第19話「将来」

 映画を見終えた天音と葉月は水族館を回っていた。

 映画の余韻もあってか、葉月の目は潤んでいる。

 ネガティブな感情でないと分かっていても、葉月を泣かせておくのはなんとなく心苦しいような気がして、天音は明るく声を上げる。

「あっ、あの魚おいしそう!」

「そういう感想なんだ」

 葉月はクスクスと笑ってくれた。

 その上品な仕草に見惚れると共に安心もする。

 周りを水に囲まれた空間というのは幻想的なものだ。

 こうした場所を葉月と一緒に歩いていると、夢の中にでもいるような気分になる。

「葉月くんはどんな魚が好き?」

「魚とはちょっと違うけど、海の生き物ならクラゲが好きかな」

 少し意外な答えだ。

 葉月はその理由をゆったりとした調子で語り始める。

「クラゲって死ぬ時水に溶けるように消えていくんだって。僕も、消える時はそんな風に綺麗に消えたいな」

「葉月くんなら歳を取っても綺麗なおじいさんになれるよ。それに、死ぬ時はあたしがちゃんと看取って、孤独死なんて絶対させないから」

 儚げなことを言う葉月に対して天音は力説した。

 顔をほころばせつつ、今度は葉月が尋ねてくる。

「天音さんの好きな魚は?」

「あたしはサーモンかな~。玉ねぎとマヨネーズが乗ってる奴」

「やっぱり食べる前提なんだ。お寿司のネタ?」

「うん。回転寿司だけどね」

 学生の今はともかく、大人になってから葉月を連れていくなら回らない寿司屋にすべきか。その為にはお金が必要だが、葉月と同じ大学に行けば将来大企業に就職できて高収入になれるかもしれない。

 葉月の傍にいられるという点以外でも有名大学を目指すメリットはある。

「そういえば、葉月くんって大学出た後はどうするの?」

「実はよく考えてないんだよね。結局僕って勉強ばっかりで行動力が伴ってないから仕事ってなるとあんまりイメージが……」

 葉月の語気が弱くなる。

 余計なことを訊いてしまったか。葉月は前にも似たようなことを言っていた。自分は天音のように行動を起こせないから人の役には立てないと。

 葉月ほど有能なら道はいくらでもありそうだが、本人は深刻そうな様子だ。

「専業主夫とかでもいいと思うよ。恐怖症が治らなかったら彼方が葉月くんのこと養うみたいに言ってたけど、葉月くんを養うのはあたしの役目だからね」

「天音さん」

「女性恐怖症の葉月くんを女のいる職場に行かせる訳にはいかないし、在宅ワークとか無理なく働ける方法を見つければいいよ」

 明朗に思いを伝えるが、葉月の表情はなかなか晴れない。

「さすがに成人する頃には治さないと……」

「いやいや! あたしの為にも葉月くんには一生女性恐怖症でいてもらうよ! その代わりあたしが葉月くんを守るから。ねっ、いいでしょ?」

 女性恐怖症は葉月を独占したい天音にとって好都合。対価を支払ってでも変わらないでいてもらいたい部分だ。

「ん、その方がいいよね。その方が……」

 多少は明るくなったが、葉月の胸中は測れない。

 天音の望みが非常識なのは分かりきっているので、この辺りのことは大学生活の中で納得してもらおう。

 将来だの仕事だのといった話をするから暗くなる。ここは話題を変えることにした。

「おいしそうな魚見てたらお腹空いちゃった。ランチにしない?」

「あっ、そうだね。僕もお腹空いてる」

 葉月はこちらの心中を察してくれているようで、調子を合わせてくれた。

 水族館の屋外に軽食を提供するカフェテラスがある。商品は割高だが、ここで食べていこう。

「あたしはカレーライス大盛りで」

「僕はサンドイッチセットにしようかな」

 メニューを開いて店員に注文を伝える。

 ややあって料理が到着。

「ご注文のカレーライスです」

 運ばれてきたカレーの量を見て葉月は目を丸くした。

「天音さん、たくさん食べるんだね。やっぱり普段から運動してるから?」

「そんなに運動してるってほどでもないんだけどね。お父さんもお母さんも痩せてるから、多分太りにくい体質なんじゃないかな」

 この体質には感謝している。自分でも旺盛な食欲を抑えることができないので、太りやすい体質だったら、とてもじゃないが恋人を作れるような体型ではなくなっていた。

 葉月の許容範囲がどこまでかは分からないものの、あまりにも太っているのは嫌だろう。

「ご注文のサンドイッチセットです」

 葉月の分も到着。

 作る手間からすると順番が逆のような気がする。葉月の注文を忘れていたのかと内心でだけ文句を言う。

「葉月くんはそんな量で大丈夫? あたしに遠慮してない?」

 文句を口に出さない代わりに、葉月への気遣いを口にする。

 葉月の頼んだセットにはちょっとしたサラダがついているが、サンドイッチのボリュームは大したことない。

 不良をあっさり撃退するほどの強さを維持するのには足りないのではないか。

「元々少食だから。――遠慮って?」

「ほら、あたしそんなにお金持ってる訳じゃないから」

「――?」

 葉月はまだ首を傾げている。

 天音は天音で、葉月が何を疑問に思っているのか分からず聞き返す。

「あたしの懐を心配してくれてるんじゃないの?」

「え? おごってくれるってこと?」

 葉月は意外そうな顔だ。

「そのつもりだけど」

「そんな、悪いよ。映画や水族館のチケットも天音さんが用意したんだし、自分の食べた分ぐらいは自分で払うから」

 考えてみれば、葉月はとてもいい子なのだからおごられることを前提にしているはずはないか。

 しかし、天音にも譲れないものがある。

「あたしが葉月くんを守るって決めたんだから、こういう場面はあたしに任せてよ」

「うーん。そういうものかな……」

「そういうものだよ」

 守るというのは何も外敵と戦うことだけではない。経済的に負担をかけないようにすることも現代においての『守る』という行為だ。

 それに、この前は不良に絡まれたところを助けられてしまったのだからお礼もしなければならない。

「会計の時に店員の女の人と手が触れたりしたら、拒否反応以前にあたしが嫌だから」

 天音の独占欲は人一倍強い。

 恋人設定の際も、『葉月は自分の恋人だから軽々しく近づかないように』と学校の女子に告げて回ったが、これは本音だった。

 初めて聞かされた時は絶望した女性恐怖症も、自分さえ例外になってしまえばこんなにいいものはない。

「じゃあ、天音さんの誕生日には心を込めてプレゼントするからね」

 心を込めてくれるというのはありがたい。高価な品をもらったら、こちらはさらに高価なものを返すことになって逆に困る。

「うん! 楽しみにしてる!」

 合意が成立したことで安心して食事を進めることができた。

 そもそも学校のある日に弁当を用意してもらったりしているので、外食代を負担するぐらいどうということはない。

 昼食を終えた二人は再び水族館の中を見て回る。

 その途中でのこと。

 天音が何も言っていないのに突然葉月が息を呑んだように見えた。

(……? 何かすごい魚いたかな?)

 それらしいものは見当たらなかったが、魚が水槽を泳いでいる以外何も起こっていないのだから気にすることでもなかろう。

 十分楽しんだ上で帰途につく。

 葉月を家に送り届けるまでがデートだ。


 葉月の自宅前で帰ってきたところで。

「そうだ。明日、彼方くんと一緒に買い物いくんだけど、天音さんも来ない? 賑やかな方がいいかなって」

 葉月から新たな誘いを受けた。

「いいの? 行く行く。彼方はどうでもいいけど葉月くんとは少しでも一緒にいたいから」

「ありがとう。やっぱり少しでも長く……」

 デートの翌日に買い物にもいくというだけの話なのに随分感じ入ったような様子だ。

 女性恐怖症のおかげで、美少年なのに恋愛経験がないから初々しい。

「何買いにいくの?」

「文房具と――服もちょっと見る予定」

「服だったら、あたしが葉月くんに似合うの選びたいなー。あーでも、あたしじゃセンスが悪いかー」

 自分好みの服を着てもらいたい気持ちはあるが、それで恥をかかせては忍びない。

「そんなことないよ。天音さんの意見も聞きたい」

「そっか。じゃあ、明日もよろしくね!」

 彼方はちょっと余計だが、二日連続で葉月と遊びにいける。これぞ三年生になってからずっと望んでいた日々だ。

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