第15話「指導」

「そこにそんな数字が入る訳がないだろ! 何回言ったら分かるんだ!」

 放課後の図書室に彼方の怒声が響く。

 指導計画が出来上がったということで、天音は彼方から教わって受験勉強をしているところだ。

「あと三回ぐらい……? いや、四回かな……」

「そんなことは訊いてねえんだよ!」

 早く理解しろ、という意味なのは分かっている。分かってはいるのだが。

「やっぱり、あたしに勉強は向いてないよー……」

「葉月と同じ大学行くんだろうが。この程度で音を上げてんじゃ話になんねーぞ」

 決意を固めたはずが、少しするとこれである。

 気が強いか弱いかでいえば強いタイプだというのに情けない限りだ。

「そもそもなんで綾部くんに教わらなきゃなんないの」

 『葉月でないと教えられないレベルになるまでは俺が指導する』などと言われたが、別に最初から葉月が教えてくれてもいいのではないか。

「葉月だと甘やかすだろうが」

 確かに優しく教えてくれる葉月に甘えていては受験に間に合わない可能性もある。だからこそ彼方は、自分が厳しく指導して一刻も早い学力向上を図っているのだろう。

「綾部くんの言うことも分かるんだけどさー」

「大学落ちて葉月と別れるのと、今俺の指導に耐えるのとどっちがいいんだ」

「そんなの葉月くんと別れる方が嫌に決まってんじゃん!」

 答えた後でふと思う。

「ん? なんで大学落ちたら別れなきゃいけないの?」

 天音が同じ大学に行けないからといって、葉月の拒否反応が出ない相手が他の女子に変わる訳ではない。

 別れるか別れないかの問題ではないはずだ。

「そう言われてみるとそうか……。少なくとも俺は葉月と同じ大学に行く訳だから――って、おい、お前が葉月を守るっつったんだろが。約束も果たせない癖に厚かましく付き合い続けるつもりか」

「そっ、それは……」

 天音が同じ大学にいないとしても、葉月が他の女子になびくとは思えない。しかし、女性恐怖症の葉月を守る使命を彼方だけに押しつけたのでは、葉月の恋人失格だ。

 別れる必要性がないからといって、怠けていい理由にはならない。

 仕方がないので勉強を継続する。

 継続するが――。

「あたし数学嫌いだよー。公式全然頭に入んないし……」

 三十分もしたら、またこれだ。

 頭が痛くなって机に突っ伏す。

「無能な奴だな。大学で葉月が他の女に言い寄られてもいいのか」

「そ、それは嫌!」

 彼方に発破をかけられて、なんとか顔を上げる。

 葉月への想いによってやる気は出すのだが、数式を前にした天音は苦悶の表情を浮かべる。

「う、ぐぐ……」

 精神論ではどうにもならないのではないか。

「まあ、苦手分野の克服は難しいからな……。数学は俺より葉月の方が得意だし、他の教科を先にするか……」

「そ、そうだよ! 得意科目で点数稼げば、数学の点数は低くてもなんとかなるんじゃ――」

 短所を補うのは長所を伸ばすより遥かに難しく効率が悪いと聞いたことがある。

 短所を少し補っただけで終われば、全てにおいて他人に劣る存在になってしまうとも。

 長所を伸ばすことに力を入れた方が、将来社会に出た時、他人では替えが利かない人材になれるはずだ。

「何なら得意なんだ」

 彼方の問いに、少々間を置いて答える。

「保健体育……」

 答えた直後、二人は無言で顔を見合わせた。

 先に口を開いたのは天音。

「いや、別に綾部くんと変なことする訳じゃないよ?」

「分かっとるわ」

 お互い想像したのは同じことのようだ。

 葉月がいることを抜きにしても、天音に彼方とそういうことをする気はないし、向こうはなおさらないだろう。

 ふざけた話は置いておいて。

 その後、色々な科目を少しずつやってみるが、数学よりはマシという程度。

 自分の不甲斐なさにだんだん腹が立ってきた。

「ってか、綾部くんの教え方が悪いんじゃないの?」

「なんだと!?」

 そして、筋違いだと分かっていても、人に当たってしまった。

「だって教え方が上手い人なら、誰が相手でも分かりやすく説明できるでしょ?」

「教わる本人にやる気がなかったら他人にはどうにもできねえだろうが」

「やる気はあるんだって!」

 しばらく言い合いをしたが、さほど白熱することもなく落ち着いた。

「もういい。今日は帰れ。お前でも分かるような参考書を見つけてやる。金用意しとけよ」

「……分かったよ。逆ギレしてごめん」

 彼方は大人びているし、天音も傲慢ではない。本気の喧嘩にまでは発展せずに、今日の勉強は終わりとなる。

 図書室のドアを開けたところで。

「あれ? 葉月くん、待っててくれたの?」

「一緒に帰りたいと思って。先生の手伝いとかして、今来たとこ」

「そっか。じゃあ、ちょうど良かったね」

 先ほどまで苦行に耐えていただけに、葉月と一緒の下校は至福の時間に感じられた。


 別の日。図書室にて。

「この名古屋県ってのは、どの時代のどこのことだ?」

 地理の小テストの答案を片手に天音を睨む彼方。

「本州の真ん中らへんの名古屋コーチンが有名なとこでしょ?」

 天音は、何が間違っているのか分からないと返す。

 対する彼方は呆れた調子で怒鳴る。

「現代に名古屋県なんて県はない! 愛知県名古屋市だ!」

「マジで!?」

 名古屋県があった時代もあるにはあるらしいが、当然天音にそんな知識はない。

 そもそもテストで問われているのは現代の地名だ。

 長年の勘違いを指摘されてショックを受ける。

 彼方は彼方で天音の無知っぷりに頭を抱えながらテストの解説を始める。

 先日文句を言ってしまったことは反省しているので、天音も静かに聞くことにした。

 説明されてみれば、授業で習った記憶が多少は蘇る。

 前途多難ではあるが、なんとか今日は問題なく学習が進んでいった。

 間に挟んだ休憩時間に、一つ勉強と関係ない質問をしてみる。

「大学合格が決まったら葉月くんのご両親にあいさつしたいんだけど、綾部くんから見たらどんな人だった?」

「子煩悩というか親バカというか、そんな感じだな。まあ、実際葉月は優秀だから、身びいきで過大評価してるって訳でもないが」

 葉月には立ち居振る舞いの上品さがあるため、厳しい躾をされていないか心配したが、そういうことはなさそうで安心した。

「綾部くんに対しては?」

「親同士の仲がいいってのもあって、よくしてもらってる。ただ、俺みたいな友達じゃなくて恋人ってなると求める条件が違うだろうからお前は気をつけた方がいいぞ」

 言わんとしていることは分かる。子煩悩なら、我が子を立派な女とくっつけたがるだろう。気を引き締めなければならない。

「綾部くんの親はどんな風なの?」

 直接関わることもないと思うが、少し興味が湧いた。どのような親に育てられてこうなったのか。

「普通っちゃ普通だが、父親が元教師だな」

「元……今は違うの?」

「前に俺が葉月を応援してる理由を話しただろ。あの時話したこと以外にも理由がある」

 以前聞いた話では、葉月の素直さが心に響いたことと、女教師への怒りが主な理由とのことだった。

 ここで彼方は自身の父親の過去を明かす。

「親父は俺と違ってお人好しでな、生徒の相談にも親身になって乗ってたんだ。それが、ある女子生徒から悩み相談を受けていた時に関係を疑われた。教え子に手を出してるんじゃないかってな」

 葉月の過去とは別の意味で背筋が冷たくなった。

 被害者として救われなかった葉月に対し、彼方の父は加害者扱いをされたということだ。

「既に親父はおふくろと結婚してたし、そんなことはあるはずないんだが、一度持ち上がった疑惑が消えることはなく親父は免職された。まあ、おふくろが最後まで親父を信じてたのはせめてもの救いだがな」

 当時の状況を、足りない頭で想像してみた。

「そのお父さんもやっぱり綾部くんみたいにイケメンだったのかな? それで余計疑われたとか……? それとも誰かが嫉妬して陥れた……?」

 彼方の父の顔は知らないが、彼の容姿が親からの遺伝によるものだとしたらありそうな話だ。

「女子生徒の方は親父に気があったらしくてな。どこか妄想癖のあるそいつの吹聴することを真に受けた周囲の大人が動いたらしい」

 さらに詳しく聞くと、女子生徒の相談事自体妄想による部分が大きく、彼方の父は苦労していたということだった。

 それでも彼方の父は教師としての務めを懸命に果たそうとしていたと。

「全くの無実の親父が退職に追い込まれたのに、葉月を暴行した女は大した罰も受けずによその学校に逃げただけだった――それが許せねえんだ」

 彼方の家族にもそんな過去があったとは。

 自分の父が不純な行為に及んでいたなどと誤解されたのは、息子として耐えがたい屈辱だっただろう。

 親友――当時はまだ普通の友人だったかもしれない――が傷つけられ、犯人にまんまと逃げられたこともやはり屈辱だったに違いない。

 彼方は、二人の教師のあまりにも対極的な扱いに憤っているのだ。

 天音は幸運なことにそうしたひどい目には遭わずに生きてきたが、自分たちの置かれている状況に何かしら逆らいたい気持ちは痛いほど理解できた。葉月のパートナーとしても。

「そうだったんだ……。勝手なこと言いふらした女子生徒や葉月くんを襲った教師は、同じ女としてあたしも許せないよ」

 自分と同じ性別だから庇いたくなるということもない。彼女らは女の恥さらしだ。

 彼方に近づいて、その手を強く握る。

「一緒に葉月くんを守ろう、綾部くん! いや、彼方!」

 元々同じ志を持ってはいたが、この時、より一層連帯感が強まった。

「やけに馴れ馴れしいな」

 冷めた態度ではあるが、彼方も手を振りほどいたりはしない。

「だって、あたしたちも仲間じゃない?」

「それもそうか」

 名前呼びを受け入れてくれるようだ。

「俺の親父のことはともかく、お前に気合いが入ったなら良かったか」

 彼方がこちらを見る表情も少し柔らかくなっている。

「クズ女たちを見返す為にも、葉月くんにタチの悪い女は近づかせ――」

「その前に、お前。受験勉強どころか普段の宿題も忘れてくることあるだろ」

「う……」

 せっかく意気投合できたかと思ったが、痛いところを突かれた。

 葉月を守る為には、学力が必要だ。だから今、ここにいる。

「分からん部分があったら連絡してこい」

 彼方がスマートフォンの画面を見せてくる。

「そういえば、まだIDも交換してなかったね」

 今になって彼方とメッセンジャーアプリのIDを交換することになった。

 宿題でつまずいたら教えてくれるということのようだ。

 本当は葉月に教わりたいのだが、ぜいたくは言っていられない。

 この後も一時間ほど勉強をして、地理の小テストで間違った部分については覚え直せた。

 図書室を出た天音は、自分の教室に向かう。

「葉月くん、お待たせ!」

「あっ! 天音さん!」

 教科書に目を落としていた葉月は、嬉しそうに顔を上げた。

 一緒に下校する為に待っていてくれたのだ。

 時間を無駄にさせてしまうのは悪いとも思ったが、葉月も予習復習をしておくから大丈夫とのことだった。


 手をつないで帰り道を歩く。

「そういえばさ、今頃になって彼方とID交換したよ。リハビリを始めたのなんてずいぶん前な気がするのにね」

 他愛ない会話の中で先ほどのことを報告しておいた。

 現実に月日はそれほど経っていないが、葉月への告白を決意してから交際に至るまでの時間は感覚的には長かった。

 天音の発言に対して、葉月は目を見開く。

「――! 彼方くんのこと名前で呼ぶことにしたんだ」

「うん。もう赤の他人って感じでもないからね。あたし、他人行儀なの好きじゃないし」

 葉月を助けるという意味では同志なのだから、呼び方を改めるのはもっと早くても良かったぐらいだ。

「あたしが宿題やってこないから、分からないとこ訊けってさ」

「そう……なんだ……」

 葉月はどうも浮かない顔。

 天音の受験勉強は明らかに難航しているので無理もない。

 宿題すらやらないことがあるのでは失望もされよう。

 大口を叩いた割に成果を出していないのだから。

 うつむきがちになっていた葉月がふと漏らす。

「なんか最近、彼方くんと仲いいよね……」

「まー、彼方も前よりは優しくなってるしねー」

 指導は厳しいので、冷たくなくなったと表現するのが適切か。

 明るい話をしても葉月の表情は暗いまま。

 彼にこれ以上悲しげな顔をさせない為にも勉強で成果を出さなければならない。

 天音は改めて宣言する。

「彼方と力を合わせて頑張るから待っててね、葉月くん!」

 力を借りる、といった方が正しいのだが、力強さを出そうとしたら何故かこんな言い方になってしまった。

 ともあれ、気力は戻った。必ずや大学に合格してみせる。

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