第17話「勉強」
「このままではどうにもならんな……」
昼休みの教室。午前の授業で天音が受けた小テストの点数を見た彼方がうなる。
やる気だけは出したのだが、どうにも結果がついてこない。
「天音さん、落ち込まないで。少しずつは良くなってるし……」
葉月が慰めてくれるものの、何か手を打たなければならないのは明白だ。
前から疑問に思っていたことがある。
「やっぱり葉月くんに教わった方がモチベーションも上がってうまくいくんじゃないかなー?」
願望も入っているが、可能性としては誰にも否定できまい。
スパルタ教育が必ずしも効率的に能力を伸ばすとは限らない。せめてしばらく試してもらえないか。
「仕方ない、それに賭けるか……。どうせ学校内で葉月を待たせてるんだしな」
今までは、気が散るだろうということで勉強中は葉月を傍に置かない方針だったようだが、現状を打開する策として彼方も認めてくれた。
「やった! 葉月くんの個人レッスンだ!」
天音の表情が一気に明るくなる。
「浮かれんな。条件をクリアした訳じゃねーんだぞ。これで成績下がったらもっと厳しくするからな」
彼方の鋭い声が釘を刺してくる。
本来は、彼方では教えられないレベルに達して初めて葉月に教わることができるという話だった。
レベルアップしたからではなく、むしろレベルが上がらないからやむを得ず――ということなので、反省しなければならないところだ。
放課後。
「綾部くんに訊いてくれた!?」
天音の教室に例の女友達が駆け込んできた。
「あ、ごめん。結局訊けなかった」
葉月のことが気がかりで、彼方から返事をもらうことについては忘れ去っていた。
「何やってんのよ!」
何故怒られねばならない。
「いいじゃん。どうせ無駄なんだから」
「こうなったらやけくそよ! 綾部くんに直接――」
「なんだ? 俺に用か?」
噂をすれば、本人の登場だ。
先ほどまで教室を出ていたが今戻ってきた。
「あ……えっと……」
友達の方は、彼方を前に身を固くして口ごもっている。
自分もこれに近い動作をしていたせいで勘違いされたのだ。
「あ、あのっ!」
まごまごしていた友達だが、やがて意を決したように口を開いた。
「綾部くんのことが好きです! お付き合いしてください!」
「断る」
告白が終わるのとほぼ同時の返答。前半を聞いた時点で準備ができていたとしか思えない。
「あー……」
玉砕した友達より早く、天音の口から気が抜けたような声が漏れた。
だから言ったものを。
「うう……」
天音の友達は肩を落としている。
まあ、葉月への告白からさして間を置かず彼方に乗り換えたぐらいだから、すぐまた別の相手を見つけるだろう。
大体、葉月に対して、完全にはあきらめていないような態度ではなかったか。
「彼方、告白断る時いつもその一言だけなの?」
「そうだが?」
さも当然のことのように言ってくれる。
「葉月くんは頑張って色々台詞考えたのに」
『天音と付き合っているから』という嘘以外に、相手を気遣う言葉として『他にもっといい人がいる』とか『友達としては好き』とか『十分魅力的だと思う』とか。
「っていうか、彼方は彼女作る気ないの? それとも実はもういるとか?」
とぼとぼと去っていく友達の背中を見送りながら、今頃尋ねる。
「別に欲しいと思わんからな」
「やっぱり、葉月くんが好きとか、そういう……?」
愛情が倒錯した世界が頭に浮かびかかった。
「葉月より好きな奴が女子の中にいないって意味では間違ってないが、妙な妄想してないか……?」
彼方は怪訝そうに睨んでくる。
「い、いや? あたしはそういう趣味ないよ……?」
ノーマルな漫画しか読まないので後ろめたいことがある訳でもないのだが、なんとなく顔を背けてしまう。
「今のが頼んできたっていう友達か?」
「うん」
「本当に頼まれただけならもっと堂々と訊け。変に恥ずかしがるから誤解を生むんだろうが」
それは面目ない。
「ところで、なんか用?」
「そろそろ葉月の用意が終わる。図書室に来い」
図書室で、葉月と顔を突き合わせての勉強。
「天音さん。前の試験で一番偏差値が低かったのってどれ?」
「ん? 偏差値? 点数じゃなくて?」
首を傾げると、葉月は優しげな口調で説明してくれる。
「入試の合否を決めるのは基本的に他の人と比べて成績がいいかどうかだから、難易度によってみんな変わる点数より、平均と比べてどのぐらいの位置にいるかが分かる偏差値の方が重要なんだよ。彼方くんも言ってなかった?」
「うーん。言ってたかなー?」
やはり彼方の言ったことはあまり頭に入っていない。
「ちょっと待ってね」
彼方からの命令で過去の成績表は持ってきている。
今まで点数に着目していたが、偏差値が最も低いのは。
「数学かなー」
たまにそれなりの点を取れたと思ったテストもあったが、偏差値が五十を超えているものはなかった。
「僕は数学得意だし、数学からにしようか」
「あ、でも、苦手分野の克服って難しいんじゃ……」
苦手なものから逃げたい気持ちもあるが、客観的に見ても効率が悪いなら避けてもいいのではないか。
「もちろんそうなんだけど。僕が目指してるところ、数学必須だから……」
全教科の合計点が基準以上でも、一科目で足切りに引っかかったらアウトになるとのこと。恐ろしい世界だ。
総合得点で基準を満たす為に得意分野を伸ばさなければならないし、足切りに引っかからない為に苦手分野も補わなければならない。
結局、最終的には全科目をやらなければならないのだった。
数学の問題を解く過程を葉月に見てもらう。
「あ、そこ、その公式じゃないよ」
ノートに数式を書いていると、途中で止められた。
「あれ? そうなんだ。じゃあ、こっち?」
参考書に載っている公式の一つを指差す。
「それも違うね」
「こっち?」
「それも……」
「となると――」
葉月は優しいので露骨な態度は取らないが、呆れさせてしまっている感じはする。
「あの、天音さん。僕が言うのもなんだけど、大学に受かろうと思ったら公式の丸暗記じゃなくて理屈を分かってもらわないと……」
「うーん。やっぱりそっかー。彼方にも似たようなこと言われたけど、葉月くんが言うんならそうするよ」
『する』と言って一朝一夕にできれば苦労はないが、少なくとも教えられたことを素直に実践する意欲は湧いた。
「いったん公式のことは忘れて、どうなったら求められてる答えが出るか考えてみて」
今まで数学は公式を覚える科目と認識していただけに、それを忘れて解けと言われるのはなんだかおかしな気分だ。
だが、まず問題文を読み解く時点で悪戦苦闘する。
そんな天音に、葉月は少しずつヒントをくれた。
「――これで合ってるかな!?」
「うん。合ってるよ」
「やった!」
なんとか一問解けた。
「でも、こんな時間かかってたら、二、三問で試験時間終わっちゃうよ……」
自分の頭の悪さが情けなくなる。
「その為の公式だよ」
葉月は、教師による授業よりもよほど分かりやすく公式が成り立つ理由を解説してくれた。
「これとあれが仮に同じ速度だとしたらこうなるでしょ? だから片方を二倍にしたら――」
「ああ、なるほど! だからこの数字が入るのか!」
葉月の澄んだ声を聞いていると、心地良く学習が進められる。
数学の次には国語をやったが、漢字なども、葉月が書くところを見せてもらったら不思議と記憶に残った。
「これならなんとかやれるかも。葉月くんと同じ大学行けるように頑張るね!」
「えっと……。あっ! うん。そうだね」
やや間があったのは何故だろう。
さすがに無理だと思い始めているのかもしれない。
自分では手応えを感じてきている。名誉挽回しなければ。
「あれ? もうこんな時間?」
天音は図書室の時計に目をやる。
一問に相当な時間をかけただけに、区切りがつく頃には外が暗くなっていた。
教わる相手次第でこうも時の流れが違って感じられるのか。
「こんな時間だし、今日は一人で帰るね」
葉月が帰り支度を済ませて立ち上がる。
「え? こんな時間だからこそ送っていくよ」
同じく勉強道具を鞄にしまった天音も立ち上がる。
「でも、かなり遅くなっちゃうよ? 夜は女の人も少ないだろうし、むしろ天音さんが危ないぐらいじゃ……」
「いや! 葉月くんが何て言っても送ってくよ! あたしは葉月くんのナイトだからね!」
葉月の女性恐怖症を治さないと決めた時に誓ったことだ。
葉月は自分だけのもの。その在り方を強固なものにする為にリハビリの相手役としての仕事は放棄したのだ。
女性の夜歩きが危険などとは知ったことではない。
天音は、半ば強引に葉月と腕を組んで歩き出した。
帰宅後は一人で勉強に取り組む。
彼方の言った通り、時間は限られている。無為に過ごすことはできない。
以前なら考えられなかったことだが、夜中になっても机に向かい続けていた。
(右辺にある数字を左辺に持っていくんだからプラスがマイナスになって――)
葉月に教わったことを思い出す。
葉月の声なら頭に入るという読みは当たっていた。なんとかやれそうだ。
日付が変わる頃には眠気が襲ってくる。しかし、葉月に教えてもらった部分は確実に定着させておきたかった。
(二時ぐらいまでは頑張るかな……)
冷蔵庫からコーヒーと緑茶を持ってきて交互に飲みながら意識を保つ。
不安を感じているのは自分だけではない。葉月の不安を払拭する為にも、定期考査なり模試なりで良い結果を見せてあげたい。
こうして天音は、授業中に寝てしまわない範囲で睡眠時間を削って勉学に勤しんだ。
一週間ほど経った頃に数学の小テストがあった。
その成績は。
「六十五点か」
これで十分でないことは明白。
ただ、今までよりは遥かに高得点だ。
「すごい! 短期間でかなり点数上がってるね。割と難しい内容だったから偏差値も上がってるんじゃないかな」
休憩時間に葉月にも見てもらう。すると、自分のことのように喜んでくれた。
「あはは。いつも満点の葉月くんには敵わないけどね」
満点ばかりということは、学校自体のレベルがあまり高くないということでもある。葉月がこの程度の高校に入ったのは、女性恐怖症との兼ね合いで都合のいいところを選んだ為だ。
天音にしても彼方にしても、大学は葉月の才覚を発揮できるところへ行かせたいと考えている。それには天音が葉月に合わせる必要があるのだ。
「俺は九十四点か。藤堂に比べりゃ危なげなく合格できそうだな」
傍に来ていた彼方がつぶやく。
天音がリハビリの相手役として選ばれた日、担任も交えて教室で『彼方がギリギリ。他の者に望みはない』と話していたが、彼方は順調に学力を伸ばしているようだ。
負けてはいられない。少なくとも伸びる割合では。
「葉月くんはともかく彼方ってなんでそんな成績いいの?」
口の悪さから彼方にはあまり優等生っぽいイメージを持っていないのだが。
「生まれつきの才能だ。仮に授業受けてなくてもお前より下にはならん」
嫌みなことを言ってくれる。やはり優等生ではない。
「ゆ、ゆみやんはどうかなー?」
勝てるとはいかずとも、仲間寄りの人間を求めて尋ねてみる。
「私、八十点」
優実は澄ました顔で天音より十五点も高いと言ってきた。
「ええ!? ゆみやん頭良かったの!?」
「天音、私のこと知らなすぎじゃない? 苗字も忘れてたって聞いたよ?」
優実とはよく一緒にいたが、それ故にわざわざ知ろうとしていなかった。
思い返してみれば、補習の類いで一緒だったことはない。
「ちなみにおれは七十七点だ」
パーカーを着た男子が優実の横で報告する。別れていなければ彼らは恋人のはずだ。
「これなら休みの日に補習受けることもないだろうしデートにも行けそうだね」
優実が最近できた恋人に笑いかける。
「お、おう!」
優実の彼氏は緊張気味にうなずいた。
(んー……)
親友が恋愛をしているのを改めて見ると違和感を覚える。
葉月と付き合い始めた頃の自分もそんな風に思われていたのだろうか。
「何? 天音」
優実をぼんやり眺めていると不審がられた。
「いや、今のあたしと葉月くんは自然な恋人に見えるよね?」
「釣り合ってないのは相変わらずだけど」
がっくりきそうになったが、優実は続ける。
「でもまあ、逢坂くんの隣にいるのが天音以外だとしっくりこないかもね」
「そうだよね! 見直したよ、ゆみやん!」
「見直したって、今まではどう思ってたの……」
学業の面で状況が好転してきたのが嬉しいこともあり、久々に親友の手を握ってブンブンと振った。
そんな様子を葉月は微笑ましく、彼方は冷ややかに眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます