人が雛歌の腰をその腕に引き寄せ、仲睦まじく下校デートを楽しんでいる。 ・・・・・・ように見える。

(おいおいおい――ッ! なにやってんだ綾人のやつ! ふたりして満更でもねーってか!? ふざけんな!)

警察の、不審者を注意する看板の背後に隠れ、桜庭がふたりの醸し出す雰囲気に戦慄く。端から見れば、怪しすぎることこの上ないが、桜庭は己の任に全神経を集中させているので、周りが見えていない。補導されないことを祈るばかりである。

「今日も雛歌とお夕食してくれる? 誰もいなくて寂しいの」

「父さんと兄さんはずっと残業なの? やっぱ忙しいんだね。うん、分かった。じゃあ食事のあとは、昨日の続きしよっか」

「うん♡ わーい♡」

腕に抱き着き、ピョンピョン飛び跳ねて嬉しさを表現している雛歌。その様子を愛おしそうに見下ろす綾人である。

(おいこらまて――ッ! 今『昨日の続き』と聞こえたぞ?? 続きってなんだ! 分かるように説明しろ!!)

それは無理な話であった。

いや、だが、それでも兄妹だ―――桜庭はとにかく我を落ち着け、冷静に綾人を分析してみる。

いくら恋人の淫奔ぶりを熟知しているからといって、さすがに妹にまで手は出さないであろう・・・・・・そう解釈するのだが、一抹の不安は拭えない桜庭である。

血の繋がりは半分。もう半分に目を瞑れば、他人と言うことに・・・・・・

いやいやいや! それはさすがに―――こうしてはいられないとばかり、桜庭は踵を返して、元来た道をとって返したのであった。




「ただいま~」

綾人は、誰もいない自宅エントランスで、ひとり挨拶を口にする。

幼少の頃より口にしている癖で、父親の秘書が用意したこの住まいへ移り住んでも、綾人は無人の部屋に向かっての挨拶を欠かしてはいない。

用意された住まいで寝起きするようになり、もう半月が経つ。

義母に家を出る旨を宣言し、父の想いをはじめて痛感した日。綾人は、スマートフォンで分譲住宅サイトをググり、一棟のビルディングが表示されたところで、検索の手をとめた。父より、「希望があれば秘書に遠慮なく言うように」と言われていたので、その言葉に甘えることにした。

綾人が秘書に提示したのは、陽の光を浴び壮観に輝くコンドミニアム。

施主である桜庭の持ちビル、「クリスタル・タワー」。

高さ174.2m、48階建て超高層タワーマンション。その46階が、綾人が希望した一室であった。

建設されてから比較的まだ新しいこのタワーは、中層以上の入居者がまだ少ない。幸いなことに、綾人の希望する部屋もまだ、新築のまま入居者不在であった。

当初の予定では、住居購入資金は自分で出すつもりでいたのだが、これも幸い、父親が独り立ち祝いとして出資してくれたので、ありがたく頂戴させてもらったのである。

因みに、これは余談ではあるが―――綾人に何故、物件の購入資金を捻出する当てがあったかというと・・・・・・

暇さえあれば、iPadとスマートフォンを駆使して、デイトレードをしているからである。当たりを付けたテーマ株を絞り、それこそ授業中でも机の下で操作している。

中等部の頃よりハマり、今では綾人の通帳には、九桁台の勝ち金が納められている。・・・・・・という噂が真しやかに語られ―――

「てないからね? そんなの」

・・・・・・何はともあれ、非常に快適なるひとり暮らしライフを送っているというわけだ。

だがひとえに、このクリスタル・タワーを選んだのは、他でもない桜庭が上の階で暮らしているからである。ともすれば、ストーカー紛いの行動か? などと己につっ込みを入れつつ、それでも愛しき者がご近所さんというのは、冗談抜きに嬉しいものだ。

入居当日まで、綾人は桜庭にに越してくることを秘密にしていたのだが、思惑通り、彼は大そう大喜びしたそうである。

綾人はエントランスで靴を脱ぐと、リビングへと続く廊下を歩きながら、バックポケットのスマートフォンを手にする。兎妃邸を後にするときに一度、桜庭に「今から帰るよ♡」メールを送ったのだが、今度は「今部屋についたよ♡」メールを送るのだ。こういったところは、そつなくマメな性格の綾人である。

「ふふふ♡ 葉月ったら、今頃スマホ握りしめて、僕のメール届くの首長くして待ってるかな?」

うふふと微笑んで、リビングのドアに手を掛けたその時である。

―――♪♪

リビングの中から、ピアノのが聴こえる。

(え? ピアノ??)

この曲―――綾人は、リビングから聴こえくるピアノの音色に反応する。

「これって・・・・・・葉月が僕の着音にしてる『愛の夢』だ。―――葉月? 葉月いるの?」

リビングのドアを開け放ち、不審に思いながらも、綾人は音が流れる元へと声を掛ける。

「遅かったじゃないか。どうだ? 妹との時間は楽しかったか?」

室内へと足を進めた綾人は、部屋の中央に設えてあるソファへと鎮座し、己に質問を返す声の主に目を止めると、ぱっと弾けたように破顔する。

「やっぱ葉月だ―――ッ♡ どうしたの♡? 僕を待っててくれたんだ♡?」

ここはと、詰問きつもんをするのが正しいあり方であると思われるが、 そんなマニュアルは綾人の辞書には記されていない。少なくとも、桜庭に関しては、大海原ほどの器の広さを披露する綾人であった。

「ああ、待ってたさ。四時間もな!」

別段、悪ぶれもなく言い切る桜庭。悪である。衒いのない、純なる潔さは桜庭の売りではあるが、こうも泰然と振る舞う彼の先行きが、少々不安でもある。だが、どんな彼であろうと、綾人は笑って許し、慈しんでゆくのだろう。

「そんなに待っててくれたんだ~ ごめんね? 待たせちゃって。もう遅いから泊まってく? ふふ、僕らの家、目と鼻の先だけどね♡ あ、そうだ。どうやって入ったの?」

まるで同棲してるみたいだよね♡―――うふふと笑いながら、同じマンションに住むことを無邪気に喜ぶ綾人。最もつっ込んで欲しいところである、セキュリティー面の質問など、綾人にとっては焼き魚に添えるはじかみ程度の認識でしかなかった。

「もちろん泊まるさ。もうねやの準備もしてある。おまえの身体に聞きたいこともあるしな」

ニヒリスティックな笑みを湛え、綾人の肩を両手で拘束した桜庭は、ソファへと腰を下ろす綾人を押し倒す。それから彼の耳もとに顔を近づけて、

「ルームキーを入手するなど俺には造作もない」―――やはり悪ぶれもなく、言い切る桜庭。そういえば、このタワーマンションの施主は桜庭の父である。後ろ暗い手段を用いてでも入手しそうだが、桜庭は父の秘書に「友である兎妃のルームキーのスペアを頼む」と依頼し、正攻法で入手したのであった。

「わあ♡ 用意周到だね♡ じゃあ早くベッドいこ♡」

ソファへと拘束されながら、高らかにベッドに誘う、どこまでもエピキュリアンな綾人。

綾人が誘う寝室には、桜庭が仕込んだ数々の『お仕置きグッズ』が褥へと齎されているのだが・・・・・・そうとも知らず、嬉々として綾人は、今夜も桜庭を喘ぎ啼かせる気満々である。

昨日の続き―――綾人が雛歌にかけていた科白に、お冠である桜庭。だがプライドがエベレストよりも高い桜庭は、雛歌に嫉妬しているなど、彼にはきっと言わない。

ただ残念なことに、綾人が雛歌と内密に行っているのは、護身術の特訓であった――綾人は合気道八段の腕前だ――。

この先、なにかあったときに己が駆けつけられなくても、自身で身を守れるようにとの、綾人の妹への愛情と償いである。

お互いそうとは知らずに、各々と意気込みを見せる。これから桜庭に齎される『お仕置き』によって、綾人は新たな境地を開拓することとなる。

人間万事塞翁が馬―――難攻不落なふたりの恋。だが、これもまた、ひとつの愛の形であるのだろうか。

「今夜は寝かせないぞ」

「ふふ♡ それは僕のセリフだよ♡」

噛み合っているようで、実際は大いにずれた蜜月カップルの宣戦布告が、リビングに言霊となって溶けてゆくのであった。


                ―f i n―


優月「最後までお読みになっていただき、まことにありがとうございました! これにて、兎妃 綾人の恋は終了です。この後も、兎妃くんと葉月くんは、末永く幸せなバカップルとして、最強タッグを組んでゆくと思います。生温かく応援してあげてくださいね♡ それでは! これでぼくの役目は終わりです。さようなら。バイバイ! 優月 詩音でした♡」

作者「詩音くん、お疲れさま。ありがとうね♡」

作者「ご拝読のみなさま。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。次のお話は、元気が取り柄なわんぱく少年「相馬 郁くん」が主人公です。つきましては、もうしばらくのお付き合い、よろしくお願いしまーす♡」

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