第6話「過去」

 葉月のリハビリが始まったことで、授業終了後は中庭で語らうのが天音の日課となっていた。

 他愛のない世間話をしつつ、葉月が大丈夫だと思ったら距離を縮めていく。天音の役目は近づいても平気だと感じられるように配慮すること。


(最初綾部くんにおどかされた時はもっとキツイことさせられるのかと思ったけど……。葉月くん素直でいい子だし、何も問題なく進んでるなー)

 拍子抜けと表現したのでは悪いニュアンスになってしまうが、少なくとも危惧きぐしていたような事態にはまったくならなかった。

 女性恐怖症というからには、初めのうちは逃げられたり、話しかけても無視されたりするものと覚悟していたが全て杞憂きゆうに終わっている。

 彼方から、『直接身体に触れるな』と念を押されているが、それとて変な気を起こしでもしない限り特に苦労する条件ではない。

(葉月くん他のことが完璧だから大変そうに見えるだけで、そんな深刻な状態じゃないのかな? 二の次三の次どころか普通に葉月くんと話せて楽しいし)

 成果は順調に出ており、そろそろ友達同士の会話として自然な距離感になりそうだ。

 このまま安定していけば大学生活も心配ないだろう。

(むしろもうちょっと二人でいたいなぁ)

 そんな風に考えていたある日の昼休み。

「藤堂、話がある」

 いつになく真剣な表情の彼方に呼ばれてついていくことに。


「……? ここで?」

 廊下や中庭ではなくわざわざ空き教室に連れてこられた。

「ああ、万が一にも人に聞かれたら困るからな」

 リハビリは好調。まだ不安材料が残っているのだろうか。

「――もう一度訊くが、お前、葉月の為に自分が負担をいられるとしてそれに十分納得できるんだな?」

「――‼」

 言われてみれば、単なる人助け程度ではない理由があるのかを問われていたにも関わらず、現時点でそれが要求されるほどの重責を負ったことは一度もない。

「最近のお前はたるんでるようにしか見えん」

「そっ、それは……、実際うまくいってるから――」

「そうだな、うまくいってる。お前になんざ期待してなかった期待通りに」

「……ッ!」

「なんでうまくいってると思う? 元々大した問題じゃなかったのか? そもそもの原因を知らないのにどうやってそう判断した?」

 原因――恐怖症の話を聞いた当日は心に深い傷を負っているのだと予想していた。

 しかし、葉月がおびえた様子ながら好意的に接してきたことで、少し特殊な性質を持っているだけのような気がしていた。

「葉月は今でも、お前と話した後家に帰ってからは疲れ果てて食事もろくにとれてないんだぞ」

「う……ウソ……」

「そりゃそうだろ。恐怖を感じる相手の機嫌を取って、なんとか自分のつらさは見せないように振る舞ってんだから」

 何も言い返せない。言い返す資格もない。

 案外楽だと感じたのは、葉月が一人で苦労を抱え込んでいたからだ。

「俺の出る幕はない? 笑わせんな。なんで『自分と別れた後の葉月がどんな様子か』を俺に訊かねえんだ」

「……ごめん……なさい……」

 声が震える。学園生活の中でこんな気持ちを味わうとは思ってもみなかった。

 それでもまだ、葉月の感じていた苦痛には及ばない。

 本気で葉月を助けたいなら頼るべきだった。自分より早く葉月と出会い、自分より葉月を理解している者を。

「共学化されてるのは分かってたこの学校を選んだのは葉月だ。どうにかして自分を変えていきたいからってな。その甲斐かいあって、お前程度じゃつらそうだと気付けないぐらい明るくなった。――お前は努力してる葉月の横にただ突っ立ってただけなんだよ」

「…………」

 今日ほど自分が楽天家であることを呪った日はない。

(あたし……葉月くんのこと好きなんじゃなかったの……? 誰でもできることしかしてないじゃん……。葉月くんは努力してるのに、これでリハビリがうまくいってなかったらあたしなんか役立たず以下だよ……)

 告白して振られただけならどんなに気楽だったか。

「……納得いかないか? 協力してやって、成果も出てるのに悪者扱いされたんじゃ割が合わないか?」

「……え……?」

「だとしたら、そんな思いをしてまで葉月を助ける理由はなかったってことだ」

 最初に確認されたはずだ。他のことを捨て置いてでも葉月の助けになる――形はどうあれ、そうするだけの理由はあるのだと。

「――悪者扱いされながらでも葉月くんの助けになれる方法はある……?」

「正義の味方扱いされることより、葉月の助けになることの方が優先なんだったら、ある」

 名誉めいよを投げうつのも負担のうち。自分の世間体が大事だいじだという人間に親友を任せることなどできないだろう。

「じゃあ教えてください! お願いします‼」

 生まれて初めて九十度近く頭を下げた。

 人に教えてもらってどうにかしようという根性は見栄えのするものではなかろう。だが、『正真正銘自分自身の実力で人を救う英雄的活躍』に固執こしつした挙句目的を成し遂げられなかったのでは本末転倒だ。

 正々堂々とした手段を選ぶということは、必ずしも成功させる必要はないということでもある。

「そうだ。俺に頭下げてでも知りたいだろ、葉月のことを。嫌いな相手だろうが邪魔な奴だろうが、自分の目で確かめようのない情報を持ってるなら利用しない手はねえ」

 葉月は優しい。天音と一緒にいて苦痛を感じるなら、なおさら天音本人に苦しんでいる姿は見せるはずがない。

 自分以外の視点は必須だった。

「……教えてくれるの?」

「言っただろ。うまくいってるのは事実だ。元々ある程度したら話すつもりのことがあったんだよ。もっとも俺の物言いにキレるぐらいだったら余計な情報は与えず使い捨てるつもりだったが」

 『逆ギレ』とは表現しなかった。もし、『協力してやっている立場』なら当然の怒りだ。

 しかし、足を引っ張っていたら叱責しっせきされる――葉月を助ける責任を負っている立場でなければ、これ以上踏み込ませる気はなかったのだろう。

「うまくいったのはあくまで第一ステップ。葉月が相当なストレスを感じてる時点で解決には程遠い。次の段階では恐怖症のきっかけも知った上で対話してもらう」

「恐怖症の……きっかけ……」

 全身が硬直しているのが分かる。だが、堅苦しい雰囲気を好まない天音でもこの状態のまま聞くべきだと思った。

驚愕きょうがくするほど意外な真実がある訳じゃねえ。だがな、意識しなくなってたかもしれんが最初からあっただろ、予想の範囲内に最悪の状況が」

 あの容姿、あの物腰の葉月が女性恐怖症だと知って真っ先に思い浮かべたことがある。

 彼方はあえて端的な説明で済ませた。

「小学五年の頃、無人の教室で担任の女から暴行を受けた」

 感情のこもらない淡々とした口調で告げられた過去。

 衝撃こそ走らなかったが、背筋が凍りついたように感じる。

 どの程度のことをされたかは、七年経った今でも尾を引いているという現実から推して知るべし。彼方も詳しくは聞いていないのかもしれないし、聞いていたとしても天音に教えるはずがない。

「……っ……」

 何を言ってもデリカシーのない発言になりそうで言葉が出てこなかった。

「葉月本人の努力で、体力を急激に消耗するがなんとか会話できる状態にはなったんだ。これからはその負担を軽減できるように工夫しろ。今まで当たり障りのない話で無難にやってきたが、不安を与えないんじゃなくて安心できるようにな」

 確かに消極的だった。元々恐怖があるのだから、単に不安をあおらないだけの接し方では苦しいに決まっている。

「その……、昔あったことを忘れられるように……?」

 一人で突っ走っていい状況ではない。方向性の確認はしておく。

「ああ、お前みたいな馬鹿でも七年前の教員もどきよりは遥かにマシだと証明してみせろ」

「う、うん――!」

 なんとか話はまとまった。途中息が詰まる思いもしたが、存外認められているのかもしれない。

 ただ、少し気になっていることも。

「――綾部くんはなんでそんなに逢坂くんのことを……?」

 そこまで話す義理はないと断られるかと思いきや、意外とあっさり答えを語り出した。

「俺と葉月は幼馴染って奴でな。当然七年前の様子も知ってる。さすがの俺も、急に塞ぎ込むようになった葉月を見て心配すらしないほど薄情じゃない。声をかけてはみたんだが相当ひどい有り様だった」

 あれだけ強気な彼方がうれがおをしている。

「子供心にも『これは呼びかけて反応なしを何度も繰り返す中でいつかは、ってパターンだ』と直感した。でも、そうはならなかった。こっちが本気で心配してるのを察した葉月は、まだ心の傷がえてる訳がねえのに、思い出すのも口にするのも死ぬほど嫌なはずの事情を話し始めたんだよ」

 大抵の場合は彼方の予想していた通り、誰の言葉も届かず時間だけが癒しとなるものだろう。他の者と葉月では明らかに違っている。

「その時思ったんだ。こいつを助けないぐらいだったら世界のどこに助ける価値のある奴がいるんだ、ってな」

「綾部くん……」

 やはり自分がいれば彼方の出番はないなどとは妄言もうげん以外の何物でもなかった。おこがましいにもほどがある。

「ついでに言うなら、決定的な証拠がないのと葉月が強く訴えられないのをいいことに問題をうやむやにして逃げやがったババアへの当て付けもあるか。結局奴は免許を持ってただけで本質的には教師でもなんでもなかったんだよ。そんなクズがのうのうと社会人やってんのに、葉月が社会に出られないなんて理不尽すぎて胸糞悪いだろ」

 彼方が放課後の教室で担任に告げた言葉が思い出された。

「うん、あたし今度こそ逢坂くんの助けになれるように頑張るよ!」

 他の誰かに誇る訳でもない、ただ自分の意思としての宣言だ。

「それでいい。葉月が人の好意や気遣いを無下むげにすることはない。見返りが期待できんのに助けない理由なんざ何もねえ」

「ありがとう! 綾部くん」

 天音は、初めて彼方に対するお礼を言って、昼休み終了の予鈴と共に空き教室を飛び出した。

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