第7話「対話」

 彼方から葉月の過去を聞かされて気合いを入れ直した天音は、その日の放課後、これからは積極的に葉月の心を癒していけるようにといさんで中庭に向かう。


「あの、藤堂さん」

 校舎を出た辺りで不意に声をかけられた。

「え!? 逢坂くん!?」

 ほぼ普通の距離まで近づけるようになったことは分かっていたが、自分が先に中庭に行っておくのが習慣だっただけに驚きを隠せない。

「ど、どうしたの? あっ、何か持ってくものとかある?」

 最近ではジャージに着替えてからということもなくなり、これといった準備なしでリハビリを始めていた。単に慣れるだけではなく癒されるようなことをするなら、その為の用意も必要になってくるだろう。

「ううん、どうせ中庭で合流するんだし一緒に行こうかなって」

「そっ、そっか、じゃあ一緒に行こっか」

 適度な距離を保ちつつ、後ろから葉月の様子を見る。

(葉月くん、姿勢いいなあ……。それに歩き方一つとっても気品があるっていうか。あたしだったらこんな上品にしてろって言われたら半日も持たずに限界が――)

 はたから見ている分には目の保養となるその姿。天音には真似すらできないほど美しい所作しょさはいかにして身に付けたのか。いや、どうやって維持しているのか。本人はどう感じているのか。

(……女嫌い抜きにしても大変なんじゃ……。見てるあたしは幸せだけど、こうしてる今も葉月くんには負担がかかって……)

 いくら育ちが良くても完璧な礼儀作法に労力を必要としない訳がない。その上、恐怖症までつくろっているのだ。

(なんとかもっとリラックスしてもらわないと)


 葉月のあとをついていって中庭に到着。

「それでね、藤堂さ……ん……?」

 振り返った葉月の視線の先では、天音が正座で待機している。

「ど……どうしたの?」

「いや、このほうが安心かなと」

 武士は敵意がないことを示す為、刀を抜きにくいよう右に置いて座ったという。

 刀は元々持っていないにせよ、座っている時点で攻撃に移りにくいのは確かだ。

「で、でも汚れちゃうよ。普通に立ってて」

「これならあたしが何しようとしても確実に逃げられるし……。あっ! べ、別に何かするつもりなんじゃなくて、むしろその証拠として……!」

 天音なりに誠意を見せて安心感を持ってもらおうとした結果がこれだった。

「――その感じだと、彼方くんから聞いたんだよね?」

 いつも以上に真剣な眼差しで尋ねてくる。そこに『聞かれたくないことを聞かれた』という嫌悪の色は見られない。

「あ……その……うん……。気付いてたの……?」

「彼方くんも僕のことよく見てくれてるけど、僕も彼方くんのことはずっと見てきたから、藤堂さんにどんな話をしようとしてるのか想像できた……かな」

「ごめんね……。あたしと話す時無理してたのに全然気が付かなくて……。勝手にもう治りかけてそうなんて……」

 自分のことならいざ知らず、他人の病状を軽く見るなど最低の楽観主義だ。

「こっちこそ、ごめん……。七年経って、あんなこと二回も起こる訳ないって分かってるし、誰もそんなことしないって分かってるのに……。頭で分かってても身体と感情とがついてこないっていうか……。何もしてないのに怖がられたら気分悪いよね……」

 葉月は悲痛な胸の内を語った。

 無理もない、苦痛は身体にも神経にも精神にも刻み込まれているはず。理性的に物事をとらえられているだけでも大したものだ。

「でも……、全部感覚の話で……。まだ治ってないし、疲れたりもするけど……、僕は藤堂さんと話すのが嫌だなんて思ってないから……! これだけは……信じて……」

 瞳をうるませながら必死に訴えてくる。

 どうにかして信用を勝ち取らなければならないと考えていたのだが、逆に『信じてほしい』と懇願こんがんされてしまった。

「も、もちろん信じるよ! 逢坂くん、すごくいい子だし、優しいし! なんならあたしがバカなことやっても許してくれそうな包容力を感じるよ!」

 『何をしても許してもらえる』などとは甘ったれた考えだが、この際自分が甘ったれかどうかは関係ない。

 葉月は恐怖症のせいで『相手を拒絶している』と誤解されることも怖れているのだ。

 仮にも告白しようとしておきながら、女性恐怖症と知って、多少なりとも女性蔑視の考えがあるものとはき違えてしまった自分が恥ずかしかった。

「じゃあさ……、その……、僕の手に触れてみてくれない……?」

 思いもよらない言葉と共に葉月はそっと片手を差し出してくる。

「え――!?」

 あまりのことに目を見開く天音。

(そ、そんなことしたらまた葉月くんに負担が――)

 言われるがままにそうしたらこれまでと同じではないのか。それとも言われた通りにすれば『信じている』と受け取ってもらえるのか。

 彼方からは『直接触れるな』と言いつかっている。しかし、葉月本人の頼みならそちらを優先すべきなのかもしれない。

 何が正しいのか判断できず逡巡しゅんじゅんする中、葉月は続ける。

「……きっと拒否反応は出ると思う……。でも、それは僕の本心じゃないから。自分で望んでたとしても触れたらどうなるのかを、知ってほしい……」

 本当の気持ちと身体の反応、その乖離かいりを示すことが目的のようだ。

 葉月の心を理解する為にも、自分が信じているということを証明する為にも避けては通れない。

(要するにあたしが拒否されたみたいになってもめげなかったら、拒否反応が出ても葉月くんが気に病むこともないんだよね。本気で嫌がってる訳じゃないって分かってるんだし、あたしは平気。あとは葉月くんに無理させないように……)

 結論の出た天音はゆっくりと立ち上がり、葉月のほうへ手を伸ばす。

目一杯めいっぱい優しく……、指先で軽く触れるだけ……)

 そのつもりだったのだが――。

「あっ――!!」

 つい先ほどまで正座だったせいで足がしびれていた。よろめいた天音は自らの意思に反して葉月の手を掴んでしまう。

「――ッ――!!」

 ビクッと全身を震わせた葉月は、天音の手を払って一気に壁際まで距離を取った。呼吸は乱れ、固くつむった目には涙が浮かんでいる。

「はぁっ……はぁっ……」

 自分の身をかき抱くようにして怯えている葉月に全力で謝罪する天音。

「ご、ごめん!! そんなつもりはなくて――! あ、足がふらついて……! それで……!」

 頭が真っ白で、今何を言っているのか自分でもはっきりと認識できない。

 だが、葉月の感じている重苦じゅうくが並大抵のものでないのは一目で分かる。――取り返しのつかないことをしてしまったのか。

「……傷……ついた……?」

 疑問形。聞き違いでなければ、葉月は自分が傷ついたと主張しているのではなく、天音に傷ついたかどうかを問いかけている。

「え……」

「……言われた通りに……したのに……、まるでっ……藤堂さんが……悪いことしたみたいに……」

 息苦しそうにしながらも、懸命に言葉をしぼり出す。

「傷ついてるのはあたしじゃないよ! せっかくあたしのこと嫌じゃないって言ってくれた逢坂くんがつらそうなのが心配なだけで……!」

「僕のこと……嫌いになってない……?」

「なる訳ないよ! 早く保健室に……」

「僕が……回復したら……安心してくれる……?」

「もちろん……! 逢坂くんさえ楽になったらなんの問題もないんだから……!」

「よ、よかった……」

 息づかいは苦しげだが、ほっとしたように肩の力を抜いて壁によりかかった。

 徐々に震えも収まり、落ち着きを取り戻していく。

「少なくとも……僕は全然嫌な思いなんてしてないから」

「い、いくらなんでも……、あたし事情を知ってたのにいきなりあんなこと――」

「――嘘だと思うなら彼方くんに訊いてみて。彼方くんなら、僕が本当に苦しんでるのかどうか見分けられるはずだから……」

 もしこれも無理をして言っていることだった場合、彼方に知られれば絶対に許されないだろう。それは葉月も分かっているはず。

 ならば事前に説明していた通り身体的な反応だけで、気を悪くしてはいないのか。

「僕は、藤堂さんと話せて楽しいよ。楽しいからついずっと一緒にいたいって思っちゃって……。いつも気付いたら体力を使い果たしてるんだ」

「でも、それで家に帰ってから何もできないぐらい疲れてるんじゃ……」

「――スポーツに打ち込んでる……ような感じかな。頑張ったあと、疲れてよく眠れるみたいな。しっかり寝て、明日また藤堂さんと元気に話そうって……」

 自分の思慮しりょがいかに浅いか思い知らされた。一緒にいる時どれだけ疲労しているかを察することもできず、どんな気持ちで疲れ果てるまで会話を続けているのかも理解できていなかったのだ。

「まあ、スポーツしてる人には失礼な言い方だけどねっ……!」

 ようやく葉月が柔らかな笑顔を見せる。

 楽しく会話がしたい――その気持ちに応えなければ。

「あはは、運動部入ってても逢坂くんにはかなわない人ばっかりだから大丈夫だよっ!」

 おそらく、まだまだ葉月の理解者になったなどと思い上がるには早すぎるだろう。そもそも自分ではない誰かの心を理解できていると考えること自体が傲慢ごうまんなのかもしれない。

「――そういえば、さっきの僕ってどんな風だった……?」

 さっきとは手を触られて怖がってしまった時のことと思われる。

「すごく取り乱してて、自分でもどんなだったのか分からなかったから……。あっ、みっともないのは分かってるから、その中でも特に変なとことか、率直な感想を――」

 当然心配にはなったが、なんら見苦しい動作はなかった。普段気品にあふれた振る舞いをしている葉月が、すごく怖がっている姿としてごく自然なものだ。

 ――しいていえば。

「全然変なとこなんてなかったよ! むしろ取り乱してても上品な感じがしてホント育ちがいいんだなって。あんまり可愛いから思わず興奮――」

 口の軽さが災いした。

(何言ってんのあたし――!? 築き上げた信頼が台無しじゃん!! ヤバイ……昔のこと思い出させたら……。いや、むしろあたし本人が……)

 葉月は自分の怯えた姿が相手の気分を害するのではないかと懸念けねんしていたので、ここは一つ褒めちぎっておこうと思ったのだ。――その予定だったのだ。

(綾部くんに殺される……!! い、いや、そ、それより、葉月くんは……)

 おそるおそる、反応をうかがう。語尾が少し切れただけで、なんと言おうとしたのかはバレているはず――。

「そ、そっかぁ。……藤堂さんってやっぱり面白いね」

 控えめな微笑びしょうをたたえる葉月。

 手が触れただけで涙をにじませていたぐらいだ、今の発言を真に受けていたらただでは済まなかったに違いない。

 いつもの馬鹿話のたぐいと見なされたか。

(あ、あたしが自他共に認めるバカでよかった……!)

 思い返してみれば、『もう七年前のようなことは起こる訳ない』と言っていたが、葉月の容姿だと今でも狙っている者はいそうな気がする。本人はそう認識していないとしたら。

(あれ……? 葉月くんって意外と天然……?)


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