最終話「幸福」

 夕刻。藤堂家にて。

「この荷物、いったんここに置いておいていいかな?」

 葉月が大きめの鞄を持って天音に尋ねる。

「いいよいいよ。どこでも好きなように使って」

 今は葉月が引っ越しの為にまとめていた荷物を藤堂家に運び込んでいるところだ。

 逢坂家のアメリカ行きはギリギリまで迫っており、さすがにキャンセルのしようがない状況だった。その為、葉月の両親は葉月を残して引っ越すことにした。

 残った葉月は、天音の提案で藤堂家に住まわせることになった。

 初めは天音が完全に家を譲ってしまうつもりでいた。父には葉月の面倒を見てもらって、自分と母は適当な安いアパートにでも移り住めばいい、と。

 しかし、逢坂家の好意により全員同居で構わないということになった。

 葉月の両親はアメリカで恐怖症の治療法について学び、実践できそうなことを教えてくれるとのこと。

 さっそく葉月には藤堂家に住む準備をしてもらっている。

 天音の両親は葉月を大歓迎。

「うちには出来の悪い娘しかいなかったから、いきなり立派な義理の息子ができて嬉しいわ」

「困ったことがあったら何でも言いなさい。天音のことより優先して対応させてもらうよ」

 母も父も天音に冷たいようだが、これでいい。

 天音にはもったいないほどの相手を決して逃すまいとしているのだから。

「何から何までありがとうございます。これからお世話になります」

 葉月は上品な所作でお礼を言う。

 お礼を言いたいのはこちらだ。葉月の恋人になるという夢が叶ったかと思ったら、こんなに早く同棲できるなどとは。

「自分のうちだと思ってね。っていうか、あたしのわがままで残ってもらうことにしたんだし、葉月くんがこの家の主だよ」

 家自体がグレードダウンしてしまう分、この家にあるものは全て葉月の自由にしていいという約束になっている。

「天音さんもありがとう。――ええと、この箱は……」

 葉月が玄関先に置いてある大きな箱に目を向ける。

「あっ、葉月くんは重いの持たなくていいんだよ。ここでは葉月くんが一番偉いんだからね。――あ、そっちのは葉月くんの着替えが入ってるからお父さん運んでね。お母さんは触っちゃダメだよ」

 葉月に休憩を促しながら、両親に指示を出す天音。

 最低限の荷ほどきも終えて天音は葉月を自室に迎えた。

 藤堂家に余っている部屋などないので、天音と葉月は基本的に同室だ。

 一つ屋根の下というだけでも気分が高揚していたので、これはドキドキする。

「よく考えたら制服のまま作業してたんだね。そろそろ着替えようかな」

「あ! じゃあ、後ろ向いてるね! って、あたしもまだ制服か」

 互いに背を向け合って私服に着替える二人。

 天音は、振り返ってみたいという煩悩を抑え込みながらTシャツに袖を通す。

 その後、二人でベッドに腰かけ、しばし語り合う。

「女性恐怖症になってから七年……女の子とこんな風になるなんて想像してなかったな」

「あたしも葉月くんとこんなに仲良くなれるなんて夢みたいだよ」

 これまでのことを思い返してみる。

「告白するって決心した時、多分断られるだろうけど、それでもあたしが葉月くんのこと好きって知ってもらえれば意味はあるかなって思ってたんだ。女性恐怖症だって聞かされた時は、告白すらさせてもらえないんだって落ち込んだけど、リハビリの話を聞いて――」

 あくまで友達にしかなれない前提だったが、それでもやはり意味はあると判断した。

 彼方に答えた通り、葉月の助けになる理由が自分にはあると。

「天音さんは本当に優しいよね。恐怖症なんて面倒なものを抱えてて、しかも自分のことを怖がる僕なんかの相手を根気よく続けてくれて……」

「実際さ、葉月くんの相手がしたい女子はいくらでもいるんだよ。あたしが選んでもらえたのは単純にラッキーだっただけ。でもね、葉月くんのことが好きな気持ちだけは誰にも負けない自信があるんだ」

 葉月の目を見つめて、はっきりと告げる。

「葉月くんが『他の子にしたら良かった』なんて思わないように頑張るから、ずっと一緒にいてね」

「そんなの……天音さんを選んで後悔なんて、しそうになったこともないよ。天音さんをちゃんと意識したのがリハビリを決めた日からだったのは申し訳ないけど、その時から、もし恋人になれるならこんな人がいいなって心のどこかで思ってた気がするんだ」

 葉月もこちらを見つめて、言葉を返してくれた。

「あたしたちってそんな早いうちから両想いだったんだ。告白あきらめなくてホントに良かった。ゆみやんなんか『無謀だからやめとこうよ』とか言ってたんだよ? ひどいよね」

 自分でも無謀だとは思っていた。だが、やめる必要は全くなかったのだ。

「ふふっ。僕ってそんなに気難しく見えるかな?」

 葉月は口元に軽く手を当てて笑う。

「いやー、そうじゃなくて、高嶺の花って感じ。七年前の女教師は最低で許せないけど、狙われた理由はきっと葉月くんがめちゃくちゃ可愛いからだから、そこは自信持って」

 以前なら、葉月の過去は気安く触れてはならないものだったが、もう大丈夫だ。

 傷つけあってしまわないだけの信頼関係がある。

「高嶺の花かぁ。自分ではよく分からないけど。でも、今では天音さんも同じ高さにいるんだよね」

「あはは。彼方もゆみやんも身分違いの恋だって言いそうだけどね」

 同じ家に住んでいれば、こうしていくらでも話していられる。

 一時はどうなるかと思ったが、蓋を開けてみればこの上なく幸福なシチュエーションだ。

 女性恐怖症もアメリカ行きも、最終的には天音に都合良く働いてくれたのだった。

「葉月くーん、天音ー。お風呂沸いたわよー」

 ドアの向こうから母の声が聞こえてきた。

「葉月くん、一番風呂どうぞ。葉月くんがこの家の主人だからね」

 当然のこととして葉月に譲るが、葉月は意外な返しをしてくる。

「僕にとっては天音さんがご主人様だけどね」

「へ?」

「僕のこと守るって言ってくれたでしょ? 家族を守れる人がその家の主人だよ」

「そ、そっかー。あたしが葉月くんの」

 なんだか照れるが、悪くない。

 どちらが主人かはともかくとして、まずは葉月に入ってもらうことにはした。

(葉月くんが、あたしの家のお風呂に……!)

 混浴という訳でもないのに、なんとなく興奮する。

 我ながら変態の素質があるのではないかと感じ始める天音だった。

 数十分後。

「上がったよ。次、天音さん、どうぞ」

 湯上りでシャンプーの香りを漂わせている葉月にはいつも以上の色気があった。

 清楚なパジャマ姿も眼福。

 同居しての生活は天音にとって刺激的なものになりそうだ。

 入れ替わりで浴室に入った天音は妙な感慨深さを持った。

(ここに葉月くんが……って、そればっかり考えるのはよそう)

 いくら恋人でも自分たちはまだ高校生。清らかな付き合いをしなければ。

 天音も入浴を済ませた頃には夜が更けていた。

「そろそろ寝なきゃだね。葉月くん、ベッド使っていいよ。あたしはその辺で寝るから」

「そんな、悪いよ。なんだかんだいっても僕が居候なんだし……」

「でも、葉月くんが快適に寝られなかったら、葉月くんのご両親に怒られるよ」

 当たり前だがこの家には余っている部屋もなければ余っているベッドもない。

 どう説得したものか、と思案していたところ、葉月からの申し出に衝撃を受けた。

「じゃあさ……一緒に寝る……?」

 ベッドに座りながら上目遣いで尋ねてくる。

「いい、一緒に……!? で、でも、あたしたち、まだ高校生だし……!」

 しどろもどろになる天音。

 葉月がこんなに大胆だとは知らなかった。

「うん。だから普通の添い寝。それぐらいならいいんじゃない?」

 補足説明を聞いてようやく落ち着きを取り戻す。

「あ、そっか、そうだよね……!」

 変な妄想をしていたことをごまかしながら、葉月の横に座った。

「じゃあ、隣で寝させてもらおうかな」

「うん」

 軽く手を重ねて、身を寄せ合いながら横になる。

 この温もりは、天音、葉月、二人共にとって、いくら求めても手に入らないと思っていたものだ。

 決して手放すことのないよう大切にしていきたい。

「天音さん。大好きだよ……」

 そんな囁きを聞きながら眠りに落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恐怖症克服日誌-over the terror- 平井昂太 @hirai57

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ